Subject:38
ナチスの「ガス室」神話の起源


 「ナチス・ドイツと言えばガス室、ガス室と言えばナチス・ドイツ。

通説の細かい部分など一般人は知らんだろうが、「ホロコースト=ナチのガス室」というイメージは大多数の人が当てはまるだろう。

これまで「逆転ニュルンベルグ裁判」ではナチのガス室神話が捏造であることを明らかにしてきた。

しかしホロコースト肯定派は言う。

「ガス室の話が捏造ならば誰が捏造を広めたのか!?連合軍が広めたという証拠はあるのか!?」

この指摘はナンセンスだ。

ガス室の話が捏造であることと、その捏造話を広めたのが誰かということは別問題だ。

しかし、この「ガス室による絶滅計画」という途方も無い捏造話がどのように始まり、どのように広まって、現在の形になったのかは実に興味深い。

このようなホラ話がなぜ人々に受け入れられたのか?

ナチス・ドイツによるホロコーストは嘘である。

ではそれを証言した人間は全員が共謀して嘘をついていたのか?

答えは「共謀してはいない」となる。

彼らは独自にそれぞれ勝手に嘘をついたのだ。

ではそれにしては証言には共通性があるのは何故だ?ということになる。

答えは、彼らは自分の知っている噂を元に嘘をついていた。ということになる。

証言した本人は嘘を”発明”した場合でも、それは元から知られていた噂に尾ひれをつけたものだ。

したがってナチス・ドイツのホロコーストの生き証人の証言にはほとんどに元ネタが存在する。

多くのバリエーションがある証言も、詳しく分析することで「この証言の元ネタはこれだな」と推定することができる。

今回はそれを説明しよう。

大半の文章のソースは合衆国の修正主義者サミュエル・クロウェルの論文からなので、それを参考にして欲しい。

まず、第二次世界大戦中のナチスによるガス殺処刑の宣伝は1942年春に始まる。

ユダヤ人の大量ガス処刑に関する最初の説は、いわゆるブンド報告Bund Report)にある」

 

ブンド(Wikiより)
ブンドは、イディッシュ語におけるリトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟(ユダヤ人労働者総同盟)の意味。
帝政ロシア時代の1897年ヴィルナで設立された、ロシア支配地域におけるユダヤ系住民の社会民主主義組織。正式名称はイディッシュ語でアルゲメイネル・イディシェル・アルベーテル・ブンド・イン・リーテ・ポイレン・ウン・ルスランド Algemeyner Yidisher Arbeter Bund in Lite, Poyln un Rusland, General Jewish Labor Union)と言い、ブンド Bund は略称・通称。
当初はロシア社会民主労働党(1898年設立)の一部であった。
ユダヤ教的、あるいは民族的なシオニズムを否定するが、民族的立場・文化的自治(これはソビエト連邦の非領邦的自治の構想とも足並みが合っている)を取り、ユダヤ系住民独自の社会民主主義の確立に固執する立場を取る。

 

 「ブンド報告は1942年5月の第三週にロンドンの亡命ポーランド政府にこっそりと持ち込まれた文書だ。

報告は二つのガス処刑の噂を載せている。

一つは、一度に90名をガス処刑する特別自動車(ガス室)が使われているというもの。

犠牲者はガス処刑される前に自分たちの墓を掘らされたというから、これは、ガス・トラック(犠牲者を埋葬地に運び、その途中で彼らはガスを吸入して死んだと考えられていた)というよりも移動可能なガス室であったのであろう。

第二の噂はワルシャワでの活動に関するものであった。

ユダヤ人が毒ガス実験を受けたという。

ブンド報告の方も、1942年春にワルシャワから発せられた少なくとも二つの文書から成り立っている。

第一の文書は1942年3月16日付のワルシャワのユダヤ人労働者ブンドからの地下通信であり、西ポーランドでのドイツの活動を次のように描いている」

 

「多くの村で、ユダヤ人は毒ガスによって死に追いやられた。彼らはおそらしい方法で、ガス室に改造された密閉のトラックに集められた、50人ぐらいの家族集団で、まったく裸にされたままで・・・」

 

 

 「そして、「毒ガス処刑」はポーランド中央部の都市「ウッジ」で実行されていると主張している。

ブンド報告の元となった第二の文書は、ワルシャワ・ゲットーでユダヤ人抵抗派と協力派が内部抗争をしていた時期の1942年4月30日付けのDer Vekerの巻頭記事だ。

この記事はブンド報告の犠牲者数のもととなっている。

5月にロンドンに届いたブンド報告はユダヤ人犠牲者70万という数字を具体的に述べた報告で、6月にはイギリスBBCやアメリカのボストン・グローブやニューヨークタイムズで伝えられた」

 参考資料:June 2: BBC: 700,000 Jews killed in Poland
(アドレス:http://www1.yadvashem.org/about_holocaust/chronology/1942-1945/1942/chronology_1942_17.html#top)
In May 1942, a Bund underground activist in Warsaw, Leon Feiner, sent a preliminary report to London containing information on the murder of Jews in various parts of Poland. The report traced the path of the murder actions: town after town, district after district, month by month. It described the extermination center at Chelmno, including the gas vans, and estimated the number of Jews whom the Germans had murdered in Poland by May at 700,000 (the figure was much higher). Feiner stated that, in the absence of substantive actions to halt the murders, no Jews would survive in Europe by the end of the war. The report also urged the Allies to adopt a policy of retaliation against German citizens residing in Allied countries.
Feiner’s report was forwarded to the media and to the political echelon, including the Polish government-in-exile in London, and became the decisive factor in the eruption of reports on the mass murder and their assimilation in public opinion.
On June 2, the BBC broadcast the main contents of the report, including the estimate of the 700,000 murdered Jews. However, it did not stress the conclusion of the report: that the program to murder all the Jews was already being carried out. A week later, the Polish government-in-exile presented the findings of the report to the Allied governments in an official missive. On June 25, Samuel Zygelbojm, one of two Jewish representatives in the Polish government, released the entire document to the press. The Allied governments did not respond to these efforts, but newspapers began to carry the information with greater frequency. The Boston Globe and The New York Times presented prominent reports, including the assessment that the Jewish population was being systematically annihilated.
Shortly after this, two authoritative voices in Britain reinforced the Bund’s announcement. At a press conference, the Minister of Information, Brendan Bracken, stated that 700,000 people, all of them Jewish, had been murdered in Poland. He also proclaimed that, once the war ended, the "United Nations" would ensure the rapid and severe punishment of the persons responsible for the grievous war crimes that had been perpetrated in Poland against Jews and Poles alike. He fiercely criticized those who regarded the murder reports as propagandistic hyperbole. The truth is solid, he said vehemently, and the murder will eventually come to light.

(エキサイト翻訳)
1942年5月に、ワルシャワのBundの地下活動家(レオンFeiner)は仮報告書をポーランドの様々な地域でのユダヤ人の殺人に関する情報を含むロンドンに送りました。 レポートは殺人動作の経路をたどりました: 次々と町、次々と地区、月月。 それは、ガスバンを含むヘルムノの撲滅センターについて説明して、ドイツ人が5月までにポーランドで70万で殺害したユダヤ人の数を見積もりました(数字ははるかに高かったです)。 Feinerは、どんなユダヤ人も殺人を止める実質的な動作がないとき終戦までにヨーロッパで生き残らないと述べました。 また、レポートは、ドイツ人の市民に対する報復がAllied国にある方針を採るようにAlliesに促しました。
Feinerのレポートは、メディアと、そして、ロンドンにポーランドの亡命政権を含む政治上の段階に転送して、世論における大量殺人と彼らの同化でのレポートの爆発で決め手になりました。
6月2日に、BBCは70万人の殺害しているユダヤ人の見積りを含むレポートの主なコンテンツを放送しました。 しかしながら、レポートの結末を強調しませんでした: すべてのユダヤ人を殺害するプログラムは既に実行されていました。 1週間後に、ポーランドの亡命政権は公式の信書の連合国政府にレポートの調査結果を提示しました。 6月25日に、サミュエルZygelbojm(ポーランドの政府の2人のユダヤ人の代表のひとり)は全体のドキュメントをプレスに発表しました。 連合国政府はこれらの努力に応じませんでしたが、新聞は、より大きい頻度で情報を運び始めました。 ボストングローブとニューヨークタイムズは際立ったレポートを提示しました、ユダヤ人の人口が系統的に全滅させられていたという査定を含んでいて。
まもなくこの後、イギリスの2回の正式の声がBundの発表を補強しました。 記者会見では、情報相(ブレンダンBracken)は、ユダヤ人であることでその70万民族、それらを皆、述べて、ポーランドで殺害されました。 また、彼は、戦争がいったん終わると「国連」がポーランドで同じくユダヤ人とポーランド人に対して犯された悲しい戦争犯罪に責任がある人々の急速で厳しい罰を確実にすると宣言しました。 彼は猛然と殺人レポートをプロパガンダの誇張と見なした人々を批判しました。 真実は固体です、そして、彼は熱烈に言いました、そして、殺人は結局、明るみに出るでしょう。

 

 「しかし、ブンド報告のソースになっている文書は死者の総数が70万とは述べていない。

つまり、BBCと欧米メディアが流したブンド報告の70万の数字に根拠はないのだ。

1942年4月30日付の「Der Veker」は詳細を述べることなく、毒ガス処刑の場所をウッジの北東にあるチェルムノ収容所と特定している。

注目すべきことに、3月16日の通信では、入浴(裸体の強制)とガス処刑が結びつけられている。

この2つは後にセットでたびたび登場することとなる。

亡命ポーランド国民会議のメンバーの二人はジギエルボイムとシュヴァルツバルトというユダヤ人だった。

彼らは、数100マイル離れたドイツの軍事占領下にあるユダヤ人に何が起こっているのか、当然関心を抱いていた。

そして民衆の支持を集めるためにこのような風説を広めることにも関心を持っていた。

占領軍であるドイツが悪者であればあるほど亡命ポーランド政府の存在価値は高まる。

万が一、曲がり間違ってバルト三国のように「ドイツ軍はソヴィエト共産軍を追い出した解放軍だ」とされてしまったら亡命ポーランド政府の立場がなくなってしまう。

このために、ブンド報告はメディアを通じて広く普及した。

すでに、1942年6月24日、BBCがブンド報告を放送している。

先ほどのソースだともっと前の6月2日には放送しているとあるから、たぶんこっちが先なのだろう。

とにかくブンド報告が5月に届けられ、ロクに検証もされず、短期間でラジオ放送されたのだ。

当時イギリスはドイツと戦争中だったから、反独プロパガンダはなんでも構わなかったのだろう。

6月25日、英国新聞『デイリー・テレグラフ』は報告に関する大きな記事を載せているが、その見出しは「ドイツによるポーランドでの70万人の殺害」、「移動ガス室」というものであった。

6月26日、ジギエルボイムはBBC放送でブンド報告の内容を伝えた。

これはイェディッシュ語(アッシュナーケ系ユダヤ人の言語)であったから、明らかにポーランドのユダヤ人向けであった。

1週間のあいだに、BBCはポーランド国民会議と話をつけ、国民会議は、これ以後の虐殺物語を報道する優先権をBBCに与えた。

1942年7月1日、亡命ポーランド政府の英字新聞「Polish Fortnightly Review」がブンド報告の風説にもとづく報告を発表し、ここで、特定の収容所すなわちソビボルとルブリン近郊のマイダネクの名をあげた。

さらに、アウシュヴィッツ労働収容所での虐殺をとりあげ、ここでは、約1000名のソ連軍とポーランド軍の捕虜が1941年9月にガス処刑されたと述べている。

これがアウシュヴィッツ最初のガス殺処刑の報道だった。

またこの新聞は、「パラディサルParadisal」という名のもう一つの収容所にも言及している。

報告によると、その名前は「ここに、パラダイスに通じる唯一の道がある」ということにちなんでいるという。

また、この報告は、パラディサル収容所の焼却棟はアウシュヴィッツの焼却棟の5倍も大きく、毒ガス実験がおこなわれていると論じている。

このパラディサル収容所とは一体どこのことだろうか?

そんな名前の絶滅収容所は存在しない。

ホロコースト肯定派の学者ペルトによると、これはビルケナウのことだそうだ。

だがビルケナウの焼却棟が登場するのは1943年のことで、1942年7月の時点ではまだ建設予定もなされてない時期だ。

アウシュヴィッツに関する「Polish Fortnightly Review」の記事はブンド報告にはなかった

つまり、「Polish Fortnightly Review」の記事を書いた人間はビルケナウのガス殺を見たことがないどころか、焼却棟の存在すらロクに確かめずにガス殺を報道したということになる。

この「パラダイスへの道」というパラディサルという単語は、のちにソビボルとトレブリンカの伝承の中に登場する「天国への道(Himmelfahrt)」 のもとになっているが、ビルケナウの歴史にはまったく存在しない。

1942年7月にはあった噂が戦後には消えてしまったということだ。

このような初期の説を眺めてみると、ガス処刑説が当時出されていた多くの絶滅説の中の一つにすぎないことは明らかである。

この時点ではアウシュヴィッツは絶滅計画の主役ではなく、ただの一収容所に過ぎなかった。

さらに、ガス処刑説が組織的な絶滅手段というよりも、実験的な措置と思われていることも真実である。

指摘しておかなくてはならないもう一つの重要なことは、ガス室の初期の物語が数多く登場するにあたって、BBCが、ポーランドに起源をもつ噂を流すのに大きな役割を果たし始めたことだ。

ラジオ放送はフィードバック効果を持ち、ポーランド起源の噂を繰り返すことによってそれに権威を与え、それがポーランドにふたたび持ち込まれて、ポーランドで様々な話を生み出していった。

これらの放送はその場限りのものであるかもしれないが、大量ガス処刑の噂を広め、普及させていった点でのラジオの役割は、十分な考慮に値する。

1942年7月16日までに、ガス処刑の風説が合衆国の新聞『ニューズ・レビュー』で繰り返され、ドイツはポーランド系ユダヤ人を殺害する「大規模なガス・ステーション」を用意しているとされた。

報告は、ユダヤ人が「非睡眠薬」を投与され、「縛られたまま死んでいった」と述べている。

この報告は、今日われわれが理解している説に近い。

だが薬や犠牲者の縛り付けに言及しているように、ガス処刑は大量絶滅としてではなく、処刑の一つのかたちとされている。

言い換えると、報告者はポーランドでのいわゆるガス処刑の手順をアメリカ合衆国での処刑手順になぞらえようとしているようにみえる」

 

 

亡命ポーランド政府 → BBC → 欧米メディア

▲1942年の反独プロパガンダの拡散フローチャート

 

 「1942年の夏、2つの噂がジュネーブにある世界ユダヤ人会議のジュネーブ代表ゲルハルト・リーグナーに伝わった。

2つとも、ナチズムに敵意を抱いているドイツの民間人からのものであり、ナチスが毒ガスの使用を準備していると述べていた。

1つは「ガス・かまどを点火する」という定式に変形し、もう一つは青酸あるいはシアンガス(Blausaur)の使用に特別に言及している。

この2つの噂が重要であるのは、第一に、それがドイツ起源であること、第二に、のちにシアンガスが絶滅の過程での基本的な「凶器」とみなされるようになったためだ。

しかし、権威のあるBBCによるガス説のフィードバック効果を考えると、著名なドイツ人が伝えた噂がその他の噂と同じような効果を持っていなかったことは明らかであろう。

多くの処刑の手段に過ぎなかったガス殺が、1942年夏以降、他の処刑手段よりも信憑性が高いと思われたのだ。

この点で指摘しておかなくてはならないのは、同じ頃、ポーランドからの2人の「目撃者」がジュネーブでインタビューを受けたとき、2人とも、ポーランド系ユダヤ人の苦難については多くを述べているにもかかわらず、ガス絶滅についてはひとことも語っていないことだ。

この時点ではガス殺は他の処刑よりも信憑性は高かったが、絶対的な地位を確保していたわけではない。

一歩リードした程度のものだった。

ゲルハルト・リーグナーでググったサイトには「世界で最初にユダヤ人絶滅を知らせた一人」と書いてあるが、それは嘘だな。

彼はナチス・ドイツの絶滅計画については知らせていない。

1942年の時点ではそのような噂は存在しなかったからだ。

BBCは1942年9月27日にもう一つの放送を流した。

ノーベル文学賞受賞者トーマス・マンがドイツ語で放送し、ガス処刑説を繰り返して、16000名のフランス系ユダヤ人が、「密閉」されたトラックでガス処刑され、11000名のポーランド系ユダヤ人も同じような方法で殺されたと述べた。

トーマス・マンは戦前にアメリカに亡命したドイツ人で、戦時中もずっとアメリカにいたから、こいつが言っていることは伝聞か作り話なのは明らかだ。

一体何を根拠に16000名だの11000名だのという数字を上げているのだろうか?

しかし、これらの噂は当時のヨーロッパでも耳にされていた。

それゆえ、1942年秋に移送されたフランス系とオランダ系のユダヤ人のなかには、強制収容所での自分たちの運命に不安を抱く者も当然にいたことであろう。

クレーマー日記によると、1942年9月の移送作業中に突然泣きながら命乞いをした囚人がいたことが書かれている。

彼女らはラジオによる「ガス処刑」の噂を聞いてSSに命乞いをしたのだろう。

アンネの日記によれば、やはり1942年10月9日にBBC放送でユダヤ人が大量虐殺されているニュースについての記述がある。

この頃にはガス”処刑”(※絶滅ではない)の話は一般人にも広く知れ渡っていたのだ。

大量ガス処刑説が進化するにあたっての次の重要なステップも、ポーランドからの資料、とくにヤン・カルスキの証言である。

ポーランド情報部に属していた彼は、ベルゼクでの目撃者であったと主張し、彼の報告はソビボルとトレブリンカにも言及している。

ジュネーブのシオニストがこれらの様々な報告を編集し、ロンドンとニューヨークで同時に出版した。

これらの資料には、明らかに新しい二つの要素が加わっている。

第一は、移送されたユダヤ人を石灰と塩素がまぶされたトラックに積むという記述である。これはのちに、塩素ガスによる絶滅説を生み出していく。

第二は、ベルゼク収容所での絶滅にかんする記述である。

犠牲者は、シャワーを浴びるために服を脱ぐように命令され、部屋の中に入れられて、ついで、床の上の金属板によって電気処刑されるというのである。

1942年11月26日付の『ニューヨーク・タイムズ』に掲載されたこれらの記事には、ドイツ人はユダヤ人の死者から「脂肪、石鹸、潤滑油」を作っており、「青酸が非常に高価であることがわかった」ために、ユダヤ人の静脈に泡を注射しているとのステファン・S・ヴァイゼというラビの話が付け加えられている。

なお、人間石鹸についてはイェフダ・バウアーのようなイスラエルで最も権威ある歴史家でさえも否定しているホラ話だ。

ベルゼクでの絶滅の記述は二つの理由から注目に値する。

第一に、「シャワー」が絶滅前のごまかしの要素としてはじめて登場している。

もっとも、前述したように、「強制脱衣」と「処刑」の結びつきはこの話以前から存在していた。

「シャワー」と「強制脱衣」と「処刑」がセットになるにはもう少し後になる。

第二に、電気処刑説がもはや突拍子もない話ではなくなったことだ。

1942年に様々な絶滅説が広まった結果、連合国の指導者は1942年12月17日に声明を発して、ドイツのやり方を非難した。

ただし、その手順については言及していなかった。

なぜか?

それは噂はあれど物証がないからだ。

1943年4月18日、虐殺に関する興味深いメモがロンドンで作成されたが、公表はされなかった。

それはアウシュヴィッツ・ビルケナウでの絶滅活動を記述している。

この匿名の文書では、銃殺以外に、三つの絶滅のかたちをあげている」

 

(a)ガス室。犠牲者は服を脱がされ、これらの部屋に入れられて窒息する。

(b)電気室。犠牲者は金属の壁をもつ部屋の中に入れられ、高電圧の電流が流される。

(c)いわゆる空気ハンマーシステム。特別な部屋のなかで、天井からハンマーが落ちて来て、特別設備によって犠牲者は空気の圧力によって死亡する。

 

 「周知のように、現在では(2)(3)は採用されていない。

電気室の記述はポーランド情報部員ヤン・カルスキの報告に由来しており、ふたたび登場してくる。

空気ハンマーシステムはもっと興味深い。この噂の要点はハンマーの落下という考え方である。

ここではじめて登場してくるやり方は、のちにマウトハウゼン(「弾丸布告」)およびザクセンハウゼン(「ペダルでこぐ頭脳破壊器」があり、84万のロシア軍捕虜を絶滅するために使われたという)での死の原形となる。

一方、空気圧力という要素は、1945年にちょっとだけ姿をあらわすトレブリンカのいわゆる「真空室」の原形であろう。

1943年4月の時点ではアウシュヴィッツについていろいろな絶滅手段が噂されていたのだ。

さて、この頃、ドイツはカチンの森事件を公開検証した。

1943年4月、ドイツはカチンの森事件はソ連の仕業であると多くの物的証拠と共に世界に主張した。

ポーランド亡命政府とBBCの宣伝は伝聞ばかりで内容もコロコロ変わり、何より物証がなかった。

それに比べ、ドイツは実際に現場検証を行い、埋葬地を掘り起こして死体まで出てきた。

これはソ連にとっては大きな痛手だった。

これ以後、反ドイツ宣伝にはソ連も加わり、ソ連はなんとかしてカチンの森事件を打ち消そうと反ドイツ宣伝を展開することとなる」

 

 参考資料:ホロコーストのガス処刑説の文芸学的分析の試み 著:サミュエル・クロウェル
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/crowell_01.htm)
当時最大の虐殺物語が、ドイツが暴露したばかりのカチンの森でのポーランド軍将校の虐殺であったからであろう[61]。この物語は単純である。1万以上のポーランド軍将校が1939年にソ連軍の手に落ち、それ以後消息を絶った。スターリングラードで第6軍が降服した直後の1943年2月、スモレンスクの近郊に駐屯していたドイツ軍は、ポーランド軍将校の大量埋葬地を発見した。ドイツは2ヶ月かけて、4400名の死体を発掘・分析した。独立ポーランド委員会も含む何人かの非ドイツ系の法医学の専門家も調査と検死に招かれた。その結果は300頁の報告書にまとめられ、将校たちは1940年春に組織的に虐殺されたと結論した。言い換えれば、それはソ連が実行した虐殺であったというのである[62]。
カチン事件はいくつかの理由で興味深い。第一に、最初、イギリスとアメリカは、同盟国が犯罪を犯した反駁できない証拠を突きつけられても、これがドイツの犯罪であるという立場をとった[63]。第二に、ドイツによる発掘と検死のやり方は徹底的かつ入念であった。ポーランド人も含む国際的な専門家が、あまり干渉を受けないで、自分の調査を進めることを許された[64]。第三に、ドイツの法医学的報告は、第二次大戦中に起こった虐殺の分析のなかでもっとも詳細なものであろう。他方、ドイツの虐殺に関する多くの風説に関しては、これに匹敵するような調査はまったくなされていない。

 

 「亡命ポーランド政府がロンドンで作ったメモが公表されなかった理由はカチンの森と比べられるのを恐れたからだろう。

両者を比べれば、反ドイツ宣伝がいかに物証に乏しく信憑性に欠けるものかが明らかになってしまうからだ。

1943年5月、6月はガス処刑の噂が広く流れていた時期である。

そして1943年7月、ソ連はおそらくカチンの告発に対処するために、クラスノダルで裁判を開き、「ガス・トラック」あるいはロシア人が呼ぶところの「ドゥシェグプキ」、「殺人トラック」を使ったガス処刑の件を自白したドイツ軍捕虜を登場させた。

しかし、いかなる「ガス・トラック」も発見されていないことをここで言っておかなくてはならない。

一応、写真は存在するが、なぜこのトラックがガス車と言えるのかという根拠はまったくない。

ただ言っているだけに過ぎない」

 

▲ 損傷を受けたマギルス・ドイツ(Magirus-Deutz)型の重貨物自動車の前面の写真。
これがなぜ「ガス車」だと言えるのかは、アウシュヴィッツ博物館もヤド・ヴァシェム博物館でもわからない。

※マギルス・ドイツは1864年の創業時から消防車に特化したメーカー。消防車と共に普通のトラックを手がけた時期もあった。

 

 「1943年8月、「ポーランド労働者は戦う!」という題の定期刊行物が、またもやトレブリンカでの絶滅説を繰り返し、人々を封じ込めて、蒸気を充満させて、殺害する部屋について言及している。

蒸気の使用という新しい点は別として、ここでもまた、絶滅の過程で「シャワー」というモチーフが使われている。

1943年11月末、ソ連はキエフを解放すると、数10万人がキーエフ郊外の渓谷バビー・ヤールで射殺されたと主張した。

法医学的な証拠がないのは、ドイツ軍が撤退の数週間前にすべての死骸を掘り起こし、それらをすべて跡形なく焼却したからであると説明された。

Subject36−1で説明したように、バビー・ヤールの大量射殺事件などというものは存在しない。

しかし、ここでの問題は、射殺説自体のリアリティーではない。

共産主義者とその同調者の殺害を命じる人民委員命令、ならびに反パルチザン戦闘を念頭に置くと、ドイツとその東ヨーロッパの協力国がユダヤ人も含む多くの人々を虐殺したことを立証する多くの証拠があるからである。

射殺そのものはあった。これに異論はない。

ただ、「数万人が一度に大量虐殺された」という話の”規模”に異論があるというだけだ。

ソ連の主張で興味深い点は、すべての死体が完全に焼却されたという点だ。

これこそが、第二次大戦中のドイツによる虐殺説のすべてにつきまとった特徴でもある。

ようするに、殺人事件における最大の物的証拠「死体」がないということなのだ。

1943年12月、ソ連は今度はハリコフで東ウクライナの虐殺裁判を開いた。

そこは、戦時中には、ドイツとソ連が占領を繰り返した土地であった。

再度、クラスノダル裁判でのガス・トラック証言が繰り返されたが、1943年12月16日、SS将校ハイニシュが興味深い証言をしている」

 

検事:(ブレスラウのSS長官)ゾーマンとの会話について話してください。
ハイニシュ:ゾーマンは、毒ガスによる死が苦痛もなく、人間的であると話しました。ガス・トラックでは、死は非常に急速だが、実際には、12秒以内ではなく、もっと遅いこともあり、その場合には、苦痛を伴うと話しました。ゾーマンは、囚人のガス処刑が実施されているドイツのアウシュヴィッツ収容所のことを話してくれました。人々に対しては、どこかに移送されると話され、外国人労働者に対しては、本国に送還されると話され、浴室に入るとの口実でそこに送られた。処刑される人々は最初、「殺菌駆除」との標識のついた場所に入り、そこで服を脱いだ。男性は女性と子供から分けられた。そして、「浴室」との標識のついた場所に進むように命令された。人々が自分の身体を洗っているときに、特別なバルブが開かれ、ガスを送り込んで、彼らを殺した。死者は200体を一度に焼却できる特別な炉で焼かれた。

 

 「SS将校ハイニシュは、ゾーマンがアウシュヴィッツがある地域を管轄するブレスラウ地区の保安部長であり、ガス処刑が行なわれたのはドイツ領内の収容所だけであると述べた。

「毒ガスを使った」処刑の実行決定は、総統ヒトラー、SS長官ヒムラー、SD(国家公安本部)長官カルテンブルンナーが出席した1942年夏の会議においてであったことを暴露した。

なお、SD長官で有名なラインハルト・ハイドリヒは1942年5月27日に暗殺されているため、カルテンブルンナーが後を引き継いでいる。

ハイニシュ証言はいくつかの点で注目すべきである。

第一に、1943年12月の時点で、ソ連の裁判で、アウシュヴィッツのガス処刑説が存在しており、それは、誤りを含んではいるが、明晰なものであり、のちの標準的な物語、後に配布された出版物のなかに登場する物語とよく似ていることである。

また、注目すべきは、ハイニシュが、犠牲者の民族を特定せず、ただ、外国人労働者とその家族ととだけ語っていることである。

この時点では主に殺された民族としてユダヤ人は特定されてなかったのだ。

当時、大量のウクライナ人労働者が徴用されて、ドイツ帝国に向かい、共同シャワーという侮辱にさらされていた。

ハイニシュによるガス処刑の記述には誤りがあるので、この話を分析するには、1943年5月のアウシュヴィッツに関する未発表の物語や当時広まっていた噂との結びつきがあったと考えられる。

だが、重要なことは、この話には、それまでにはなかった入浴と殺菌駆除という要素が含まれていることである。

さらに、占領下ロシアのメリトポリ地区委員のハイニシュとブレスラウのSS長官ゾーマンが、戦後の裁判では極秘に実行されたとなっている措置をどのように知ることができたのか、それを考察することも重要である。

1944年初頭の2月に、ベルゼクでの電気処刑説が再度登場する。

最後に、1944年5月の初頭、『ニューヨーク・タイムズ』は、ドイツが実際にはガス室である「特別浴室」の建設を計画しており、ハンガリー系ユダヤ人がそこで絶滅されることになっているという話を繰り返した。

ここにいたって、ガス処刑説はもっとも典型的な姿を現した。

ガス処刑その他の絶滅説を手短に検証してみたが、ここで強調しておかなくてはならないのは、正式に証拠と呼ぶことができるようなものはひとかけらも存在しないことだ。

カチンの森のように、実際に現場検証をして物証が出てきたというケースは0なのだ。

それにもかかわらず、絶滅手順のモデル――ここではシャワー・ガス・焼却という連鎖過程と呼ぶこととする――が登場している。

犠牲者はある種の入浴施設に連行され、ついで処刑され(時が経つに連れて、ガスに焦点が当てられてくる)、ついで痕跡が残らないように焼却されるという考え方は、1944年夏までにはすでに一般的となっていた。

しかし、公平に言えば、シャワー・ガス・焼却という概念は、蒸気、真空、空気ハンマー、電気処刑を含むその他の絶滅方法と依然として共存していたことも念頭においておくべきである。

だから、ガス処刑という風説を支持する物的・資料的証拠が誇張されることは、その他の方法の否認とみなすべきである。

これらのガス処刑説を検証すると、ほぼすべてがポーランドの匿名資料から出て来ており、スイス、ロンドン、アメリカのユダヤ人機関によって公表・宣伝されていることがわかる。

このことから多くの修正主義者が引き出した結論は、これらのガス処刑説はユダヤ人グループによってごまかしの一部として作り出されたということになる。

当然だ。「ナチス・ドイツが毒ガス処刑をしている」と言い出したはユダヤ人なのだから。

ただし、亡命ポーランド政府のユダヤ人やBBCは実際には嘘の内容を宣伝したが、本人たちは各地から集めた証言の内容の大半を本気で信じていたのだろう。

だから余計に性質が悪いのだがな」

 

戦時中の反ナチ宣伝の変化

1938.09:ロンドンで、毒ガス攻撃を想定して、ガスマスクを大量に配布
1938.10:H. G. ウェルズ『宇宙戦争』がラジオ放送、宇宙人による毒ガス攻撃の恐怖から集団パニック
1942.05:「在ポーランド・ユダヤ人労働者同盟」報告に移動式ガス室、ガス処刑が登場
1942.06:BBC放送、「在ポーランド・ユダヤ人労働者同盟」報告の内容を報道
1942.06:『デイリー・テレグラフ』紙に、「在ポーランド・ユダヤ人労働者同盟」報告にもとづく移動ガス室の記事
1942.07:亡命ポーランド政府の英字新聞にベウゼッツの電気処刑施設の記事
1942.09:BBC放送で、トーマス・マンが「ガス処刑」に言及する反ドイツ宣伝放送
1942.11:世界ユダヤ人会議議長ワイズ、ドイツ人によるユダヤ人の死体の石鹸、脂肪、肥料への加工に言及
1942.12:連合国間情報委員会、ヘウムノとベウゼッツの電気処刑、ガス処刑の報道
1942末:アメリカ・ユダヤ人会議の刊行物に、ドイツの死体処理工場の記事
1943.01:アメリカの『ニュー・リパブリック』紙にドイツの人間石鹸・肥料工場の記事
1943.03:のちのイスラエル初代大統領チャイム・ワイツマン、ユダヤ人大量殺戮への連合国の道義的責任に言及
1944.08:マイダネク収容所に関するポーランド・ソ連調査委員会報告、「殺人ガス室」の存在を強調、マイダネク犠牲者数138万人
1944.11:アウシュヴィッツからの逃亡者ヴェツラーとヴルバが執筆した戦争難民局報告が公表され、アウシュヴィッツ・ビルケナウでの大量ガス処刑が全世界に喧伝される
1944.12:ソ連の作家エレンブルク、英字新聞『ソ連戦争ニュース』で、ユダヤ人犠牲者600万人という数字
1945.01:ソ連の作家エレンブルク、英字新聞『ソ連戦争ニュース』で、ふたたびユダヤ人犠牲者600万人という数字に言及
1945.02:ソ連の『プラヴダ』紙に、B. ポレヴォイのアウシュヴィッツの「死の工場」の記事
1945.02:ソ連側、トレブリンカ看守レレコの「証言」にもとづいて、トレブリンカなどラインハルト作戦収容所での「ガス処刑」物語を作成
1945.03:ソ連の作家エレンブルク、「今では、ドイツが600万人のユダヤ人を殺したことを世界が知っている」と発言
1945.04:アメリカ軍、ダッハウ収容所の看守を機関銃で集団銃殺
1945.05:合衆国陸軍情報部秘密報告、ドイツの「人間石鹸工場」に関するポーランド側の資料を引用
1945.05:アウシュヴィッツに関するソ連調査委員会報告、アウシュヴィッツ犠牲者400万人

 

 「さて、ここまで「ガス殺」は単なる噂に過ぎず、ガス殺処刑は数ある噂の一つに過ぎなかった。

これが「他のは噂だが、ガス殺処刑は事実である」とはっきりした形になったのは1944年夏だ。

この時期になって大量ガス処刑の伝説は、ソ連政府が発表した一連の報告書、および合衆国政府の合衆国の戦争難民局が公表した報告によって、はっきりとした姿をあらわした。

この段階で、ガス処刑説は権威のあるものとなり、その年の末までに、ドイツは明確にそれを否定しようとほどだった。

重要な最初の資料は、1944年7月初頭にスロヴァキアのユダヤ人サークルから届いたと思われる連絡である。

以後、「7月報告」と呼んでおこう。

この報告が注目に値するのは、はじめてアウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に関する風説を完全に掲載しているからだ。

ホロコースト史家マーチン・ギルバートはこの資料を掲載している。

ガス処刑説を考えると、この報告には、今日の定説と矛盾していないという意味で、正確と思われるデータが含まれている。

すなわち、テシュ・シュタベノフ社が提供しているチクロンBが歪曲されたかたちで言及されており、入浴施設、ガスが投入される天井の穴についてが言及されていた。

しかし、報告には、明らかに虚偽と思われる要素がある。

例えば、穴の数(3)、処刑に必要な時間(1分)、焼却炉(その数も不正確に適切に描かれている)に向かうレールなどだ。

物理的な細部が異なるというのは問題だ。

はっきり言えば、この報告のソース元の証人は自分ではガス処刑を見てないのだ。

ただ噂を聞いただけに過ぎない。

だから、7月報告が唯一明らかにしていることは、ガス処刑の噂が当時のアウシュヴィッツで広まっていたということだけにすぎないのだ。

現場検証してないんだから当たり前の話だな。

この7月報告では、古い要素と新しい要素がまじり合っている。

その連絡報告は、毒ガス源としてはじめてチクロンBを特定している。

一方、前述したように、シアンが使われているとの噂は1942年夏に広まっており、のちには、宣伝のなかから姿を消した。

シャワーのモチーフは、1942年末から共通の要素でありつづけている。

シャワー・ノズルの穴から毒ガスが放出されるという連想はすぐに出てきたのであろう。

前年の1943年に、トレブリンカでの蒸気による絶滅の噂があったからだ。

ガスが収容者の上に投下されるという考えは、ガスを投入するには頭上に穴が必要であるという考えを生み出していった。

チクロンはシャワーヘッドを介しては投下することができず、もっと大きな穴が必要であるからだ。

収容者に石灰と塩素をふりかけたという事例がある。

移送にあたっては普通のことであったが、これは別のモチーフを生み出してきた。

すでにポーランド情報部ヤン・カルスキの報告は石灰によるガス処刑について記述しているからだ。

この報告では、入浴者が部屋に連れてこられ、適切な室温になるまで、そこに数分間立たされ、ついで、パウダー状のガスがふりかけられたということになっている。

もちろん、チクロンBはこのようなやり方では作用しないので、この記述は虚偽だ。

ガス処刑伝説の進化において、次の事件は決定的だ。

ソ連の大攻勢が実行され、ドイツ中央軍集団を崩壊させたため、1944年7月末、マイダネクが解放された。

今まではただの噂と証言だけで現場検証ができなかったが、これでようやく噂の真偽を確かめることができた。

だが、ソ連軍は1ヶ月間、そこを訪問することを許さなかった。

8月末に西側のジャーナリストに短期間公開しただけだ。

もしもマイダネクが本当に絶滅収容所でガス室と死体が実在したのであれば、カチンの森事件を公開したドイツのように、ソ連も西側メディアを招いて公開現場検証をしただろう。

逆に言えば、証拠が一切発見できなかったために現場を封鎖したのだ。

ソ連はここで一酸化炭素中毒の死体を発見したと言っている。

だが、ソ連が証拠としてあげたガスボンベのラベルには二酸化炭素と書いてある。

一ヶ月間封鎖されたため、この一酸化炭素中毒の死体を西側メディアは確認していない。

したがって、ソ連の検死はまったく信用することができない。

1985年のツンデル裁判でホロコースト肯定派の歴史家ラウル・ヒルバーグやクリストファー・ブローニングが検死報告を見たことが無いと答えたのは、そんな検死報告は実在しないからだ。

しかし、この当時の米国や英国は同盟国ソ連の主張をロクに検証せずにそのまま受け入れた。

その結果、『ニューヨーク・タイムズ』と『クリスチャン・サイエンス・モニター』がルポルタージュを掲載し、続いて、マイダネクに関するポーランドソ連特別委員会の公式報告が発表された。

マイダネクのガス処刑の過程は以前のマイダネクの噂や、アウシュヴィッツとは異なっている。

以前の記述では、犠牲者は服を脱がされ、シャワー室か浴室で死を迎えたと強調されていた。

特にビルケナウではこのシャワーは囚人を騙すための偽者ということになっている。

つまり、赤軍がマイダネクを開放するまではマイダネクとアウシュヴィッツのガス殺手順は同じだったのだ。

しかし、赤軍が開放した後では、シャワーは建物の最後の部屋で起こったガス処刑の前段階となっている。

相変わらず話の内容がコロコロ変わるな。

この理由は簡単だ。

ビルケナウと違い、マイダネクのシャワーは実際に水が通っていた。

だからシャワー室がガス室ではまずかったのだ。

そこで話を変更したのだろう。

イタリアの修正主義者マットーニョの主張によれば、マイダネクの実際のガス室は、害虫駆除室という衛生目的でだけ、設計・建設されたことを証明している。

これまで、ガス処刑物語の諸要素の多くは多かれ少なかれ自然発生的に生まれ、自然発生的に信じられてきたと論じてきた。

ガス処刑の噂を広めたのはユダヤ人であるが、それに権威を与えたのはソ連だった。

マイダネク特別委員会報告の反響は大きく、ホロコーストのシンボルの大半の起源がここにある。

すなわち、衣服、靴、毛髪の山といった類だ。

しかし、こんなものは大量虐殺の証拠にもならない。

ただ衣服、靴、毛髪の山があるというだけに過ぎない。

マイダネク報告のなかの最も悪名高い要素は、ドイツ人が犠牲者の死亡を観察したとされるのぞき穴付きの気密ドアだ。

この件が最初に明確に登場したのは、アメリカ合衆国の戦争難民局報告だった。

戦争難民局報告が1944年夏の終わりから秋の初めにかけて、どのくらいの期間、どのようなかたちで広まったのか正確にはわからない。

連合国によってガス処刑説が執拗に繰り返されたので、1944年10月12日にドイツがこれを否定したことがわかっている」

 

 参考資料:航空写真と矛盾している12の写真
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/revisionism_site/air_photo_evidence/ball_02.htm)
大量殺戮の否定
少なくとも1回、ドイツは大量殺戮をおおやけに否定している。1944年10月12日の書簡は、ドイツ側がビルケナウの囚人を大量殺戮するという噂を「記者会見で否定した」ことに触れている。1943年、とくに1944年1月に合衆国戦争難民局が活動を始めて以降には、合衆国とドイツはスイスとアイルランドの領事館を介して、つねに電報を交換し、大量殺戮の噂と囚人の安全について話し合っていた。合衆国の倉庫にこれらの電報がまだ存在しているならば、重要な問題を解決するために、それらの電報は公開されなくてはならない。

 「1944年11月26日、アメリカ合衆国戦争難民局報告が発表され、世界中のマスコミで報道された。

報告の内容は、今問題としているガス処刑室に関する限り、おおむね7月報告の資料を要約したものだ。

だが、のぞき穴に言及している個所がある点で、マイダネクに関する特別委員会の影響を受けていることは確実だ」

 

「1943年3月、最初の焼却棟の開所式には、ベルリンからの来賓が出席していた。8000名のクラクフのユダヤ人をガス処刑し、焼却するのが『計画』であった。来賓は、軍人、民間人とも結果に非常に満足し、ガス室のドアにつけられた特別なのぞき穴が、いつも使われた。彼らは、新しく建設されたこの施設を絶賛した」

 

 「戦争難民局報告には、今日のこのテーマに関する学問水準から見ると、多くの誤りがある。

戦争難民局報告がさまざまな噂を組み合わせたものであることは、1985年の最初のツンデル裁判で確証された。

戦争難民局報告は実際には何も立証してなかったのだ。

にもかかわらず、これは数ヶ月間で、シャワー・ガス・焼却という連鎖過程を宣伝しただけではなく、アウシュヴィッツ・ビルケナウを最大の屠殺場として宣伝したもっとも重要な文書となった。

しかし、前述したように、多くの誤りがあり、大量ガス処刑に関する信頼すべき証拠とはなり得ない。

こんなものはただのプロパガンダに過ぎなかったのだ。

すでに1944年夏、ソ連の宣伝家イリア・エレンブルクは、ラインハルト作戦収容所(ソビボル、トレブリンカ、ベルゼク)からの証言を入手しはじめていた。

このうちのいくつかは1945年に「Merder fun Folker」のなかで発表された。

今日これらの証言を眺めてみると、ガス処刑説が繰り返されている一方で、その詳細についてはほとんど提示していないことがわかる。

だが、念頭においておくべきであるのは、ラインハルト作戦収容所(ソビボル、トレブリンカ、ベルゼク)は解体されて、ガス室の物理的証拠がまったく存在しないことだ。

ガス室に関する命令書、通信、資料は当時提示されず、これ以後も、このような文書資料は存在していない。

これらの三収容所――200万近くが死んだといわれている――に関するわれわれの知識は、今でも、目撃証言とSSの自白にだけもとづいている。

これらの収容所が絶滅収容所であったという唯一の証拠は、いくつかの大量埋葬地の存在である。

たしかにトレブリンカには3つの大量埋葬地が存在する。

しかし、これらの大量埋葬地は、通常の見積もりからすると、数万の死体を埋葬できるにすぎない。

200万人が殺されたはずなのに、数万しか見積もりが取れないのではどんぶり勘定もいいところだ。

まして死因を特定してドイツが大量虐殺したと立証できないのでは、大量虐殺を証明することにはならない。

1945年1月末、ソ連軍によってアウシュヴィッツは解放され、赤軍は、病気のためにドイツに移送できないとみなされていた6000名の囚人を発見した。

数百の子供も含む解放された収容者の写真には、老人や衰弱者の姿もあるが、飢餓や疫病に苦しんでいる姿はない。

このような収容者が生存していたという事実は、すでに定説となっていた考え方と明らかに矛盾している。

わたしを含め、多くの人はアウシュヴィッツの大量死体の山の写真を見たことがないはずだ。

見たことがあるという人はよく思い出して欲しい。

それは本当にアウシュヴィッツの写真だったのか?

イギリス軍が開放したベルゲン・ベルゼンのような別の収容所の写真ではなかったのか?

アウシュヴィッツでソ連が撮影した死体はたしかに残酷ではあるが、数百万人が殺された割には数が少なすぎやしないか。

何を言いたいかというと、ソ連がアウシュヴィッツに到着したとき、死体の山など存在しなかったということだ。

ソ連が発見したのは536体の死体に過ぎない。

これらはすべてが検死された。

しかし死体からは毒物が検出されたという報告は存在しない。

死者は多くの人々の前で、荘重に葬られた。その光景について多くの写真とフィルムが撮影されている。

アウシュヴィッツは終戦からしばらくは大虐殺の舞台ではなかった。

当初はベルゲン・ベルゼンやダハウのような死体の山が撮影できた場所が大虐殺の舞台だったのだ。

西側メディアがそこを現場検証した結果、その死体の山は病気と栄養失調の犠牲者の山だと判明したため、大虐殺の舞台がソ連の占領下の強制収容所へ移ることとなる」

 

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、ソ連側は536体を発見し、すべてが検死された[649]。死者は多くの人々の前で、荘重に葬られた。その光景について多くの写真とフィルムが撮影されている[650]。

 参考資料:ホロコースト講義 著:ゲルマル・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/390.htm)
アウシュヴィッツとトレブリンカなどの収容所では、死体の山も発見されていませんし、したがって、それを撮影した写真もありませんでした。ですから、それにもとづいて虐殺宣伝を行うことはできませんでした。一方、ダッハウとベルゲン・ベルゼンには死体の山があり、それを撮影した写真がありました。フライは、こうした条件のもとでダッハウとベルゲン・ベルゼンについて虚偽の宣伝を広め、ホラー写真を利用することを正当化できるとみなしているのです。つまり、こうした状況の下で、戦勝国――今日でも依然として何名かの歴史家――は西部地区収容所の写真を天からの贈り物とみなしました。この写真を利用することで、民族社会主義=究極の悪魔説を立証し、連合国の戦争犯罪――絨毯爆撃、自動逮捕、見世物裁判、民族浄化、ドイツ軍捕虜と民間人移送者の奴隷労働、特許の泥棒、ドイツの非工業国化など――を正当化することができたのです。そして、忘れてはならないのは、その後に始められ、今日まで続いているドイツ人の再教育、すなわちドイツ民族の非民族化を正当化することができたのです。フライはこうしたことを歴史的政治的に正しかったとみなしているのです。

 

 

 「のちに、SS隊員は、戦争難民局報告が発表された1944年11月26日に、ヒムラーが絶滅を中止するように命令したと自白している。

言うまでもないことだが、この自白を立証するような資料的証拠は存在していない。

だから肯定派が「連合軍がナチスの収容所を開放したときは絶滅計画は終わっていた。だから遺体や証拠は処分されて見つからない」という主張には証言しかソースがないのだ。

同時に、ソ連は、民族主義的な宣伝機関紙『プラウダ』に解放されたアウシュヴィッツについて言及している。

1945年2月1日にちょっと触れた後に、レポーターのボリス・ポレヴォイの報告が、1945年2月2日の金曜日に掲載された。

それは、収容所が解放されて1週間ほどあとで、アウシュヴィッツについての公式のソ連報告が発表される3ヶ月前のことだった。

ポレヴォイがマイダネク報告に影響されていることは明らかであるが、いくつかの相違もある」

 

ポレヴォイ報告 1945年2月2日
「昨年、赤軍がマイダネクの恐るべき、おどろおどろしい秘密を全世界に暴いたとき、アウシュヴィッツのドイツ人は犯罪の痕跡を消し始めた。彼らは、収容所の東側にあったいわゆる『古い埋葬地』の土をならし、電気コンベアベルトを壊し、その痕跡を消した。そこでは、数百の人々が同時に電気処刑され、その死体はゆっくりと動くコンベアベルトの上に投げ捨てられ、溶鉱炉のてっぺんにまで運ばれて、そこに捨てられ、完全に焼却された。残った骨は、粉引きミルに運ばれて粉々となり、周辺の農場に送られたというのである。子供を殺すための特別な可動装置もあった。収容所東地区の固定ガス室はうまく作りかえられており、ちょっとした出窓や飾りもつけられていたので、なんでもないガレージのように見えた。」

 

 「電気処刑?コンベアベルト?

なんだこの突拍子もない説は。

ホントに現場検証した後の報告なのか?

1945年2月のポレヴォイ報告と、三ヶ月後の1945年5月のソ連特別委員会のアウシュヴィッツ報告はまったく異なっている。

この理由を考えてみよう。

まず、1945年5月のソ連のアウシュヴィッツ報告は1944年11月26日の合衆国戦争難民局報告の影響を受けている。

アウシュヴィッツについてのソ連の物語は、難民局報告のもととなったさまざまな匿名のレポートと内容を合わせるために、難民局報告にしたがって改訂されていったのだ。

一方、ポレヴォイ報告には、他の影響と関連性がある。

例えば、「死の工場」という概念は、今日のホロコースト文献ではよく知られているが、それがはじめて登場したのはここだ。

1945年2月のポレヴォイ報告までは「死の工場」という概念はなかった。ガス殺は処刑の一手段に過ぎなかったのだ。

この「死の工場」の概念は、工場システムを拒否するロシア、ソ連、西側の象徴主義と結びついているだろう」

 「工場システムはプロレタリア階級を組織し、急進化することなどなく、命令と服従という産業システムにプロレタリア階級を一貫して吸収していたのです。

工場の資本家や経営者である帝国主義的搾取階級は、工員であるプロレタリア階級を働かせ、自身は働かずに工員の生産した富を吸い上げているのです。

喜劇王チャーリー・チャップリンの「モダン・タイムズ」は人間がいかにロボットに近づけるか?をテーマにしたブラックコメディですが、このテーマは映画から半世紀以上経った現在でさえもまったく色あせていません。

3社に1社が残業100時間を越える労働者がいるという現在の日本。

しかし、残業代を払いたくないから残業記録を残さないという悪質な企業が大多数である以上、この数字は氷山の一角に過ぎず、実際には100時間を越える労働者はまだまだたくさんいるでしょうし、実際は200時間超えていても100時間しかカウントされないという人もいるはずです。

万国のプロレタリアよ団結せよ!

働いたら負けです。働きたくない在日朝鮮人に生活保護を!」

 「さっさと祖国に帰れ。

ごほん。

チャップリンのような近代の工場システムによる社会を非難した映画が大ヒットしたを見てもわかるように、「工場」という概念は戦前の人間にとっては、今よりもはるかに印象が悪いものだったに違いない。

だから「死の工場」という概念はそれまでの「処刑」よりも強烈な印象を与えただろう。

一方、「犯罪の痕跡を消し去る」ドイツ人という概念は、すでに指摘してきたように、1943年のカチンの森の発掘にさかのぼる。

カチン森事件に対抗してバビー・ヤール事件をでっち上げたときから、ソ連は「ドイツは大虐殺の証拠を隠滅した」と説明してきたのだ。

「電気コンベアベルト」はその後のアウシュヴィッツの物語にはまったく登場しない。

この元ネタは、ベルゼクその他の巨大電気室に関する報告に結びついているのだろう。

「子供を殺すための特別な可動装置」はガス・トラックのことを指していると思われる。

すでにクラスノダル・ハリコフ裁判によってガス・トラックが殺人用だと証明されているからだ。

クラスノダル・ハリコフ裁判はソ連のクラスノダルとハリコフで開かれた、ドイツ軍兵士とその協力者に対する「人民裁判」のことだ。

クラスノダル裁判は1943年7月14−17日に、ハリコフ裁判は1943年12月15日から17日までに開かれた。

「固定ガス室」とは、ビルケナウの害虫駆除室BW5aと5bか、あるいは焼却棟WとXのことを指しているのと思われる。

「ガス室」を「ガレージ(車庫)」のように最初に表現したのは、マイダネクの「ガス室」についてだ。

ポレヴォイ報告でもっとも驚くべき点は、現場検証したにも関わらず今日の「絶滅収容所アウシュヴィッツ」の姿と大きく異なっていることだ。

つまり、現場検証の結果とポレヴォイ報告はまったく一致してない。ポレヴォイ報告はまったく事実を語っていないということになる。

ポレヴォイ報告が公表された直後、ソ連の尋問官は、トレブリンカの衛兵であったパーヴェル・レレコから供述を手に入れた。

翌1945年2月20、21日、レレコは2つの宣誓供述書をしたため、これが、トレブリンカでの大量ガス処刑説、およびラインハルト作戦収容所でのガス処刑説の根幹を作り上げた。

レレコ証言は、ガス処刑の手順に関して、次のように詳しく述べている」

 

 

▼トレブリンカのガス室手順(衛兵パーヴェル・レレコの証言1945年2月20、21日より)

1) 犠牲者は列車をおろされると、貴重品をすべて提出するように求められ、男女に分けられ、服を脱がされる。
ついで、犠牲者は、ガス室のある別の区域まで歩かされる。
2) ガス室には、四角形の花壇がある。犠牲者はドアではなく、敷物でできた重いカーテンを通ってなかにはいる。
3) 建物のなかには、長い廊下があり、両側に五つの部屋がある(全部で10室)。
4) 両側のそれぞれ四つの部屋がガス室であり、それは6メートル四方、高さ2.5ないし3メートルである。
5) 天井の真ん中には、架線のない照明設備と二つのシャワーヘッドがあり、ここからガスが部屋に放出される。
6) 壁、床、天井はセメントで作られている。
7) ガス室には二つのドアがあり、外側への出口から死体が運び出される。
8) 一部屋につき500名が収容される(36平方メートルで500名)。
9) 10部屋のうち8部屋がガス室として使われ、残りの二つには、ガスを部屋に送り込む『強力なドイツ製のエンジン』が備えられている。
10) 一杯になると、ガス室は「気密ドア」によって密閉される。
11) ガス処刑の進行は、各ドアについた「銃眼」から観察される。
12) ガス処刑には15分かかる。
13) 20メートル離れたところに古いガス室の建物があり、そこには三つのガス室しかない。
14) 死体は、長さ20メートル、深さ1メートルのコンクリートの焼却壕に置かれる。

 

 「レレコの尋問は、ラインハルト作戦収容所でのガス処刑をもっとも詳しく描いているがゆえに、貴重だ。

その他の証言は、ガス処刑の手順を描くにあたっては、明らかにレレコ証言と調和をとろうとしている。

レレコ証言は何も新しいことを提示していない。

レレコ証言はそれまでの噂に裏づけを与えただけに過ぎない。

証言を見てみよう。

すでにこの時点で、シャワー・ガス・焼却という連鎖過程は知られていた。

もっと重要なことは、建物の記述がマイダネクの浴室・害虫駆除施設と非常によく似ていることだ。

長い廊下があるとか、中くらいの部屋に数百の人々が裸で押し込められるとか、部屋はコンクリート、あるいは鉄筋コンクリートで作られているとか、部屋には二つのドアがあるとか、ドアは密閉されるとか、のぞき穴から死んでいくのが観察されるとかである。

さらに、旧式の「ガス室」の数(3)も、マイダネクのガス室とされた部屋の数に対応している。

最後に、レレコ証言をマイダネクと結び付ける決定的な点がある。

エンジンのことだ。

マイダネクの入浴施設の三つの部屋の外には、部屋に温風を送り込むボイラーがついている。

これは、チクロンBやその他のシアン製品、あるいは二つの併用による温風殺菌駆除施設と完全にマッチしている。

しかし、マイダネクに関するソ連特別委員会は、これらのボイラーは一酸化炭素ガスを発生させて、それを内部に送り込み、部屋の中にいる人々を殺したと主張した。(ソ連は、一酸化炭素ガスはパイプを介して別の部屋に送り込まれたとも主張している)。

レレコは、強力なドイツ製のエンジンが一酸化炭素を発生させ、15分で500名を殺したと証言しているが、これは明らかにマイダネク報告から出たものだ。

レレコの自白はエンジンの型を特定していない。

この点は二ヶ月後のクルト・ゲルシュタインに委ねられ、今日ではディーゼルエンジンとされている」

 「ケルト・ゲルシュタイン陳述を見てみよう。

ゲルシュタインはSS下級将校で、戦前から反ナチス活動に関与していた。

しかし、彼は技術者でもあり、害虫駆除目的でのシアンガスの使用に関与していた。

彼は赤軍の侵攻を逃れ、1945年4月に連合国側に降伏し、1945年5月6日にフランス当局に引き渡された。

この間、彼はいくつかの宣誓供述書あるいは陳述を書いている。

これらは細部では異なるが、ベルゼク収容所でのガス処刑の様子を描いており、その他のラインハルト作戦収容所でのガス処刑の実行を証言している。

ゲルシュタイン陳述は、大量ガス処刑が起こったと主張する人々が最も広く引用する資料の一つであろう。

しかし、陳述全文には多くの誤りと、有りそうもないことが含まれているために、全文がほとんど引用されないのが問題である」

 

▼ゲルシュタイン陳述の要約

1) ゲルシュタイン陳述は、ガス処刑その他に関して、以下のように要約できる。
2) ベルゼクは1日に15000名の能力を持っている。
3) ソビボル(見てはいない)は1日に20000名の能力を持っている。
4) トレブリンカは1日に25000名の能力を持っている。
5) 収容所を統括するグロボクニクは、衣服を消毒し、古いディーゼル・エンジンを使っているガス室の効率を上げるようにゲルシュタインに指示する。
6) グロボクニクは、ヒトラーとヒムラーが1942年8月15日に収容所を訪れたことをゲルシュタインに伝える。ゲルシュタインは、ヒトラーとグロボクニクとのあいだのまったく信じられない会話を記録している。
7) 翌日、ベルゼクで、ゲルシュタインは、浴室のことを書いている。
8) 外には、花が咲いている。
9)『浴室と吸入室へ』という指示板。
10) 建物には短い階段がついている。
11) 両側に「ガレージのような」三つの部屋があり、それは4x5メートル、高さ1.9メートルである。
12) 輸送列車が到着し、順番に服を脱いで、貴重品の提出が強制される。
13) 髪の毛が刈られ、誰かが『それは潜水艦の特別用途、充填材料を作るために』とゲルシュタインに語る。
14) 人々がガス室に押し込められる。25平方メートルに700−800名。
15)ディーゼル・エンジンが始動しなかった。ゲルシュタインは遅れを自分のストップウォッチではかる。2時間49分であった。
16) 部屋の小窓から見ると、電灯の下で多くの人がまだ生きていた。
17) ガス処刑の開始から32分後、全員が死んだ。
18) 翌日、彼はトレブリンカへ行った。8つのガス室があった。
19) 35−40メートルの高さの衣服と下着の山があった。
20) BBC放送の数は低すぎる。2500万がガス処刑された。
21) 1942年6月8日、ゲルシュタインは、自分がチェコスロヴァキアのコリンで集めたボンベは人々を殺すためのものであるという噂を広めた。
22) 輸送中のシアンはボンベに入っている。
23) 殺人のもう一つの方法は、人々をはしごに登らせて、そこから溶鉱炉に落とすというものである。

 

 「これらの主張のいずれにも、物的・資料的な証拠はない。

ボンベに入ったシアンで誰かが殺されたとは通常は考えられていない。

チクロンBで殺されたというのが定説だからだ。

ただし、戦後のベルゼン裁判ではユダヤ人囚人ソフィア・リトヴィンスカがアウシュヴィッツIのガス室に閉じ込められたとき、天井から煙が出てくるのを見たと言っているから、その元ネタはゲルシュタインかもしれない。

彼女は嘘を”発明”したのではなく、当時知られていたゲルシュタインの供述(1945年7月に広く公表された)をそのまましゃべっただけと考えるべきだろう。

そのゲルシュタインの「ボンベ」というのは以前あった蒸気処刑が元ネタだろう。

ヒトラーとヒムラーがラインハルト収容所に来て話したことについては、この2人が1942年8月にこれらの収容所にいたことはないから全部嘘だ。

2500万人だの35メートル以上の衣服の山だのはあり得ないような数字だ。

だから、この資料を事実として分析する必要はなく、陳述のもとが何であるかを問題にした方がよい。

ディーゼル・ガスに言及していることは、ソ連によるガス・トラックの暴露、あるいはトレブリンカに関してのソ連の議論と結びついているだろう。

例えば、ガス室が「ガレージ(車庫)のように」見えるといった比喩は、マイダネクに関する1944年夏のヴァースの記述、あるいは1945年2月のアウシュヴィッツに関するポレヴォイの記述によっているに違いない。

実際のアウシュヴィッツのガス室は焼却棟の中にあるのだから、煙突のある焼却棟が車庫のように見えるわけがない。

しかし、ガス車が元ネタならばそう例えても不思議ではない。むしろ自然だ。

ゲルシュタインが人間に対してシアンガスを使っているという噂を広めることに本当に関与していたとすると、これらの噂が登場した時期(1942年6月8日)は、翌8月にスイスに届いたシアン使用の噂と一致しているが、これは興味深い。

別の要素、すなわち2500万の犠牲者という要素はチクロンの使用マニュアルにさかのぼる。

衣服の山はマイダネクの報告に言及されている。

なかでも、陳述は、1945年2月におこなわれたレレコの尋問と、同時期かそれ以前に行なわれたトレブリンカとソビボルに関する証言の影響を受けている。

部屋の数、建物の配置、エンジン、のぞき穴、そして建物の前の花までもが、明らかに以前の話から出ている。

ゲルシュタイン陳述の大半は嘘だ。

その中で明らかに真実とみなされているのは、すでに伝統的となっているシャワー・ガス・焼却という概念に関連している個所だ。

しかし、これは、ゲルシュタイン陳述の一部を使って、すでに知られていることを確認しているにすぎない。

ゲルシュタイン陳述の最大の構造的な難点は、ディーゼル・エンジンを使って、ガス室用の一酸化炭素を発生させたという点だ。

ディーゼル・エンジンによるガス車の証言はいくつかあるが、技術的なスペックを語ったものはゲルシュタインだけだった。

よってゲルシュタイン陳述によるガス車のスペックが技術的に有り得ないことが証明された以上、すべてのガス車の証言は嘘だと言えてしまう。

ゲルシュタイン陳述の問題点は、それがラインハルト作戦の証言から派生したものであるとか、馬鹿げた点が数多くあるとか、ベルゼクでは60万人の大量殺害がおこなわれたとする記述が確証されていないという点にあるのではない。

チクロンの専門家であるゲルシュタインが、自白することで、有罪を免れようとしており、そして、このことによって、チクロンBが大量殺人の凶器と当時みなされていたことが証明されている点にある。

免罪の面では彼は失敗した。

彼の陳述が1945年7月に広く公表されると、フランスはゲルシュタインを戦争犯罪人として裁こうとし、彼は結局自殺した」

 「ガス処刑説が今日のかたちを取った時期に焦点をあてれば、1945年4月13日から5月6日までの3週間であるといえるだろう。

この時期に、西側連合国は多くの収容所を解放し、この時期の終わりに、ソ連はアウシュヴィッツ・ビルケナウに関する特別委員会報告を公表した。

1945年4月15日、イギリス軍はベルゲン・ベルゼン収容所を占領した。

そこには数10万の囚人がいた。

イギリスの従軍写真家によるベルゼンのイメージは、拭いがたい印象を残した。裸で、変色し損傷した死体の山――その多くは腐敗しようとしていた――が建物の外に薪木のように並んでいた。

囚人の詰め込まれたバラックは死者や瀕死の収容者で一杯であった。

身体をねじまげられた死体でうまっている大量埋葬地。衝撃、恐怖、信じられないというのが一般的な反応であった。

言葉では解放者が見たものを言い表せないというのが、共通したコメントであった。

やはり1945年4月に、アメリカ軍がダッハウとブッヘンヴァルトを解放した。

これらの収容所も独自のイメージを提供した。

ダッハウでは、一群の無蓋貨車の上に数百の囚人の死体が積んであり、ブッヘンヴァルトでは、入れ墨をしていた収容者の死体からはがされたと思われる人間の皮膚が、一握り発見された。

このような死と破壊に対するアメリカ人の反応は、少なくとも一つの事例では衝撃を通り越していた。

ある将校は、ダッハウの死体を目撃して、数百のSS隊員(多くが若者)と解放の時に収容所にいた兵士を並べて、冷血にも機関銃で射殺したのだ。

現場検証と尋問をすれば、それらの死体は連合軍が間接的に殺したものだと判明しただろうが、死体の山を見て冷静にはいられなかったようだな。

連合国兵士は、このようなおそらしい光景を目の当たりにして、自分たちの知識の枠内でこれを解釈した。

噂は本当だったのだ、と。

彼らが、検証されたことのない3年間のプロパガンダから知っていたことは、ドイツが収容所でシャワー・ガス・焼却という連鎖過程を使って数100万の人間を殺害してきたということだった。

シャワー、焼却棟、害虫駆除室が存在したことは、周知のガス絶滅説の第一の証拠となった。

裸で、変色し、損傷を受けている死体は、連合軍の到着直前にガス処刑された犠牲者に違いないとされた。

ここでもまた、死体は、すでに何年間もなされてきた告発の全体性の証拠である。

そして、あるアメリカ人の表現では、ドイツ人は「うまくやり遂げる前に」、阻止されてきたという印象が生まれた。

問題は、このような感じ方がすべて誤っていたことだ。

連合軍が西部地区の収容所で発見したのは、「世界史のなかでのチフスの最後の大流行」の結果にすぎなかった。

戦争の最後の数週間、数ヶ月のあいだに、収容所の衛生施設、収容所への輸送・供給システムが完全に崩壊したことがこの大流行をもたらした。

死体が変色し、損傷を受けていたのは、腐敗が進んでいたためであり、裸であったのは、囚人が死ぬと、他の囚人が服を脱がせて、シラミのついた衣服を焼却したためだ。

この当時、西部地域の収容所のガス室として広く報道され、写真も撮られた施設は、標準の害虫駆除室にすぎなかった。

1960年、西部地域の収容所ではガス処刑はなかったことが定説となった。

だが、当時の西側の人々は死体の山しか目に入らず、それをドイツの悪行とナチス文化の証拠とみなしたのである。

西側の収容所、とくにベルゼン収容所のイメージは、ホロコーストひいてはガス処刑説の証拠として何十年も残った。

終戦直前、ソ連は報告を発表し、その報告は絶滅計画の本質を、権威をもって確定した。

アウシュヴィッツに関するソ連特別委員会は、その他のソ連の報告と同じように、比較的短いものであり、30頁の小冊子として刊行された[226]。ガス処刑説に力点を置いたこの報告には、新しい事実はほとんど含まれていない。

二つの資料が引用されているだけである。

一つは、焼却棟の建設に関するもの、もう一つは、焼却棟WかXの特別目的の浴室に言及している資料である。

この証拠は有罪の証拠とみなされただけではなく、それだけで犯罪の証拠として十分であるという連鎖過程がこの当時、本質的なものとみなされており、どちらかの存在が他方の存在の決定的な要素とみなされていたことを示している。

報告の内容は、ガス処刑説に関しては、次のようにまとめられる」

 

 

▼ソ連のアウシュヴィッツ報告の要約(1945年5月)

1) 四つの新しい焼却棟では46の燃焼室を持った12の焼却炉が利用できる。
2) 各燃焼室は3−5の死体を処分できる。
3) 焼却にはおよそ20−30分かかる。
4) 特別目的のための浴室、すなわち、人間の殺害のためのガス室は焼却棟に隣接した特別な建物の地下室にある。
5) また、別に二つの『浴室』があり、ここで殺された人々の死体は戸外で燃やされた。
6) 犬が死を待つ人々を浴室に追いたてた。
7) 途中で、彼らは棍棒やライフルの銃床で殴られた。
8) 部屋のドアは密閉され、そのなかで、チクロンで毒殺された。
9) 死ぬまでに3−5分であった。
10)20−30分後、死体が除去され、焼却棟の焼却炉に連れて行かれた。
11)焼却の前に、歯科医師が死体から金歯をすべて抜き取った。
12)『浴室』とガス室の『生産性』は焼却炉の処理能力をはるかに超えていた。それゆえ、ドイツ人は戸外で大規模に火を燃やして、死体を焼却した。
13)戸外焼却のために、幅4−6メートル、長さ25−30メートル、深さ2メートルの壕が掘られた。
14)壕の底に溝が走っており、空気の供給のために使われた。
15)死体は狭軌の鉄道によって、火のところに運ばれ、壕の中に何層にも積み重ねられた。
16)オイルが注がれ、そして焼却された。

 

 「報告の末尾で、ソ連は、五つの焼却棟で焼却しうる死体の数を月279000名とし、ここから、最大焼却能力は500万以上であったと結論した。

メンテナンスなどで稼働率が80%と仮定し、500万×0.8=・・・」

 

「技術委員会によると、ドイツの処刑人は、アウシュヴィッツ収容所が存在しているときに、ソ連邦、ポーランド、フランス、ユーゴスラヴィア、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ブルガリア、オランダ、ベルギーその他諸国の少なくとも400万の市民を殺害した」

 

 「ということになった。

ここから、アウシュヴィッツの400万という数字が誕生した。

つまり、アウシュヴィッツ400万人という数字は実際にカウントしたわけではないのだ。

アウシュヴィッツに関するソ連特別委員会報告は、ガス処刑説に関するもっとも重要な資料だ。

たしかに、ガス処刑説が、この薄っぺらく、内容のない小冊子にさかのぼることができるのは、いささか衝撃的であるな。

しかし、この当時には、この報告は、ガス絶滅説が事実であるとしただけではなく、最大の強制収容所でこの政策が実行されていたと断定した。

だが、この報告書はガス処刑説の証拠を提供しているわけではない。

2つの状況証拠的な資料にもとづきながら、焼却の割合を勝手にかけ算することで、犠牲者の数を推定しているにすぎないし、大量の目撃証言に支えられていたにすぎない。

しかも、その証言はガス処刑の手順を詳しく語ることができない。

証言によってガス処刑の手段がバラバラだからな。

それぞれが自分の知っている噂に基づいて証言するから元ネタが異なれば証言も異なる。

このいい加減極まりない不親切な資料は、尋問、自白、戦争直後の裁判ですぐさま重要資料となった。

最初の裁判は1945年秋にベルゼンで開かれた。

この裁判の目的は、収容所で捕虜となったSS隊員を裁くことであったが、多くのSS隊員と囚人が1944年末と1945年初頭に、ベルゼンからアウシュヴィッツに移されてきていたことが判明した。

その結果、ベルゼン裁判は、アウシュヴィッツでの事件の実態についての裁判ともなった。

事実、審理はアウシュヴィッツについてのソ連の映画を上映することから始まった。

ドイツ人被告の大半は、以前はアウシュヴィッツの看守だった。

ベルゼン所長ヨーゼフ・クラマーは、短期間ビルケナウの所長もつとめた。

ヘスラーは女性収容所の長だった。

イルマ・グレーゼはビルケナウの看守だった。

全員がガス処刑への選別に関与したことで告発され、その関与を認めた。

ソ連委員会報告が彼らの自白に影響を与えていることは簡単に読みとることができる。

1945年5月22日、ハインリヒ・ヒムラーがイギリスに拘束された翌日、ヨーゼフ・クラマーは長い陳述を行ない、ベルゼン、ビルケナウ、ナチヴァイラー・ストリュホフなど、自分の勤務した収容所の状況を物語った。

彼は、アウシュヴィッツに「ガス室」が存在していたことを明白に否定していた。

翌日、ヒムラーが自殺した。

その後の尋問のなかで、クラマーは、自分の管轄ではないビルケナウに「ガス室」が存在したことを認めた。

彼は、自分が最初に否定したのは沈黙の誓約によってであり、ヒトラーとヒムラーの死によって、その誓約にはもはや拘束されないと証人席から発言した。

残念ながら、クラマーの第2の陳述の日時はわかっていないが、彼にガス処刑説を認めさせるにあたって、ソ連特別委員会報告が役に立ったことであろう。

合衆国の戦争難民局報告は1944年11月に、同じような告発をしているし、ソ連のアウシュヴィッツ報告は2週間前に発表されていた。

だから、クラマーがガス処刑説について沈黙していたということは信じがたい。

ヒトラーは何週間も前に死んでいたのだから、誓約に拘束されていたので沈黙していたというのもナンセンスである。

彼の上司ヒムラーもイギリスに拘束されていたので、クラマーが、尋問官が認めさせようとしていたことを否定していたこともありそうもない。

ベルゼン裁判でのその他の被告も、曖昧なかたちではあるが、ガス処刑説を認めた。

例えば、ビルケナウ看守グレーゼは、囚人の噂からガス室のことを聞いたことがあると述べた。

有罪となった45名のうちの11名が絞首刑となった。

アウシュヴィッツ特別委員会報告は、その後の自白だけではなく、目撃証言の中味の枠組みを定めた。

1945年9月初頭、アウシュヴィッツの政治将校であったグラブナーが、ウィーンで自白し、自分が離任する1943年12月までに、300万人が収容所で絶滅されたと述べた。

300万が1943年末までに死んだとすれば、1945年に解放されるまでに、あと100万が死んだであろうという点で、この自白はソ連の推定と一致していた。

さらに、ベルゼン裁判では、アウシュヴィッツの囚人であったベンデル博士とアダ・ビムコはガス室の実在を証言し、とくに、ビムコは2個所で400万という数字を支持していた。

戦後の目撃証言と自白がソ連特別委員会報告と一致しているという事実を、この報告の正確さが立証されたことと受けとっている人もいる。

例外は、とくに400万の犠牲者というまったくでたらめな計算の面では、ソ連報告は誤っていたと認められている点だ。

この数字は、焼却能力に関するソ連の計算から出てきているものであり、証言から出てきているものではない。

しかし、この数字を支持しているいくつかの証言と自白もある。

とすれば、数字が誤りであるとすると、この計算を支持している証言はソ連報告の影響を受けているということになる。

つまり、ソ連の報告と証言は一致しているのではなく、ソ連の報告に合うような証言をしたと考えるべきだ。

だから400万という間違った数字を指示する証言が出てくる。

そしてソ連の報告はガス処刑に関してはあいまいなので、それに関する証言は相互に矛盾しているのも道理だ。

元ネタが異なるからガス処刑に関する証言も異なるのだ」

 「ガス絶滅説に関する目撃証言や自白を扱う場合、以上のような問題が生じている。

とくに、その初期の時期にはそうであるが、もっとのちになってもあてはまる。

大量ガス処刑説は1942年以降、広く広まり、1944年秋までには公式の権威を与えられていた。

こうした状況のもとでは、「まわりに影響されない」証言や手垢の付いていない自白を手に入れることは不可能であろう。

何かを証言する場合は当然、噂を元に証言する。それが一番嘘だと疑われにくいからな。

本来は、詳細を詳しく述べて、事実を確証するような陳述だけが採用されるべきなのであろうが、まさに、登場してこなかったのはこのような陳述であった。

目撃証言と自白は、詳細に立ち入ると重大な誤りをおかしている。

例えば、ポーランド系ユダヤ人女性で医学博士のアダ・ビムコはベルゼン裁判で検事側証人となった。

彼女はシアンガスが大きな丸いボンベに貯蔵されていたと考えている。

やはりゲルシュタインが元ネタだろう。

ソ連の報告書ではチクロンBで殺されたと言っているが、ゲルシュタインはチクロンBのガスをボンベに詰めたと言っていた。

だからこの2つは素人が見れば矛盾しないように見える。

ボンベなど現場検証すれば一発でばれるだろうが、採用した当時は現場を封鎖していたため、問題ないと考えていたのだろうな」

 

 

 

 

 参考資料:ベルゼン裁判 第5日―1945年9月21日金曜日検事バックハウス大佐による証人アダ・ビムコへの尋問)
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/belsen/belsen_05.htm)

Q:(アウシュヴィッツの)ガス室に入ったことがありますか。
A:はい。1944年8月、私は、収容所で医師として働いていました。ガス室送りに新しく選別された集団がやってきました。病人でしたので、毛布にくるまれていました。二日後、私たちは、これらの毛布をガス室から取ってくるように命じられました。悪名高いガス室を見たいと思っていたので、この機会をつかまえて、中に入りました。そこはレンガの建物で、カモフラージュするために周囲には木が植えられていました。最初の部屋で、私が暮らしていたのと同じ町からやってきた人物を見かけました。一人のSS軍曹もいて、彼は赤十字に属していました。この最初の大きな部屋に人々は服を置き、この部屋から第二の部屋に入るといわれました。数百名が入ることができるほど大きな部屋であるとの印象を受けました。収容所にあるようなシャワー室・浴室に似ていました。天井には多くのシャワーヘッドがあり、並列に並んでいました。この部屋に入った人々全員にタオルと石鹸が渡されたので、彼らは入浴するのだとの印象を持ったはずです。しかし、床を見れば、排水溝がないので、入浴するのではないことは明らかでした。この部屋には小さなドアがあり、それは真っ暗で、廊下のように見える部屋につながっていました。私は、小さな貨車の乗った、数列の線路を目撃しました。その貨車はローリーと呼ばれていました。ガス処刑された囚人はこの貨車に載せられて直接焼却棟に送られたという話です。同じ建物の中に焼却棟があったと思いますが、自分の目で炉を見たことはありません。低い天井を持ったこの部屋よりの数歩高いところに別の部屋がありました。二つのパイプがありましたが、それはガスを供給するパイプであったとのことでした。また、巨大な二つの金属製のガスボンベがありました。

 

 「ベルゼン収容所所長ヨーゼフ・クラマーは、ナチヴァイラー・ストリュートフ収容所でのガス処刑は半パイント(約1/4g)の「塩」を管に流し込むことによって実行されたと述べている。

「塩」の正体はまったくもって不明だ。

すでに「石灰」によるガス処刑の話は存在したから同じ粉である「塩」もOKと考えたのだろうか・・・?

とにかく「塩」の正体はわからない。

アウシュヴィッツ特別委員会報告が権威を持つようになったのは、それを政府が発行したため、また、それと対立するような報告がなかったためだった。

反対意見が出てこないのは当然だろう。

何せアウシュヴィッツを10年も封鎖して現場検証を妨害してたからな。

ソ連はルドルフ報告のような専門家による反証報告が出てこないようにしていたのだ。

その結果、この報告は、そこで何が起こったのかを知ろうとする人々にとって基本的な資料となってしまった。

証言をしようとする証人は、自分の記憶をリフレッシュするため、あるいは自分の経験を広い視野に置いてみるために、この報告を参照した。

非常に重要なことは、連合国の役人がアウシュヴィッツ関係者を尋問するにあたって、真実と虚偽とを区別するために、この報告を参照しなくてはならなかったことである。

報告に合うように証言しろということだな。

実に分かりやすくて好感が持てる。

証人や自白者がソ連特別委員会報告と一致するような陳述をするとすぐに、これらの陳述は、報告と一致しているとの理由で、ソ連報告の権威を獲得した。

時が経つにつれて、人々は、ソ連のアウシュヴィッツ報告自体ではなく、その影響を受けた証言や自白こそがアウシュヴィッツでの大量ガス絶滅の証拠とみなすようになっていた。

こうして、ガス処刑説――教会法的ホロコーストと呼ぶこととする――が、実体のない報告をもとに作られた口承証言を介して、進化していった。

その一方で、呪われたベルゼンのニュース映画が、当時の気まぐれな雰囲気のなかで、収容所から収容所へと上映され、ガス処刑説に確固とした根拠を与えていった」

 「ホロコースト関連の本を読むともっとも名前の出てくる証人ルドルフ・ホェッス。

アウシュヴィッツ所長であり、ガス殺を命じた人間の証言は実に説得力のある証拠として権威を与えられてきた。

ヘスは、1946年3月13日、イギリス占領区の農場で逮捕され、その後イギリス国籍のユダヤ人バーナード・クラークに拷問された。

これはクラーク本人が自慢していたので本当だろう。

そしてヘスの供述が矛盾ばかりで信憑性に欠けることはSubjesct7で証明したが、もう一度改めて見てみることにしよう」

 

1. 大量ガス処刑は1941年夏に始まり、1944年秋まで続いた。
2. 250万がガス処刑され、50万がその他の方法で殺され、合計300万が殺された。
3. ヘスは1943年12月にアウシュヴィッツを離れたが、その後も情報は得ていた。
4.『最終解決』とはヨーロッパのユダヤ人の完全な絶滅を意味していた。
5. ヘスはヒムラーからの直接の命令によって、1941年6月、アウシュヴィッツに絶滅施設を作るように命じられた。
6. ヘスは、一酸化炭素が使用されていたベルゼク、トレブリンカ、ヴォルゼクを訪れた。
7. ヘスはチクロンBの使用を決定した。
8. 『われわれは、人々の叫び声がやんだので、彼らが死んだことを知った。』
9. ガス室は一度に2000名を収容することができた。
10. 子供も必ず絶滅され、母親は子供を隠そうとした。
11. 絶滅は秘密にされたが、
12. 焼却による悪臭のために、周囲数マイルにいるものは誰も、絶滅が進行していることを知っていた。

 「ヘスの証言の内容を並べてみると、ヘス証言はニュルンベルグ裁判以降広く知られてきた「周知の事実」を並べたに過ぎないことがわかる。

つまり、ヘスは既存の「ガス殺」話に合わせて証言をしているのだ。

詳しく見ておこう。

「絶滅命令」はヒムラーによって直接伝えられたというのは、1945年のSS将校ヘットル供述書を繰り返しているにすぎない。

「絶滅」が1941年に開始されたこと、最終解決はユダヤ人の絶滅を意味するコード言語であることについては、1月におこなわれたSS隊員ヴィスリセニイの証言にさかのぼることができる。

ただし、これを正しいとすると1942年ヴァンゼー会議で絶滅が決定されたという説と矛盾してしまうジレンマに陥ってしまうためホロコースト肯定派にとっては悩みの種だったりする。

子供の運命を強調していることは、1946年1月と2月のシェメゲロフスカヤとヴェイラン・コトゥリエの証言の影響を受けている。

この2人の女性はアウシュヴィッツで起こったことの関する重要証人だった。

焼却による悪臭は、1941年の安楽死キャンペーンに関する噂にまでさかのぼる古めかしい誇張だ。

犠牲者の数(250万がガス処刑され、50万がその他の方法で殺された)は1945年9月のアウシュヴィッツ収容所の政治部長SS少尉マキシミリアン・グラブナーの自白にさかのぼることができる。

そして、双方とも、収容所が活動していた全期間で400万が殺されたと計算したソ連特別委員会報告――1943年までに300万であるとすれば、1944年に100万――の影響を受けている。

興味深いことに、250万から300万という犠牲者の数の幅ならびにその他の詳細は、数週間前にハンブルクで開かれたテシュ・シュタベノフ裁判でのSS隊員ペリー・ブロードの証言と一致している。

一方、「ヴォルゼク」収容所なるものは存在せず、彼が査察したと主張する三つの収容所は1941年には存在していない。

要するに、1946年4月5日のヘスの宣誓供述書はすでに知られていたことを確認したにすぎない。

それが述べていることに新しいものはなく、新しいもの(「ヴォルゼク」収容所など)はまったく誤りだ。

それは、それが繰り返している説を立証したものでも、説明したものでもない。

事実、10日後のニュルンベルクでのヘスの証言は、宣誓供述書の中味を確証できなかった陳述から成り立っている。

ヘスはSD(国家保安部)長官カルテンブルンナーのために証言したのち、検察側から交差尋問を受けているが、彼は自分の宣誓供述書が読まれると、うなずくか、「はい」と答えるだけだった。

それは、ソ連特別委員会が提示した教会法的なホロコーストの内容を拡張し、確認したにすぎない。

そのようなものであれば、歴史学的な観点からするとそれは実際にはまったく価値のないものだ」

 「今回のテーマは「ナチスの毒ガス処刑の話を広めたのは誰だ?」であるが、これは個人、あるいは一つの組織がやったことではない。

1942年にユダヤ人が言い始め、BBCと欧米メディアが宣伝し、1944年にソ連が権威を与えた。

つまり、ユダヤ人・欧米メディア・ソ連がホロコースト神話を作ったのである。

証人たちは自分たちの知っている噂をそのまま繰り返し、あるいはある噂と別の噂を足して新しい噂を発明した。

それが伝言ゲームのようにして広まり、結果として似ているが細部が異なるガス処刑話が数々生まれたのだ。

このパターンは実は宇宙人による地球人拉致などのUFO話に構造がそっくりだ。

世界では宇宙人にさらわれただの、UFOを見ただのという話がたくさんある。

宇宙人やUFOを見たという人はまったく面識がないことがほとんどだが、話を聞いてみると内容が実によく似ている。

これはテレビなどでそれとなく見たり聞いたりした噂をそのまま繰り返したり、それに付け加えたために似てると考えるべきだろう。

空に「白い円盤」が飛んでいたのを見れば、誰が見てもUFOを連想する。

ホロコーストも同じことなのだ。

ところで、ナチス・ドイツのガス殺について最初に言い出したのはユダヤ人だが、彼らはガス殺話を発明したのだろうか?

それは違うだろう。

なぜならナチス・ドイツが誕生する前からガス殺についての話は存在していたからだ。

後半は、さらにさかのぼり、ガス殺神話がどこまでさかのぼるかを説明しよう。

では休憩だ」


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