2006年09月11日

『正論』の「私は確かに化学兵器を引き渡した 旧日本軍兵士の証言」への疑問

「私は確かに化学兵器を引き渡した 旧日本軍兵士の証言」聞き手/本誌・喜多由浩
(『正論』平成18年10月号、250ページ〜257ページ)
について

【はじめに】
本論は、米田、二本柳両氏の証言と両氏が直接経験したことを否定するものではありません。
両氏の証言を元に導かれている推論、結論に対する疑問と、その論拠を提示するものです。

【要旨】
1.証言者米田氏の所属していた機動連隊は、化学兵器を所持していなかった。
2.証言者米田氏は「ちび」以外の「きい弾」等の化学兵器を遺棄した場面も、逆に引き渡した場面も見ていない。
3.証言者二本柳氏がソ連軍に引き渡したのは青酸ガスを発生する手榴弾のような「ちび」であった。
4.遺棄化学兵器処理事業(http://www8.cao.go.jp/ikikagaku/shori.html)で発掘・鑑定・回収
  されているのは、その多くが3.の「ちび」ではなく、1.の「きい弾」や「あか弾」である。
  (http://www8.cao.go.jp/ikikagaku/shori.htmlを参照のこと)
5.よって、両氏証言をもって遺棄化学兵器処理事業を全否定することは無理がある。
  (正論読者を混乱させる結果になっており、残念)

【本論】
「私は確かに化学兵器を引き渡した 旧日本軍兵士の証言」では、「石頭の元予備士官学校生(軍曹)、二本柳茂さん(81)新潟市」と「元機動第一連隊中隊長(少尉)米田誠次郎さん(83)大阪府堺市」のお二人がインタビューに答える形で終戦当時のご自身の体験を証言なさっています。


米田氏は「 もし、中国がいうように、本当に関東軍が200万発も化学弾を持っていたなら、降伏はしなかったでしょう。」(256ページ)といっています。
しかし、米田氏が言及しているとおり、化学兵器を持っていたのは野砲兵連隊、山砲兵連隊、野戦重砲兵連隊などに限られています。
現に米田氏の連隊は化学兵器を所持していなかったのです。
米田氏はもちろん化学兵器を遺棄する場面も、逆に引き渡す場面もみていません。
降伏したのは、200万発も化学兵器を持っていなかったからだとも解釈できますが、これは米田氏の憶測に過ぎないと言えるでしょう。
旧日本軍が遺棄した化学兵器が200万発かそれより少ないか、あるいは内閣府遺棄化学兵器処理担当室発表の推定30〜40万発に近い数字だとしても、内閣府遺棄化学兵器処理担当室は化学兵器を製造し中国に持ち込んだことを認めているのです。
(この埋蔵推定数は、今後精査されていく性質ものでしょう。)
(http://www8.cao.go.jp/ikikagaku/shori.html 1.(1)第二段落 参照のこと)

また、二本柳氏は投げると青酸ガスを発生する手榴弾のような「ちび」を大量にソ連軍に引き渡したと証言しています。(252ページ)
これが『正論』の記事のタイトルにある「私は確かに化学兵器を引き渡した」に反映されているようです。
しかし、二本柳氏も米田氏と同様、実際に大量の「きい弾」や「きい剤」のドラム缶などを引き渡したわけでも、引き渡されるのを見たわけではないのです。
二本柳氏が引き渡したという「ちび」は、手榴弾のような携帯用の兵器であり、これを引き渡したことと、大量の「きい弾」などの化学兵器を引き渡すこととは全く次元の異なる話です。
二本柳氏が「きい弾」などを引き渡すなという命令を受けていないのは(252ページ)、彼の連隊がが「きい弾」などの化学兵器に関わっていなければ当然のことだと思われます。
なお、二本柳氏が吉林省・敦化で兵器を引き渡したときの様子は「きい弾」を遺棄したと東京高裁で証言した第16野戦兵器廠下士官山田氏(仮名)とおおよそ同じ状況と思われます。

なお、付記しますが、
米田、二本柳両氏も『正論』編集部も「中国大陸に旧日本軍の遺棄化学兵器が200万発ある」という話のうち「200万発」は否定していても、旧日本軍が化学兵器を中国に持ち込んでいたことは認めています。
これは大前提ではありますが,この前提が、共有されているということは非常に意味のあることです。


【チビ弾】 直径一〇センチのガラス瓶の内部に青酸と銅イオン(硫酸銅)を入れた手投げ弾。一九三九年のノモンハン事変でソ連のBT−七型快速戦車に火炎瓶を投げたことをヒントとして、この弾を投げつける戦法が考案された。ガラスが割れて青酸の
気体が戦車の吸気孔や小窓から車内に吸い込まれ、戦車兵を殺すアイデアだ。それはBT戦車をひっくり返す威力があるとされ、BTを逆にしてチビ弾と呼ばれた。一九四〇年七月に予定された対ソ連作戦−関特演に間に合うよう部隊に配備されている。一九
四一年末、マレー半島を南下した第二五軍(富兵団)の歩兵に配られたが、実際には使用されなかった。 (日本陸海軍事典より)

Technorati tag:    

トラックバックURL