木佐貫洋
テーマ:コラム今ひとつ調子の上がらない巨人・木佐貫。
高校野球鹿児島大会も開幕したが、松坂世代の98年、鹿児島大会決勝は超高校級同士の投げ合いだった。
そこにいたのが、県立川内高校の木佐貫洋と、私立鹿児島実業高校の杉内俊哉だった。
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「僕は川内に行って鹿児島実を倒すのが夢なんです」。誘いにきた鹿児島実の監督・久保克之に、中学生だった木佐貫は言った。
木佐貫には約束があった。小学校時代の仲間と地元の川内高に行き、甲子園に出ることだ。川内からの推薦にも「僕は勉強で入る。甲子園に行けるよう他のいい選手を推薦枠で取って下さい」。
186センチ、78キロ。「軽く投げているのに不思議なほどボールが真っすぐ伸びた」。川内の当時の監督中迫俊明は振り返る。「3年後にプロから注目されなければ、私は指導者失格」。そう思わせる逸材だった。
遅刻も欠席も一切しないまじめな男。黙々と、自分で練習した。
杉内との初対決は2年の春、4回戦。延長10回から杉内がマウンドに出てきた。そこから7イニングで2けた奪三振。試合は延長16回を木佐貫が投げ抜き、川内が4―1で勝利したものの、以来、中迫は「敵は杉内」と言い続けた。
最後の夏の抽選会。川内は第2、鹿児島実は第4シードに。ぶつかるのは決勝だった。
杉内は福岡県出身。噂を聞いた久保が見に行くと、柔らかいフォームから落差の大きなカーブを投げる中学生がいた。
174センチ、70キロ。「小さな体で、練習についてこられないかもしれないと思った」と久保は話す。「まるで階段を一段ずつ上るように、少しずつ伸びていった」
杉内も黙々と練習する男だった。「口数は少なかったが、闘志を内に秘めていた。試合度胸は抜群だった」と久保。
木佐貫との対戦は、1勝2敗。杉内は「向こうの方が実力はずっと上」とみていた。久保も「木佐貫は乗り越えなければならない壁だった」。
迎えた決勝。球場は超満員だった。木佐貫が球威のある直球にカーブ、フォークを織り交ぜれば、杉内は内角をうまく使って三振を奪った。
3回裏1死一塁で、木佐貫が暴投、走者は三塁へ。そこから3連打で3失点。先制のホームを踏んだのは杉内だった。
川内は7回と8回、走者を三塁に進める。中迫はスクイズをさせなかった。采配ミスを指摘する声は今でもあるが、当時の選手たちは「あそこでスクイズをしたら、僕らの野球じゃない」。
3―1で、鹿児島実が3年連続14回目の優勝を決めた。
「お前はみんなの人生を背負っている」。中迫は何度も木佐貫に向かって言っていた。夏の大会が終わると、すでに進学が決まっている木佐貫の隣で、仲間が大学の野球入学のためのテストに駆け回っていた。何人かは受からなかった。「僕の責任で甲子園に行けなかった。もし、行っていたら、みんな野球を続けられたかもしれない」
ようやく中迫の言葉の意味がわかった気がした。「自分が投げる球は、自分だけの思いを乗せたものではないんだ」
杉内は言う。「僕が3年間で教わったのは野球だけじゃない。礼儀、態度、姿勢。むしろそういうことの方が多かった」
亜細亜大を経て、読売ジャイアンツに入団した木佐貫が初めて甲子園に行った日、思わず土を持って帰ろうとした。ほかの選手に止められたが、それほど甲子園に憧(あこが)れていた。木佐貫は言う。「僕が実家で夏を過ごしていた時、杉内君は甲子園で活躍していた。大学にいた頃はシドニー五輪代表。そして今はパ・リーグを代表する投手。ずいぶん差をつけられた。僕はあの時から負けたまま。もう一度戦いたい」
三菱重工長崎からプロ入りし、福岡ソフトバンクホークスで投げる杉内は、甲子園に行く度にあの夏を思い出す。木佐貫とは「日本シリーズで投げ合いたい」。
木佐貫は03年に10勝をあげ、セ・リーグ最優秀新人賞に。昨秋に右肩を手術、6月下旬に1軍に復帰した。杉内は05年、18勝をあげ沢村賞とパ・リーグMVPを受賞。
2人の対決は、まだ終わらない。あれから8回目の夏が来る。
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ストレートは150km/h超、フッと浮かんで落ちるフォークは攻略をさらに難しくする。才能に満ち溢れた投手だけに、今の状態がもどかしい。
真夏の訪れと共に、調子を取り戻して欲しい、いや快投をこの目にしたい投手である。
1 ■杉内投手
私は野球を教える上で、杉内投手の投球フォームが一番のお手本と思っています。たまに同じ様なフォームで投げている子が居ると、他チームでも応援したくなります。そういう子は、力感は無いですが、何故か打たれない投手です。
木佐貫投手は胸板が薄いですね。多分筋トレをやっても筋肉が付きづらいんでしょうね。松坂投手と好対照です。