朝鮮戦争:「興南撤退」を振り返る
避難第1世代・学生ら約180人、「興南撤退」の航路を巡礼
「この世で最もきれいな炎のショーでした。当時17歳だったわたしの目には、米軍が興南の夜空に打ち上げる数千発の砲弾が、ひたすら美しく見えました。ようやく巨済島に到着してから、米軍が多くの避難民を船に乗せるために、銃など撃って弾を捨てていたのだと知りました。一人でも多くの人を助けるためです」
今月4日午後、韓国海軍の軍艦「香炉峰」(3000トン級)の格納庫(広さ300平方メートル)で、白髪のシム・ワンシクさん(77)が、60年前の「興南撤退」(朝鮮戦争中の1950年12月、咸鏡南道咸南で行われた海上撤退作戦)について生々しく語ると、円を描いて座っていた約180人の聴衆は息をのんだ。シムさんは、「共産主義政権に幻滅し避難する際、母に“何日か行ってくる”とあいさつをして船に乗り込んだ。それが母との別れのあいさつになるとは夢にも思わなかった」と話し、目頭を熱くした。
興南撤退作戦記念事業会が主催し、本紙が後援する「興南から巨済まで、記憶と感謝の大航海」に参加した巡礼団のメンバー180人余りは、当時使用されたメレディス・ビクトリー号と同じ大きさの「香炉峰」に乗り込み、60年前の避難航海を体験するため、今月3日に江原道東海を出発、4日に浦項を経て、5日に巨済島に到着した。この航海には、脱北者をはじめ150人余りの大学生や、興南撤収の体験者7人、記念事業会の会員20人余りが参加した。
出港から二日目の今月4日、巡礼団は慶尚北道浦項の海兵隊第1師団を訪問した。そこで、海兵隊司令部内の100メートルの道路を「フォニー路」と命名するイベントに参加した。6・25戦争(朝鮮戦争)当時、興南撤退作戦で約10万人の避難民を救い、海兵隊第1師団の浦項駐屯に決定的役割を果たした故フォニー大佐の功績をたたえるイベントだった。フォニー大佐の息子エドワード・フォニーさん(72)は、「父は口数が少ない人だったが、韓国に駐屯していた1950年代の軍隊生活のことを、いつも誇らしげに語っていた。父を覚えていてくれてありがとう」と語った。
5日午前、巨済島に到着した巡礼団は、イ・ギョンピルさん(60)ら巨済島に定住した避難第1世代のもとを訪ね、当時の状況について話を聞いた。イさんは、興南から巨済に向かう軍艦の中で生まれた5人のうちの一人だった。当時、米軍の兵士は、子どもの名前をひとまず「キムチ・ワン」「キムチ・ツー」と名付け、イさんは5番目に生まれたため「キムチ・ファイブ」と呼ばれたという。
予備役将校訓練課程(ROTC)の女子候補生に志願したキム・ヘピンナさん(20)=淑明女子大法学科2年=は、「自由を求め、劣悪な環境に耐え抜いた避難第1世代の方々の話を聞いて、自由の大切さを改めて感じることができた」と語った。
パク・ジンホさん(19)=慶南大軍事学科1年=は、「与えられた食事がこぼれてしまうほど、東海(日本海)の波は高く、ひどい船酔いに苦しめられたが、それ以上に緊迫していた60年前の避難の状況を思うと、頭が下がる。大学の先輩で、哨戒艦『天安』沈没事件で犠牲になったソ・デホ中士(一等軍曹)のお墓参りをしたり、軍艦に直接乗ってみることで、大変な海軍の生活を体験することができた」と語った。同じく、巡礼に参加した元脱北者の大学生キム・ドンヒョンさん(24)=仮名=は、「戦時という状況だったにもかかわらず、人命を重視した軍人らに感銘を受けた」と語った。
浦項・巨済=キム・チュンリョン記者