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ロラと浅草見物 [フィリピン元「慰安婦」]


8月7日、ロラと浅草見物

浅草

汝、浅草の観音様よ
浅草の管理人よ
鳩には豆を、わしらには自由を
腹ふくるるまで与え給え、

他人の投げた賽銭で
拝む、かかる貧乏にして
ちゃっかりとした民衆にも
ご利益を与え給え

―――小熊秀雄の詩から―――
多摩じまん 佐伯義人さんの「大きな橋」の曲に勝手に歌う。

8月8日から16日までフィリピンを訪問していました。
8月7日にフィリピンから来ていたロラたちと浅草見物に行ったそうです。


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原水禁広島大会でロラが証言 [フィリピン元「慰安婦」]


8月5日、広島大会で証言するリタさんとキナンさん

原水禁広島大会でロラが証言

フィリピンから来日しているロラが原水禁広島大会に参加し、証言しました。
8月5日午前中、横川の自治労会館で原水禁大会分科会「見て聞いて学ぼう広島---加害責任と原爆投下」が開かれ、120名が参加しました。この分科会で45分間にわたり、マパニケ村での戦時性暴力被害を証言しました。
8月5日午後は、原水禁大会分科会「女性のひろば」が東方2001で開かれました。220名の参加がありました。この分科会でも、同じように証言しました。女性被爆者や被爆二世の発言もあり、熱気のある分科会でした。
8月5日夕方6時半からは、広島YMCAでピースサイクル広島ネット主催の「戦後60年、忘却・継承—広島市民被爆のつどい」にも参加しました。100名の参加がありました。広島までやってきたピースサイクルのメンバーや、広島・岩国・呉で活動しているピースリンク広島のメンバーも参加していました。
分科会や集いでのロラの発言は、後日まとめて配布する予定です。

8月6日は、平和公園で8時からの式典に参加し、平和公園を散策したあと、原爆資料館を見学しました。夜には東京へ戻りました。


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外務省との交渉、三鷹でロラ交流会 [フィリピン元「慰安婦」]


ロラ・リタさん

外務省への要請交渉と三鷹でロラとの交流会

8月3日、午後2時半から、マパニケ村での戦時性暴力被害について、ロラ2名とともに外務省への要請交渉を行いました。
①フィリピン・マパニケ村での事件を日本政府が事実認定すること、②マパニケのロラたちに対して公式謝罪をすること、③補償を求める、の三点の内容を記した小泉首相、町村外相宛の要請書を、外務省事務官に手渡しました。
外務省からは、マパニケ村のロラたちが「アジア女性基金」をなぜ受け取っていないことを聞いてきました。「アジア女性基金」は、日本政府の法的責任を認めないためのものであることを指摘しました。
逆に「「アジア女性基金」で補償になると日本政府は考えているのか?」とただしたところ、明確に回答しませんでした。

8月3日、三鷹市民協働センターで、ロラとの交流会を行いました。
平日の夕方でしたが、50名ほど参加があり盛況でした。
「マラヤロラズ」(マラヤとは自由、ロラはおばあさんという意味)のビデオを上映した後、2名のロラの証言を聞きました。
日本軍に村の男たちが虐殺されて、そのあと女たちは戦利品のように扱われて、日本軍に強姦されたこと、家族や自分自身の受けた被害を生生しく話してくれました。証言は文書にする予定です。
イサベリタ・デラクルス・ビヌヤさん、「マラヤロラズ」代表
セフェリナ・ラプス・トウルラさん、
ともに、フィリピン、パンパンガ州カンダバ郡マパニケ村出身です。
 1944年11月23日、第14方面軍(司令官 山下奉文大将)の第二戦車師団(師団長 岩仲義治中将)が、カンダバ郡マパニケ村を襲い、村人の財産を奪い、村の男たちを殺し、女たちを強姦しました。

現在、ロラたちは8月4日から6日まで、原水禁広島大会に参加しています。原水禁大会の分科会、「女性の広場」で証言の予定です。


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フィリピン元「従軍慰安婦」問題にたいするカサナグの会の見解 [フィリピン元「慰安婦」]


フィリピン・アニャタム 「赤い家」の前で
「赤い家」は日本軍軍駐屯地であり、ここでマパニケ村の女たちの強姦があった

フィリピン元「従軍慰安婦」問題にたいするカサナグの会の見解

 1990年代に入り、元日本軍「慰安婦」の人々をはじめとして、旧日本帝国の侵略戦争や植民地支配で被害を受けた人々が次々に名乗り出て、謝罪と補償を求め始めました。50年もの間事実が知られていなかったわけではありません。しかしこの問題が公的に認められたのはわずか十数年前です。「50年も60年もたって名乗り出るのはおかしい、やらせだ」という非難があるのはこのような事情を無視するところからきています。
 日本政府は戦後一貫して「慰安婦」「慰安所制度」に対する軍、すなわち政府の関与を否定してきました。さまざまな資料の発見や元「慰安婦」の証言から軍の関与を否定できなくなり、92年になって初めて、宮沢首相が韓国訪問時に盧泰愚大統領に対して植民地支配と従軍「慰安婦」について「一定」のお詫びをしました。1993年8月、細川首相は就任時、「あの戦争は侵略戦争であった、間違った戦争であった」と明言し、韓国訪問時には、創氏改名、日本語の強要、神社参拝意の強制、「慰安婦」問題について一つ一つ指摘して「反省」と「陳謝」を表明しました。
 しかし日本政府は、戦後補償に踏み出すことはまったくせず、「法的責任」を認めないという態度は一切変えていません。「サンフランシスコ講和条約および二国間条約において請求権の問題は放棄されており戦後補償はできない、個人補償はできない」という従来の政府の見解は変わりませんでした。日本の司法も従来の政府よりの態度を変えず、戦後補償裁判のほとんどは原告敗訴が続いています。現在なお、名乗り出た被害者たちが償いも受けず次々と亡くなっています。
 日本社会は名乗り出てきた被害者たちの訴え、戦争責任と植民地支配責任の根本的見直しを要求する声に、応答することなく無視する態度をとり続けています。
 95年村山内閣のもとで「アジア女性基金」が立ち上げられましたが、しかし基金は多くの被害者と支援団体から激しい批判を浴びました。日本政府には法的責任はないことを前提にして、それに代わる人道的援助として「アジア女性基金」を設立し、国家ではなく民間の基金から被害者に「償い金」を支払おうとしたからです。多くの被害者が、この基金は日本政府が法的責任を免れるための隠れ蓑にすぎないと批判しました。
 「アジア女性基金」も含めて戦後補償に取り組んだら日本の国家予算は破綻してしまうという指摘があります。戦後補償に対し日本政府が支払った金額はこれまで約41兆円とされ、そのうち40兆円は軍人恩給であり、残りの1兆円が国家補償の賠償金と言われています。法律的には、国家賠償とは別に個人賠償の問題は残っていますが、日本政府が個人賠償に応じたことはありません。日本軍人の戦死者は230万人、日本軍によるアジアの犠牲者は2000万人です。日本政府の態度がいかに内向きであること、しかも日本人でも被爆者や空襲の被害者はほとんど無視されていることは、この問題における日本政府の取った立場がどのようなものであったかを如実に示しています。(なお「アジア女性基金」は5億6500万円の募金が集まりました。)

 90年代に「慰安婦」問題が浮上してから、さまざまな国際機関がこの問題に対する見解の表明や勧告を行っています。ICJ(国際法律家協会)、ILO(国際労働機構)、さらに国連の人権委員会(96年クマラスワミ報告、98年マクドゥーガル報告)など、いずれも日本軍の「慰安婦」制度が国際法違反の戦争犯罪であり、「人道に対する犯罪」と認められるので、日本政府の法的責任は免れず、正式な謝罪と国家補償、責任者処罰を実行すべきだと勧告しています。国際社会では「慰安婦」問題は戦争犯罪であるという認識が定着しているのです。
 このような国際社会からの批判にたいして、日本国内では90年台後半からネオナショナリズムが台頭しています。「自由主義史観」から「つくる会」へと発展し、この運動は「慰安婦」問題の無化を狙っています。日本の侵略責任の否認と戦争犯罪の免責を狙うきわめて政治的なものです。
 これらは、91年の湾岸戦争の時、日本政府は130億ドルも拠出したのに「血を流さなかった」とされアメリカ政府から評価されなかったことから「トラウマ」のようになって、96年「日米共同宣言」、97年「新ガイドライン法」、99年「周辺事態法」、「国旗国歌法」、2001年「テロ対策特別措置法」とつづき、世界的規模で軍事化する体制にきりかえようとする動きと対応しています。軍事と新ナショナリズムのイデオロギーを中心に国家を復権させようとする傾向とが非常に顕著に出てきています。
 こうした傾向が極点に達したのが小泉政権誕生です。小泉政権のもとで「歴史認識」問題が外交問題に発展しています。「つくる会」が準備した「新しい歴史教科書」が文部科学省検定に合格し、「若手国会議員の会」や地方議会や教育委員会を通じて、「草の根ファシズム」ともいえるようなキャンペーンを行い、徐々に採択実現をさせています。教科書のなかから「慰安婦」の記述は消えました。小泉首相の靖国参拝は国際問題になっています。

 わたしたちは、このような現在の条件のなかで、これまでの日本政府の侵略戦争と植民地被害の責任追及をさらに発展させなければならないと考えています。
 憲法9条を守るとともに、この条文のみに依存して平和主義を主張するだけではなく、国際社会と自主的に平和的な関係を追求していくことが重要です。
 それは被害者意識から加害の意識化という課題でもあり、「唯一の被爆国民」とか「国民は軍国主義の犠牲になった」という視点をさらに広げて、旧植民地の人たちやアジアの被害者とともに加害の責任を明確にした上で、第三世界に対する現代もなお続く政治的経済的「暴力」への批判と合わせて自覚する視点を持たなくてはなりません。
 元「慰安婦」への謝罪と補償は、決して過去に対する謝罪と補償だけではなく、わたしたちの日本社会が二度と悲惨な侵略戦争と植民地支配を繰り返さないという、現在と未来にたいする保障でもあります。元「慰安婦」たちとの交流はわたしたちが、人間性を取り戻し、日本社会のなかに新たに打ち立てる試みでもあると考えています。


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マパニケ村での戦時性暴力被害とは何か? [フィリピン元「慰安婦」]


ロラ・キナンさん

マパニケ村での戦時性暴力被害とは何か?

1944年フィリピン・マパニケ村でなにがあったのか?
 被害者たちの出身地のマパニケ村のあるパンパンガ州は、戦前から地主に対する抵抗が活発であった。日本軍は米作地帯のパンパンガ州でさかんに米を奪い取り、当然農民たちはこれに反日武装闘争を組織し、抵抗した。ここはカンダバ湿原に近い。
 1944年11月23日、日本軍は「匪賊討伐」として、マパニケ村を包囲し、砲撃を加えた後、マパニケ村掃討作戦を行い、村民のうち男たちはほぼ全員を集団虐殺し、女たちは集団レイプした。
 未明からの作戦は地下足袋着用の秘密作戦であり、掃討後、掠奪物資の集積場所、搬送用トラック10台の配置、作戦終了後の特別食の準備も怠りなかった。男たち全員が殺された日の夜から、女性・子供たちがこの略奪品を集団レイプが行われた日本軍駐屯地「赤い家」まで担いで運ばされた。集団レイプは親子、姉妹の目の前で行われた。戦後50年間、マパニケ村ではこの被害の話題はタブーとなっていた。
 討伐隊名:第14軍(フィリピン軍―山下奉文大将―戦後現地で絞首刑)、第2戦車師団=撃兵団(中部ルソン)岩仲義治中将指揮下、討伐隊長:鹿野少佐、討伐(虐殺)参加部隊―直轄戦車隊(2輌)、第100大隊、機関銃隊をふくむ、計8部隊。
 上記の部隊が虐殺作戦を遂行した一連の作戦命令書が、防衛庁戦史資料室で確認され「マパニケの女性たち」に収録、2000年「女性国際戦犯法廷」の証拠となった。

---1944年11月23日の経過---
フィリピン国、パンパンガ州、カンダバ郡、マパニケ村
夜明けのすこし前、マパニケ村の住民は砲撃と銃の音で目を覚まされた。爆撃、迫撃砲、大砲の弾丸が住民、家畜、家々、いたる所に落ちてきた。爆撃と砲撃は数分間続いた。
爆発音がやんで静寂が訪れると住民は隠れていたところから出てきた。ラッパの音が鳴り響いた。そしてすぐ、日本兵たちが群をなして集ってきた。
住民は逃げようがなかった。日本帝国陸軍の兵士たちは、数百人で、家から家へと行進してまわり、男も女も子供もみんな強制的に外へ連れ出した。平屋建て木造、ふたつの教室のあるマパニケ村で唯一の学校のまえにすべての住民を集めた。まだ隠れ家にいた者も、学校の校庭に引っ張られてきた。手足を縛られた男性たちがいた。彼らはだれがゲリラ(反逆分子)メンバーかを尋問され、すべての人がライフルの銃床で殴られ、こぶしで殴られ、蹴り上げられ、銃剣で刺されていた。幾人かはマカピリ(フィリピン人の裏切り者)に指さされた。マカピリというのは、フィリピン人の裏切り者で、誰だかわからないように頭から穴の開いたかごをかぶっていた。指さされた人は、さらに尋問を受け拷問を受けた。日本兵は何も答えが得られないと、彼のペニスを切り落とし、彼の口に無理やり押し込んだ。
男性たちはゲリラであるかないかにかかわらず、一列に並べられ銃で撃たれた。死んでしまった者も、まだ生きている者も、学校の建物の中に投げ込まれ、最後には男たちを中に入れたまま、校舎を焼き尽くした。
すべてのことが女性と子供たちの目の前で行われた。父親や、夫や息子、兄弟たちが拷問をうけ、殺される様を前にして声をあげて泣く以外に、なす術がなかった。一方で、残りの兵士らは家々を燃やし、米や食料その他値打ちのあるものはなんでも盗み出した。
日本兵らは家々を燃やし、盗みをしつくすと今度は女性たちに目を向けた。
9歳から30歳までのすべての女性たちに、兵士らが家々から盗んで集めたものを運ばせた。母親たちや子どもたちを学校の校庭に残し、彼女たちはブラカン州、サン・イルデフォンソ市の東の方角に歩かされた。泥がぬかるんでいる水田を横切り、兵士たちの厳重な見張りのもとで重い荷物をバハイ・ナ・プラ(赤い家)のあるサン・イルデフォンソ市 アニャタムの広い道路に沿ったところで荷物を運び終えた。バハイ・ナ・プラ(赤い家)はイルソリオスという裕福な地主が所有していた堂々たる家で、日本帝国陸軍の駐屯地として接収されていた。
女性たちの証言によれば、バハイ・ナ・プラはその当日、日本兵はおそらく200人以上いたし、家の周辺にはテントがいくつもあった。
女性たちは建物の各部屋に連れこまれた。二階の部屋にも、一階にも、台所の近くにも、そしていくつものテントの中にも。そこで女性たちはレイプされ、いたぶられた。ひとり、ふたり、三人あるいはそれ以上の兵士らに。ほとんどの女性たちはまだ若く、初潮が始まっていない少女たちもいた。戦争期間中のこの体験は、その後トラウマとなって、深い傷として今日まで残っている。女性たちが解放された時、マパニケ村にもどった女性たちが見つけたものは、黒こげになった死体と灰。戦争がもたらしたいまわしい記憶となったもの以外、村には何も残っていなかった。村全体がまるごと廃墟となった。
マパニケ村の襲撃の混乱のなかで、彼女らは約30人の男たちが殺されたと推測した。襲撃の数日後までに、田畑に散ばった死体からみて8人が爆撃と砲撃で死んだ、そして数名が傷つき、大傷を負い、殺された。女性に関しては一体何人がレイプされたのかわからない。正確な数はいつまでも分からないだろう。多くの女性たちが自分の話をする機会を得ずにすでに亡くなってしまった。
マパニケの村人で、フクバラハップ(抗日民族解放軍)に参加し山にいた人たち、朝早く仕事に出かけていた農民と漁民などが、日本帝国陸軍の残酷さから逃れることができた。村全体に戦争がもたらした破壊と家族たちの苦しみの記憶からのがれることができたのはほんの少数の人たちだけだった。
マパニケ村のこの襲撃と女性たちへの集団レイプ事件は、もし、マパニケ村の勇気ある女性たちが50年後に、話をしなかったなら、忘れ去られていてことだろう。マパニケ村は歴史の一部であり、その体験の話は多くの人々に語り伝えられるべきものである。戦争における犯罪人たちが裁かれ、被害者に正義をもたらすために。過去に犯された犯罪が繰り返されないために。


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三鷹でフィリピン戦時性暴力被害者との交流会 [フィリピン元「慰安婦」]


マパニケ村の犠牲者碑

三鷹でロラとの交流会

ロラとは、フィリピン・タガログ語で「おばあさん」という意味です。
元「従軍慰安婦」、フィリピン戦時性暴力被害者をロラと呼んでいます。
フィリピン元「従軍慰安婦」団体である「マラヤロラズ」(マラヤとは自由という意味)の2名が来日します。
 8月3日、午後6時から、三鷹市民協働センターで交流会を行います。主催はロラネットです。自由に参加ください。
2名は下記の方です。
イサベリタ・デラクルス・ビヌヤさん、「マラヤロラズ」代表
セフェリナ・ラプス・トウルラさん、
ともに、フィリピン、パンパンガ州カンダバ郡マパニケ村出身です。
 1944年11月23日、第14方面軍(司令官 山下奉文大将)の第二戦車師団(師団長 岩仲義治中将)が、カンダバ郡マパニケ村を襲い、村人の財産を奪い、村の男たちを殺し、女たちを強姦しました。ふたりともこの事件の被害者です。

ロラたちは8月4日から6日まで、原水禁広島大会にも参加します。

問い合わせ先:0422-34-5498 ピナット
メールアドレス:hachinoko@green.livedoor.com


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フィリピン元「従軍慰安婦」団体が8月原水禁大会に参加 [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピン元「従軍慰安婦」団体が8月原水禁大会に参加

フィリピン元「従軍慰安婦」団体であるマラヤロラズが、三多摩ロラネットの招待で8月2日から8日まで来日します。3日夜には三鷹で交流会、5日には広島で原水禁世界大会に参加します。
マラヤとは自由、ロラとはおばあさんという意味のタガログ語。
マラヤロラズは1995年設立され、設立時170名のメンバーを数えましたが、現在は70名が残されているのみです。被害者のおばあさん2名と通訳、アテンドの人含めて計4名が来日します。
三鷹での交流会や原水禁世界大会への行動に参加してください。
概略のスケジュールは下記のとおりです。現時点の予定ですので一部変更があるかもしれません。

8月2日(火) 来日
8月3日(水) 夜 三鷹で集会
8月4日(木) 東京→広島へ移動、夜 交流
8月5日(金) 「原水禁大会 女性の広場」で発言
8月6日(土) 広島→東京へ移動
8月7日(日) 戦後補償を求める集会に参加
8月8日(月) 成田→マニラ

問い合わせ先(担当):0422-48-8918 または090-3909-5403

8月8日(月) ロラたちは帰国しますが、これにあわせて、8月8日から16日まで、カサナグの会とロラネットでフィリピン訪問します。参加希望の方は連絡ください。
参加費は15万円、誰でも参加できます。
問い合わせ先(担当):0422-48-8918 または090-3909-5403


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アジアを見下す外務省 [フィリピン元「慰安婦」]

アジアを見下す外務省

ピースサイクル、ロラネットの一日行動で、岡崎トミ子議員とともに6月3日外務省交渉を行いました。
 今年の3月8日、フィリピンの元「従軍慰安婦」団体であるマラヤロラズが日本大使館に「従軍慰安婦」問題の公的謝罪と補償の要請したとき、大使館のなかにさえ一切入れないばかりか、大使館のガードマンが暴力的な対応しロラたちを追い払いました。
元「従軍慰安婦」のロラ=おばあさんたちは80歳前後の人たちです。乱暴に扱われたことに非常に怒っています。その様子はビデオにも撮ってあります。
 韓国の日本大使館も元「慰安婦」たちの要請行動にたいしても、門前払いの対応です。
他方、オランダの元「慰安婦」たちが、在オランダの日本大使館に公的謝罪と補償の要請に行ったときは、大使館内にいれ要請の話し合いに応じています。
アジア人に対するのとオランダ人に対するのでは、日本外務省の態度が違うのです。日本の外務省が、人種差別意識が根強く残っていることの証です。
6月3日外務省交渉において、対応を改めるように強く申し入れしました。フィリピンの元「従軍慰安婦」団体は、日本大使館に今後も抗議行動続けますが、その対応を見守りたいと思います。

外務省を含む日本政府のなかには、先進国を重視し、アジア諸国を見下しているところが明らかにあります。戦前と意識は変わっていません。アジアの人たちはそのような日本政府の態度を敏感に察しているはずです。アジアのなかで日本政府が支持されない、反日デモが起きるというのは、このような外交政策がその一因でもあります。


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フィリピン元「従軍慰安婦」団体 マラヤロラズ声明 [フィリピン元「慰安婦」]

正義はいまだ否定されている。

 レイプ、強制された売春、性奴隷、性暴力、これらすべてはほとんどの戦争にともなうものである。これは人々の風紀を乱し恐れさせることによって敵を打ち負かす戦争戦略の一部である。

 従軍慰安婦制度
 日本軍は、彼らの軍隊のための「従軍慰安婦制度」と呼ばれる制度をつくりあげることによって、新しい水準の戦争戦略をもたらした。1932年、最初の従軍慰安婦制度は中国満州(現在の東北地方)で作りあげられた。性的衝動が通常より極端化するので、自国の防衛において人々の生命を奪う危険があることを、軍隊として考慮した。したがって、従軍慰安婦制度の確立は、レイプ容認で社会が転覆するのを避け、安定した軍事占領するうえで適切で重要なかつ道理にかなったものとされた。
 非常に若い10歳から20歳の若い少女たちが、伝染する性病ではないことを確認され選ばれた。通常少女たちは、誘拐されてつれてこられている。一日に10人から30人もの兵士の相手をさせられ、通常週末にはもっと多くの相手をさせられた。軍医たちは形式的な診断しかしなかったし、妊娠は強制的にかつ乱暴に堕胎させられた。日本兵士への性的な奉仕で傷つけられまた回復不能な障害を負わされたが、医療は施されなかった。
 50万人以上のアジアの女性が日本帝国主義軍隊の強制された売春の犠牲者にされた。慰安婦たちは、兵站の一部となったし軍隊が別の地域や国々に移動するとき一緒に移動した。第二次世界大戦終了時、少なくとも30%または15万人の慰安婦たちが困苦を生き残った。多くの人たちは毒死や自殺、大量虐殺で死んだ。ほかの多くの人たちは社会に追い立てられて外国の地で生き延びた。
 そのような状況はフィリピンでも同じである。従軍慰安婦制度が確立していたにもかかわらず、1944年11月23日、パンパンガ州、カンダバ市マパニャケで起きたように、大量の強姦が日本軍国主義のテロ戦術の一部として遂行された。このことは歴史の年代記には記録されていない。

 マパニャケの女たちと赤い家
 この日1944年11月23日、日本帝国軍隊、第二戦車部隊はイワナカヨシナル指揮のもと占領され、マパニャケは燃え上がった。傷ついたか死んだ男たちは小学校校舎に閉じ込められ焼かれた。9歳から30歳の女たちは、マパニャケ村から2、3キロメートル離れたブラカン州アニアタムにある「赤い家」―日本軍部隊はここに駐屯していた―にまで略奪物を運ばされた。この「赤い家」でマパニャケの女たちは3日間にわたり繰り返しレイプされた。そこでは母たちと娘たちが同じ部屋で同時にレイプされた。
 60年後、パンパンガ州マパニャケからマラヤロラズとして組織された元従軍慰安婦や集団的レイプ犠牲者たちが、日本軍の残虐行為に対して公然と語りはじめた。
2004年8月8日、抗議の象徴である紫色のドレスをまとった約60名のマラヤロラズの女たちがフィリピン最高裁判所に集まり、彼女たちが第二次世界大戦中に日本軍兵士の手によって受けたレイプと苦痛は人類と人間性に対する犯罪であり、そのことを裁判所が宣言するように求めた。女たちはまた、フィリピン政府が日本政府に対し公式な謝罪を要求し残虐行為の補償を求める命令を出すように、フィリピン最高裁判所に要求した。
弁護士ハリー・ロケ、およびフィリピン大学における彼の学生たち、KPD、KAISAKA、および三多摩ピースサイクルの日本人活動家たちなどの助けによって、マラヤロラズは33ページの請願書を作成した。そのなかでフィリピン政府は、正義の国際法廷やさまざまな合法的フォーラムや法廷にさきだって、日本政府に対しマラヤロラズの主張を支持すべきであると述べている。請願書の主張によれば、日本政府と締結した1951年の平和協定によっては、フィリピン政府は何らこれに拘束されないと指摘している。

戦後60年、今なお正義は否定されている
マラヤロラズによる請願書が最高裁判所に提出されてから1年が過ぎているが、この問題の明確な前進はいまだない。
日本政府は、現在もなお戦争中の残虐行為への法的責任を拒否しているばかりではなく、犠牲にされた国々の女たちの要求に耳をかそうとしていない。三多摩ピースサイクルは、ほかの国々の元従軍慰安婦たちによる日本法廷への訴訟に対して、日本の裁判所が却下していることを伝えている。
第二次世界大戦の残虐行為の審理と立証のために任じられた国際法廷でさえも、アジアの元従軍慰安婦に関与した残虐行為の真実をすでに認めているし、日本政府が日本軍の性暴力による犠牲者たちの正義を重要でない問題として取り扱い続けていることも認めている。
マラヤロラズは、1995年に設立され170名のメンバーを数えていたが、多くの人たちが病気と高齢のために正義を回復する闘争の過程で亡くなり、今ではわずか70名のみが残されている。認められず医療に対し政府による支援もないにもかかわらず、従軍慰安婦のロラたちは、マパニャケの女たちのためにまた同様に日本軍によって性暴力を受けたほかの女たちのために、闘争を継続している。正義が報いられるまで戦争は決して終わっていない。


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日本の国連常任理事国入りに反対 [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピンの元「従軍慰安婦」 団体が、日本の国連常任理事国入りに反対しています。
「従軍慰安婦」 制度に対し日本政府が公的に謝罪していないこと、個人補償にも応じていないことから、日本が国連常任理事国となる資格はないとしています。

国連と国際労働機構に対する世界的請願署名
日本政府は軍性奴隷制の犯罪に対法的責任を取らなければない。
日本政府は国連常任理事国となる資格はない。

 国際人権委員会は、日本軍による性奴隷制度が深刻な国際法違反であると認定し、性奴隷犠牲者に公的に謝罪することおよび法的補償するように勧告している。しかしながら日本政府は、これら勧告を無視し続けているとともに法的責任からのがれ続けている。アジア女性基金は、日本軍による性奴隷の犠牲者たちの多くがこれを拒否していることから、正当な解決ではない。
 第二次世界大戦終結から60周年記念である2005年に、国連やILOは、日本政府に対して国際社会の忠告に最終的にしたがい性奴隷犠牲者へ公的に謝罪し法的補償に応じるよう強く主張しているまさにそのことを、わたしたち下記の署名者は、心から要求する。わたしたちは日本政府が国連常任理事国となることに反対する。軍隊による性奴隷とほかの戦争犯罪の問題を解決することなしに、日本政府は国連常任理事国となる資格はない。

リラ・フィリピーナ ガブリエラによって始められた署名運動
49マティンピン、ストリート、バランガイ、中央ディミマン、ケソン市、マニラ、


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