二日目の余燼(よじん)さめきれないところに登場してくる白鵬の心境はいかなるものかと、あれこれ考えてみた。昨日も書いた通り、あの双葉山でも六十九連勝で止められた直後には、三連敗という信じ難い狼狽ぶりを見せたのだ。
だから、考えられることとして、外側からはうかがいきれない大きな衝撃効果が残っていたりしないだろうか。今場所の白鵬に関心を持つ多くの人々が、誰しもその憂慮を抱きつつ、三日目の土俵を見たに違いない。
私も、“おれを追い越すのは白鵬だ”と、あの傲慢な朝青龍が、謙虚に認めたと知って以来、常に白鵬の成長ぶりには注意を払ってきた。だから、どんな状況下で、こういう反応を見せるという推測は、大体立つような気がする。しかし、今度は本当に難しかった。
しかし、土俵に上がった白鵬を一目見ただけで、私は大きな安心感を抱いた。六十三連勝で途切れた連勝の始末をどうつけるかは、どうも白鵬の当面の課題ではなく、現在頭の中にあるのは、この先のことだといわんばかりに、白鵬の顔に澄み切った表情が浮かんでいたからである。
更に言えば、あれは意識して作った表情なのかと、疑ってみたくなるような、常々の表情とは違ったものをまゆのあたりに漂わしていた。恐らく、各紙等から、強引な勝負の運び方に対する懐疑が提出されたことに対する白鵬なりの返答でもあったのだろう。
そんな白鵬の心底は探りようもないのだが、琴奨菊との一番は、二日目の稀勢の里とは比較にならないほど鈍く、激しい突っこみを効かしたものだった。
これも、稀勢の里戦では出せなかった完璧(かんぺき)な攻めの相撲を、志したものだったのだろうか。私は白鵬のこういった試行錯誤は、まさに買うべきだと考えている。
だが、遠慮なく言えば、相撲の形に張り差し、張り手がまじって来ることが気になってならない。白鵬ほどの才能に恵まれて、けいこ十分な横綱が、なぜ飛び道具の一種である張り手を用いるのだろうか。いつでも相手の立つのに合わせた双葉山に感動していた白鵬なのだから、自分は決して張らなかった横綱だといわれたいと考えて欲しいのだが。 (作家)
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