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[24299] いそしめ!信雄くん!(戦国時代もの)
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/13 22:28
ペーパーマウンテンと申します。こちらの別の版で連載中なのですが、その作品がどうにも煮詰まってしまいました。そこで気分転換に以前ねたで書き始めたやつをふと書くと、妙に筆が進んでしましまして。現在投稿中のものを完結させるのが先だとは思うのですが、どうにも衝動が抑えられなくなってしまいました。あちらを優先するということで、こちらの更新は衝動的になるかと思います。

出来れば軽いのりで、テンポよく、20話程度で終わらせることが出来たらなと考えています。生暖かい、厳しい目で見ていただけると幸いです。よろしくご指導のほどお願いいたします。

ペーパーマウンテン



[24299] プロローグ
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/14 21:28
天正10年(ユリウス暦1582年)6月2日。日本の首都で軍事クーデターが発生した。羽柴筑前守秀吉の毛利攻め加勢のために丹波亀山城を発した老将明智(惟任)日向守光秀率いる1万3千の軍勢は、突如進路を変更。桂川を越えて京へと向かった。世に名高き『本能寺の変』である。水色桔梗の旗指物との知らせに、前の右大臣織田信長が「是非もなし」と呟いたかどうかはわからない。ただ、如何にもそんなことを言いそうな人物だったのは確かだ。本能寺は紅蓮の業火に包まれ、遺骸は見つからなかったという。妙覚寺に宿泊していた岐阜中将こと嫡子織田信忠は京都所司代村井長門守貞勝一族や、弟勝長らわずかな手勢とともに二条御所に篭ったが、すぐに父の後を追うことになる。水色桔梗の旗指物から逃れることが出来たのは、織田源五長益(信長弟)、水野惣兵衛忠重(三河刈谷城主)、そして赤子を抱いた前田玄以らわずかな人々だけであった。

織田政権の近畿管領職とでもいうべき老人の謀反の真意は定かではない。とにかくこのクーデターによって織田政権の首脳部は事実上崩壊したのは確かである。この頃、織田家の家督は岐阜城主織田信忠が相続していた。実権は未だ父の手にあったとはいえ、この若者が時期後継者であったことはまちがいない。チェザーレ・ボルジアが「私はあらゆることに備えをしてきたつもりだったが、まさか父(教皇アレクサンデル6世)が生死の境をさまよっている時に、自分も同じように死の床にあるのは予想外だった」と語ったように、トップがともにいなくなってしまったのだ。

ここで明智光秀がおかれた立場を考えてみよう。織田帝国の支配者と後継者は去った。残されたのは4つの方面軍と帝国の同盟者、そして京を抑えた謀反人である自分だ。織田家を簒奪する立場である自分は、否が応でもその5つとの戦いは避けられない。

4つの方面軍とはすなわち

備中高松城において毛利の大軍勢とにらみ合う羽柴筑前守秀吉(中国地方、山陽・山陰地方担当)
越中魚津城を囲み、信濃海津城主の森武蔵守長可と共に越後に攻め入らんとする柴田修理亮勝家(北陸地方担当)
関東管領として上野厩橋城で北条家と緊張関係にあった滝川左近将監一益(関東)
そして織田三七信孝を総大将とし、丹羽長秀(近江佐和山城主)が副将として補佐汁四国の「鳥なき里の蝙蝠」を討伐するために堺で集結中であった四国遠征軍

であり、同盟国とは堺でわずかの家臣と共に遊覧中であった三河・遠江・駿河3国の太守徳川家康である。この太守に対して明智光秀がいかなる対応を取ったかはよくわからない。突発的なことで家康一行への対応まで頭が回らなかったのか、手勢が少数であるためいつでも討ち取れると考えたのか。とにかく家康一行は、伊賀にルーツを持つ家臣服部半蔵正成の道案内と、茶屋四郎次郎清延の金子の力によって、甲賀から伊賀の山を越え(神君伊賀越え)何とか三河岡崎へと帰還することに成功した。

話を戻そう。普通に考えれば老人-明智光秀にはしばらく時間的猶予が存在した。四国討伐軍を除く3つの方面軍は前面の敵との戦いに専念せざるを得ないからである。そして四国方面軍は尾張や伊勢の兵を中心に集められた寄せ集めの軍であり、クーデターを知れば離散するのは目に見えていた。信長という絶対的なカリスマあっての織田家。その成長と共にあった光秀はそのことをよく理解していた。比較的まとまった軍勢と領地を持つ方面軍司令官の羽柴や柴田が軍を起こそうとしても、それまで押されっぱなしだった上杉・毛利・北条が黙って見過ごすはずがない。うまくいけば自滅してくれる-光秀は四国の長宗我部氏を加えた4家に使者を出し、それぞれ方面軍を挟み撃ちにすることを考えた。その中で毛利家に出した使者が誤って羽柴の手勢に捕らえられ「光秀謀反」を知ったのは巷間よく知られたところであるが、神ならぬ老人がそれを知るはずがない。

しかし老人は心中穏やかでいられなかったに違いない。いくら強弁したところで謀反人は謀反人。旧織田家家臣団のいずれかが「仇討ち」を掲げて京へと上ってくるだろう。大義名分なき権力者は、いずれ没落するのはこれまでの歴史が証明している。ならば自分はどうすればいいか。異様な興奮冷めやらぬ京の地で、かつての敵国たる上杉家や毛利家、そして旧織田家家臣団-縁戚の細川家・筒井家への書状の文案を書き連ねていた老人にとって、それは唯一の希望とも言えるものだった。

-安土-

琵琶湖を見下ろす安土山に築かれたかつての独裁者の居城。織田帝国の行政の中心であったそこには、広大な帝国領内から集められた莫大な資産-遺産が蓄えられていることは、政権の重臣であった光秀自身も承知していた。

-安土の金さえ手に入れば

老人も戦国の底辺から這い上がってきた人物。金のもたらす魅力と魔力は身にしみていた。安土にまともな留守居役がいないことも、老人の皮算用を楽なものにした。禁裏や寺社、そして京の有力な町衆に金を巻くことによって、当座の人気(最も早くやってくるであろう四国討伐軍を打ち破るまでの)-世論の支持を集めようと考えたのだ。安土の占領は道に落ちた金を拾うような話。ばら撒いたところで自分の懐が痛むわけではない。それに少しの金を惜しんで、結果的にすべてを失っては元も子もない。老いたりとはいえ、金柑頭の頭脳の冴え-物事に対する怜悧な考え方は健在であった。

だがここで予想外の事態が発生する。京の玄関口である瀬田川にかかる唐橋が、瀬田城主の山岡景隆・景佐兄弟によって焼き落とされたことにより進軍が遅れた明智左馬助率いる明智軍の接収部隊は、6月5日の明け方、安土の地で信じられないものを目にした。左馬助の急使から知らせを受けた光秀は、普段の怜悧な物腰からは想像できないほど取り乱し、何度も使者に尋ね返したという。

「・・・馬鹿な、そんなわけがあろうはずない・・・左馬助ともあろうものが、何かの間違いにちがいない」

脇息にもたれながら、蒼白になった顔を開いた左手で抑える光秀に、使者は淡々と同じ報告を繰り返した。


「-安土には北畠宰相以下4000余りの軍勢が立て籠っております。日向守様、ご指示を」



-これよりちょうど三日前-


南伊勢の松ヶ島城は天正8年(1580)に築かれたばかりの比較的新しい城である。それまで伊勢における織田家の支配拠点は、北畠親房によって築かれたという度会郡の田丸城であったが失火で消失。伊勢湾に面し、伊勢神宮の参道古道に面した交通の要所である松ヶ島に新たに城を築いたのだ。

未だ新しい床を踏みしめながら、尾張星崎城主の岡田長門守重善は主の急の呼び出しに首をかしげていた。城勤めの若侍はこの老人の姿を見るとあわてて道を譲り、畏敬の念のこもった視線を向けた。無理もない。この老人岡田長門守は小豆坂の戦い(1542)における「小豆坂の7本槍」の最後の生き残りであり、先代信秀時代から仕え続けている、いわば織田家の生き字引である。小豆坂の戦い当時、彼は38歳。後世名を成す「賤ヶ岳の七本槍」がすべて20代であることを考えると、その勇猛さはおのずと想像がつく。何より「あの」信長が不詳の息子の家老兼お目付け役としたことからも、その評価の高さが知れるというものだ。

「いったい何事でしょうな、あの馬鹿殿は」
「兄上、あれでも仮にも主ですぞ。言葉を慎まれたほうが」
「馬鹿を馬鹿といって何が悪い。実際馬鹿ではないか」

ぶつぶつとぐう垂れながら長門守の後をゆくのは、彼の息子の重孝と善同(よしあつ)。善同は一見兄の重孝をたしなめているようだが、その口ぶりからは主に対する忠誠は余り感じられない。未だ戦国の気質が色濃く残る中で育ってきた息子達には、有能とは言いがたい主に仕えるということがよほど気に入らないらしい。しかしここは城内。主への讒言は命取りになりかねないと長門守が息子をたしなめようとした時、角を曲がってきた人物とちょうど視線が合った。

「これは長門守様」
「玄蕃允殿」

若いながら妙に落ち着いた物腰の津川玄蕃允義冬は、長門守の姿を見ると軽く会釈をした。旧尾張守護家斯波家出身の彼は、もともとその血筋ゆえ織田家に召抱えられた。丹羽家を初めとした旧守護家出身の家臣を抱える織田家にとって、旧守護家の血筋を取り組むことは重要な政治的価値があったからだ。しかし彼は文武共に期待以上の才能を示し、信長を喜ばせた。また妻が北畠家出身ということもあり、義兄にあたるこの城の主を支えるために、岡田長門守と同じく家老として送り込まれたという経歴の持ち主である。長門守と並んで津川がそれだけ高い評価を受けていたということだが、同時にそれはこの二人をつけないとやっていけないと、この城の主の器量が不安がられていたということでもある(実際、彼には「前科」があった)。

「長門守様も御本所様より呼び出しを?」
「左様。玄蕃允殿は何かご存知か?」
「いや、ただ使者がすぐに来るようにと繰り返すばかりでして」

津川は困惑気に答えた。岡田長門守家が織田家譜代の家臣とすれば、津川家は親族集。身内の悪口をその前で言うほど重孝と善同も馬鹿ではない。その減らず口を閉じて頭を下げた。

「上様から四国攻めへの加勢を命じられたのでしょうか?」
「ないともいえないが、判断の材料が少なすぎる。まさか気まぐれにわれらを呼び出されたわけではないのだろうが-」
「おお、長門守様!玄蕃允様も!」

津川の疑問に当たり障りのない答えを返した長門守は、突如挟まれたそのやけに明るい声に顔をしかめた。重孝と善同は無論のこと、滅多に感情を表さないとされる玄蕃允もあるひとつの共通した感情をその顔に浮かべた。すなわちそれは-嫌悪感である。

「ご足労をおかけしました。御本所様が広間でお待ちでございます。ささ、こちらへ」
「年寄りをあせらすでない勘兵衛」
「何をおっしゃいますか、小豆坂の七本槍たる長門守様ともあろうお方が」

歯の浮くようなお世辞を平然と吐くこの若者。名前を土方勘兵衛といい、御本所様の覚えめでたい近臣の一人である。単なる宮廷人にはとどまらない度胸のよさと口八丁手八丁の実務官僚の顔を持ち合わせるこの若者は急速に場内でその政治的地位を高めつつある。しかし長門守はこの若者のなんともいえない陰湿さが肌に合わなかった。本人も自身のそれは自覚しているのか、仰々しいほどに明るく振舞っている。それがますます気に入らない。

「ささ、とにかく広間へ」
「勘兵衛。この急な呼び出しについてそなた何か知らんか」
「いえ、それは・・・」

勘兵衛は珍しく語尾を濁す。その表情には困惑ともなんともつかぬ奇妙な色が浮かんでいることを、長門守は見逃さなかった。

「御本所様におかれましては、今朝方しばらく・・・その、混乱されたらしく。なにやらよくわからないことを呟かれまして。お会いになられれば『津川はまだか!岡田はまだか!』・・・ああいった具合でございまして」

懐から布を出して額の汗をぬぐう勘兵衛。よく見るとその表情はどこかうんざりした様子にも見えた。

そして主-御本所様と面会した4人は、おそらく始めて、あのいけ好かない勘兵衛に同情の念を覚えた。


-これよりおよそ半日前-


とりあえず私は誰かということを語る前に、言っておきたいことがある。


い・・・いや・・・ネットとかで、そういうSSは、目が腐るほど読んだことはあるけど・・・実際に経験すると、まったく理解を超えていたぜ・・・・

あ・・・ありのまま、今、この身に起こっている事を話すぜ!?

「俺は、賃貸住宅の自分の部屋の布団に入って、いつものように豚の様ないびきをかいて寝たんだ。そして起きたら、戦国時代だった」

な、何を言っているのか わからねーと思うが 

おれも 何がなんだか さっぱりわからんちんだぜ

頭がどうにかなりそうだ!

催眠術だとか、手の込んだ寝起きドッキリだとか、そんなチャチなもんじゃあ 断じてねぇ

もっと恐ろしいものの片鱗を、人生の不条理を味わっているぜ・・・


とにかく朝起きたら時代劇の世界だったんだ。テンプレにならないほうがおかしいんだよ。わめき散らし、やってきた妙に愛想のいい男を周囲を質問攻めにしたところによると、どうやら「俺」はこの城の城主らしい。鏡を持ってこさせると、そこには瓜実顔の、いかにも神経質そうな男の顔があった。うーん、どっかで見たことあるような・・・どこだったっけ?

そんな疑問を棚上げして(思考の棚上げは彼の十八番である)、俺は殿様気分を満喫した。俺がひとたび出歩けば、モーセのように人が割れ、小姓たちがカルガモの子供のように付いてくる。神戸電子専門学校のCMみたいだ。今時どんな高級クラブに言ってもこんな接待はしてもらえないぞ。うーん、いいな殿様。

といっても、いつまでも現実逃避していても仕方ない。とりあえず俺が今誰なのかを確認しなくては(冒頭の愛想のいいおっさんは妙に疲れた顔をして下がっていっちゃったし)とりあえずひょこひょこ付いてくる侍従の一人に、出来るだけ自然な感じで、さりげなく、それでいて城主の威厳を保ちながら尋ねてみよう。

「えー、ごふん。えー、今年は、せいれ・・・ではなく、元号は何だったかね?」

・・・うん。認めよう。俺こそが、誰もが認める大根役者だ。

突然「今何年?」と聞かれて、違和感を覚えないほうが変だ。聞かれた小姓たちは、顔を見合わせて(何言ってんだこいつ)と目で会話している。おい、俺は殿様だぞ。せめて上司の陰口は陰でやれ、影で。

「天正10年でございますが」

・・・天正?えーと、確か、陰謀大好きな最後の室町将軍が追放されたのが、天正元年だから、1573で・・・あー、

天正2年-1574
天正3年-1575
天正4年-1576

(中略)

天正9年-1581

だから、天正10年は、1582年か。ふーん


・・・あれ?


おお!本能寺の変があった年じゃん!キンカン頭がぷっつんして、本能寺でばっこーんした、日本史の大事件!

お~、こりゃなかなかおもろい時代だな。うまいこと立ち回れば、大名になれるかも・・・うっしっし。一国一城の主、悪くないね。男の憧れ、ミニ大奥で「殿、お止めください」「よいではないか、よいではないか」「あ~れ~」ゴッコが出来るかも・・・

うーん。ビバ戦国。ビバ一夫多妻。

ニヤニヤしている俺を、ますます胡散臭そうに見つめる小姓達。「馬鹿だと思っていたが、ここまでとは」「しッ聞こえるぞ!」というヒソヒソ話。はい、聞こえてます。小市民だから、何も言い返さないけど。部下の悪口で、いちいち切れてたら、それこそ鼎の軽重が問われるってもんだぜ。小心者だから怖くて言い返さないわけじゃないんだからね!

それにしても、この「俺」って、評判よくないみたいだね(本人の前で堂々と馬鹿って言うくらいだし)まぁ、心底嫌われてるわけじゃないみたいだけど。ほら、あれだよ。志村○んの馬鹿殿っぽい、愛される馬鹿?こっちに来てまだ初日だけど、向けられる視線や、家臣の態度からはそんな気配がする。

「で、今日は何月何日だ?」
「は、はぁ・・・6月2日で「ニャンだとおおおおおお!!!!!!」

小姓たちがひっくり返った。おお、見事な受身。褒めてつかわす・・・とか言ってる場合じゃねえ!

今日じゃん!今日じゃん!うおおお!!何たることだサンタルチア!!これで「信長にチクッて、褒めてもらおう作戦」は駄目になった!ちくしょー・・・こうなりゃサル・・・ハゲネズミだっけ?まぁいいや。ともかく、「秀吉に味方して、関が原で東軍に乗り換え大作戦」に変更だ!

ん?そうなると問題なのは、俺が誰であり、ここがどこかだな。ここはどこの城なんだろう。畿内だったら、やべえよな。すぐに旗幟を鮮明にしたら、間違いなく水色桔梗の旗指物に囲まれてフルボッコだし。もし畿内・・・河内・摂津・和泉だったら無論のこと、近江や若狭、大和あたりなら、大作家のご先祖に習って、日和見しよう。腹痛いとかいって・・・

俺が高度にしてアグレッシブな処世術ソロバンを素早く弾いていると、小姓達(ていうか、ひそひそ話はもっと小さい声でやれ)が俺の名前を会話の中で使ったのが聞こえた(そういや、肝心要の名前は確認してなかった)

「御本所様は、どうされたのだ?」
「さあね・・・まぁ三介殿だからのう」
「名門北畠も、お先真っ暗じゃ」


・・・・はい?


「・・・御本所さまって、俺のこと?」
「・・・はい」

こいつほんまに大丈夫か?という視線が盛大に向けられるが、俺はそれどころじゃなかった。頭の中で赤いサイレンがファンファン鳴り、盛大にエマージェンシーコールが鳴り響く。

「・・・ここ、伊勢の松ヶ島城?」
「・・・勿論です」

最終防衛ライン突破!

「・・・俺の親父って」
「先の右府さまですが・・・」

先の右府・・・前の右大臣、だよね。この時代に、そう呼ばれるのはただ一人

第六天魔王-織田信長

その息子で、三介と呼ばれて、おまけに北畠姓。ここは、伊勢の松ヶ島城


オーケー、おちつこう

しかし、頭の中では、どんどん嫌なキーワードが思い浮かんでくる

織田 北畠 伊賀侵攻 三家老惨殺 小牧長久手 単独講和 改易 能だけがとりえの、ゲームや小説なら、無能の代名詞のように扱われる、織田信長の息子 

ばらばらのピースをかけ集め、一つの・・・これだけは、絶対嫌な結論にたどりつく


「ぎゃああああああ!!!!!!よりにもよって、信雄かあああああああああ!!!」


「ご、御本所様がご乱心じゃー!!!」



時に、天正10年(1582)6月2日。彼-「北畠信意」(きたばたけ・のぶおき)が、本能寺と二条御所襲撃は6月2日の早朝であり、すでに父や兄が亡くなっていることに気がつくのには、もう少し時間がかかる。


いそしめ!信雄くん!


始まる・・・かもしれない。



[24299] 第1話「信意は走った」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/14 21:33
羽柴筑前守秀吉(後の豊臣秀吉)の中国大返しと並んで、本能寺の変における最大の疑問は、北畠宰相こと織田信雄(当時は北畠信意と呼ばれていたが便宜上そう呼ぶ)の安土入城である。諸説によると彼は6月2日早朝の京の異変を、昼頃までには正確に把握していたという。信雄の家老津川義冬が織田信包(伊勢上野城主)に送った書状に寄れば、本能寺の変に関する情報と明智勢の動向は、全て信雄が直々に召抱えた忍びからの情報に拠っていたとある。

ここに疑問が残る。ご存知のように織田信雄といえば「三介殿のなさることよ」と長く嘲笑を受ける原因となった第1次天正伊賀の乱(1579)、そして伊賀の土豪勢力を根絶やしにした第2次天正伊賀の乱(1581)の中心人物である。織田信長が忍びを嫌っていたという俗説はさておくとしても、天下統一を前にして伊賀や甲賀を初めとした土着の土豪勢力は、統一政権にとって目障りな存在となっていたのだ。

話を元に戻そう。以前から敵対していた甲賀と並び伊賀を殲滅したことによって、織田家が忍びを召抱えることが難しくなったのは確かだ。その信雄が忍びを抱えていた-俗説をそのままここで語るつもりはない。しかしこれに違和感を覚えるのは私だけであろうか?

ここで比較のために堺にいた徳川家康を例に挙げよう。堺を漫遊していた家康一行が異変を知ったのは和泉国四条畷。中国攻めに向かう信長への挨拶のために長尾街道を京へと向かっていると、以前より昵懇にしていた京の商人、茶屋四郎次郎清延が駆けつけて知った。これが6月2日のことである。それと時を同じくして、まともな街道も整備されていない伊賀(反織田家感情の根強い)を越え、およそ家康一行よりも優に2倍以上はなれた場所にあって、信雄は同じ情報を得ていたのだ。いったい誰から?どうやって?真相は闇の中である-

『大逆転の日本史-織田信雄本能寺黒幕説を追う-』より

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いそしめ!信雄くん!(信意は走った)

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- 6月3日 近江国蒲生郡 安土城 摠見寺の境内 -

字はその人となりや書き手の精神状態を表すと言う。そんな格言が頭に浮かんだのかどうかは定かではないが、床机に陣取った安土城留守居役の蒲生賢秀は、机の上に広げられた二つの書状を前に首を傾げていた。

ひとつは明智日向守光秀からの書状。織田右府様(信長)、岐阜中将様(信忠)を討ち果たしたという内容に賢秀は「日向守殿は気でも狂われたのか」と疑ったが、勢田城主の山岡兄弟を初めとした情報で事実であることは証明されている。普段の日向守の文体は格式ばったものだが、高揚感からか「近江半国を与える」などという大言を吐いている。無論、そんな甘い言葉を信用する賢秀ではない。旧政権を否定することで新たな秩序を確立するしかない明智政権が、信長の娘婿である自分の息子を重用するはずがない。すぐさま破り捨てようとした賢秀だが、続いて届いた書状にその手を一旦止めた。

手紙の送り主は北畠中将。右府様の子息である三介殿からの手紙は、賢秀にある意味、明智からの手紙よりも衝撃を与えた。

「父上、これは明智の負けですな」
「忠三郎、迂闊なことを申すでない」
「明智の利点は時間です」

亡き信長より「その目尋常ならず」と評された嫡子忠三郎賦秀は、父の叱責が耳に入らないかのように滔々と自分の考えを述べ始めた。

「明智の謀反が衝動的なものだったのか、計画的なものだったのかは現状では不明ですが、北畠中将様がこの手紙を書かれたのは恐らく2日の昼。早朝の謀反がその日のうちに南伊勢にまで知れ渡っているなど、あまりにもお粗末といわざるをえません。情報の秘匿も出来ない明智に未来などあるはずがありません」

賢秀は渋い顔で腕を組んだ。常日頃、この息子の才気は何れ蒲生家の命取りになりかねないという予感を強めたからだ。それはともかく、少なくとも自分より頭の回転の早いであろう息子に言われずとも、その程度のことは賢秀も承知している。問題はその次、北畠中将の手紙の続きにある「命令」の内容とその是非だ。

「柴田、羽柴、神戸様、いずれがまず明智と対するかはまだ分かりませんが、軍勢を引き換えすか、立て直すまでには時間が必要でしょう。北畠中将様の後詰が得られるなら、安土籠城は可能です」

この時、安土留守居役の賢秀は、信長の室や子女を連れて自身の居城である近江日野城に引き上げるための準備を進めていた。織田帝国の中心、いわば心臓部である安土城だが、その留守居兵は日野城の兵を呼び寄せても1000にも満たない。これには信長や信忠という移動する政府首脳に、馬廻りや秘書官と言った政府高官の多くが随行していたことが原因である。いうまでも無く彼らの多くは京で果てており、安土にいるのは戦力にもならない兵ばかりと言う空城に等しいものであった。そもそも安土の城からして、安土山を利用して築城された山城ではあるが、籠城には極めて不向きなものであった。大手門から天主まで続く幅6メートル、直線約180メートルの道に象徴されるように、設計思想は行政庁としての役割が中心となっている。おまけに城の一部は琵琶湖に面しており、近江坂本に居城を持つ明智が、琵琶湖の水軍衆を味方に付ければ、あっという間に落城するだろう。

「北畠中将の後詰があるのであれば可能です。父上、最低でも一月、もしくは数週間でいいのです」

賢秀は苦りきった顔を息子に向けた。

「何を根拠にそのような事を・・・」
「京での異変よりまだ二日です。北畠中将がいかなる方法を用いてこの情報を得られたかは不明ですが、この文章によると中将は既に軍を起こしておられます。これが旗色を決めかねている近江の諸侯にいかなる意味を持つか、お分かりでしょう」
「・・・仮定では動けん。せめて北畠中将の兵が鈴鹿峠に陣取ってくれれば-」

その時、親子の目に喜色をあらわにしてこちらに駆け寄る兵士の顔が見えた。

「これで決まりですな」
「・・・好きにしろ」

賢秀は忌々しげに吐き捨てると、床机から立ち上がった。



-同時刻 近江志賀郡 猪飼昇貞(いのかい・のぶさだ)の邸宅-

日ノ本最大の淡水湖である琵琶湖にも水軍と呼ばれる武力集団は存在した。漁村の自衛集団などから発生した彼らは、海の水軍同様、交通料と引き換えに湖での安全な航海を保障した。今からすればとんでもない話だが、当時はこれが認められていたのである。その中でも近江志賀郡に本拠地を持つ堅田水軍は最大の勢力を誇っていた。六角氏から浅井氏、そして尾張の新興勢力織田氏へと陸の覇者を冷静な眼差しで見極めながら、その勢力を拡大。現在の棟梁である猪飼昇貞(いのかい・のぶさだ)は、信長より志賀郡の支配権と琵琶湖の水運・漁業を統轄する幅広い権限を認められていた。

その湖の王者の屋敷に、安土城と同じく北畠中将からの手紙が届いていた。日に焼けた浅黒い顔をしきりになでながら、棟梁猪飼昇貞はその手紙の内容に何度も何度も繰り返し目を通している。すでに鎧に身を固め、出陣の支度を終えていた息子の秀貞は、そんな父をこちらももどかしそうに見つめていた。

「・・・北畠中将はどうやってこれを知ることができたのか」

視線をせわしなく動かした後、昇貞は感心したようにつぶやいた。手紙の内容自体は驚くべきものではない。6月2日の早朝に明智日向守が謀反を起こし、先の右府と岐阜中将が戦死したこと。二条御所と本能寺で戦死したであろう側近や馬廻衆の名前。脱出に成功した著名な武将の名前が記されている。琵琶湖の水運を牛耳り、湖上交通を支配する昇貞にはすべて既知の情報である。問題はこれの差出人、そして書かれたであろう時刻だ。今は4日の深夜。ということは岐阜の松ヶ島にいた北畠中将は、2日の朝にはこれを知って、なおかつ手紙を書ける環境にあったということを意味している。それも「琵琶湖を支配する自分が2日かけて知りえた情報のすべて」を記したうえで。

昇貞は言い知れぬ不気味さを手紙から感じていた。「伊勢松ヶ島にいた人間が」「京で起こった変事を」「琵琶湖水運を使うことなく」「知ることができたのか」-答えはノーだ。そのような方法、あるはずがない。しかしそれではこの手紙の説明がつかない。現に手紙はこの手の中にこうして存在しているのだ-

「父上、このような手紙を信じることはありません。相手はあの三介殿ですよ?たまたま書いたことがあたっただけかもしれません」
「・・・」
「父上、日向守様の恩義に答えるのはッ・・・」

昇貞は無言で息子秀貞の顔を殴りつけて黙らせた。織田家に所属してからの堅田水軍は、近畿管領ともいえる立場の明智家の配下として行動。中でも今、床でのびている秀貞は名前の通り明智光秀から一字を与えられ、明智姓を許されるほど重用されている。その息子が心情的に明智方への見方を主張するのは理解できた。しかしこの不気味な手紙を受け取って、尚且つ堅田水軍の棟梁として明智に無条件で味方するという選択は、昇貞には出来なかった。何より六角、浅井、織田と渡り歩いてきたその嗅覚が、明知に天下の目がないことをかぎつけ始めていた。少なくとも極秘であるはずの重要情報を、その日に南伊勢では(何らかの方法で)知ることが出来る状況にあった。とてもではないが明智とともに戦おうという気にはなれるはずがない。

「我ら堅田水軍は陸の権力争いにはかかわらぬ・・・意義があるものは?」

すでに猪飼の屋敷に集まっていた堅田衆-誇り高き湖の男たちは、沈黙で棟梁に答えた。



- 6月3日 伊勢と近江の国境 鈴鹿峠 -

伊勢から近江に繋がる鈴鹿峠。そこに笹竜胆-北畠家の紋が翻っていた。

「走れ、走れ、走れ、走れ!!止まると馬で蹴り飛ばすぞ!ほら走らんか!!」

北畠中将こと、北畠信意(信雄)は日の丸のついた扇子を両手に持ち、上下に激しく振りながら兵士を煽り立てていた。兵士達はそんな馬鹿殿・・・もとい、御本所様直々の声援に、その士気とやる気を盛大に削られながらも、安土に到着すれば金も米も取り放題という「空手形」を奮起の材料にして必死に走り続けていた。家老の津川玄蕃允義冬は、当然兵を休めるように進言したが、北畠信意は「まるで人が変わった」かのように義弟の忠告を断固として受け入れなかった。

「本所様、この速度では兵は使い物になりませんぞ。たとえ安土に間に合ったとしても、ただの動く的でしかありません」
「馬鹿野郎!ここまで来て安土に入らなきゃ、それこそ本末転倒だろうが・・・ほらそこ、寝るな!寝るなら安土に入ってからにしろ!安土に入れば金も飯も思うがままだ!!ほら走れ、走れ!!」
「そのような空手形を、もし右府様が存命でしたらただでは・・・」
「玄蕃」

信意は兵の士気を著しく損ねていた踊りを止めて、傍らの家老を振り返った。

「貴方・・・いや、貴様の心配は分かるが、とにかくここは私のいうとおりにしてくれ。とにかく安土へ、安土へ行かねばならんのだ。最近は御上も金欠病が深刻だ。安土の財宝を逆臣に渡しては、それこそ取り返しのつかないことになる」
「・・・恐れながら御本所様に申し上げます。私はその本所様の情報とやらをまだ信用してはおりません」

津川は膝をつき、意を決して義兄への換言を口にした。京での異変-明智謀反の情報は北畠家首脳を動揺させ、普段の冷静さを失わせた。信意がその勢いのまま安土への出兵を命じたため、岡田長門守や津川も反論できないまま追認したが、今は若干冷静に考えることが出来る。義兄が自分の情報に妄信的な確信を持っているのは会話の中で理解できたが、もしそれが虚報なら?不安と共に、主信長の顔を思い浮かべた津川は、腹が底から冷えるような恐怖を感じた。織田信長と言う人物は、二度の失敗は決して許さない君主だ。それは息子である彼とて同じだろう。今なら、この鈴鹿峠なら引き返すことは可能だ。

「玄蕃の忠言、嬉しく思うぞ」

自分より一回り上の義弟の諫言を黙って聞き終えると、信意は津川の両肩に手を置いた。津川が顔を上げると、信意はここ数年見せたことのないような屈託の無い笑顔を浮かべていた。何がそんなに嬉しいのかは津川にはわからなかったが。

「しかし、今だけは俺を信じて欲しい。父や兄が死んだのも、明智が謀反を起こしたのも事実なのだ」

頼む-そういって力強い目でこちらを見据えた主に、津川玄蕃允は首を振ることが出来なかった。

「と言うわけで・・・我が北畠の兵士たちよ!走れ走れ走れ走れ走れ!!ほらいけ、やれいけ、いけいけごーごー!!!」
「おやめください」

続けて行おうとした奇妙な踊りは全力で阻止したが。



- 6月4日 夕暮れ 安土城下 明智軍本陣 -

「なりません!力攻めだけはなりませんぞ殿!」
「ならば貴殿はこのまま安土を放置しろと言うのか」
「そうは言っていない。しかし力攻めは駄目だ!!」

安土城を包囲した明智軍6000を率いる明智左馬介秀満は、京より着陣した主君、明智日向守と共にあらわれた伊勢貞興の言動に腹立たしさを隠せなかった。旧織田政権の象徴にして、信長の子、伊勢北畠家当主の信意が籠城する安土を落とす絶好の好機にもかかわらず、それを直前になって止めろというのだ。左馬介は伊勢貞興を無視して、光秀に話し始めた。

「日向守様、既に城下を焼き払い城攻めの準備は整っております。あのような城もどき、我が明智の精兵にかかれば半日とかからず落としてご覧にいれます」
「それが駄目だといっているのだ!大体、誰の許可を得て城下を焼き払った!」

貞興の言葉に左馬介は鼻白ろんだ。城攻めの前哨戦として城下を焼き払うのは戦の定石ではないか。自分は何も責められるようなことはしていない。その思いが彼の態度を必要事情に片意地張ったものとしていた。貞興は貞興で、逆に左馬介の視野があまりに狭いことに苛立ちを隠せずにいた。これは左馬介と貞興のおかれた立場が違うからだろう。伊勢貞興は元々室町幕府の政所執事を世襲した伊勢氏の出身。足利義昭追放後に明智家に仕えた。旧幕府人脈を使い、京で寺社や禁裏を相手に世論対策を担当する貞興には、左馬介の行動は暴挙以外の何者でもなかった。

そして貞興の考えは大筋で光秀の意向に沿うものであった。前線指揮官として眼前の戦局のことだけを考えている左馬介と違い、光秀はこの戦いを謀反人から天下人として朝廷からお墨付きを得るための戦ととらえている。旧政権の首都を(圧倒的武力を背景にしたとはいえ)無血開城させることは、新政権が世論の支持を得ていると言う格好のデモンストレーションになりえた。しかし実際はどうか。市民は自分達が虐殺されたことは忘れても、僅かでも財産を没収されたことは忘れないものだ。旧首都の安土城下を焼き払ったと言う事実は、これ以上なく旧織田領の統治を難しくするだろう。そして何より、安土にある莫大な織田家の資産は、禁裏や寺社に対する工作を担当する貞興には喉から手が出るほど欲しいものであった。

「ですが日向守様、このまま安土を放置すれば、近江全体の統治に支障を来たします」

無論、光秀の言うことにも理があった。安土を包囲した明智軍は総勢5000。都の警備や機内の平定を考えればそれ以上の兵を裂くことは出来なかった。これに山本山城主の阿閉貞征・貞大親子ら、近江衆約1500が加わり、安土を包囲している。近江衆の参陣は当初想定していたよりも明らかに少なく、そして動きが鈍かった。明智政権が京や近江の世論の支持を未だ得ていないことが影響していたのは疑う余地は無い。象徴的なのは旧近江守護家の京極高次が安土に籠っている事だろう。没落の貴公子は当初明智軍への参陣を考えたが、北畠信意が安土へ入城したことを知ると、すぐさま安土へと入った。天正伊賀の乱以降、極端なまでにその言動が慎重-言い方を変えれば愚図になった「あの三介殿」の機敏な行動に、これは明智に勝ち目は無いと踏んだのだ。山崎城主の山崎方家も同じように考えた一人であり、一族郎党を引き連れ安土に入城。取るものもとらず伊勢から駆けつけた北畠の軍勢2千とあわせて4千弱という、明智方が予想だにしない大軍が安土に篭城していた。

泣きっ面に蜂とやらで、明智方には不運が続いた。近江水軍の中核であり光秀傘下の与力であるはずの堅田水軍の棟梁・猪飼昇貞が「武装中立」を宣言したのだ。湖から攻めれば安土城は一刻と持たないが、水軍が日和見を決め込んだとあらばその作戦は不可能となる。琵琶湖の物流を握る堅田水軍相手とあっては、明智勢も強気に出ることはできず、明智方の近江坂本城への物資搬入協力を条件に、武装中立を認めるしかなかった。明智方は知らないが、これには信意が(援軍欲しさに)堅田水軍を始め、見境なく近江の城主にばら撒いていた書状が大きく影響していた。「一字一句誤りや事実誤認のない正確な情報」が列挙された手紙と、北畠中将の安土籠城との知らせに、手紙の受け取り手の多くが「もう暫く様子を見よう」と日和見を決め込んだ。結果的にではあるが、信意の行動は近江における明智軍苦境の原因となっていたのである。

論争を続ける貞興と左馬介とは対照的に、光秀を含む明智軍首脳部は沈痛な雰囲気に包まれていった。現在の苦境をもたらし、近江平定を遅らせている原因はわかっている。目の前の丸裸の安土城に籠り、旧織田政権の象徴として抵抗の旗印となっている北畠信意-その人である。信意を討ち取らねば近江や伊勢の平定はありえないという左馬介の意見も、その先の領民の鎮撫に主眼を置く貞興もそれぞれに理があった。それゆえ両者は一歩も引かず、貴重な時間が無為に費やされることになる。光秀は心情的には貞興寄りだったが、親族衆の左馬介の意見も無碍には出来ず苦悩した。結果的に光秀が命じたのは「北畠中将と交渉し、伊勢へお引取り願う」という、両者の訴えを折衷した曖昧なものであった。

「あの三介殿のことだ。重臣にせっつかれての出陣で、戦は翻意ではないだろう。追いかけぬとあらば伊勢に引き上げるのではあるまいか」

光秀の発した淡い期待交じりの言葉は、明智軍首脳陣の共通した思いであった。


で、当の三介殿はというと

「よいか!あと6日、6日我慢すれば我らの勝利だ!すでに羽柴筑前守の軍勢は高松を立ち、畿内にとって返しておる!11日には摂津尼崎に到着するそうだ!後6日我慢せよ・・・何?光秀の軍使?会うぞ会うぞ!酒をじゃんじゃん飲ませて徹底的に歓待しろ!!・・・なんだ忠三郎、勘違いするな。本当に降伏するわけではない。和睦すると見せかけてのらりくらりと出来るだけ交渉を長引かせるのだ。6日我慢すれば羽柴の軍勢が来るんだからな・・・え?いや、それは・・・ほら。そうそう、忍びからの情報だ!とにかく俺を信じろ!」

まったくそんな期待にこたえるつもりが無かった。そこに痺れないし、憧れない。



安土に籠城した蒲生家以下の留守居役と北畠家の将兵は、「あの」三介殿のいうことだからと話半分に聞き流していたが、それでも何故か自信たっぷりに羽柴の後詰を力説する信意に、妙な違和感を覚えながらも籠城戦における心の支えとしていた。

明智勢と北畠中将以下の安土城籠城軍は3日にわたり交渉を続けた。明智方は何が何でも城内の財宝を、禁裏工作や世論対策のバラマキ財源のために必要としており、それを見透かした城方(蒲生賢秀)が徹底的に交渉を引き延ばしたのだ。一旦開城すると口にしたかと思えば、突如強気になり、また次の会談には「場内の説得のために時間が必要」などと、ぬらりくらりと言質を与えない蒲生賢秀に、明智軍の左馬介がぶち切れ、8日夜より攻城戦が開始された。

当初の時間稼ぎというもくろみはまんまと成功し、その上十分な休養を得た籠城側は士気高く、精鋭揃いの明智軍相手に奮戦した。後のない明智勢の攻撃もすざましく、一時は本丸付近まで侵入を許したが、見事に撃退に成功した。中でも信長の娘婿である蒲生忠三郎賦秀、北畠家老岡田長門守の二子、重孝と善同の活躍は目覚しく、「安土大手門の三勇士」としてその名を広く世間に知らしめることになる。


そして6月11日。安土の金を得られないまま、京で必死に禁裏への工作を続けていた光秀の下に、「ハゲネズミ」こと羽柴筑前守秀吉の軍勢が摂津尼崎へと入城したという凶報が届いた。



[24299] 第2話「信意は言い訳をした」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/14 21:37
池田勝入斎「何故北畠中将殿は本能寺の変の事をいち早く知ることが出来たのか?」
柴田修理亮「何故、北畠中将は筑前の動きを知っていたのだ?」
羽柴筑前守「何故三介殿は、私の家族が竹生島に隠れていることをご存知だったのだ?」
丹羽五郎左「何でも北畠中将は腕のいい忍びを召抱えておられるとか」
柴田修理亮「五郎左殿はそれを信じられるのか?」
丹羽五郎左「・・・」

世に言う「清洲会議」。その冒頭の一コマである。

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いそしめ!信雄くん!(信意は言い訳をした)

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摂津山崎の地を舞台に行われた合戦の合戦は、羽柴筑前守秀吉率いる反明智連合軍が勝利をおさめた。当然である。旧織田家の中国方面軍司令官の羽柴筑前守秀吉率いる連合軍4万に対し、明智方はその半分にも満たない7000あまりの兵しか動員できなかったためだ


時間を遡る。6月4日の深夜、日向守謀反の知らせを受けた羽柴筑前守は、既に交渉中だった毛利家との和平交渉において大胆な妥協を重ねて(すでに指示を仰ぐ上司は存在しない)即座に講和を成立させると、備中高松よりそっくりそのまま中国攻めの本隊約2万の兵を連れて姫路まで引き返した。世に言う「中国大返し」である。これに本来なら光秀貴下として中国遠征を準備中で、異変発生後は旗色を伺っていた摂津の諸将-茨城城主の中川清秀、高山右近、摂津兵庫城主の池田勝入斎ら総勢9千余りの摂津衆が参陣。本来なら最も早く明智方と戦える位置にいながら、統制の乱れた軍の再編と明智光秀の婿津田信澄の討伐に手間取っていた織田三七信孝、丹羽長秀率いる四国遠征軍8000を加え、反明智連合軍の総勢は4万にも達していた。

一方、明智日向守はまるで坂を転がるように、敗北への道筋をたどった。安土の金蔵を使うと言う皮算用が御破算となったため禁裏工作の資金が続かず、旧室町幕府人脈を持つ伊勢貞興や先の関白近衛前久の奔走によってあるはずだった2度目、3度目の勅使を得ることが出来なかった。住宅税免除などで京の町衆を味方に付けようとしたが、財源の裏づけがないことを見透かされてこれも失敗。頼みの縁戚である丹後細川家や大和郡山の筒井家は、中立どころか京や奈良を伺う有様で、安土の北畠中将と同じく備えの兵を置かざるを得なかった。結果、兵力を分散せざるを得ない状況に追い込まれた明智勢が山崎の地に動員できたのは約7千。当初動員していた兵力の半分でしかなかった。

明智日向守は最後まで戦場に踏みとどまり、兵庫城主・池田勝入斎の嫡男池田元助(之助)に討ち取られた。


「安土の、金さえあれば・・・」


明智日向守光秀の最後の言葉である。




-さすがに悪いことしたかなぁ

どうも。さすがに罪悪感にさいなまれている信意(信雄)です。紛らわしいけど、勘弁してね。さて、突然ですがめちゃくちゃ教科書やスケートリンクの上で見覚えのある顔に睨まれています。こちらは氷上よりは顔がきつく、教科書よりはマイルドな印象だけど、まさにあのまんま。勘のいい方はすでにお気づきでしょう。三七殿こと、織田三七信孝さんです。ていうか睨まないでほしいなぁ・・・気持ちはわかるけど。そんなに睨まれると・・・感じちゃう。

「・・・」

額から一筋汗を流すと、信孝は視線をそらした。ふむ、相手の不穏な感情を読み取るとは。さすが信長の子。なんちゃってシンデレラボーイの俺とは出来が違うぜ。やるなお主。さてここは尾張は清洲のお城。織田家発祥の地であるこの城で、何故俺がこの同い年の異母兄弟と同じ部屋にカンヅメにされているかと言うと、それには説明が要るだろう。


説明しよう!現在清洲城では、織田帝国の後継者を決める会議が重臣達によって行われている。そのため候補者でもある自分と信孝は同じ部屋に詰め込まれているのだ!(別の部屋に入れると独自の工作をしていると疑われかねないため)


ここでは「重臣」と「清洲」っていうのがポイントだね。ここ、テストに出ないけど覚えといてね。


信長と兄さんが生きていたとき、織田一族を除く重臣と言えば、北陸方面軍の柴田勝家、中国方面軍の羽柴秀吉、近畿管領の明智光秀、関東管領の滝川一益の四人である。丹羽長秀は四国遠征軍の副将で少し格は落ちる。方面軍司令官は傘下の大名を指揮監督する立場にあり、いわば宿老も言えるべき立場にあたる。このうちクーデターを起こした明智が抜け、一度は追い返したが、二度目は関東の最大広域勢力の北条家の大軍を前にフルボっこ(神流川の戦い)となり、着の身着のままで本領の伊勢長島へと逃げ帰ってきた滝川一益が脱落。残ったのは羽柴秀吉と柴田勝家。会議の中心となるのはこの二人なのは言うまでもない。


羽柴秀吉は織田信長の能力至上主義を象徴するような人物とされる。小さな体のどこにそんな力があるのかと思わせる、あふれんばかりの創作意欲、農民から大名へとのし上がったバイタリティ。自身の欲望にはとことん忠実でありながら、いざと言う時には命を省みずに泥にまみれる覚悟を持ち、自分の運命を自ら切り開く底抜けの楽天思考の持ち主。まさに将来の天下人に相応しい。


それに対するは柴田勝家。自他共に認める織田家筆頭家老・・・のはずなんだが、この人物の出身はよくわからない。柴田だから守護家斯波氏出身だという説もあるが、これはいくらなんでもありえない。甕割り柴田の異名を取る猛将ではあるが、一向一揆で荒廃した越前を見事に治め、検地や刀狩といった後の豊臣政権の兵農分離に繋がる政策を先駆けて行ったという一面も持つ。そうした文武に優れた領国統治者であったことが、一度は弓を引いたとはいえ信長に重用され続けた理由だったのだろう。


羽柴と柴田、そのどちらが会議の主導権を握るか。世間や家中の追い風は明らかに羽柴へと吹いていた。次期織田政権の枠組みを決める会議において、旧主の仇を討ったという事実は、この小柄な男の何物にも変えがたい政治的武器となっている。とはいえ柴田勝家も黙って秀吉が勢力を伸ばすであろう現状を看過するような男ではない。越後上杉家への備えとして佐々政成を越中に留め、畠山旧臣の反乱に対応するため能登に留まった前田利家を除く配下の将を率い、光秀討伐の道中にあった勝家は、山崎合戦の顛末を聞くと、進路を尾張清洲に向けた。いずれ「清洲会議」のような重臣や一族が集まって、織田帝国の遺産相続の話し合いが行われるのは容易に想像のできる事態であり、会議の場所を定めることで主導権を握ろうとしたと思われる。

当然、舌から先に生まれたような秀吉も手をこまねいているはずがない。秀吉は後継者決定会議に参加する重臣に、若狭国主の丹羽長秀、摂津尼崎城主の池田勝入斎を参加させることを勝家に受け入れさせた。丹羽長秀は元々織田家の譜代ではなく、守護職斯波家の家臣の家柄。いわば尾張の旧支配層を代表している。安土城築城や琵琶湖水運の整備など、内政に手腕を発揮した人物だが、個性的な人材ぞろいの織田家の中にあっては影が薄くなるのはやむを得ず、方面軍の副将という立場に甘んじていた。一方、池田勝入斎は荒木村重の旧領を治める摂津諸侯のまとめ役ではあったたが、その他の人物に比べると明らかに格が落ちる。ただこの人物は織田信長の乳母兄弟であり、織田帝国の後継を定めるという点で言えば、他の国主(丹後の細川家、大和の筒井家等々)と比較すると、必ずしも資格がないわけではない。

両者は共に山崎の戦いで秀吉と共に戦っており、どちらかといえば親羽柴派の人物。この時点で会議の場は3:1となった。勝家は自身の正統主義で押し切れると考えていたとされるが、このあたりはよくわからない。既に会議の主導権は秀吉に握られていたと考えたほうが自然か。諸説あり、真偽のほどは定かではないが、この会議に堀秀政が同席したと言う記録がある。信長の小姓上がりの秘書官であった秀政は、まさに織田家の後継者会議を定める書記役に相応しい人物。同時に秀政は本能寺の変では備中高松に会って難を逃れ、山崎合戦で功を立てたというこれまた親羽柴派の人物。仇討ちに出遅れた勝家の外堀は、おそらく彼の考えている以上に埋められていた。


「・・・・・・」


それで蚊帳の外なのが、僕らというわけだ。何せ信長の子供で成人しているのは俺と信孝の二人だけ。普通に考えればこのどちらかが後継者になることが想定出来た。政治的失点の多い三介殿は当初から排除され、勝家は山崎合戦に従軍した三七信孝を推薦。これに秀吉が「超正統主義」ともいえる、まさかの三法師を擁立。丹羽・池田が賛成したことにより、織田家の後継者は亡き信忠の子、三法師に決定。秀吉VS勝家の宮廷闘争は、前者が完全勝利を収める・・・はずなんだけどね。



「勢いでやった。後悔はしている。だが反省はしない」
「・・・は、ははは・・・き、北畠中将殿はおもしろいことをおっしゃりますなあ」

ハゲネズミこと、羽柴筑前守秀吉は彼には珍しい引きつり笑いをしていた。後ろで頭巾をかぶった男が路上の雑巾を見るような視線で俺を見てくる。杖を持っていると言うことは、黒田勘兵衛かな。おお、いいな。もっと俺を蔑んだ目で見てくれ。プリーズ。

「山崎はまるで無人の野を歩くようなものでした。これも一重に北畠中将殿が安土で光秀めと戦い続けてくれたお陰でございます。感謝致しますぞ」

さすが秀吉。直に精神を立て直しやがった。ただの色黒な小男ではない。それにしても歴史上の人物が目の前にいるって、何だかすっごく妙な気分だ。北畠の家臣団って皆モブキャラだしね。強いて言うならば、蒲生の嫡子ぐらいか。

「それに我が妻のねねや、母上を竹生島まで直々に出迎えに来てくださったとか」

いかにも人好きのする笑顔で俺の両手を握る秀吉。なるほど、人誑しと言われるわけだ。この笑顔で他の見事をされたら断ることは難しいだろう。ところであまり俺の手をにぎにぎするのは止めろ。俺にソッチの趣味はないから。

さて、話を本題に戻そうか。ここで俺の華麗なる処世術とチート知識(未来知識)に基づいた処世術を発表しよう。

①チート知識をフル活用して秀吉に犬のように媚を売るまくる
②秀吉が死んだ後は、同じくチート知識を活用して家康に猫のように媚を売りまくる

・・・なに?手抜き?もっと考えろ?ふふふ、甘いな。心理とは何時でも単純なものなのだよワトソン君。大体、元の体と頭が三介なのに中身(精神)が小市民の俺で上手くいくはずが無いのさ。はっはっは。

何とか安土城籠城戦をしのぎきった俺(小便を漏らしたことは秘密だぜ)は、早速未来知識を活用して秀吉に媚を売ることにした。明智光秀のクーデター発生を受けて、すぐさま近江で親明智の姿勢を明確にした中に阿閉(あつじ)貞征という人物がいる。旧浅井家臣で山本山城主の彼は、長浜城主の羽柴秀吉と領土紛争を抱えており、日頃遺恨を抱えている秀吉に意趣返しを目論んだのである。長浜城にいた秀吉の家族は琵琶湖の竹生島に難を逃れていた。そこでこのナイスガイな俺は琵琶湖水軍の協力を得て、俺自ら秀吉の家族を出迎えに赴いたのだ。わっはっは、何と完璧な俺の作戦。


-何故北畠中将は、自分の尼崎入りの日時を知ることが出来たのか・・・それにねねやかか様が竹生島に非難していることを誰から知りえたのか。羽柴家中に間者でも潜ませていたのか?いや、それは考えにくい。とにかく不自然な言動が多すぎる。北畠信意-案外馬鹿ではないのかもしれないが・・・危険だな。


「それにしましても北畠中将殿は優秀な忍びを召抱えておられて羨ましい限りです。最も、情報を生かすことのできた北畠中将殿のご器量あってのことでございますが」
「わっはっはっは!褒めるな褒めるな!もっと褒めろ!」

完璧な作戦は、完全な裏目となり、無用な警戒感を秀吉に植え付ける結果となっていたのだが、信意はそれを知らない。



数時間後。気まずい沈黙に支配されていた俺と三七は、小姓から重臣会議の終了を知らされた。さてその結果はというと-



[24299] 第3話「信意は織田姓を遠慮した」
Name: ペーパーマウンテン◆e244320e ID:151a2b73
Date: 2010/11/14 22:19
清洲会議はおよそ史実どおりの結論を得た。織田帝国の後継者には亡き岐阜中将の嫡男・三法師が、亡き主君の仇を討った羽柴筑前守の推薦により決定され、この赤子が織田宗家の家督を相続することが内定した。しかし3歳の赤子に織田帝国が統治できるはずが無く、ここで「織田帝国の後継者」と「織田家宗家の家督」が事実上分離された。三法師が成人するまでの間、織田家の家政運営は後継者を決定した先の4人-羽柴秀吉・柴田勝家・丹羽長秀・池田勝入斎の重臣による合議によって行われることとなった。もっとも清洲会議以降、この4人が再び同じ場所に集まることはなかったのだが・・・

後継者と政権の枠組みが決まり、あとには誰しもが心待ちにしていた遺産相続の話が残った。突然、所有者がいなくなった領地がいくつも出来たのだ。ここでは重臣達は建前を無視し、本音むき出しで領地を奪いあった。その結果をおおまかではあるが記す。

・明智の領地であった丹波や山城は秀吉が、近江坂本は丹羽長秀が獲得。このように畿内で新たに発生した空白領地の多くが羽柴陣営で山分けされた。
・勝家は近江の秀吉旧領である長浜を得て畿内への足がかりを得、兄信忠の跡をついで岐阜城主となった織田三七信孝との経路を確保。もとより秀吉との折り合いの悪い伊勢長島城主の滝川一益(領地は得られず)との連絡を取ろうという意図が見え見えである。一方、一揆の多発で信濃海津城から地元へ帰り、地元国人領主と対立して東美濃を荒らしまわった森武蔵守長可はその領地を安堵された。国人領主は泣きを見たが、これには岐阜城主を牽制させようという秀吉の意向が透けて見える(長可は羽柴陣営である摂津国主池田勝入斎の娘婿)。

ざっとこんな具合に、羽柴陣営と柴田陣営がそれぞれの足場固めを進めることに成功した。ところで不思議なことに、会議にも出席せず正々堂々と信長の遺産を横領した人物については誰も口にしなかったことは注目に値する。命がけで伊賀を越え、岡崎に帰還したその人物-徳川家康は柴田勝家同様、光秀討伐の軍を起こしたが、勝家同様に山崎合戦の始末をその途上で知った。するとこの人物は律儀な同盟者の皮を殴り捨て、本能寺の変を切っ掛けに旧武田領で発生した一揆に付け込んで、甲斐一国と信濃の大半を我が物にせんとしていた。明らかな違法行為にもかかわらず、誰も織田家の「元」同盟者を批判しなかったのは、来るべき織田帝国の継承者を決める戦いにおいてその支持を期待したからである。

そして今回の一連の政変における行動で急速に株を上げた北畠信意は、尾張の信忠旧領を相続。これにより信意は、従来の南伊勢と伊賀をあわせて三国を治める太守となった。領国伊勢で発生した北畠具親の反乱を「なぜかその発生場所から人数まで特定したかのような具体的鎮圧作戦」に基づいて伊賀上野城主の叔父織田信包に鎮圧させながら、自身は兵を率いて安土城に籠城。明知軍の近江侵攻を遅らせ、山崎の合戦の勝利に貢献したことを考えると、尾張一国といえども「貰いすぎ」という批判はあたらないだろう。

「まったく、右を向いても左を向いても亡者ばかりで嫌になるね」

-あんたが言うな-

北畠家家老の津川義冬と岡田長門守の考えは見事に一致した。

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いそしめ!信雄くん!(信意は織田姓を遠慮した)

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清洲会議で最後まで揉めたのは三法師を「誰が」「どこで」育てるかという問題である。織田宗家と織田帝国が切り離されたとはいえ、この赤子は織田の正当なる継承者であり、養育係として彼を掌中に収める人物は、計り知れない政治的カードを持つことを意味していた。ここまで押されっぱなしだった柴田勝家は、当然秀吉の勢力圏には三法師を置きたくはない。秀吉もまたしかり。そこでつばぜり合いが生じることになった。そこで両陣営が引っぱってきたのが、秀吉陣営は北畠信意、柴田陣営は織田信孝である。共に三法師の叔父であり、織田信長の子供の中で成人し、独立した行動を取れる年齢の二人は確かに養育係には適任だった(羽柴秀勝は秀吉の義子であることから除外され、その他の子供はいまだ養育される側であった)。普通ならそこそこ優秀だった三七と「三介殿」では比べるまでもない・・・はずだったのだが、本能寺の変における安土籠城と一連の手紙攻勢によって北畠信意は旧織田家の中でその株を急速に上げていた。

「わずかな手勢を引き連れて敵地の眼前に乗り込み、亡き右府様の城を守り通した北畠中将こそ三法師の養育係にふさわしい」という秀吉の主張に重臣会議は紛糾。結果、丹羽や池田らが「バランスを取るため」として信孝の養育係を支持したため「安土城が修復するまで」という期間を区切った上で、三法師の居城は岐阜に決定した。もっとも羽柴側から岐阜城にお目付け役が派遣されることになり、柴田陣営は史実以上に譲歩を強いられることになった。


ところで清洲会議には様々なこぼれ話がある。たとえば北畠信意の織田姓への復姓問題。三七殿(信孝)も織田姓に戻った(北伊勢の神戸家を相続していたが、三好長康の養子になるため一時織田姓に復帰。本能寺の変により縁組が破談となり、そのまま織田姓を使用していた)ことですし、織田家の本拠地である清洲城主に居城を移されたこの機会に、織田に復姓されてはどうかという話が持ち上がったのだ。しかし信意はそれらの意見を一蹴。「私は北畠の人間であって織田の人間ではない」と木で鼻をくくったような答えを返すばかりであった。

これは様々な憶測を呼んだ。伊勢津城主となり伊勢南部を新たに支配することになった織田信包(信長の弟。伊勢の名門長野工藤氏を相続していたが織田姓に戻した)などは「三介殿は北畠家に遠慮しているのか?」と首をかしげた。ともかくこの話は「織田政権の後継者は三法師であることを天下に知らしめるため、あえて北畠の姓を維持されたのだ」という美談としてもてはやされたが、それは半分だけしか真意を言い当てていない。信意はこれで「自分は織田政権の跡取りになるつもりなど毛頭なく、三法師政権=羽柴政権に従いますよ」というメッセージを送ったというのが真相だ。実に涙ぐましいまでの媚びへつらいである。


「ふふふ、まさに完璧な俺の計画。自分の才能が恐ろしいぜ」


天罰覿面というべきか、報いはすぐさまやってきた。

-安土城修復費用の一部を北畠家が負担するものとする-

重臣会議の決定に、信意は目をむいて昏倒した。



①信意が兵を煽り立てるために「安土につけば金子と米は取り放題」と命じたこと
②明智勢に焼け出された町民に安土留守居役の蒲生賢秀が(勝手に)北畠中将名義で見舞金と米を配ったこと
③1と2により安土の金子は空っぽ。おまけに篭城戦のため、改修工事をしないと行政庁としての機能に致命的欠陥が残ることが想定される(たとえば石垣の崩落)
④このままでは三法師様を迎えることは出来ないが、安土の金蔵は「誰かさん」のお蔭で空っぽ
⑤来るべき戦に備えて、羽柴・柴田は無論、どの大名も金を使いたくない
⑥安土籠城の総責任者は北畠中将

「燃え尽きたぜ、真っ白にな・・・」

清洲城の居室で、北畠信意は書類の山に埋もれて真っ白に燃え尽きていた。しかし主の言動に一々動じる北畠家臣団ではない。最近、急に態度の変わった主の扱いを覚えてきた信意の近習土方勘兵衛は、新たに北畠家に召抱えられた佐久間不干斎にその操縦方法を教えていた。

「アホな事言ってないで、次の書類に目を通してください」
「土方、お前は鬼か!俺を過労死させるつもりだな!」
「御本所様。次はこちらです」
「佐久間!お前も俺の気持ちを裏切ったな!」
「・・・土方殿。こういった場合どう対応すれば」
「無視していただいて結構です」

平然と主をあしらう土方に、佐久間は困惑気味に頷いた。佐久間不干斎。そり上げた頭がいまだ青々としたこの若者は、かつての織田家重臣佐久間盛信の嫡子甚九郎信栄、その人である。織田家の畿内攻略の先兵として活躍したが、天正7年(1579年)に本願寺攻めでの失態や自身の茶道狂いを信長より責められて父と共に高野山に追放。各地を流浪していたが本能寺の変の数ヶ月前に帰参を許され、信忠に属した。信忠の死後は同じ芸道狂い(信意の能好きは有名だった)の信意に仕えたわけなのだが・・・書類の山を見るにつけ、不干斎に失敗だったかなという後悔の念がないわけではない。北畠は急な所領増加により事務官僚が圧倒的に不足しており、一時は父を支えて畿内を差配した経験を持ち、その上家柄はお墨付き(佐久間家は織田家譜代)という不干斎は、まさに「カモねぎ」であった。

-三介殿はもう少し、人情の機敏に疎い方であったはずだが

そりあげた頭をなでながら、不干斎は「信栄」時代に感じていた産介殿と目の間の書類に埋もれて呻く人物との差に違和感を感じていた。絶対的権力者であった信長の死が、不肖の息子の精神的な自立を促したということなのだろうか?そこまで考えてから不干斎は思わず自分自身を笑った。不肖の息子というなら、それは自分も同じだ。茶道具に狂って佐久間の家を没落させた自分が、同じく不肖の息子として嘲られていたはずの彼に(それも自分を追放した男の息子!)に仕えているというのだから。

-笑えない笑い話だな

不干斎はもう一度静かに、不恰好に笑った。



不肖の息子同士が傷をなめあい、当主を支える家臣達が一丸となって必死に新領土尾張の経営や安土石垣修復の代金を捻出しようと努力していた頃-その間にもハゲネズミVS甕割り柴田の暗闘は続いていた。


6月末-清洲会議の直後に織田信孝の仲介により柴田勝家と浅井未亡人・お市の方との婚儀が行われる。この婚儀によって勝家は織田家の親族衆となる。両者の婚姻にはお市の方に懸想していたとされる秀吉自身も深くかかわっていたことが近年明らかとなった。ライバル柴田勝家に「織田家一族」という枷をはめることにより、その言動を封じ込めようとしたのではないかと考えられる。
7月3日-織田信孝、本能寺の焼け跡で収集した遺骨や信長所蔵の太刀を廟に納め、本能寺を信長の墓所と定める(後継者アピールか)
同月8日-羽柴秀吉、山城国で検地を実施。新政権の主導権を自らが握ることを天下に誇示した。

8月-織田家中での主導権争いが激化。美濃(信孝)・尾張(北畠)の国境線が問題と・・・

「あ、いいよいいよ。信孝の主張を受け入れちゃって」

ならなかった。

津川玄蕃允・岡田長門守らは「周辺国になめられます」と換言したが信意は取り合わなかった。この信意の決断をめぐってか中の評価は「大人の風格」「やはり地金が出てきた」に分かれた。実際には尾張の経営でてんてこ舞いであったことが大きい。なにせ突如府って沸いた領国である。前任の領主や高級官吏の多くは本能寺の変で灰となっていた。引き継ぎなく受け継いだため、事実上0からのスタート。そんな些細な領国紛争にかまっていられなかったのである。もっとぶっちゃけると、寝ぼけ眼でサインした書類が「信孝案の受け入れ」であり、いまさら引っ込めると岡田長門や津川に余計厳しく怒られるのが怖かったというのが真相である。



「で、親父の葬式はいつするの?」
「・・・あの、おそれながら北畠中将殿。その、親父というのは・・・」
「俺の親父に決まってるじゃん。織田の信長。筑前守、もうぼけたの?だとするとちょっと早くない?」
「いえ、その・・・なんと申しますか、親父という言葉と右府様があまりにも結びつかなかったものでして、はい」
「そうかな?」

将来の天下人の困った顔を見るというのもなかなか乙なものだ。秀吉の背後から黒田勘兵衛が射殺さんばかりの視線でこちらを睨み付けているのでこの辺にしておくか。うん。

「三七は負けん気が強い。そのプライドの高い男がわざわざ本能寺の焼け跡をあさるようなまねをしたということは、こりゃ相当、甥に家督を持っていかれたのが気に入らなかったと見えます。他ならぬ筑前殿が親父の葬儀をするとあれば、清洲北畠家の織田一族はみな参列するように取り計らいましょう。いや、すでに日も経過していることを考えるとまずは100日法要が先ですかね?」

それまで笑っていた秀吉の目から感情の色が消えた。こっわ!小便ちびりそうだぜ。すぐに柔和な表情に戻ったが、一瞬だけ見せた、あの昆虫のような無機質な眼が人誑しの天才秀吉の地なんだろう。本当はこいつ、友達いないんじゃないの?怖いから言わないけど。そんなことをつらつらと考えながら「秀吉主導の信長葬儀」(信長政権の後継者のお披露儀式)への協力をしっかりと約束しておいた。織田一族を一人でも多く取り込みたい中で、この申し出は秀吉には渡りに船だろう。ついでにさりげなく「中将殿」と同格で呼ぼうとしていた秀吉に、同じく「筑前殿」で返す気配りを忘れない。官位は今は俺のほうが上だけど、どうせすぐに追い抜かれるだろうし。羽柴政権下での序列をはっきりさせておきたいのは俺も同じだ。この点に関しては秀吉と俺は利害が共通していた。

「三法師様は難しいでしょうなあ。三七が手放さないでしょうし。柴田殿は叔母上を使ってくるかもしれません」

秀吉なら当然その程度のことは予測済みだろうが、俺の話を興味深そうに聞いていた。話し上手は聞き上手という奴かな。相槌を挟む秀吉に、当たり障りのないチート知識(未来知識)を披露しながら「思ったより使える男」という印象を与えておく。ふふふ、イメージ戦略もバッチグーだぜ。

そんな信意の目には、黒田勘兵衛が秀吉と同じ無機質な眼で自分を見ていたことに気がついていなかった。



9月11日-京・妙心寺において柴田勝家やお市の方が主催となり百日忌を行う。
翌12日-京・大徳寺において羽柴秀勝(信長四男。秀吉の養子)が中心となり百日忌を行う

11日は柴田派、12日は羽柴派の法要というわけだ。ちなみに約束どおり俺は叔父二人(織田長益・織田信包)の首根っこを捕まえて参列させた。後の有楽斎こと源五郎長益は、本能寺の変で二条御所から脱出できた数少ない一人である。命を永らえた代わりに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」などとコケにされたのがよほど悔しかったのか「検地の用意で忙しい」「腹の調子が」などといちいち理由をつけて大徳寺行きを嫌がったが「愚だ愚だ言うと岐阜に送りつけるぞ」と脅しあげてつれてきた。すすけた背中の長益叔父さんの肩に手を回しながら、信包叔父さんが慰めていたのがなんとも印象的だったなぁ(遠い目)

法要が終わると、秀吉が側に近寄って(例の無機質な眼のまま)耳打ちをした。

「10月に右府様の葬儀を執り行う予定です。参列をお願いできますかな」
「無論」

俺は胸を大きくたたいて応じた。



10月3日-秀吉、従五位下左近衛少将に任ぜられる(宮中の警備を担当する官職)
10月8日-朝廷より信長に従一位太政大臣が追贈。

9日-今日の警備が羽柴陣営によって強化(ここで秀吉が左近衛少将の地位にあることが意味を持つ)柴田派は京都の守護からはずされた(事実上のクーデター)


「はげねずみが!」

当然、柴田勝家は怒り狂った。しかしもうすぐ北国街道が雪に閉ざされる中で軍事行動は封じられていた。


13日-播磨から羽柴秀吉が上洛。
14日-丹波亀山から羽柴秀勝が上洛。

15日-世紀の一大イベント「織田信長の葬儀」開催。



「なんだかどっちらけだよね」
「・・・御本所様、ここまで協力しておいて、いまさら何をおっしゃられるのです」
「だってあそこに入っているの、遺骨でも遺骸でもなくて、ただの親父の木像だろ?それをわざわざ死体に見立てて、1万の兵で警護して・・・これじゃ見世物にされているみたいだよ」

市民に混ざりながら葬列を見送っていた北畠信意は、岡田長門守にその不満を漏らした。確かに葬儀に協力するとはいった。しかしこれは想定の範囲外だ。親父といっても信長と彼とは血のつながりこそあれ、直接の面識はないため赤の他人。しかしその赤の他人の死が、こうもあからさまに見世物にされることには不快の念を覚えた。葬列には故人をしのぶ気持ちというのは感じられず、お祭り騒ぎの喧騒しか感じられなかったからだ。

「少なくとも葬列とは故人を悼むものであるべきだ。長門守(岡田重善)もそう思わないか」
「まぁ確かに見世物ですな。しかしこれだけ人が集まったのは・・・」

岡田長門守が視線を周囲にやるまでもなく、葬儀の行列にはこの一世一代の見世物を見逃すまいと、多くの市民や野次馬が詰め掛けていた。その顔は一様に笑顔に満ちていた。

「右府様が慕われていたという何よりもの証明なのではありませんか」
「それはそうかもしれんが、これでは-」
「・・・はっはっはっは!」

唐突に笑い声を発した長門守に、信意は驚いてその顔を見返した。

「いや、申し訳ありません。ですが、何とも御先代の位牌に香を投げつけられた右府様らしい葬儀だと思いましてな」
「・・・ものは言いようだな、長門守」
「世間とはそんなものです。見方によって彼岸にも地獄にもなる。それが人生の妙というものですぞ?」

小豆坂七本槍の最後の生き残りである老人はそう言うと今度はいたずらっぽく笑う。その顔はひどく幼く、まるで少年のように見えた。


柴田勝家と羽柴秀吉が雌雄を決する『賤ヶ岳の戦い』は、すでに目前に迫っていた。



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