渡部陽一さん
静岡県富士市生まれ。学生時代から世界の紛争地域の取材を続け、好きな言葉は「死して屍、拾うものなし」。イラク戦争では日本人初の米軍従軍(EMBED)取材を経験。これまでの主な取材地はイラク戦争のほかルワンダ内戦、コソボ紛争、チェチェン紛争、ソマリア内戦、アフガニスタン紛争、コロンビア左翼ゲリラ解放戦線、スーダン、ダルフール紛争、パレスティナ紛争など。2008年末には著書「世界は危険で面白い!」(産經新聞出版)が発売された。その他共著に「報道されなかったイラクと人々」(新風舎)がある。渡部陽一公式ホームページhttp://yoichi-watanabe.com/
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戦場カメラマンとイスラム国家 23
2010/01/23 12:15
イラク バグダッド
戦場取材で必ず足を運ぶ場所は病院。
情勢が不安定な地域の病院では、ドクターはもちろん
医療機器、医薬品が慢性的に不足している。
イラクでは戦時中に劣化ウラン弾という放射性爆弾が
国内に大量に打ち込まれ、放射感染した母親たちが続出。
そしてその母親から生まれてきた子供たちは、
体に大きなハンディーを背負って生まれてきていた。
白血病、悪性腫瘍、、、、
もう一つの戦争がここにある。
カテゴリ: 世界から > 中東・アフリカ フォルダ: 指定なし
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戦場カメラマンとイスラム国家 22
2010/01/22 01:06
イラク アーダミーヤ
イラク人家族の家にお邪魔した。
そこでは家族総出で迎えてくれた。
イラクで毎回驚くことは、見ず知らずの外国人カメラマン
が突然扉をノックして、お話を聞かせてほしいと
伺っても、遮ること無くどの家族も迎えてくれたことだった。
イラクでは、客をもてなすことは最も大切なしきたりだと
頻繁に耳にした。
迎えてくれるご家族に失礼が無いように、いつも気持ちが張った。
どこも自然体に振る舞う両親、子供たち。
ますますイラクが好きになっていった。
戦場カメラマンとイスラム国家 21
2010/01/21 01:51
80年代、イラクは世界最強の通貨を誇り
その為替レートは、日本円に対し三倍もの値を付けていた。
当時、中東ではドルを使うことより、イラクディナールを所持することが
アラブ圏での取引には、重宝がられていた。
それだけ豊かだったイラクには、当時の名残をみせる交通網が
残されている。
国内を縦横無尽に走る高速道路、列車網、建築物、そして
中東一帯でも最大級のイスラム寺院のモスク。
ほとんどが戦争でダメージを受けているが、その基盤の大きさは
十二分に伝わってくる。
イラクはまさに中東の雄であった。
戦場カメラマンとイスラム国家 20
2010/01/20 00:43
イラク バスラ
ブロックを積み上げた四角い黄土色の家々が広がる。
イラク南部、バスラの気候は国内で最も激しい。
冬場は零下5度、夏期は世界でも最高気温の域にある58度まで
上昇する。
ブロックの家屋のスキマにバラックの市場が蠢く。
市民は家の中から売れる物を運び出して、
それこそ叩き売りをしてその日をしのぐ。
すぐバスラから東にすぐにはイランとの国境が続いている。
イラクにとっての前線基地の街である。
戦場カメラマンとイスラム国家 19
2010/01/19 00:06
イラク バビロン
音楽と踊りに国境はないとイラクでは
何度も耳にした。
その言葉通り、イラク国内至る所で音楽に触れあることができる。
移動中や宿泊所、市場、、、アラブ音楽に深く覆われている。
特にレバノン発のポップ音楽が人気を博していた。
世界からイラクに集まったダンサーたちの競演は
ブロードウェイ顔負けの豪華さであった。
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戦場カメラマンとイスラム国家 18
2010/01/18 17:10
瓦礫の山、路上で靴みがきに励む少年、
人が行き交う路地裏に沿って所持品を持ち寄った蚤の市。
バグダッドで目にする光景は、かつての日本の姿に重なった。
太平洋戦争時におけるアメリカ軍による広島や長崎での原爆投下、
イラクでは劣化ウラン弾とよばれる放射性爆弾が、大量に打ち込まれた。
街が放射能に汚染され、新たな命をうけて生まれてきた新生児たちは
生まれながらにして、放射能母子感染を被った。
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戦場カメラマンとイスラム国家 17
2010/01/17 20:10
戦場の救いは音楽にあった。
悲しみの戦場での市民の救いは
音楽に触れること。
アラブ伝統音楽隊、歌唱隊がイラク国内を練り歩く。
日常に音楽がなくてはならない存在であり、
音楽が悲しみよ、さようなら を訴えていた。
戦場カメラマンとイスラム国家 16
2010/01/16 00:31
イラク絨毯はきめが細かく、柔らかい。
赤色、オレンジ色、、、、極彩色のアラブならでは色使い。
特に濃いオレンジ色が最も好まれる。
サイズも巨大で、大きい物は15畳をカバーできる。
隣国イランのペルシャジュータンは世界で最も有名であるが
アラブ、イラク絨毯の評価もけっしてひけをとらない。
イラクでは遊牧民の生活風習が色こく残っていて
屋外で寝泊まりし、食事をすることも多い。
そこで活躍するのが絨毯である。
砂漠の気候のなか、最も贅沢な空間がつくられていた。
戦場カメラマンとイスラム国家 15
2010/01/14 03:37
水分補給はどの国に行っても、必ず確保しなければならない
最初の仕事である。
とくに土漠がつづくイラクでは、水筒をカメラ以上に
大切な物として抱えて動く。
脱水症状をおこすと、取材どころか帰国することさえも
難しくなる。
地元民の方々は、水分補給には二つの効力を求めていた。
一つは素直に水分を体に取り込むこと、
二つ目は、糖分を飲み物から摂取すること。
イラクのお茶と地元炭酸ジュースがその極地をはしる。
お茶には大量の砂糖、ソーダは異常なほどに甘ったるい。
砂漠の国の特徴である。
戦場カメラマンとイスラム国家 14
バグダッド市内で最も有名な宿、パレスティナホテル。
メディア、セキュリティー、イラク政府関係者、、、、
誰しもがこの一か所のホテル内に集結する。
いってみれば世界史、国際政治が一つのホテルの中でくりひろげられる。
そのホテル周辺には、アリババ市場と呼ばれる、
市民の台所が広がっていた。
そこにはイスラム教徒だけでなく、キリスト教徒、コプト教徒、
アルメニア正教の信者が集い、あまりにも勢いのあるボーダーレスな井戸端会議を
連日繰り広げていた。
何より驚いたのはイスラム圏内でブラックマーケットの酒屋が
多宗教故に、許されていることだった。
by KEN
戦場カメラマン・アフガニスタ…