2010.10.29

検察審査会の「不起訴相当」議決に反論-後藤代表

 12年5カ月にわたる拉致監禁事件の刑事告訴が不起訴となったことを受け、被害者である当会の後藤徹代表が検察審査会に不服申し立てを行っていた件で、東京第四検察審査会は10月6日、「不起訴相当」の議決を下しました。議決理由を説明する「議決通知書」は、被疑者側の供述を一方的に採用する内容です。これに対して、後藤代表は被疑者の主要な言い分を分析、虚偽と詭弁に満ち満ちていると反論。最後に、今なお続く拉致監禁問題の解決のため、これからも尽力していく決意を表明しています。後藤代表の見解をまとめた反論文を下記に掲載します。

告訴人  後藤 徹

 2009年12月9日、東京地検は私が行った刑事告訴に対し不起訴処分を下しましたが、これに対し私は2010年6月23日、検察審査会に審査申立をしました。ところが、同年10月6日、東京第4検察審査会は不起訴相当との議決を行いました。議決通知書には「議決の要旨」なる書面が添付されておりましたが、その内容は被疑者等の言い分を一方的に採用するものであり、到底承伏できるものではありません。そこで、以下主要な点について反論したいと思います。

1.自宅からの拉致について

 私は、父と兄に両脇を抱えられ抵抗できない状態にされて、家族や見知らぬ男性に四方八方から囲まれ、引きずるようにして家を出され、ワゴン車に乗せられ同車内に監禁されました。

それに対し、被疑者等は、しぶしぶではあったが私が行くことを承諾して準備したマンションに行ったものであり、逮捕も監禁もしていないと述べています。

 両者の供述に対し、検察審査会は、私が家を出る際に靴を履いていたことと、大声を出さなかったことをもって被疑者側の供述を採用しています。

 事実は、私が述べている通りであり、私は決して自宅から移動することを承諾したわけではなく、自分から行ったわけでもありません。私は、当該事件から8年前に既に拉致監禁を経験しており、その時も監視の目をかいくぐって脱出した経緯があったために、再び拉致監禁されることがあれば、今度は、簡単には解放されないと思い、警戒していました。従って、自分からわざわざ監禁場所に行くなどということは絶対にありえないことです。また、家から連れ出される際に靴を履いたのだとしたら、それは、兄と父に両脇を抱えられ無理やり引きずられるように連行される途中、かろうじて履いたものだと思います。当時の記憶が鮮明でないのは、気が動転していたことと、この日から既に12年以上が経過しているためです。声が出なかったのは、恐れや焦りで気が動転していたためです。被疑者等の突然の拉致行為によって私が恐怖に陥り気が動転していたことを理解しようとしない検察審査会の認定は、余りにも理不尽だと思います。

2.車での連行中、簡易トイレを使うよう命令されたことについて

 私は連行される車中、トイレに行きたいと言ってサービスエリアに寄るよう求めました。ところが被疑者等はこれを拒否し、簡易トイレを差し出して、私に車内で用を足すことを強要しました。被疑者等がこのような異常な行動に出たのは、車内での監禁状態からの逃走防止のためでした。

 これに対し、被疑者等は、簡易トイレは、父がトイレが近いことから常備していたもので、簡易トイレを使うことを申立人は拒んではいない、新潟には今までもノンストップで行っておりこのとき初めてノンストップで行ったものではない、遅い時間帯であり一刻も早く到着したかった、と供述し、検察審査会は、被疑者の言い分も虚偽であると断定はできないと述べて被疑者等の供述を採用しています。

 事実は、私の供述の通りです。この日、検察審査会の認定によると東京の実家を出たのが午後9時、新潟のマンションに着いたのは午前2時半ですが、この5時間半、ワゴン車は高速道路のサービスエリアやパーキングエリアのような休憩所には一度も立ち寄らず、東京から新潟までの300数十キロを同じ運転手がノンストップで運転し続けました。勿論、父は、一切トイレ休憩をしていません。それどころか簡易トイレも一切使用していません。すなわち、父がトイレが近かったなどというのは作り話です。父にとって簡易トイレなど元々必要なく、我慢しようと思えば5時間半でもトイレに行かずに済ますことはできたのです。他方、5時間半もの乗車を強要されれば、私がトイレに行きたいと言い出すことは容易に予想できたはずであり、私がトイレに行きたいと言い出した際に私を車外に出さずに済ますために被疑者等が簡易トイレを用意したことは、疑いの余地がありません。

 なお、父の健康状態について付言すれば、父は晩年期(確か60歳代)になってから運転免許を取得し、当時自家用車をよく乗り回していましたが、父が簡易トイレを車の中に常備したことはありませんでしたし、勿論、使用したこともありませんでした。もし簡易トイレを用意しなければならないほどトイレが近いのであれば、車には乗らなかったはずです。また、私が新潟のマンションで監禁されていた時、松永堡智牧師や元信者が説得に来る度、父は少なくとも2時間はトイレに行かず同じ部屋で話を聞いていました。

 そもそも、仮に被疑者等の言う通り父のために簡易トイレを用意したのだとして、何故私までがその使用を強制されなければならないのでしょうか。兄嫁他女性や家族でない人が同乗する中で、ビニール袋に用を足すなど明らかに異常です。いかに夜中急いでいたといっても、東京から新潟まで移動するのに休憩所に寄る時間もないなどということは通常あり得ません。なお、被疑者等は、私が簡易トイレを使うことを拒んでいなかったと供述し、検察審査会もこの供述を真に受けているようですが、高速道路でワゴン車が休憩所に立ち寄らない以上、他にどんな方法で用を足すことができたというのでしょうか。これは強制以外の何ものでもありません。

 拉致現場からマンションに向かう車中、私を監禁状態にしていたという事実は本件において極めて重要です。それは、被疑者等が当初から私をマンションに監禁する意思であったことを示す事実だからです。従って、同事実を認めることができない被疑者等は、監禁2年半目に亡くなった父を持ち出し、父がトイレが近かったとの作り話をしてまで、苦し紛れの理由を供述したものに他なりません。検察審査会は、「父がトイレが近かった」との被疑者らの弁明のみを強調し、被疑者等が私に簡易トイレの使用を強制してまで私を車内に拘束したという事実の重大性を殊更に黙殺しています。

 なお、監禁する側にとっては、車に簡易トイレを積み込むことは常套手段となっています。例えば、私を脱会説得した新津福音キリスト教会の松永堡智牧師の関与の元、1995年6月10日から4カ月間新潟のマンションに監禁された統一教会信者の川嶋英雄さん(最後の1ヶ月は私と監禁期間も重なります)も富山の実家から新潟県内のマンションに連行される途中、車内で簡易トイレの使用を強要されており、この事実が1996年4月1日付で発行された川嶋さんの著書『拉致監禁百二十日間』(5頁)や、ルポライター米本和広氏の著書『我らの不快な隣人』(194頁)に記載されています。このやり方は女性も例外ではありません。例えば、2001年10月に親族によって横須賀市で拉致され車とフェリーで移送された後、約半年間札幌市のマンションに監禁されていた統一教会信者の片桐名美子さんの陳述書によると、名美子さんの連行途中にワゴン車がパーキングエリアに停まりましたが、名美子さんは車内から一歩も出ることが許されず車中、簡易トイレで用を足すことを強要されるという屈辱的な経験をしています。名美子さんの夫は名美子さんの監禁中、名美子さんの親族を訴えましたが、後日名美子さんも加わって和解が成立し、名美子さん夫婦は名美子さんの両親から200万円の慰謝料を得ています。

 監禁下での脱会説得を長年続け2003年に「これまで800人を脱会させた」と自ら証言したキリスト教神戸真教会の高澤守牧師は、神戸地裁に統一教会を被告として提起された民事裁判に証人として出廷し、統一教会信者を車で連行する際、必ず車内に「ポータブルトイレ」を用意する事実を証言しています(平成8年7月9日付調書)。ちなみに高澤牧師は今回の私の事件の被疑者である宮村峻、及び松永堡智牧師と連絡を取り合う関係にあります。

 以上述べた通り、拉致現場から監禁マンションへ連行する車中、簡易トイレを用意する方法は、連行中に信者の逃走を阻止するための常套手段なのです。 

3.部屋にいるのが女性だけだった時期もあったことについて

 検察審査会は、部屋にいるのが女性だけだった時期もあることをもって、体力的に勝る私が脱出することが困難でなかったと結論づけています。

 しかし、これは、拉致監禁、強制棄教の実態を知らない浅薄な見方であると言わざるを得ません。

 先ず、各マンションの部屋では女性だけしかいなかったとしても逃走を阻止するに十分な厳重な施錠がなされていました。

 そして、当然ながら私には南京錠を解錠するための鍵がどこにあるのか知らされていないし、家族も私が直ぐに発見できるところにその鍵を保管するようなことはしませんでした。従って、部屋に残っているのが女性だけであろうと、関係ないことなのであり、監禁状態であることに変わりはないのです。

 更に,次のような特殊事情がありました。

 1998年12月末までの時期は、監禁から脱出するために信仰を失ったふり、すなわち“偽装脱会”をしていた期間でした。ですから、監視がなくなり確実に逃走できる状態が訪れるまでは、まだ信仰を捨てていないことを疑われるようなヘタな行動を取ることはできませんでした。例えば玄関ドアの施錠の状態を確かめようとして玄関を覗くような行動をとった場合、偽装脱会がバレてしまい、脱出が一層困難になるばかりか、松永牧師等による脱会説得が再び始まり、教会の悪口や中傷罵倒を毎日のように聞かされるようになることは明らかでした。ですから私は、ひたすら完全に逃走することができる瞬間が訪れるのを辛抱強く待つしかなかったのです。

 また、監禁が長びくにつれて、私は、極度の運動不足と、ハンガーストライキ後の食事制裁とによって体が衰弱し、女性からも簡単に取り押さえられるような体力しか残っていませんでした。従って仮に女性達を相手に暴れたとしても、何ら解放には至らなかったと言えます。

4.玄関のドアチェーンの南京錠、および窓の特殊な鍵による施錠について

 パレスマンション多門607号室での監禁について、検察審査会は、内側から開けられないような鍵が付けられていると思ったというのは私の推測による主張に過ぎないと結論づけています。しかし、松永牧師の来訪時に、父は玄関を開けるためにわざわざ解錠のための鍵を手にして玄関に向かっていましたので、同室での玄関ドアに内側から施錠できるタイプのものが取り付けられていたことは間違いありません。また、後述の通り統一教会信者を脱会説得する際、玄関ドアを内側から開かなくすることは宮村や松永ら、脱会説得の専門家らの間では常套手段となっており、今回に限って施錠をしていなかったなどということはあり得ません。

 荻窪プレイスマンション605号室の玄関ドアの鍵について、検察審査会は私の供述調書に、「番号の付いた鍵が見えた感じがした」と記されていると述べていますが、私は番号の付いた鍵をハッキリと見ており、「見えた感じがした」という程度のものではありません。このことは、警察での取調以来、終始証言してきました。

 荻窪フラワーホーム804号室の監禁状態について、被疑者等も玄関のドアチェーンに南京錠を付けていたこと、窓を特殊な鍵で施錠していたことを認めています。しかし、付けた理由として統一教会の信者が、親等と一緒にいる私を奪還するためにチェーンカッター等でドアチェーンを切断して家の中に入って来て、私を奪還するのを防止するためだったと供述しています。そして、両者の供述に対し、検察審査会は、被疑者等の供述を採用しています。

 被疑者等によるこの供述は、はなはだしい詭弁です。

 第1に、防犯チェーンを切断されるという事例など存在しません。また、防犯チェーンを切られるなどというのは、外から誰かが来た時、玄関ドアを開けた場合に可能となることであって、玄関ドアを開けさえしなければ、防犯チェーンを切られることなどあり得ないのです。従って、防犯チェーンを外から切られることの対策としては、防犯チェーンに南京錠を掛けることに意味はありません。むしろ、中にいる人間を外に出さないためにこそ、防犯チェーンに南京錠を掛けることの存在意義があると言えます。自称脱会説得の専門家達(私の事件の場合は松永堡智と宮村峻)が信者父兄から依頼を受け脱会させるための指導、教育をする場合、逃走防止、すなわち監禁目的で鎖と南京錠による玄関ドアの施錠や特殊な鍵による窓の施錠を行わせることは周知の事実です。このことは、拉致監禁による強制棄教を主導してきた人物たちによる法廷での証言や著書で彼ら自ら証言していることであり、疑う余地がありません。にもかかわらず、被疑者等は統一教会からの奪還を防止するためなどと主張して他人のせいにするなど、極めて悪質な詭弁であると言わなければなりません。

 また第2に、防犯チェーンに南京錠を掛けた目的が何であれ、そのことの結果として、部屋の中にいた私が閉じ込められた状態に置かれた事実に変わりはありません。検察審査会の認定は、統一教会からの奪還を防ぐ目的であれば、中にいる信者を監禁しても構わないと言っているがごとくですが、中にいる人間の意思こそ尊重されるべきであるはずです。

5.私の言動と被疑者等の言動について

 私は拉致監禁下での被疑者等による執拗な脱会強要に抗議して何度も口頭で解放するよう訴え、時に実力行使で脱出を試みましたが、その度に被疑者等から暴言を吐かれ暴力で取り押さえられ精神的肉体的に虐待を受けました。

 これに対して被疑者等は、統一教会を批判したり、棄教や脱会を強要したりしたことは一度もなく、私が「出せ」と言ったこともないし、玄関に行こうとしたこともなく、逆に私を外に出そうとしたが拒否したと述べています。

 両者の供述に対し、検察審査会は、ここでも被疑者等の供述を採用しています。

 事実は、私の供述の通りであり、被疑者等の供述は全くのウソであります。犯した罪から逃れるために、ここまで虚偽の供述をするとは、被疑者等には良心の呵責というものがないのでしょうか。

事実は以下の通りです。私の陳述書の抜粋です。

 804号室にて信仰を維持していることを表明して間もない頃、私は脱出を試み玄関に向かって行きました。ところが、兄から足技を掛けられて倒され、取り押さえられました。玄関ドアに南京錠及びチェーンによる施錠があるだけでなく、力づくで脱出を拒まれたことから、私は同室からの脱出を断念させられました。

 私は宮村等に対しても、「ここから出せ!」「あんたら、統一教会は人権侵害をしていると言うが、統一教会は人を監禁したりしないぞ!あんたらの方が人権侵害をしているじゃないか!」「信教の自由を何だと思っているんだ!」と言って激しく抗議しました。

 しかし宮村は、「えらそうなことを言うな。お前に人権を主張する資格などない」「俺はお前を監禁なんかしてない。家族が保護しているんだ。出して貰いたければ家族に言え」「お前は全然人の話を聞いていない」「頭を使え。自分の頭で良く考えろ」「自分の頭で考えられるようになるまではここから出られないぞ」「もし自分の子供が統一教会を辞めなければ、家に座敷牢を作って死ぬまで閉じこめておく」などと述べて私に棄教を強要しました。

 また、宮村や○○は、脱会説得の最中、私に対して「馬鹿」「あほ」といった言葉を頻繁に使い、私を侮辱し続けました。宮村に同行してきた元信者らも、宮村に同調して私に罵声を浴びせました。○○という元信者は、私と話をしている最中、突然、出されていた緑茶を私の顔面に浴びせかけました。このため私は、着ていたTシャツがびしょぬれになりました。

 更に、私の家族も宮村等による棄教強要に加わりました。兄は、私を糾弾している最中に急に立ち上がり、「本当ならぶん殴って半殺しにしてやるところだ!」などと絶叫したこともあります。また妹は、「こんな調子だったら一生このままだから覚悟して」などと言って、私を脅迫しました。

 以上の様な、家族及び宮村や○○等による、人間性を無視した棄教強要によって極度に苦しい日々が続きました。その時に受けた精神的苦痛のため、「私はもういっそのこと死んでしまいたい」と思うほどでした。

 私は玄関目がけて突進し、脱出を試みるようになりました。そして家族から取り押さえられる度、私は力の限り近所中に聞こえるくらいの大声で、「出せ」「助けてくれー」「警察を呼べ」と何度も何度も繰り返し叫び、命がけで脱出を試みました。

 そして家族に対しては、「統一教会は人権侵害をしているというが、あんたらのやっていることの方が人権侵害じゃないか。統一教会はこんな風に人を監禁したりしないぞ!」「これは拷問だ!」「現代の魔女狩りだ!」「一体何回選挙権を奪ったと思っているんだ!」「こんなことが許されると思っているのか?あんたらのやっている蛮行は必ず白日の下にさらしてやる!」「弁護士を立てて訴えてやる!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って糾弾しました。しかし、私は兄、妹、母によって取り押さえられ、はがいじめにされ押し倒されました。・・・略・・・

こうした揉み合いにより私は顔や手足から出血して血だらけになり、体中アザだらけになり、着ていた上着はボロボロに破かれました。手足からの出血は畳にもしたたり落ち、私はタオルで手や畳を拭きました。・・・略・・・また、夜は体中が痛み、寝ることができませんでした。

 また、私は被疑者等から、教祖、教会、教理に対する悪口を連日、監禁部屋で強制的に聞かされ、それはまさに精神的拷問であったことも付記しておきます。

6.抗議のハンガーストライキ、食事制裁、解放直後の体重、痩身写真について

 私は、監禁に抗議してハンガーストライキを敢行し、その後、被疑者等から食事制裁による虐待を受けました。

 これに対して被疑者等は、申立人が断食をしたのは、統一教会の実践の一つである願掛けのための断食であり、食事制裁もしていないと供述しています。

 両者の供述に対し、検察審査会は、ここでも被疑者等の供述を採用しています。

 事実は、私の供述の通りであり、私がハンストを決行したのは、監禁に対する抗議以外にはあり得ません。

 また、私の陳述書にあるハンストとその後の被疑者等による食事制裁の経過を以下の表にまとめました。

ハンスト決行年断食期間元の食事に戻るまでの期間私の状態
2004年21日間1ヶ月間 
2005年21日間7ヶ月間精神的、肉体的苦痛
2006年30日間2008年の解放時まで元に戻らず極度の精神的、肉体的苦痛

2006年30日間の断食後の食事制裁による虐待

70日間1日小鉢に重湯が3回、スポーツ飲料1ℓ
4ヶ月間重湯→お粥
解放までの15ヶ月私のみ粗末な食事

 以上、見てのとおり、ハンストを繰り返すたびに被疑者等の食事制裁による虐待の程度が酷くなっているのが分かります。特に2006年、30日のハンスト後の70日間に亘る少量の流動食しか与えない食事制裁による虐待は過酷を極めました。この間、私は飢餓状態に陥り、被疑者等の目を盗んで、残飯や生米等を食し、餓死を免れたのです。

 また、検察審査会は、私が解放された時に入院先の病院で計った体重が39.2キログラムであったことに疑問符をつけていますが、当日、私が経験した事実は以下の通りです。

 2008年2月10日夕方4時ごろ私は被疑者等により、着のみ着のまま、一文無しで監禁されていたマンションの玄関から突然、捨てられるように放りだされた後、唯一場所が分かる統一教会本部へ約10キロの道のりを歩いて行きましたが、長年歩いていなかったため途中、両ひざが痛み出し、とうとう激痛で歩けなくなりました。

 しかし、偶然、統一教会員の女性と出会い、その方にタクシー代を貸して頂いてなんとか教会本部に行き着くことができました。ところが、自力でトイレで用をたすことも困難であったため、その日の夜に病院に緊急入院することになりました。体重を量ったのは、病院に到着した直後です。

 私はひざの激痛で、一人で立つことが困難だったため、体重計に乗る時には看護師さんに手を貸してもらいました。しかし、手で支えられたままでは正しい体重値が計れないと思い、私は数秒間自力で立ちました。その時、体重計のデジタル表示が示した値は間違いなく「39.2キログラム」でした。

 ところが、議決文を見ると『一心病院で体重測定に立ち会った看護師は、体重を計る際、体重計に乗った後、倒れないよう手を貸したまま測定したと述べていることなどから、39.2キログラムとした測定結果には疑問がある。』とあります。これは明らかに、私が体験した事実と異なります。数秒間でしたが、看護師の手を借りずに計ったのです。しかし、その後、入院から6日目に体重を計ると50キロ台になっていたため、「こんなにも急に増えるものなのか」、と驚いたことも覚えています。

 また、添付の痩身写真について、被疑者等は、統一教会のホームページや宣伝のビラで私の痩身写真を見たが、私が風呂に出入りするときにパンツ一丁で出入りしている姿を見た際には、あのように痩せてはいなかったと述べており、また、検察審査会もそれを否定していません。

 この写真は入院から3日目の2月13日の午後、ルポライターの米本和広氏が見舞いに訪れた時、米本氏が撮ったものです。あの時は、米本氏が私の話をひとしきり聞いた後、初対面にもかかわらずいきなり「服を脱いで下さいませんか?」と切り出したため、かなり戸惑ったことを覚えています。

7.結論

 以上、見たように検察審査会の議決文の内容は、主要な点においてほとんど被疑者側の虚偽の供述を採用しており、到底納得できるものではありません。

 私は1995年8月25日に統一教会の国際合同祝福結婚式に参加し、帰国後は遠からず、相手の方と新婚生活を送る予定でした。しかし、被疑者等によって新潟に連行されたため、その後一切、相手の方とは連絡をとることすら許されず、遂に相手の方は約3年半後、やむなく私との祝福結婚を破棄されるに至ったとのことです。

 また、新潟、及び東京の合計3箇所のマンションに監禁中は、マンション間の移動時以外、一切外出できず、成人としての基本的人権である選挙権すら行使することは認められませんでした。しかも、統一教会信者にとって日曜礼拝への参加は信仰者として最低限死守すべき信仰上の責務でしたが、そのような基本的信仰生活すら一切認められなかったのです。検察審査会はこのような生活を私が自ら欲して行ったとでもいうのでしょうか?常識的に考えれば、「そのようなことはあり得ない」ということは、誰の目にも明らかなはずです。

 検察審査会は、家族の誤解を解いて救いたい気持ちがあったために留まっていたとも考えられるなどと述べています。しかし、誤解を解くための説得なら実家で行ってもいいはずであり、何を好きこのんで宮村のような反対派の拠点の近い荻窪のマンションに一歩も外出せずに居座らなければならないのでしょうか。検察審査会の認定は余りにも現実離れしています。しかも、信仰という観点でいえば、家族を救うよりも以前にまず自分自身が礼拝に参加するなどして信仰を立てることが先のはずです。

 また、議決書の内容は、素人の審査員が書いたとは到底考えられない内容であり、検察官の恣意的な意見陳述(検察審査会法35条)が審査員の意思決定に少なからぬ影響を及ぼした可能性もぬぐえません。

 私は、今回の検察審査会の議決により、強制脱会の専門家達が、「国家によるお墨付きを得た」として、この犯罪的蛮行が再燃することを深く憂慮します。もし、そうなれば、日本は信教の自由という、民主国家における重要な価値を失うこととなるでしょう。私は、今なお行われているこの犯罪行為、重大な人権侵害に終止符を打つため、今後とも被疑者等の罪状を世に訴えていく所存です。

以 上

2008年2月13日、監禁解放3日目  撮影:米本和広氏


全国 拉致監禁・強制改宗被害者の会