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ナチスの「ガス室」神話の起源 後編
「前回の説明で、ガス殺証言には元ネタが存在すること、それは1942年のブンド報告まで遡ることができることがわかった。
このブンド報告がナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅の元ネタであるが、ガス殺証言そのものはもっと前まで遡ることができる。
ナチス・ドイツが使ったシアン化水素は猛毒であることは言うまでもないが、同時に殺虫消毒をしてくれるありがたい毒ガスでもある。
使い方次第では人間を殺すことではなく、人間を助けることができるアイテムだ。
ドイツは第二次世界大戦の60年以上も前に青酸ガスを消毒用に使用してきた。
そして第二次世界大戦の60年以上も前にドイツによる青酸ガス処刑の噂は存在した。
なぜドイツは青酸ガスを消毒用に使ったのか?
それは東ヨーロッパでは敵の軍隊よりも疫病の方がはるかに恐ろしい存在だったからだ。
さっそく見てみよう。
歴史上、疫病は戦争や移住と手をたずさえて移動し、一個軍団以上を屈服させてきた。
東ヨーロッパはこうした疫病のためにとくに恐れられた地域だった。
クリミア戦争での連合軍、1812年のナポレオン軍は、とりわけチフス・コレラ・腸チフス・赤痢といった疫病で多くの兵士を失った。
長らく、これらの疫病の原因は知られておらず、やっと19世紀末に、コレラ、腸チフス、赤痢は、汚染された水にひそむ細菌によって媒介されることがわかるようになった。
チフスを媒介するのがシラミであることがわかったのは第一次大戦直前だった。
汚染や劣悪な衛生環境が疫病を媒介するということは理解されていたので、正確な知識がなくても、ヨーロッパ人は防疫を試みていた。
19世紀末ごろ、ドイツは人間とその衣服を害虫駆除するために多くの措置を開発した。
ここには、シャワー、殺虫のために石油その他を身体に塗ること、その所持品に蒸気をかけたり、煮沸したりすることが入っていた。
これらの措置は1880年代にテストされるようになった。
チフスは東ヨーロッパ土着の疫病であり、コレラは19世紀に何回となくこの地域で荒れ狂った。
地元の住民は、とくにチフスにいつもさらされていたので、免疫を持っていた。
この地域に移植してきた者は、これらの疫病に簡単に感染した。
この地域を出た者はそれを運んでいったことであろう。
ロシア帝国西部とオーストリア・ハンガリー東部の住民、ユダヤ人やその他の非ユダヤ教徒は、ひとしく貧乏で、飢えており、当時の西ヨーロッパの衛生水準からすると、不潔であった。
この地域の住民の大半は、ひとたび凶作があれば、死に瀕してしまうといっても過言ではない。
1881年に皇帝アレクサンドル二世が暗殺されると、この地域では反ユダヤ暴動が頻発した。
ユダヤ人はその他の非ユダヤ教徒同様に貧しく、空腹で、不潔で、禁欲的であった。
その上、政府が自分たちの伝統的な生活様式に干渉してきていたので、彼らの忍耐は限度を越えようとしていた。
その結果、多くのユダヤ人が移住を選択し、彼らは多くの場合にドイツを通過した。
ドイツで、彼らは標準的な害虫駆除措置を受けたが、これについては、メアリー・アンチンがその回想録のなかで次のように記している。
この本は元々1912年に出版され、メアリーが1893年春にプロツクからボストンに着いた直後に、ロシアにいる伯父にイェディッシュ語で書いた手紙をもとにしている」
Antin, Mary, The Promised Land, Penguin, NY: 1997, p. 138f
「無人の広い野原の大きな庭のなかにある一軒家の反対側に、私たちの列車はついに止まりました。車掌が急いで降りるようにと乗客に命令しました。・・・(車掌は)私たちを家の中の大きな部屋のなかに急がせ、ついで庭へと急がせました。ここで、白い服を着た非常に多くの男性と女性が私たちを待ち受け、女性の方は女性と少女の乗客を、男性の方は男性の乗客を待っていました。うろたえ混乱するような光景でした。親たちは自分の子供たちと離れ、幼い子は泣いており、荷物はまとめて庭の片隅に無頓着に投げ集められました(このために、多くの損害が出ました)。白衣のドイツ人は命令を叫びながら、いつも『急いで、急いで』と言っていました。狼狽した乗客は意気地なしの子供のようにすべての命令に従い、ただ、何が起こるのかとときどき尋ねるだけでした。
泥棒や殺人者のたぐいに捕まってしまったのではないかと考えたとしても不思議ではありません。一軒家だけがある寂しい場所に連れてこられたのですから。所持品は持ち去られ、友人は離されてしまったのですから。一人の男がやってきて、品定めをするかのように私たちを検査しました。奇妙な風采の人々が、無力で無抵抗な、口の聞けない動物のような私たちを追い立てました。ここからでは姿を見ることができない子供たちは、何かおそらしいことが起こっているかのように泣いていました。私たちは小さな部屋に追い立てられ、そこでは大きなやかんが小さなストーブの上で沸騰していました。衣服は脱がされ、身体が、滑りやすい物でこすられました。突然、警告なしに、温水のシャワーが私たちにふりかかりました。
その後、別の小さな部屋に追い立てられ、そこで、ウールの毛布にくるまって座っていました。すると、大きな粗雑なバッグが持ち込まれ、そこから中味が出てきました。見ることができたのは蒸気の雲だけであり、聞くことができたのは『急いで、急いで』服を着るようにとの女性の声だけでした。それ以外は何も見ることも、聞くこともできませんでした。蒸気で何も見えないなかで、私たちは他人のもののなかから自分の衣服を探さなくてはなりませんでした。息が詰まり、咳こんでいたので、時間をくれるようにその女性に頼みました。『急いで、急いで、乗り遅れてしまいますよ!』ああ、私たちは殺されるのではないのだ。彼らは、危険な病気にかかることを防いでくれて、旅が続けられるようにしているだけなのだ。感謝します、神よ!」
「メアリー・アンチンは害虫駆除と検疫に当惑しているが、何のオリエンテーションもうけておらず、はじめてのことでもあったのだから、彼女の態度は理解できる。
そして、そのような無理解からくる的外れな噂も十分に理解できる。
メアリー・アンチンの当惑した態度はクレーマー日記に出てくる「命乞いをするユダヤ人女性」にそっくりだ。
作業者からすれば個別に説明をするのは時間の無駄だから省略したいと考えても不思議ではない。
消毒・殺菌なのだから死ぬわけではないし、そもそも言葉が通じるかどうかわからんから説明したいとも思わなかったかもしれない。
だが、このような特別措置は必要だった。
メアリー・アンチンが1893年に旅をする前年、コレラがドイツの都市ハンブルクを襲い、チフスとコレラがニューヨークを襲っていたからだ。
ニューヨークでの大流行では、その後数十年間にわたって繰り返される多くの事例を見ることができる。
移民たち、とくにユダヤ人は害虫駆除と検疫を恐れており、自分たちの愛する人々が屠殺場に連れていかれると信じていたこともあった。
彼らは衛生管理当局に不信感を持っており、結果として疫病をさらに広めてしまうことも知らずに、チフスにかかっていることを隠そうとした。
さらに、検疫にも問題があった。
規則によると、チフスによる死者は焼却されることになっていたが、これはユダヤ法違反だった。
ユダヤ教では最後の審判における死者のよみがえりの教義を持つため火葬はご法度なのだ。
これはユダヤ教を原点とするキリスト・イスラムでも同じことが言える。
また検疫ステーションはユダヤ教の掟に従った食物を準備しておらず、結果として、敬虔なユダヤ教徒が餓死することもあった。
ユダヤ教では食べて良い食べ物と食べてはいけない食べ物を定めたカシュルート(適正食品規定、食事規定)と呼ばれる律法があるのだ。
ユダヤ教徒が食べてはいけないのは、豚肉、エビ、カニ、イカ、タコなどだ。
ニューヨークの衛生管理当局とユダヤ人移民とのあいだの無理解はカルチャー・ショックと特徴づけることができるが、彼らをわかつ無理解と非順応の亀裂は非常に深かった。
同じようなパターンは第一次大戦中にも登場する。
しかもそれはユダヤ人のあいだだけではなかった。
ドイツはトルコ軍を再編成するにあたって、チフスその他の病気の防疫のためにかなりの力を注いだ。
このための二つの主な道具が「可動蒸気害虫駆除トラック」(Dampfdesinfektionwagens)と、害虫駆除目的に改造されたトルコ風呂(サウナ=蒸し風呂)であった。
ドイツ軍がおもに使ったのは硫黄ガスであり、そこでは、硫黄を燃やしてガスを発生させる発生器(Vergaser)が必要だった。
硫黄ということは、臭かったに違いない。
すでに1914年、ドイツは燻蒸(bagasen )の同義語として「ガス化、ガス」(vergasen)を使っていた。
地元住民の反応は様々だった。
トルコ人は、アラーが禁止しているとの理由で、シラミを殺す理由を理解していなかったし、ギリシア正教徒とユダヤ人は宗教上の理由から、処置の一部である入浴と髭剃りに反対した。
1914−15年冬のセルビアでのチフスの大流行は国際的な救援活動を呼び起こし、そのなかには、初期の段階で防疫に努めたアメリカ救援隊も入っていた。
1915−16年、ブルガリアが同盟国側に立って参戦し、かなりのセルビア領を与えられると、防疫部隊が精力的に活動しなくてはならなくなった。
この関連で、1916年3月の『ロンドン・デイリー・テレグラフ』に、70万のセルビア人が窒息死させられたという記事が登場した。
この70万という数字は1942年に「ナチスドイツによる大量ガス処刑説」がはじめて登場したも出てきた。
『デイリー・テレグラフ』は「ナチ・ドイツによる70万の犠牲者」と述べていたが、それは偶然の一致ではありえない。
つまり、第一次大戦のプロパガンダを数字もそのままでもう一度使ったのだ。
この話は、可動蒸気害虫駆除トラックが、無知で恐怖を感じていた人々の心のなかで、簡単に移動ガス室へと変わっていったことを思い起こさせる。
防疫を担当したのがドイツであるか、アメリカであるか、イギリスであるかに関係なく、同じような反応がポーランドでも起こった。
ドイツは、ポーランド各地で、とくにチフスに対する防疫措置を広範囲にこうじた。
ここでは飴と鞭の政策が取られた。
すなわち、ドイツはイェディッシュ語で書かれた丁寧な小冊子を使って、衛生管理の重要性、シラミの駆除の重要性を、トラー(ユダヤの聖書)に言及しながら説明した。
誰だって伝染病にはかかりたくないから、説明さえすればおとなしく特別措置を受けてくれるだろう。
だが、世の中は石頭の人間もたくさんいて絶対に言うことを聞かない者もいる。
特に「宗教だから」ですべてを拒否する人間には何を言っても無駄だ。
そこでドイツは銃剣を使って地元住民を強制的に入浴させたり、シャワーをあびさせた。
特別措置は任務なのだから住人の意思など無関係に完全に履行されなければならない。
戦後、チフスがポーランドと西ロシア地方で大流行した。
アメリカとイギリスの専門家が防疫のためにポーランドに赴いた。
彼らも住民を害虫駆除しようとした。
しかし、彼らも、とくにユダヤ系住民からの抵抗と不服従に遭遇した。
アメリカのやり方の特徴は、殺虫のためにビンづめのシアンガスを使うことだった。
1920年代、ドイツは、シアンガスを使うにあたって、ビンやいわゆるボンベよりも安全な媒体を開発した。
それはチクロンBと呼ばれ、粘土状の丸薬であった。
ガスは圧力を加えられて液体として吸収されており、その後、缶に密封されたものである。
缶が開けられると、丸薬が撒き散らされ、ガスがゆっくりと放出される。
第二次大戦の頃までには、チクロンBは石膏を添加されることによって安定するようになり、室温でガスを完全に放出するには3時間ほどかかった。
強力な殺虫剤ほど効き目があるが、同時に人体にとって危険極まりない。
作業者が安全な位置まで離れることができるチクロンBは殺虫剤としては理想的だった。
この頃、ドイツは「害虫駆除室(Entwesungskammern)」も開発している。
煉瓦やコンクリートも使われたが、普通は鉄製であった。
約10平方メートルで、衣服が入れられると、チクロンの丸薬がそのなかにまかれる。
この部屋あるいは装置には普通2つのドアがついていた。
汚れた衣服が1つのドアから入れられ、害虫駆除された衣服が別のドアから出された。
1つのガス室に2つのドアという構造はSucject34で説明したSS少佐アルフレード・フランケ・グリクシュの再定住報告で出てくるガス室と同じだ。
つまり、あの報告書のビルケナウ焼却棟Uのガス室の元ネタは害虫駆除室なのだ。
再定住報告書のガス室は害虫駆除室の構造を元に書いているため、書いた本人はリアリティがあると考えたのだろう。
現場検証すれば一発で嘘だとばれるのにな。馬鹿丸出しだ。アホすぎる。
さて第二次大戦の頃のドイツはまた、シアンの放出温度かその近くの温度の空気を強制的に丸薬に吹きかけて、放出時間をスピードアップする複雑な装置も開発した。
このような空気循環技術(Kreislauf) は大規模な鉄道トンネルでも使われ、空気循環ガス発生装置(Kreislaufvergasungsapparaturen)によって、一度にすべての客車を燻蒸することができた。
チクロンBは害虫駆除に広く使われていたが、1930年代と戦時中を通じて、その他の多くのガスや物質が害虫駆除に使われたことも指摘しておかなくてはならない。
チクロンに代わって広く使われたガスは、「Tガス」と呼ばれる酸化エチレンと二酸化炭素の混合物で、それは、鉄製のボンベに入れられて、パイプを介して、害虫駆除室に送り込まれた。
このTガスはナチスのマイダネク収容所で発見された「二酸化炭素」とラベルが張ってあるボンベの存在理由を説明している。
二酸化炭素では人は死なないが、害虫駆除には使うからな。
ソ連はこの「二酸化炭素」のラベルが張ってあるボンベを「一酸化炭素によるガス殺の証拠」と言っていたが、そんなことを信じるのはニッコーと対抗言論とその信者くらいなものだろう。
その他のガスには、Tritox、Ventox、Areginalがあった。
害虫駆除・殺菌駆除装置は、ドイツの都市防疫センター、ドイツ労働管理局の臨時施設、戦争捕虜や移送住民の通過収容所(Durchgangslagern)にも大規模施設として存在した。
これらの三つの施設は汚染部門と清潔区画(reine und unreine Seite) に分かれており、脱衣室、シャワー室、二つのドアを持った標準サイズの燻蒸室をそなえていた。
それにはいくつかのバリエーションがあった。
例えば、 ドイツ中西部ヘッセン州ダルムシュタットの都市防疫センターは、ポーランド人、ソ連軍捕虜、ユダヤ人といった東部地区からの労働者の流入にそなえて、第二次大戦中に拡張された。
その地下室は防空シェルターとしても使われるようにされた。
ドイツ労働管理局の標準的な施設はディーゼル・エンジン室を備えていた。
ディーゼルは、これらの施設に動力源がなくなったときに、電力を供給することになっており、短時間で稼動したり、停止したりできるように設計されていたからである。
第二次大戦中、ドイツはこれらの手段すべてを使って精力的に防疫対策をこうじた。ユダヤ人がゲットーに収容されると、疫病が発生し、ドイツは地元のユダヤ人当局に防疫措置をとらせようとした。
痛ましいことではあるが、多くのゲットーでは、人々は隠れたり、指示に従わなかったり、抵抗したりした。
このときドイツは防疫処置を取らせようとして、ときに強引な手段に打って出た。
これがホロコーストとされているが、これのどこがホロコーストなのか私にはわからない。
当時の状況を無視して都合の良い事実のみを列挙すれば、たしかにドイツがユダヤを迫害しているということにはなるだろうが、歪曲以外の何者でもないだろう。
一方では、リトアニア共和国の都市ヴィルナ(ヴィリニウス)のゲットーが戦争を通じて防疫に成功したという記録もある。
この分野でのドイツ国防軍の経験も、防疫に成功した事例をあげている。
そこでは、浄化自動車や可動シャワー室が使われており、その多くはドイツ衛生医療部隊(Sanitatsdienst)のメンバーが改良したものであった。
もちろん、このような措置が適用されたなかで、もっとも悪名の高いものは強制収容所での措置であった。
収容者は到着するとすぐに、普通は裸にされ、貴重品を検査され、ついでシャワーを浴び、消毒ずみの衣服を与えられた。
実際、「浴室・害虫駆除施設」で衣服を害虫駆除し、別の区画でシャワーを浴びるという手順は酷似していた。
米兵クルト・フォンネグートは、ドイツの収容所に入ったアメリカ軍捕虜でさえも、その奇妙な儀式に不安となり、恐れを抱いたことを次のように描写している」
「裸のアメリカ人は、白いタイルの壁に沿った数多くのシャワー・ヘッドの下に立った。自分たちがコントロールできる蛇口はなかった。何が起ころうとも、待っているほかなかった。ペニスは縮み上がり、睾丸は中に引っ込んでしまった。生殖行為は、夕方の主な仕事ではなかった。見えざる手がマスターバルブを開いた。シャワー・ヘッドからは、沸騰した熱水が雨のようにほとばしり出た。その雨は、暖めることのないトーチ・ランプのようなものであった。それは、騒々しい音を立てながら、ビリーの身体に降り注いだが、骨の髄まで冷え切っていた彼の身体を温めることはなかった。アメリカ人の衣服はその間、毒ガスに通されていた。シラミ、バクテリア、蚤が数10億単位で殺されていた。」
「説明はまったくなされず、恐怖が支配するという状況は、50年前のメアリー・アンチンの時代からまったく変わっていなかったに違いない。
まして、屈辱についてはいうまでもない。
ドイツの防疫措置は以上のようなものであり、これに対するユダヤ人の反応は、不服従・逃避からパラノイア(熱狂)的な恐怖にまでまたがっていた。
こうした状況が、1942年から1944年夏のほぼすべてのガス処刑説に酷似しており、かなりの接点を持っていることがわかるであろう。
例えば、ソビボルはドイツの文書では通過収容所(Durchgangslager)とされている。
しかし、通過収容所には、到着者にシャワーを浴びせ、所有物を消毒してから、さらなる旅に送り出す施設が必要であった。
そこで起こったことはそのようなことであるとする生存者の証言もある。
しかし同時に、ソビボル収容所では到着者はシャワー・ガス・焼却という連鎖過程によってたんに絶滅されているという噂が西側で流れており、またそのように述べる証言もある。
マルキニア防疫施設はわずか数キロメートル離れたところにあったのだから、同じ状況がトレブリンカに関する証言にもあてはまる。
マイダネクに関しては、この状況はもっと顕著であった。
すぐ後に述べるように、浴室・害虫駆除施設Uはソ連によって絶滅センターとされた。しかし、その建設様式を見ると、入所者を消毒し、所有物を殺菌駆除する労働管理局の標準的な施設とまったく同一である。
1942年から1944年春までのガス処刑説を検証すると、それらは青酸・シャワー・浴室・可動ガス室に言及しているので、ドイツの防疫措置を検討してみた。
すると、ドイツは第二次大戦の60年以上も前に、防疫のために、可動害虫駆除室、浴室・害虫駆除室、燻蒸室――シアンガスを内包するチクロンBを一般的な殺虫剤として使用していた――を使うという措置を工夫していたことがわかった。
さらに、このような防疫措置に対しては、無理解あるいは伝統的な宗教的共同体の出身者のあいだで、またユダヤ人のあいだで、とりわけ、伝統的で孤立していた東ヨーロッパの出身者のあいだで、特徴的な反応があったこともわかった。
この反応には、逃避や不服従から、心配、恐怖、噂までがあった。最後に、当時行なわれていた害虫駆除措置が、当時流れていた大量ガス処刑の噂と非常に似ていることもわかった。
結論として、大量ガス絶滅という伝説の進化をつぎのように説明してみよう。
害虫駆除措置が東ヨーロッパの住民、とりわけ東部に再定住したか、強制労働に引き入れられたユダヤ人に適用された。
彼らは過去に虐殺を経験したことがあったので、絶滅と虐殺の噂を思い起こした。
これらの噂が今度は、西ヨーロッパやアメリカのユダヤ人団体に伝わり、彼らはその噂をすぐに信じ込んだ。
そして、この噂は、イェディッシュ語を含むイギリスのラジオ宣伝によって、ふたたびヨーロッパに戻り、広く信じられたわけではないとしても、1942年末までにヨーロッパの各地に広まるようになった。
つまり、ガス処刑の元ネタはドイツの防疫処置に対する未知の恐怖なのだ。
21世紀現在のようにシャワー・殺菌消毒・予防接種・それらの十分な説明の存在が「常識」として人々に当たり前に受け入れられる時代ではなかった。
口頭や冊子で説明しても、それを理解できない人間がいて、そいつらが思い込みで噂を騒ぎ立てていたのだ。
ひょっとしたら別のところから持ってきたかもしれないが。
どういうことかというと、これを見ていただこう」
「ここでご覧のような、鉄のドアとシャッターを付けた部屋――密閉された部屋という考えが浮かびました。二つの事実を結びつけてごらんなさい。どういうことになるでしょうか。・・・私が発見したものを観察してください。幅木にはガス管がありますね。よろしい。それは壁の隅にあり、コーナーにはタップがあります。その管はがっしりとした部屋につながってきて、天井の真ん中の漆喰のところで終わっており、そこは装飾で隠されています。その終わりは広く広がっています。外側のタップをひねれば、ガスが部屋に充満します。ドアとシャッターが閉じられ、タップが全開されれば、この小部屋に閉じこめられた人が意識を失うのに2分とはかからないでしょう。彼がどのような残酷な装置で彼らをここに誘導したのかわかりませんが、ひとたび、ドアの中に入ってしまえば、彼らは彼の慈悲のままです。だから、この小部屋に閉じこめられれば、2分しか生きていられませんが、ドアの反対側からあなたを嘲笑している悪魔を見ることはできます。どうしますか。・・・ここを見てください。幅木の真上に、消すことのできない紫色の鉛筆で『われわれ、われわれ』と書いてあります。それだけです。」
「鉄のドアの密室。
外のタップをひねれば密室にはガスが充満する。
ドアには覗き穴があり、内部に閉じ込められた人間は外で笑っている悪魔を見ることができる。
典型的なガス殺描写だな。
さて、これはアウシュヴィッツのことだろうか?それともマイダネク?または別の絶滅収容所のことだろうか?
答えはいずれも違う。
これはアーサー・コナン・ドイル卿によるシャーロック・ホームズの物語『引退したカラーマンの冒険』(1924年か1925年)からの抜粋であって、ナチスとはまったく関係が無い。
だが、これはナチスのガス室の描写そのものではないか。
もしかしたらガス室の本当の元ネタはこのような初期の大衆小説なのかもしれない。
ここまでそっくりだと単なる偶然で片付けてよいものかどうか悩むところだ。
最後に、ここまで説明したガス室神話のフローチャートをまとめておこう」
疫病の猛威
↓
19世紀・WWT・WWUのドイツの防疫処置(ガス室・ガス車)
↓
防疫処置に対する未知の恐怖
↓
ガス殺の噂
↓
1942年 ブンド報告
↓
BBC
↓
欧米メディア
↓
1944年〜 ソ連の現場検証による権威付け
↓
1945年〜 ニュルンベルグ裁判
↓
教科書・博物館・映画などによる権威付け
「さて、今回は以上だ。またネタが溜まったら更新する。ではさらばだ」