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アキノ新大統領は、マパニケ犠牲者の立場を支持すべきだ [フィリピン元「慰安婦」]

 フィリピン パンパンガ州マパニケの日本軍による性暴力被害者団体、マラヤロラズが、六年まえに比最高裁判所に被害の救済を訴えた請求が棄却されました。
 マラヤロラズは、7月19日にフィリピン最高裁を訪れ、再度、動議と追加請求を行いました。紫色の衣装です。
 20日に記者会見をしたようです。おそろいの黄色の衣装です。
 下記の声明は、女性団体カイサカが、最高裁棄却にもかかわらず、アキノ新大統領に、被害者たちの要求を支持するように訴えています。以下を参照ください。
 マパニケは、1944年11月旧日本軍によって村民が虐殺された村の名前です。男たちは虐殺され、女たちはレイプされました。マラヤロラズはその被害者を中心とする団体です。

――――
カイサカ記者声明2010年7月20日

 アキノ新大統領は、マパニケ犠牲者の立場を支持すべきだ
 たとえ最高裁が判決文をどこかからか剽窃したとしても

20100719 最高裁へのfiling.JPG
<2010年7月19日、被害者団体マラヤロラズによる最高裁への請願行動>

 私たちは、5年間にわたるマラヤロラズ(元フィリピン慰安婦団体の一つ)の訴状を最高裁が棄却決定したことに失望しました。最高裁の棄却決定は、荘重な裁量権濫用と等しく、賠償のための犠牲者の請求支持を拒否するアロヨ政府のその当時の政策が有効と宣言するものです。これはフィリピン政府にとって、「別の政府(日本政府)による犯罪に対して市民を保護しない」とまさしく言っているようなものです。

 しかし、判決文の多くの箇所が、おばあさんたち(ロラ)たちに対して使われてきた「評判のいい」文書からのコピーからなるという弁護人の調査によって、わたしたちは二重の失望に包まれました。 ロラたちの事件は、戦争中に被った恐るべき暴力の集中的表現であって、正義と国際関係上での大問題です。それとともに国家主権や国家の尊厳に大きく影響する問題であって、まじめで慎重な、かつ誠実な検討に値する問題なのです。

20100720 マラヤロラズ代表Lola Lita 声明を読み上げる.JPG
<2010年7月20日、記者会見で声明を読み上げるマラヤロラズ・リタ代表>

 しかし、最高裁判所と著名な法律家たちが当惑しながら議論を続けこれが延々と長引きました。そのあいだにマパニケ犠牲者は、亡くなりつつあります。 陳情を提出した被害女性たちは、当初90名でしたが今では53名になってしまいました。

 レイプや性奴隷、女性に対する他の性的虐待、拷問、市民の大量殺人、略奪などを含む、戦争犯罪の責任が日本政府のあることを認めさせるという要求以前に、国民の利益を代表すると主張する政府は最高裁判所決定を待つ必要はないと、カイサカ(KAISA KA)は確信しています。
 就任演説で、人民こそが主人公であると言った新しい大統領は、ロラたちの上告に注意を向けるべきなのです。

 6つの異なる国民会議と議会が、「従軍慰安婦システム」に対する責任を認めるように日本政府に申し入れました。アキノ新大統領が、第二次世界大戦中のレイプの被害者、従軍慰安婦、殺された父や兄たちの被害に対して、日本政府に認めさせ公式に賠償させる初めての大統領となるならば、性奴隷とレイプの支持者として世界の尊敬を集めることができるでしょう。

2010100720 Malaya lolas記者会見.JPG
(2010年7月20日、記者会見場でに集まったマラヤロラズのメンバー>

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「ロラたちの“いま”」を映像に! [フィリピン元「慰安婦」]

「ロラたちの“いま”」を映像に!
――フィリピン・もと「慰安婦」のおばあさんたちの記録映像作りにカンパを――
                     フィリピン元「慰安婦」支援ネット・三多摩(ロラネット)

◎さぁ、今年こそは解決を

 鳩山政権が誕生してもっとも喜んだのは「慰安婦」とされたアジアの被害女性たちでした。今度こそ日本政府は正式な謝罪をし、平和なアジアを築く仲間になれるのでは、と。私たち「慰安婦」問題解決にとりくむ市民グループも同じ気持ちを抱きました。
 この4月には、政府が本腰を入れて取り組むよう全国のネットワーク「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動2010」ができました。
 「もう後がない、今こそ解決を!」とすでに2008年から地方の市議会決議で、日本政府に早期解決を求める意見書が提出・可決され、私たちロラネットも2009年6月に三鷹市議会で可決することができました(2010年5月現在、20の市議会が可決)。
 そして、09年8月には広く市民に知ってもらうよう<夏休み・親子で平和を考える――アジアで何があったの?―みて・きいて・お話しと「慰安婦」展>を開催しました。
 鳩山政権に「解決」を促すためには、国会議員のがんばりとともに、それを下から支える草の根レベルの盛り上がりが必要です。パネル展はその第一歩でした。

◎日本人が「慰安婦」と間近に接するには

 そして、ロラネットは「慰安婦」パネル展に続き、この度、記録映像づくりに取り組むことになりました。各国被害女性たちの記録に比べ、フィリピンの場合にはまとまった記録がまだありません。長い沈黙を破って名乗り出た被害女性たちが尊厳回復のため20年に及ぶ歳月をどのように闘ってきたか、高齢となった現在もなお、女性が二度と同じつらい思い抱かない為に戦争反対の声をあげ続けている姿を映像として残すプロジェクトです(残された時間は多くありません)。この映像を見た市民は、「慰安婦」とされた女性たちと間近に接することができ、自分たち一人一人に解決する責任があることをきっと感じることでしょう。

◎今年度中に記録映像の作成を

 制作は、フリージャーナリストやカメラマンたちが、フィリピン現地の市民団体の協力を得て、被害女性たちを取材し、今年度中(2011年3月)の完成をめざしています。
 費用は少なくとも300万円はかかります。うち100万円は趣旨に理解をいただいたACT(公益信託アジア・コミュニティ・トラスト)からの助成が決定しています。100万円は関係者の自己負担・寄付で都合をつけ、残りの100万円を広くみなさまにご協力と募金をお願いする次第です。
 ぜひともご協力のほど、よろしくお願いいたします。(2010年5月)

◎「ロラたちの“いま”」を記録映像に!制作費用募金のお願い
 目標金額:100万円以上

 募金期間:2010年5月~2011年3月 
 口座振込み先: 
 ①郵便振替00110-1-370322、名義:ロラネット、  または、
 ②みずほ銀行三鷹支店: 普通口座 1609040、名義:フィリピン元「慰安婦」支援ネット・三多摩
 振込みに際しては、氏名・連絡先を記していただけるようお願いいたします。

 なお同時に、趣旨に賛同される呼びかけ人・団体を募っています。下記まで連絡ください。
    連絡先:フィリピン元「慰安婦」支援ネット・三多摩
    Tel:0422-34-5498  E-mail: hachinoko@ba2.so-net.ne.jp

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マラヤロラズの声明 [フィリピン元「慰安婦」]

 フィリピンの戦時性暴力被害者団体の一つ、マラヤ・ロラズが声明を出しました。以下、紹介します。
080814 マラヤロラズの集会 左から ロラリタ、ロラキナン、ロラピラール.jpg

 「慰安婦」問題に対する米国、カナダ、オランダ尚殿各国からの非難決議が相次いでいます。民間による「アジア女性基金」では解決しないことは明らかになりました。日本政府が正式に謝罪し補償する以外にありません。
 しかし、日本政府はこれまで公式に謝罪し補償する態度をとっていません。各国被害者からの裁判に対しても、日本の司法は「当時国家賠償の法がなかった、時効である」ことをもって退けています。
 したがって、被害者に謝罪し補償する新たな立法による以外に解決する方法はありません。
 これまで参議院において、民主党・共産党・社民党三党によって被害者に謝罪し補償する新立法の共同提案が何度かされてきましたが、廃案になっています。
この新法案では、謝罪・補償対象として「慰安婦」を「一定期間拘束され性暴力被害を受けた者」と規定しています。マラヤ・ロラズに結集する被害者は、日本軍の作戦中にマパニケ村や接収し駐屯していた地主の屋敷「バハイナプラ」(赤い家)で、1944年11月23日、被害を受けました。慰安所ではありませんし、被害はこの一日です。マラヤ・ロラズは、法案に記載されている「慰安婦」の規定に入らない恐れがあることを指摘し、自分たちも謝罪と補償の対象とされるべきであると主張しています。これが声明の主な内容です。
 このような声明、主張は当然であると判断し、ここに紹介します。


日本の国会議員の皆さまへの声明
フィリピン・パンパンガ州カンダバ町マパニケ村における旧日本軍による集団レイプの被害者について

 私たちは「マラヤ・ロラズ(Malaya Lolas)」のメンバーです。「マラヤ・ロラズ」は、フィリピン・パンパンガ州カンダバ町マパニケ村において、旧日本帝国陸軍の兵士たちにより集団レイプ被害を受けた生存者たちの組織です。私たちの痛ましいできごと、集団レイプは、1944年11月23日、起こりました。日本軍により完全に計画的になされた私たちの村への攻撃のなかで起きたのです。

 現在、私たち被害者61名は高齢で病気がちです、すでに約100人の仲間たちは他界しています。私たちは人生のたそがれを迎えており、正義を与えられないままこの世を去ることは、私たちにとって耐え難い苦痛です。

 日本政府が歴史的責任を取ること、「慰安婦」制度について戦争犯罪として公式に謝罪すること、日本の歴史教科書でこのことについて言及すること、そして被害者たちに賠償することを求めるといった内容を持つ法案を、幾人かの国会議員の皆さまが何度も提出してくださっていることを私たちはすでに知っています。

 日本の国会で立法案が通過していないことを遺憾に思います。とともに、その法案に私たちの被害例は含まれてはいないことを重ねて遺憾に思います。

 私たちの被害事例が、日本の「慰安婦」の定義から除外されていることを私たちは知っています。「慰安婦」とはどういうものかを定義する日本の歴史的、社会的状況について、私たちは議論することができません。しかし私たちは国会議員の皆さまに申し上げたいのです。日本兵が私たちを慰安所に連れて行かなかったからといって、私たちの苦しみは決して軽んじられるべきものではありません。

 私たちは言葉にできないほどおぞましく恐ろしい経験をしました。日本の兵士が私たちをレイプする前に、彼らがどのように私たちの父、祖父、おじ、兄弟たちを捕まえ、拷問を加えたのか目撃しました。私たちの親戚の男性たちが日本兵にどのように殴りつけられたか、また彼らが蟻に刺されるようにするためにどのように柱や木々に縛りつけられたか、その後、どのように彼らは男性器を切断され、自分たちの口に詰め込まれていったか、 私たちはすべて目撃しました。私たちの家や財産が焼かれていく光景や、私たちの親戚たちの死体や骨が焼かれる匂いも決して忘れることができません。日本兵たちは、私たちの財産を奪い、それらを私たち自身に彼らの駐屯地まで運ばせました。そして私たちの何人かは他の人たちが見ている前で、レイプされました。しかもそのレイプは何度も何度も続きました。

 当時、起きたことをさらに説明するために、2000年12月に開かれた女性国際戦犯法廷の判決文の一部を次に添付しておきます。

 「慰安婦」として認定されている女性たちと同様に、私たちは正義の名のもとに扱われるべき存在であると信じております。

 したがって、この問題に関心を持つ国会議員の皆さまが、旧日本帝国軍による性暴力のすべての被害者に対して正義を与えるという法律を制定してくださいますよう、私たちは切に願っております。

マラヤロラズ

代理者を通じて

2008年7月15日


添付資料

2000年12月、女性国際戦犯法廷の判決文の一部

日本帝国陸軍兵士によるフィリピンの女性たちに対する犯罪についての女性国際戦犯法廷の所見

 “証拠によると、1944年11月23日に日本兵がマパニケ村を強襲し、同村に砲撃を加え、家々を略奪して放火し、また、男性たちを人前で拷問して殺しながら、完全破壊作戦の一部としておよそ100人の女性を組織的にレイプしたことは明らかである。また、証拠によると、日本軍はマパニケ村に対して計画的な懲罰および征服作戦として村の少女や女性たちに対する性暴力を作戦に組み入れたのである。兵士たちは若い女性や10代の少女を見つけ次第、レイプした。より年老いた女性たちも多くが同様にレイプされた。

 “証言した女性たちに対するレイプは、男性を女性と分けて、男性たちをまず拷問して殺し、女性たちに荷物を持たせて「赤い家」に連行し、そこでレイプして彼女たちを放棄したという作戦のパターンを踏襲している。多くの女性は「赤い家」に向かう途中や自分たちの家の中でレイプされている。おおくの場合、犯罪者たちによって輪姦されたり、他の女性たちの眼前で長時間にわたってレイプされてもいる。この犯罪パターンはレイプが作戦もしくは計画の一部であることを示している。また、攻撃者はそこで階級性を示しており、軍幹部は家屋を使ってレイプする一方、一般兵士たちは周りのテントの周辺で女性たちをレイプしており、これなども組織的にレイプしたことの証拠となる。

 “レイプは広範囲に組織的に行われ、武装紛争中に民間人に対して加えられた。訴状にある第3訴因に挙がっている行為は、レイプの人道に対する罪を構成する法的要因を満足するものである。よって当法廷はマパニケ村におけるレイプは人道に対する罪を構成するとの所見にいたった。

 “最後に当該ケースにおける具体的事実と法律に照らして、当裁判官は、これは一般起訴にあるもののようには告発されていないものの、マパニケ村の女性たちを繰り返しレイプする目的のために「赤い家」で女性たちを監禁したことはいくつかのケースで性奴隷とみなせる。日本兵は駐屯地として使用していた敷地内や部屋で彼女たちを監禁した。また、彼らはある女性を2日間にわたって監禁している。多くの女性たちが何度もレイプされ、いつ再びレイプさるのか、いつ自由の身になるのかわからなかった。当法廷に提出された性奴隷被害に関する証言は、フィリピンにおける性奴隷のための施設は、当時、大抵が軍の駐屯地であり、兵士たちがしばしば、軍事作戦の最中に、女性や少女をレイプ目的で誘拐したこと、を明らかにしている。これらの事実は、「慰安所」のような公式な施設以外でのレイプや性奴隷も、日本軍の作戦のよく知られた一部であったことを呈示している。事実、日本の政府や軍部によって制度化されたレイプや性奴隷の公式なシステムが、慰安所以外で犯されたレイプや性奴隷を暗黙のうちに承認していたといえる。

- 日本軍による性奴隷に関する女性国際戦犯法廷、判決文、オランダ・ハーグ、2001年12月4日、665-668.ページ


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2007ピースサイクルの報告 [フィリピン元「慰安婦」]

2007ピースサイクルの報告

<3月3日、現地サイクリストと共に、「赤い家」の前で>

 2007ピースサイクルは、3月1日から9日までフィリピン・ルソン島中央部、マニラ→マパニケ→アラヤット→クラーク→オロンガポのコースを走りました。部分参加も含めて日本人9名が参加し、各行程には多数の現地サイクリストが参加してくれました。毎年参加してくれるサイクリストもいます。
 元「慰安婦」のロラたちを訪問しました。マパニケはすでに何度も訪れ故郷のようです。アラヤットでは多くのおばあさんが町民会館に集まってくれていました。ケソンのロラズハウスも訪れました。ちょうど3月1日「慰安婦を強制連行した証拠はない」という安倍発言があり、ロラたちは怒っていました。「われわれが証拠そのものである」と皆声をそろえて安倍発言と日本政府を告発しました。
 3月8日には国際婦人デーのデモにも参加し、スービックレイプ事件を告発し続けているタクスフォーススービックレイプの人たちと交流しました。現代の「慰安婦」であると指摘していました。まったくその通りです。
 また不平等条約である日比経済連携協定(JPEPA)締結がフィリピンでは大きな問題になっていました。日本による「第二の侵略」であるとフォーラムで報告されました。
 2007ピースサイクルの課題は、私たちが日本へ帰ってから引き続き取り組まなければならない課題でもあります。今年のピースサイクルは、テーマからしても日比共通の課題を掲げ、日本での運動とフィリピンでの運動がより一体になったと感じました。
 いろんな団体を訪問し、意見交換できました。2007ピースサイクルを成功裏に終えることができたのは、現地受け入れ団体であるKPD,カイサカによる事前の準備によるところが大きく、感謝しています。
 なお、報告集も準備中です。(文責:平田)


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ロラズハウスを訪問して [フィリピン元「慰安婦」]

ロラネット山田さんからロラズハウス訪問の原稿をいただきました。転載します。
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ロラズハウスを訪問して

<3月7日、ロラたちととダンスを楽しむ>

 マニラのケソン市郊外にあるリラピリピーナの事務所を訪れるのは三~四年ぶりです。以前には事務所の一角がカンティーンといって簡易食堂があり、つき当りの壁にはプリシラ・バルトニコさんの絵が、また昔の「慰安所」の地図や年表などのパネルが置かれていました。
 今回はちょうどそこがリサイクルコーナーの展示場となり、日本からの古着が並べられ、手作りのアクセサリーもたくさんで、ちょっと趣きがかわっていました。ロラたちはにこやかに私たちを出迎えてくれました。
 今回私はピナットの支援・交流先のスービックから帰って、ピースサイクルのみなさんとマニラで合流して、共に訪れました。
 3月1日に安倍首相の発言がアジア各国に大きな波紋を広げ、フィリピンでは連日、ロラたちが日本大使館に抗議に出かけていました。
 「わずか15歳で売春をしたとでも言うのか!」、「元「慰安婦」たちは強制された証拠はない」という安倍発言にこのように激しく怒り、3月7日に私たちが訪れたときは、「安倍首相をフィリピンにつれてきてほしい!私が証言する」と自己紹介のおりに立ち上がって叫ぶロラもいました。
 連日の行動で疲れもあり、また以前来日したときのロラたちと今回とでは、年月の重なりを深く感じさせるほど一層、年老いた方もいました。それなのに、こんなパワフルに動いている、「あなたたちも日本できちんとやるのよ!」と後押しされたように思いました。
 今回の訪問目的は、新しいロラズハウスをマニラ近郊で捜す物件の進行状況をみることでした。が、連日の安倍発言で、事務局のリッチーさんをはじめロラたちも多忙をきわめ、その日程もとれず、これまでにめぼしい物件も見つかっておらず、ひき続き捜すこととなりました。
 カラオケに合わせてピースサイクルメンバーとダンスを踊るロラたち、一体あと何年こんなふうにできるのだろうか、日本でもがんばらなければと思いを深くして帰国しました。


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「生きているうちに、正義を!」 フィリピン元「慰安婦」を救え! [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピンの女性団体カイサカから、8月9日のフィリピン元「慰安婦」被害者救援、世界同時行動に際して「声明」が送られてきましたので翻訳し、転載します。
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女性団体カイサカ、新聞発表2006年8月9日
バージー・スアレス・ピンラック弁護士、カイサカ・スポークスパーソン
ピンラック弁護士

「生きているうちに、正義を!」

戦闘的な女性たちが第2次世界大戦の「慰安婦」の正義の叫びに加わる。

元「慰安婦」救済の訴えの10周年記念と一致するこの日に、私たちは協同した行動をとっているが、これはアジアじゅうの元「慰安婦」の叫び声である。

アジアの200,000人を超える女性たちが、1940年から1945年まで続いた日本帝国主義の帝国主義戦争の犠牲者である。組織的なレイプ、何千人ものアジア女性の虐待。これら女性と子供ら非戦闘員への攻撃は、「敵を弱め、辱める」第2次世界大戦における日本の戦争戦略の一部として行われた。

もちろんのこと、レイプや虐待被害女性のうちほんの少数の人は、話す勇気を持っていたけれども、これらの勇敢な人たちは、正義を実現する前に亡くなりつつある。
名乗り出た女性たち、フィリピン元「慰安婦」団体・マラヤロラズのロラ(おばあさん)たちのうち、すでに28人以上が亡くなり、半数近くの人たちは病いのため、手助けなしにはほとんど行動することができない。

第二次世界大戦が終わり61年たったが、日本政府は「慰安婦」に対する責任をいまだ認めていないし、まして自らが関与したその残虐行為を受けた人たちの正義回復のために、何の手立てもとろうとしていない。
そして今や、日本政府は、必要な時に他国の領土を侵略することができるように、憲法の平和条項の修正と、自衛隊の再編によって、再び攻撃的、侵略的姿勢をとろうとする徴候を見せている。

同時に、日本の次世代の人々は、「慰安婦」問題や第2次世界大戦での他の残虐行為などの歴史を知らずに育ってきた。

そのことが私たちを慎重にさせ、戦争志向の日本の復活を許せなくさせているのだ。

破壊された遺骸と壊された命で満たされた苦い過去を、繰り返さないようにしよう。

私たちは、元「慰安婦」の正義回復を望む!
私たちは、侵略戦争の犠牲者の正義回復を望む!


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フィリピンの「慰安婦」アモニタ・バラハディアさん(78歳)、逝去 [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピンの「慰安婦」の代表的存在でしたアモニタ・バラハディアさん(78歳、愛称=アポ・イタン)が11月1日11時食道癌のため、パンパンガ州サンフェルナンドの自宅で逝去されました。
 1992年10月にフィリピンで初めて名乗り出た4人の1人で(ロサ・ヘンソン、バリサリサさんに続き3人目、残っておられるのはアンスタシア・コルテスさんだけ)、被害者団体のリラ・ピリピーナ初代代表、ロラズ・カンパニエーラの代表などをつとめ、日本、韓国、北朝鮮、中国、インド、スイス、南アフリカ、オーストラリア、米国なども訪れ、会議やセミナーなどで体験を証言するなど、フィリピンの被害の代表的存在でした。今年3月から闘病生活を続けておられ、私も8月3日に自宅までお見舞いに行ってきましたが、残念です。もっとも広く世界を歩いた被害者ではないかと思います。

ネリア・サンチョさん(アジア女性人権評議会、ロラズ・カンパニエーラ・コーディネーター)の連絡から:


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フィリピン戦時性暴力被害者ロラ・リタさんの被害証言 8月5日広島 [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピン戦時性暴力被害者ロラ・リタさんの被害証言 8月5日 広島

皆さんこんにちは。
わたしはイザベリータ・ビヌヤと申します。フィリピンはパンパンガ州カンダバ市マパニケ村からやって来ました。今年73歳になります。
わたしは第二次世界大戦中に旧日本軍によって性奴隷にされた被害者たちの団体、「マラヤロラズ」の代表をしています。「マラヤ」とはタガログ語で「自由」、「ロラ」は「おばあさん」を意味します。
このたびはわたしたちを日本へ招聘くださった団体の皆さん、ありがとうございました。このような機会をもち皆さんにお話できることをうれしく思います。
わたしたちが日本にやってきたのは、ぜひ皆さんに第二次世界大戦中に日本軍によって受けたわたしたちの被害についてお話するためです。

1944年11月23日未明のことでした。日本軍は私たちのマパニケ村を激しく爆撃してきました。爆撃は午前5時から6時ごろまで続きました。日本軍はマパニケ村の隣にあるブラカン州サニルデフォンソからわれわれの村を砲撃したのでした。
爆撃が始まり突然四方で爆弾が破裂する音でわたし目覚めました。日本軍による爆撃でした。わたしは思わず家の床下に逃げ込みました。できればこの爆撃から逃れようと必死でした。爆撃は無差別で、人であれ動物であれ、多くの者を一瞬にして殺してしまいました。
午前6時ごろ爆撃がおさまりますと、そこで日本兵の大声を聞きました。多くの日本兵が村にトラックなどで直接乗り込んできました。兵は600名であったことが後でわかりました。まず日本兵は村にやって来るなり、村の家々を取り囲んでしまい、「ダラケ、ダラケ、ゲリラ」と叫びました。ダラケとは男のことです。男たちを外に出させました。どうやら日本兵は男たちをゲリラとみなし捜しているようでした。

男たちを狩りあつめますとそのまま手を縄で縛り、村の中心部にあった小学校へ連れて行きました。男たちをそれぞれ樹に縛りつけると訊問と拷問をはじめました。そして男たちが拷問を受けている間、日本兵は家々を探し回り家財を奪い、わたしたち女に小学校の別の一角に運ばせました。集められた家財、財産は山と積まれる状態になっていました。それから日本兵は村の家々に火を放ち焼きはじめました。
日本兵はやはり女と子供を狩りあつめ、小学校の校門の前に立たせました。村の男たちがどのような拷問を受けているか目撃させるようにしました。日本兵は目の前でわたしたちの父、夫、兄を痛めつけ苦しめました。

ある者は口に火のついたタバコをなげいれられ苦しめられました。ある者は銃剣で腹を裂かれ、内臓を取り出されていました。ある男の人は自分の性器を切り取られ刻まれ口に押し込められ、無理やりに食べさせられました。わたしたちの仲間であるロラ・アタンさんのお父さんもみなの見ている前で性器を切り取られ口にくわえさせられた一人です。ある者は銃剣で刺し殺されました。それから日本兵は男たちをマシンガンで撃って皆殺しにしました。そのようにして殺された男たちの遺体をまとめて小学校校舎に押し込みますと、校舎に火を放ち、校舎ごと焼き払いました。
これらはすべてわたしたちの目の前で行われました。わたしたちは絶望にくれ、みんな泣いていました。これはまるでわたしたちが悪いことをしたので罰を与えるかと言わんばかりの行為でした。わたしたちはどうしていいかわからず、ただ日本兵の指示に従いました。

村の家々や校舎を焼き払ったと、日本兵は残された女や子供たちに、家財を運ぶように命じました。村から離れたブラカン州デルフォンソにあるバナイプラ(「赤い家」)という地主の屋敷に運ぶように命じました。バナイプラはこの地方の地主の屋敷で当時日本軍は駐屯地として使用していました。
日本兵はわたしたちを屋敷に連行する間、かなり長い距離を歩かせました。このあたりは水田とクリークが広がる地域です。日本兵に監視されておりもちろん逃げることはできません。わたしたちが小川や沼地に足をとられ倒れますと、彼らはわたしたちを蹴り上げ、平手打ちしたり銃座で殴ったりして、無理やりに歩かせました。
わたしたちはそのまま連行されて「赤い家」に連れて行かれました。すでに夕暮れ近くになっていたと思います。日本兵はわたしたちに家財を屋敷の前に置くように命じました。このとき荷物を運ばせるために捕まえてきた村外のフィリピン人男たちとわたしたちを分け、男たちを帰しました。わたしたちもやっと帰れると思いましたが、そうではありませんでした。日本兵は女たちを屋敷や家の中に連れ込み、それからわたしたちの身の上に耐え難い屈辱を加え始めたのです。
わたしは三人の日本兵に手足をつかまれ無理やりに「赤い家」の二階に連れて行かれました。二階にはいくつか部屋がありますが、そのうちの一部屋に連れて行かれると、すでにそこには4人の少女が押し込められていました。そこへわたしも押し込められました。部屋の前には2名の日本兵が立って監視していました。

広島・平和公園で

わたしは日本兵に対し、泣き叫びながら「どうか家に帰して欲しい」、家は焼かれていましたので「親戚のうちに返して欲しい」と泣き叫びました。部屋の隅では他の少女たちも泣いていました。しかし日本兵はわたしたちの願いを聞き入れてくれませんでした。
しばらくするとわたしを連行した三人の日本兵、さらに二人の日本兵が加わって、5人になりました。彼らはまずわたしたちの目の前で食事を始めました。それが終わるとタバコをすい始めました。吸い終わると軍服を脱ぎ始めました。

そのときはすでに日も暮れており、部屋にはランプが一つありました。そのランプを消したのが合図でした。いきなり日本兵はわたしたちに襲いかかりました。兵士たちはそれぞれ少女を連れて部屋の隅に散り散りなり場所を確保すると、各自少女に対してレイプを始めました。
わたしたちは大きな声を上げ、足をばたつかせて抵抗しましたが、彼らは聞きいれてくれませんでした。わたしはそのとき14歳でしたので性交渉の経験はありませんでした。レイプされたとき大変恐ろしく手足をばたつかせて思いっきり抵抗しました。わたしをつかまえた日本兵は、抵抗すると腹部を思いっきり蹴りました。足や太ももをひどく殴りました。わたしはたまらず彼らの暴力に屈して、一枚ずつ衣服をはがされ、彼らによってレイプされました。わたしは人間としての尊厳を著しく傷つけられました。守ろうとしたものが暴力によって奪われました。その一晩、日本兵たちによってレイプが続けられました。彼らはわたしたちを人間ではなく動物のように扱いました。
他の女性たちも同様でした。泣き叫ぶ声が聞こえました。これは屈辱的な出来事でしたが、わたしたちはこのようにしてその夜をすごしたのです。

彼らは食べ物も水一滴も与えてくれませんでした。朝から何も口にしていませんでしたから空腹を感じていました。もっとも飢え渇きよりも、そのときはこのまま殺して欲しいと思っていました。わたしの屈辱は、空腹と渇きとともに鮮明な記憶として残っています。
翌朝、日本兵によってわたしたちは釈放されました。日本兵は「帰れ」と手のしぐさで示しました。しかし、わたしはどこへ帰ったらよかったのでしょうか。この時、わたしは絶望しほとんど放心した状態でした。

すでにその時、わたしたちの村、マパニケは焼きつくされ、人っ子一人いない灰だけが残る村になっていたのです。わたしは極限状態にありました。強烈な飢えと渇きが襲ってきました。また日本兵に乱暴された身体を突き抜けるような強い痛みがありました。
わたしは「赤い家」から少しでも離れようとしました。結局自分の家の跡を目指して歩いたのですが、非常に苦労しました。何度も立ち止まり座り込み、泣いていました。
どこへ帰ったらいいのか、家はもう焼き払われていましたので、目的もなくさまよい歩いていました。食べ物はありませんでした。収穫も日本兵が奪っていましたから、これから何を食べていこうか考えさせられました。

わたしは結局、村の近くにあった森の中に避難することにしました。日本兵に再度見つかることを恐れたのです。そこで五日間、日本兵を避けるようにじっとしていました。近くの小川で渇きを癒しました。食べ物はほとんど食べていません。
その間、わたしは知り合いに出会いました。彼によるとわたしの父と兄は、日本兵によってサンミゲルというブラカン州の隣町ですが、日本軍の駐屯地に連行されたということを知りました。
わたしはその駐屯地に行き、父と兄に再会しました。生きていたのです。しかし激しい拷問を受けていました。

父は体中を殴られ、また縄で強く縛られた傷で身動きできませんでした。それ以上に、顔に服をかぶせて少しずつ水をたらす拷問、水攻めと言うのでしょうか、これを受けていましたので、肺に水がたまり非常に苦しそうでした。父は釈放されましたが、その後、肺に水がたまる病気になり回復しませんでした。父はしばらく生きていましたが、戦後すぐに肺に水がたまったまま苦しみ続けて、亡くなりました。
兄もまた身体を殴りつけられ、神経が麻痺していましたし、肩が陥没していました。顔をひどく殴られ、歯はほとんどが折れてなくなっていました。肩の筋肉が障害を受け不自由な身体になりました。

わたしの経験したこの受難を、わたしは決して忘れることはありません。日本兵はわたしたちマパニケ村の男たちを傷めつくし殺しつくしました。そして女たちを辱めました。この痛みは口であらわしつくすことができません。今も胸が痛みます。
わたしはこの受難を被害に対する正義を回復するために名乗りでました。何も言わず、証言などせずに死んでいった父や兄、マパニケのすべての男たちや女たちの無念を思ったからです。日本政府に対する怒りは弱まるものではありません。現在もなお、日本政府に対する怒りを抱いて生きています。


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フィリピン 戦時性暴力被害者 ロラ・キナンさん、被害証言 [フィリピン元「慰安婦」]


フィリピン 戦時性暴力被害者 ロラ・キナンさん、被害証言8月3日 
三鷹・ロラ交流会での証言

わたしはセフェリナ・トウラです。皆はキナンと呼びます。ロラ・リタと同じ、パンパンガ州カンダバ市マパニケ村からやってきました。わたしが日本軍による攻撃と被害を受けたのは、1944年11月23日のことでした。当時わたしは15歳でした。わたしの体験は次のようなものです。
11月23日未明の爆撃が始まりますと、わたしは家族と一緒に、いち早く家近くの小川に逃げました。そして爆撃がやみますと、ようやくわたしたちは小川から家のあったところを目指しました。というのは、祖母と姉二人を残して逃げたからです。家のあった跡に戻ってみますと、わたしたちは非常な衝撃を受けました。祖母は爆撃の直撃をうけ、すでに単なる肉片に変わっていました。姉二人も直撃を受け、すでに人の形を残していませんでした。わたしと母は無事でしたが、そのような状況を前にして、わたしたち家族は大変なショックを受け、また嘆き悲しみました。
そうしているところに日本兵がやってきました。母とわたしは肉片に近い遺体となった祖母と姉の前にたたずみ嘆き悲しんでいました。わたしたちはその場を去りたくなかったのでしたが、日本兵はわたしたちを見つけると腕をつかみ、そのまま近くの小学校に無理やりに連行していきました。
小学校では集められた男たちが拷問を受けていました。殺された男たちは小学校に押し込められ、校舎とともに焼かれました。
そのあとわたしと母はそのまま「赤い家」に連れて行かれました。連れて行かれると、わたしと母は同じ部屋で複数の日本兵に同時にレイプされたのでした。わたしたちは叫び声をあげ、助けを求めましたが、日本兵はそのままかまわずレイプし続けました。母とわたしをレイプしたのは三人の日本兵です。
 フィリピン パンパンガ州「赤い家」

わたしは当時まだ15歳ということもあり、日本兵にレイプされると体中が血まみれになってしまいました。その姿に自身で驚き、母に助けを求めました。「母さん、こんなに血まみれになった」と。泣いて助けを求めますと、母はわたしの姿をみて非常に驚き、周りの日本兵に「わたしの娘はこんなふうになってしまった」と大声を上げて叫び続けました。
大変長い、そしてつらい一日でした。今でも鮮明に覚えています。忘れることができません。
翌朝、わたしと母は二人でその場を抜け出し脱出することができました。すぐに家には戻らず近くの森に逃げ込みました。家に帰れば再び日本兵に見つけられると思ったからです。そこで三日間とどまり、日本兵の追及を逃れ隠れていました。三日後ようやく母とわたしは、家のあった場所に戻りました。
祖母の遺体は肉片なっていましたが、姉二人の遺体は残っているだろうと思い、せめて遺体をきちんと埋葬しようとしたのです。しかし、遺体らしきものは残っていませんでした。その時わかったのですが、当時村には野犬が多くおり、姉や祖母の遺体は野犬に食べられてしまったのです。わたしたちはこのことに非常なショック受けたのでした。当時のわたしの気持ちを想像していただけるでしょうか。

わたしは当時のことを思い出すと、今でも大変苦しい気持ちになりますので、普段話しをすることはほとんどありません。しかし、今回は皆さんに本当のこと、事実を知っていただきたいと思い、何とかがんばって話しました。
わたしたちは戦争による被害のせいで、戦後も生きていくこと自体が非常に困難でした。15歳で家族と家を焼かれました。生きていくのが精一杯でした。十分な教育を受けることはできませんでした。満足に字もかけないような少女時代を過ごしました。しかし、わたしに証言は決してうそではありません。本当のことです。皆さんにぜひ知っていただきたい。そして被害をうけたマパニケの女たちがいた事実を記憶と記録にとどめて欲しいのです。わたしたちの正義を回復する闘いに、ぜひ皆さんの理解と支援をお願いしたいのです。そういう思いで証言させていただきました。


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フィリピン戦時性暴力被害者団体 マラヤロラズからロラ・リタ代表の訴え [フィリピン元「慰安婦」]

フィリピン戦時性暴力被害者団体 マラヤロラズからロラ・リタ代表の訴え

マパニケの被害からすでに60年がたちましたが、わたしたちはできごとを決して忘れることはできません。日本兵によって1944年11月23日のわたしたちの受難に対する記憶は決して消え去るものではないのです。あの戦争は多くのわたしたち同胞、国民を犠牲にしました。受難に対する記憶は、犠牲を強いた日本政府を告発し闘う原動力であり、わたしたちマラヤロラズの共通の気持ちです。

わたしたちは要求しています。
日本政府は、当時行った加害の事実一つ一つを認知すべきです。わたしたちの身の上におきた不幸が忘れ去られ、マパニケの被害が歴史から消し去られることに耐えられません。
日本政府は加害事実を認知した上で、被害者一人ひとりに誠実に謝罪すべきです。公式に謝罪すべきです。そのことを通じてはじめて、わたしたちの正義が回復されるのです。

戦時中の殺掠とレイプは単に偶然のできごとではありません。ここからわたしたちのすべての苦しみが発しています。生きるつらさ、生計を立てること、つらい少女時代、これらすべてに対してそのまま影響を与えてきました。

2000年12月「女性国際戦犯法廷」は、日本政府の加害事実を認定し日本政府の責任を明確にした判決を出しました。判決は日本政府が果たすべき責任と課題を明確に指し示しています。しかし、日本政府は今に至るまで何の責任も果たしていません。わたしたちの正義の回復はいまだ実現していません。
そしてもう一つ、皆さんに訴えたいことがあります。それは「アジア女性基金」です。これは日本の民間の寄付を基にし、一部日本政府も基金を出していますが、わたしたちは「アジア女性基金」では決して解決しないと考えています。というのは「アジア女性基金」日本政府の法的責任を認めていないからです。認めないことを前提にしたあくまで道義的な基金だからです。したがってわたしたちはその受け取りを拒否し続けています。

日本政府は直接わたしたち被害者に対して正式に謝罪し、法律を通して補償すべきです。そのことがなされない限り、またマパニケの女たちの被害をまたどこかで引き起こすでありましょう。世界中の女たちがわたしたちと同じ運命をたどることになります。つまり戦争がまた繰り返されることになります。わたしたちの被害事実を公的に明らかにし、公的に謝罪することは、平和な、人権侵害を許さない未来の保障でもあるのです。
わたしたちの仲間はますます高齢化がすすみ、病気がちになっています。すでに多くのものが亡くなりました。わたしたちロラの多くは自分たちだけで自活できない状況にあります。ロラのなかには被害がもとで戦後ずっと独身を通してきた者も多くいます。彼女らは頼るべき家族がおらず遠い親戚の世話になり生活させてもらっています。わたしたちが生きていくうえでの衣料や生活の支援も大切なことなのです。
できれば皆さんにそのことも理解いただき心からの応援をお願いしたいのです。マパニケの女たちの被害という歴史の事実が消し去られ、忘れ去られることに耐えることができません。

いつも支援してくださる皆さんには本当に感謝しています。わたしたちを日本へ招聘し、証言の機会をつくってくださった皆さん、大変ありがとうございます。皆さんはわたしたちの真の友人です。
皆さんだけではなくフィリピン国内でも、他の外国の支援者たちもわたしたちのために闘ってくださっています。それをぜひ一つの正義を回復する目的のために有効に助け合って支援を続けていただければ幸いです。
ですからあえて皆さんに申しあげたいと思います。ここにいらっしゃる皆さん、ぜひわたしたちが希望の持てる、そして力づけられるような社会を、未来をつくっていただけるように期待しています。わたしたちの正義が回復されますよう皆さんの支援、献身を期待しています。


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フィリピン女性NGO団体カイサカ(KAISAKA) エミリーさんの発言 [フィリピン元「慰安婦」]


フィリピン女性NGO団体カイサカ(KAISAKA) エミリーさんの発言
日本軍による戦時性暴力被害者三鷹・ロラ交流会で

わたしはエミリー・ファジャルドです。女性NGO団体カイサカ(KAISAKA)のメンバーで、今回ロラとともに来日しました。
 カイサカはフィリピンの全国女性NGOの連合体であり、さまざまのセクターの女性たちを、すなわち、工場で働く女性、自治体女性労働者や教師、コミュニティのお母さんたちなどを組織しています。ロラたちの支援活動も行っています。
わたしたち女性はさまざまな社会分野で、抑圧され、低い地位におしこめられ、苦しんでいます。その被害に対して女性自身が立ち上がり、自分たちの組織を作り解決する活動が重要です。
現在進行しているフィリピン社会の経済危機は非常に深刻な影響をすべての国民、特に女性に与えています。グローバリゼイションにともなう軍事化に反対することはとっても重要です。ロラたちの被害を若い世代に繰り返させない闘いが必要です。

わたしたちはおのおののセクターの女性に対し「武装せよ」呼びかけています。それは決して武器をとることではありません。正確な情報を得て、いかに分析し、自分たちの組織をつくり、そしていかに自分たちの生活を向上するために工夫し闘っていくか、すなわち自分たちで考え自立していくことを「武装する」と呼んでいるのです。
正しい情報を手に入れることは重要です。特に人権侵害について。人はそれぞれ人権を持っており、女性一人ひとりが自分の人権を認識することは大変大切なことです。人権侵害はなぜ起きたのか、これを回復していくには何が必要なのか、どんな闘い方があるのか、自分たちで考えて決めていくのです。
ロラたちのことを考えてみてください。彼女たちは50年間自分たちの受けた人権侵害について正しい情報を得ず、女性同士の交流ももたず、50年間沈黙を強いられてきました。しかし長い時間をかけて自分たちの被害を見つめなおし、皆で話し合い、人権侵害を回復するには自分たちが主張し活動することだとの結論に到達しました。いまや団結してマラヤロラズを結成し名乗り出たあとのロラたちは、人権に対して敏感に反応し活動しています。

いまひとつ訴えたいのは今世界で起きているグローバリゼイションに反対することです。フィリピンではグローバリゼイション、自由化の影響をそのまま受けています。女性工場労働者はより不利な条件で働かされています。雇用が不安定な契約労働者化が進んでいます。多くの女性が失業しています。海外に働き口を見つけて出て行かざるを得ない女性も増え続けています。家事労働が女性の当然の義務という風潮は根強く存在しています。また売春で働かざるを得ない女性も増えています。
また、皆さんも郵政民営化問題に当面されていますが、フィリピンでもあらゆる公共部門での民営化が進んでいます。水道事業、電気事業、高速道路、エネルギー事業などすべての部門での民営化が進行しています。そのため物価が著しく高騰しています。石油は毎週値上げされました。バスやジプニーの運賃は何度も値上げされました。実は最近、北部ルソン高速道路が民営化され、料金が約10倍になってしまいました。以前は半官半民だったのですが、フィリピン最大のアラヤ財閥が買い受けたあと値上げしたのです。これが自由化・民営化であり、グローバリゼイションのもたらすものなのです。人々の生活は時々刻々と圧迫されています。
ですからわたしが申し上げた人権、これはタガログ語でカラパタンといいますが、このカラパタンを守る社会を築きあげるため、毎日のように抗議行動を行い、集会を行い、勉強会を行っているのです。しかも社会的に弱い位置にいる女性自身が自分たちで考え、組織し活動していくようになることがとても大切なのです。


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8月9日、マニラのロラズハウスを訪問し懇談。 [フィリピン元「慰安婦」]


8月9日、マニラ ロラズハウスで

8月9日、マニラのロラズハウスを訪問し懇談。

ロラたちは午前中に日本大使館前で抗議行動した後だったので、少し疲れ気味だったかもしれません。3時間ばかり懇談しました。リッチーさんが最近のリラフィリピーナの活動を紹介してくれました。リラフィリピーナは定期的に日本大使館前で抗議行動しています。

今年5月になくなったLola Rufinaさんのことを少し話しました。
奥の部屋にはすでに亡くなったロラたちの写真が飾ってあります。

マパラガットの神風記念碑にリラフィリピーナとして抗議していることを、リッチーさんから聞きました。


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パンパンガ州マパニケ村の戦時性暴力被害者たちのこと [フィリピン元「慰安婦」]

パンパンガ州マパニケ村の戦時性暴力被害者たちのこと

マパニケのロラたちは英語がそれほど得意ではない。そのため今回はタガログ語のできる方に通訳をお願いした。

マパニケは村である。高等教育の学校はない。また当時、住民の多くが小作人だった。1944年に日本軍によって、家が焼かれ家族は殺されたが、生き残ったロラの多くはその時10代半ばであり、その後の生活は困難をきわめ、学校へ行くどころではなかったのである。

しかも、通訳の人によれば、マパニケ村のロラたちは日常生活ではパンパンガ語を使い、証言してくれるとき通訳の都合によりタガログ語を話してくれていると聞いた。初めてその事実を知った。その意味では彼女たちはバイリンガルなのだ。

パンパンガ語とタガログ語は同じ系統の言語ではあるらしいが、単語はずいぶん違うらしい。タガログ通訳によればパンパンガ語で話されるとさっぱりわからないと言うのだ。

元「従軍慰安婦」が名乗り出たときに、英語のできる人が国際会議などで証言する例が多かった。今でもそうかも知れない。それはそれで立派なのだけれど、英語がそれほどできないロラたちも数多くいるという事実を、今回訪問するまでわたしはあまり考えなかった。
英語がそれほどできない数多くのロラたちが、自由に発言し主張できるようにしなければならないことも、また考えなくてはならない。


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フィリピン パンパンガ州アラヤット町を訪問、戦時性暴力被害者と交流 [フィリピン元「慰安婦」]


アラヤット  ロラ・メネンさんの自宅で

フィリピン パンパンガ州アラヤット町を訪問、戦時性暴力被害者と交流

8月11日、ロラネット訪問団は、フィリピン パンパンガ州アラヤットも訪問しました。
富士山に似た形状のアラヤット山が見えます。小ぶりですが形のよい気品のある山です。
アラヤットには戦時性暴力被害者団体、ロラズカンパニェーラの支部があります。

ロラズカンパニェーラのおばあさんたちが被害者の一人であるメネンさんの自宅に集まってくれていました。
メネンさんの家族は被害の事実や日本政府に対する抗議活動に理解があることもうかがいました。集会や会合で話を聞く場合にはあまり考えませんでしたが、おばあさんたちの暮らしのなかで話を聞きました。被害のあったあとの結婚した経過など夫の写真を見ながらの話でしたので、よりわかった気がします。一つ一つの生活があったし、あることをあらためて思いました

3人のおばあさんから証言を聞きました。証言は準備してくれていたようです。
十分な時間がなかったのが残念でした。

話を聞きながら、おばあさんたちのそれぞれの被害事実を一つ一つきちんと記録しておく必要を感じました。
日本政府は「事実認定」すらしないのですから、なおさら被害の事実をはっきりさせておく必要があります。日本政府は歴史の真実が消え去ることを期待しています。

「道義的責任」は1990年代はじめにやっと認めたものの、「法的責任」は絶対に認めない立場をとっています。

「アジア女性基金」は、「道義的責任」に基づくものであり、民間からの善意の募金によって成り立っています。したがって、「アジア女性基金」は「日本政府の法的責任を認めない」立場からの対応なのです。


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フィリピン パンパンガ州マパニケ村を訪問、戦時性暴力被害者と交流 [フィリピン元「慰安婦」]


黄色い衣装で踊るロラたち

フィリピン パンパンガ州マパニケ村を訪問、戦時性暴力被害者と交流

8月11日、ロラネット訪問団は、フィリピン パンパンガ州マパニケを訪問しました。現在、村には40数名の戦時性暴力被害者がおられます。1944年11月23日、日本軍の作戦時に被害を受けました。
ここはパンパンガ平原の真ん中、のどかな農村です。周りには見渡す限り水田とクリークが広がっています。幹線道路から村への道は舗装されていません。
被害者のおばあさんたちはわたしたちの訪問を歓迎してくれました。村ではおばあさんたちは尊敬され、また大切にされています。
マパニケのおばあさんたちは孤立していません。
10数年前にやっと被害の名乗りをあげ、またおばあさんたち同士で何度も話し合ったり、ダンスや歌を歌ったりして、長い時間をかけ精神的なリハビリを行い、また村人の理解をかちとり、このような状況を作り上げてきました。
当日は、4人の被害者から被害の証言を聞きました。

村の男たちが殺されたマパニケ小学校にある村民碑も訪れました。碑の下に村民の骨が埋められています。村民は日本軍によって小学校ごと焼かれたので誰の骨かわからず、まとめて埋めてあります。
昼食をいただき、ダンスを楽しみました。


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8月10日、フィリピン元「従軍慰安婦」団体ロラズカンパニェーラとマラヤロラズが、マニラ日本大使館前で抗議行動 [フィリピン元「慰安婦」]

8月10日、フィリピン元「従軍慰安婦」団体ロラズカンパニェーラとマラヤロラズが、マニラ日本大使館前で抗議行動

8月10日にもマニラ日本大使館前で、フィリピン元「従軍慰安婦」団体ロラズカンパニェーラとマラヤロラズの共同した抗議行動が行われました。8月世界同時行動の一環です。
「イエローキャンペーン」ということで黄色い傘と衣装の集まりでした。
同時刻に、東京でも参議院議員会館前で抗議行動が行われ、電話で連絡を取り、相互の集会の様子を報告しあいました。
この日は、マニラ、東京だけでなく、ソウル、ハーグ(オランダ)、ニューヨークでも、元「従軍慰安婦」団体や支援者が日本政府に対する抗議行動を行っています。
また、集会とともに、マニラ日本大使館とフィリピン元「従軍慰安婦」団体ロラズカンパニェーラとマラヤロラズの間で交渉が行われ、この問題に対する元「従軍慰安婦」団体の見解と要求をあらためて提出しました。
要求は、日本政府が戦時性暴力被害の事実認定を行うこと、その上で日本政府による公式謝罪と補償を行うこと、「アジア女性基金」ではなんら解決はしないこと、です。
日本からロラネット三多摩のメンバーも集会と交渉に参加しました。


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8月9日、フィリピン元「従軍慰安婦」団体リラフィリピーナが、マニラ日本大使館前で抗議行動 [フィリピン元「慰安婦」]


蝋燭をたてて抗議

8月9日、フィリピン元「従軍慰安婦」団体リラフィリピーナが、マニラ日本大使館前で抗議行動

8月9日、マニラの日本大使館前でフィリピン元「従軍慰安婦」団体、リラフィリピーナによる日本政府への抗議集会が行われました。
2月のアジア連帯会議で提起された8月世界同時行動の一環です。
当日は小雨であるにもかかわらず、約30名の元「従軍慰安婦」と支援者約70名が参加しました。メディアも取材にかけつけました。
抗議内容は、元「従軍慰安婦」制度に対する日本政府の責任を認めないで放置している日本政府への批判です。この集会でもやはり「アジア女性基金」では何の解決にもならないと批判されました。
日本からロラネット三多摩のメンバーもこれに参加しました。


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フィリピン・パンパンガ州アニャタムにある赤い家 [フィリピン元「慰安婦」]


フィリピン・パンパンガ州アニャタムにある赤い家

ここは日本軍(第二戦車師団 師団長:岩仲義治中将)の駐屯地であり、マパニケ村の女たちが、1944年11月23日に集団的に戦時性暴力被害を受けた場所です。
もともと地主の所有であり、現在もその子孫が所有していますが、ニューヨーク在住とのことで、誰も居住していません。
柱に塗ってあったベンガラも大方はげおち、コンクリート壁の赤い塗装も色あせています。
「赤い家」と呼ばれてきましたが、家の外観はすでに赤くありません。
木造のため風雨による痛みが急速に進行しています。2階の板壁の一部は破れ、雨が入ってきており、床の木が腐りつつあります。あと数年もすれば崩れ落ちるでしょう。
記念として保存されるべきです。


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元従軍慰安婦団体がマニラ日本大使館に抗議行動 [フィリピン元「慰安婦」]

8月10日、日本大使館前で、元「従軍慰安婦」問題について、抗議行動があり、参加しました。
この日は世界同時行動であり、東京、ソウル、ハーグ、サンフランシスコなどで日本政府に対する抗議行動が同時に行われました。
元「従軍慰安婦」団体の要求は、
1)被害の事実を認定すること
2)その上で、日本政府が謝罪すること
3)補償を行うこと
です。

当日は、元「従軍慰安婦」であるマラヤロラズとロラズカンパニェーラの両団体が参加しました。


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「女たちの戦争と平和記念館」にロラ・キナンさんの写真を [フィリピン元「慰安婦」]


写真は展示了解を署名するキナンさん

ロラ・キナンさん「女たちの戦争と平和記念館」に写真を

8月7日、フィリピンから来日中のロラ・リタさんとロラ・キナンさんが、早稲田奉仕園内にある開館したばかりの「女たちの戦争と平和記念館」を訪れました。
「女たちの戦争と平和記念館」では戦時性暴力被害者の写真を展示していますが、これまでロラ・キナンさんの写真はありませんでした。
ロラ・キナンさんの了解を得たうえで、その場で写真を撮影し後日展示することになりました。
写真は展示を了解することを署名するキナンさんです。


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