Subject:36-1
アインザッツグルッペンの虐殺 バビー・ヤール


 「特別行動部隊アインザッツグルッペンは独ソ戦において200万人のユダヤ人を「ユダヤ人である」という理由だけ殺害した。

これがニュルンベルグ裁判の判決が支持する伝統的な説だ。

修正主義者は現存資料から引き出した数字を100万と言っている。

特別行動部隊の報告書には処刑数が書かれている。

ならば正確な数字が出るではないか。

と思うのは早計だ。

いつの時代、どこの公務員や企業でも書類の数字が現場と異なる。

現在の日本で大手ゼネコンの意図的な欠陥住宅や都道府県庁の裏金が問題になっているが、現場の責任者でなければ書類の矛盾はそうそう分からない。

手続きする立場の役人としては書類の内容の成否よりも書類の形式の方がはるかに大事だからだ。

それが事実と異なる(捏造・改竄・嘘・間違い・思い込み・勘違いetc)ことが明らかになるのはその他の資料や実際の現場と見比べると、問題の資料の数字がおかしいという点があるからだ。

だからドイツ軍の東部戦線における報告書も様々な資料と比べてどこまで正確なのかを見極めなければならない。

特に、特別行動部隊の報告書は戦時中の現場の人間が戦闘の合間に作ったというだけあって、実にずさんでいい加減な報告書である。

本来ならば報告書を作成する訓練を受けた人物が時間をかけて作成すべきだが、実際にはそうはいかなかったらしい。

同じ事件が何度も重複してカウントされたり、本来ならその日に届けられるはずの報告書が何日も放置プレイだったり・・・

現在の日本の会社でも現場の人間に仕事の合間にマニュアルを作らせるとロクなものに仕上がらない。

現場の人間は「現場だけがわかればそれでいい」というのはどこでも共通なのだろうな。

これについてホロコースト肯定派の歴史家ハンス・ハインリヒ・ヴィルヘルムは、「歴史資料としてのソ連邦事件報告」について、次のように述べている」

 

「これらの報告は、軍事的な通信手段を使って、毎日三回とはいわないが、毎日、通常数日後には受け取られた。しかし、この報告を作成する訓練を受けた人物がどこにでもいるわけではなかった。無線やテレックスを使った伝達のために、第三者、大半は戦闘部隊を使わなくてはならなかったが、部隊はその配置場所を頻繁に変えてしまうために、戦闘部隊を利用することには難題が付きまとった。さらに、『報告作成手順』の質も悪く、ハイドリヒがたびたび激怒したにもかかわらず、事態は改善されなかった。単純な規則さえも守られなかった。例えば、軍事報告としては考えられないことであるが、事件がいつどこで起こったのかについての正確な情報が記載されていないことも頻繁であった。また、『事件報告』の編集者は、情報伝達文の問題の箇所をつねにチェックできる立場にあるのであるが、情報伝達文の見出しのデータをテキスト文本体の中にいれることを忘れてしまったり、データがテレックスを介してタイピストに口述筆記されたときに、タイプされた報告がチェックされずに、誤解を招いてしまうようなこともたびたびであった。特別行動部隊とコマンドの行動スピードはさまざまであったので、情報伝達文が交錯したり、長すぎて優先順位が低かったために、長期にわたって放置されたことも多かった。同じ事件が1、2回だけではなく、数回も伝達され、事件を裏づけるような情報伝達文が数日、数週間後に発送されたために、RSHA[47]にいた編集者が事件の日付や前後関係を混同したとしても驚くにはあたらなかった。このために、これらの報告書が不完全であることがまもなく明らかとなった。ある特別行動部隊は2週間ごとにユダヤ人の殺害について報告していたが、この報告にもとづく暫定的な数字と、実行結果についての個別的な報告を比較すれば、これらの報告書が完全でないことがすぐにわかる。」

 

 「そうでなくても戦争中の死者の数をカウントするのは極めて難しい。

だからわたしは死亡者数の説についてはあまり検証しない。

さすがに「0」と「数百万」とか、「数百」と「数百万」とかいう数字の開きは検証する必要があるだろうが。

というより、賠償金がかかっている事件に関しては検証しなければなるまい。

古代や中世だったら数字がいくらおかしくても誰も気にしないが、第二次世界大戦となるとニダ・シナ・ユダが謝罪と賠償を求めてくるからな。

そもそもドイツ側とソ連側では同じ事柄に対するデータが違いすぎるのだ。

パルチザンがドイツに与えた被害についてソ連は150万人のドイツ人を殺害したとしているが、ドイツは35000−45000名だとしている。

ソ連はパルチザンの活躍を誇張していただろうし、ドイツは自国の被害を低く見積もるだろう。

戦争ではしばし現実主義が楽観主義に取って代わる。戦争に負けているときは特にそうだ。

パルチザンは細菌兵器をばら撒いていたから、パルチザンからすればドイツ人の殺害に当たる伝染病の蔓延も、ドイツからすればただの伝染病にカウントしたかもしれない。

しかし「100万であろうが、200万であろうが、それだけ大量の人間を殺害することは正当化できない」と思われがちである。

特に対抗言論のようなサヨクはナチス・ドイツがソ連に行ったことは多いに宣伝するが、その逆はまったくと言っていいほど触れない。

「殺されたくなければ殺すしかない。殺さなければ自分が殺される」という戦場の常識がサヨクには一切存在しない。

ゆえにサヨクであるのだから、そもそもサヨクにそんなことを期待することが間違いでもある。

戦争における報復殺人にはある一定のガイドラインが存在する。

1人が殺された報復に10万人を殺したら、さすがに非難を受けるだろう。

では、何人殺されれば報復殺人は正当化されるのだろうか?

これは国際法で厳密に決まっているわけではないが、フランスを見てみると、フランスでは仕返しは25倍返しという具体的な数字を上げている。

この報復はフランス兵が死亡したかどうかはとわない。1発銃弾が撃ち込まれたら25発撃ち返す。

100人殺されたら2500人殺す。

100万人が殺されたら2500万人を殺す。

独ソ戦でソ連はパルチザンが150万人を殺害したと自慢してたので、この論理によれば特別行動隊が200万人のパルチザンを殺してもそれは「戦争だから仕方ない」で正当化される範疇だ。

もちろんフランスが国際基準というわけではない。

戦争では全ての軍隊の指導者は自国の損害を少なく敵国の被害を大きくすることを第一に考える。

それが当たり前だ。

だから「ドイツ軍は東部戦線で何百万人を殺したから悪い」と言っているサヨクの主張は的外れ以外の何者でもない。

ドイツ軍にも何百万の犠牲者が出ているのだから、それは「悲しいけどこれって戦争なのよね」で済む話なのだ」

 

 参考資料:シャーロック・ホームズのガス室  著:サミュエル・クロウェル
[69] 修正主義者は、ドイツ人とその補助者が射殺したユダヤ人の数、および、これらの射殺の理由を熱心に議論している。少なくとも数十万のユダヤ人を殺戮したことを示してる大量の文書記録を信用するに足りないとする理由はほとんどないようである。次の問題は、これらの射殺の理由に関係している。反パルチザン活動に関連している事例もあれば、復讐や懲罰活動に関係している事例もある。また、すべてのユダヤ人を殺害せよというナチス司令官のイデオロギー的関与に関係している事例もある。IMTとNMTの判決が支持する伝統的な説は、200万のユダヤ人男性、女性、子供が射殺された、そして、ユダヤ人であるというだけの理由で射殺されたというものである。100%信頼できる現存資料から引き出すことのできる総数は、約100万である。修正主義者は、射殺による絶滅説がガス処刑説と結び付けられているのと理由で、それを反駁している。もっとも、大量射殺の証拠は、ガス処刑の証拠とはまったく異なった規模を持っており、信憑性を持っているといわなくてはならないが。射殺説は独自のかたちで、もっと広く扱わなくてはならない。報復射殺というドイツの伝統という文脈と照らし合わせてみるべきであろう。そして、ユダヤ人の虐殺もその伝統に由来しているのである。

 

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
 特別行動部隊が東部戦線の後方地帯で射殺したユダヤ人の数についての文書資料として、いわゆる「事件報告(Ereignisberichte)」がよく引用されている。特別行動部隊がこれを作成して、ベルリンに送り、それが戦後に発見されたことになっている。しかし、特別行動部隊についての専門家Hans-Heinrich Wilhelmは、すでに1988年に、事件報告が正確であるかどうか確信がもてないと述べている[26]。彼は、この事件報告にある殺されたユダヤ人の数が信用できないものであるとみなしていたので、同僚に次のように警告している[27]。
「人口学的な調査が行なわれていない地域での[これらの報告には]、信憑性が欠けており、この地域についての別の資料と比較することによってのみ、信憑性を検証することができる。だから、
SSの資料を利用するにあたっては、その信憑性に疑問を抱きながら、歴史研究を進めることが重要であろう。」
 彼は、最初の本の中で、これらの資料の信憑性について同じような疑問を呈しているので、この指摘は偶然のものではない。彼は最初の本の中で次のように憶測している[28]。
「ここでは、少なくとも数万の殺されたユダヤ人の数が、事件報告を『改善』するために、付け加えられた。そうとでもしなければ、殺されたパルチザンの数ははるかに少ないから、この数字を正しいものとみなすことはできないであろう。」
彼は別の箇所で、
特別行動部隊事件報告の一つが、1134という数字に0を付け加えて合計11034という数字に改竄されたことを指摘している[29]。ここで問題としている改竄者は、犠牲者の数をできるだけ多くすることに関心を抱いていたにちがいない。特別行動部隊が改竄者であるとすると、彼らは、できるだけ多くのユダヤ人が殺されることを希望している人物がベルリンにいたと考えていたことになる。しかし、別の人物が改竄者であったとすると、どういうことになるのであろうか。

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
 西側連合国は戦時中と戦後に、ドイツ人を報復で威嚇し、実際にそれを実行したが、ドイツの新聞はこのことにほとんど触れていない。しかし、例えば、『シュトゥットガルト新聞』は、フランスが、実際の結果はどうであれ、フランス軍兵士に発砲が行なわれた場合には1対25の比率で報復処刑を実行すると威嚇していたことを報道している[2]。1992年4月4日、『パデルボルン新聞』は、アメリカ軍が、正規の戦闘で発砲されたモーリス・ローズ将軍の死亡にたいして、厳しい報復措置をとったことを伝えている。この事件に無関係のドイツ人110名が殺されたというのである[3]。おそらく、厳しい報復措置や非合法の復讐行為がドイツ国民に対して行なわれた事例は非常に多かったであろう。戦勝国によるこのような行為は訴追の対象とはならなかったので、1945−1947年に生じた状況、とくに西ドイツで生じた状況については、今日でもほとんど知られていない。ドイツ側は、今日でも効力を持つ法律ゆえに訴追することを禁止されていたし、戦勝国側は、当然のことながら、こうした訴追には関心を抱いていなかった[4]。東ドイツと中央ドイツでも恐ろしい報復措置がとられたが、それはかなり文書資料として記録されている。共産主義に反対する西側諸国の利益にかなっていたからである。
[2] hoh, “Die Franzosenzeit hat begonnen”, Stuttgarter Zeitung, 25.4.1995
[3] Cf. Heinrich Wendig, Richtigstellungen zur Zeitgeschichte, issue 8, Grabert, Tubingen 1995, p. 46. 事実、報復ではなく、大量殺戮にすぎなかった。cf. also ibid., issue 2 (1991), pp. 47ff.; issue 3 (1992), pp. 39ff.; issue 10 (1997), pp. 44f.
[4] 例外は、降服していた48名のドイツ軍兵士が不当に殺された、最近公表された事件である。Michael Sylverster Kozial, “US-Kripo ermittelt nach 51 Jahren”, Heilbronner Stimme, September 24, 1996; “Spater Fahndung nach Mordern in US-Uniform”, Stuttgarter Zeitung, September 27, 1996, p. 7.

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
 周知のように、東部戦線に配置されたドイツ国防軍は第三帝国の生存のために戦っていただけではなく、帝国主義的な幻想をすべて放棄したのちにも、スターリン主義から全ヨーロッパの自由を護るために戦っていた[20]。それゆえ、ジーゲルト教授の研究成果に照らし合わせてみると、非合法のソ連パルチザンに対するドイツ治安部隊の戦闘には、たとえ、この戦闘に残忍な報復措置が伴っていたとしても、非合法なことはまったくなく、非道徳的なこともほとんどないとみなさなくてはならない。パルチザンが殺害したドイツおよびその同盟国兵士の数についてのソ連側公式情報が正確であるとすると、数百万の人々に対する報復殺人(1:10の比率)は理論的には正当化されるであろう。しかし、ドイツ側のあげている数字(40000名ほどの犠牲者)にもとづくと、理論的には、この数字に対して400000名ほどの報復殺人が行なわれたことになる。もちろん、この数字は恐るべきものであり、今日では報復殺人が禁止されていることに感謝すると同時に、この法律が遵守されることを希望する。だが、われわれが問題としなくてはならないのは、この当時、このような殺人が実際に行なわれたか否かである。

 

 

 「この手の議論は最終的に、「ドイツ軍は東部戦線でユダヤ人絶滅政策を取った」から悪いという結論に達する。

ただの殺し合いではドイツを非難することができないから、『ただの殺し合いではなかった』という方向に話を持っていきたいのだ。

だが、前回のアインザッツグルッペンについての説明で、ドイツ軍がそのような政策は取ってないし、実行されても無いことは立証済みだ

当然、数万の地元住民を一箇所に集めて大量射殺などもしていない。

さて、前置きが長くなったが、今回はドイツ軍が東部戦線で行った大量射殺でもっとも悪名高いバビー・ヤール事件について説明しよう」

 

 参考資料:現代の最大の冒険:ホロコースト修正主義 エストニアでの講演 著:ユルゲン・グラーフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/graf_03.htm)
 東部戦線でのドイツが行なったとされる、もっとも悪名高いユダヤ人虐殺はバービー・ヤール事件です。1941年9月29日、少なくとも33000名のユダヤ人がここで射殺されたというのです。続く月々、10000名がこれに付け加えられたという話です。そして、ドイツは犯罪の痕跡を消し去るために、2年後、すべての死体を掘り起こし、焼却したというのです。この作業は1943年9月に完了したということになっています。しかし、合衆国空軍は1943年9月26日にバービー・ヤール地区周辺を撮影していますが、そこには大量焼却の痕跡も、ひいては何らかの作業の痕跡も写ってはいません。植物分布や地形も変化していません(John Ball, "Air Photo Evidence" in E. Gauss, Dissecting the Holocaust)。したがって、バービー・ヤールの話がホラー宣伝であることが確証されます。バービー・ヤールの話は、東部戦線でのドイツ軍の虐殺を宣伝するためにもっとも広く利用されていましたので、その他の大量殺戮の話は、捏造されているか、少なくともひどく誇張されているということができます。

※戦後に写真を押収したのは米軍であるが、実際に写真を撮影したのはドイツ空軍であるからグラーフの記述は間違いである。

 

 「バビー・ヤールとは、ウクライナの町キエフの近くにある浸食渓谷の名だ。

ドイツ軍が1941年9月にキエフを占領したのち、数万のユダヤ人(成人男女と子供)がこのバビー・ヤールで9月29日と30日に殺されたという。

だが問題がある。

具体的に何万人の人間が、どこで、何を使って、どのように殺害されたのかはよくわかってない。

なぜなら殺戮が行なわれた場所については、墓地の中、墓地の外、森の中、渓谷自体、煉瓦造りの広場、キエフの町中、ガス車、ドニエプル川といったような諸説がある。

凶器についても、機関銃、サブマシンガン、自動小銃、ライフルの銃床、棍棒、岩、タンク、地雷、手榴弾、ガス車、銃剣とナイフといったような諸説があり、殺害方法についても、溺死、注射、電気ショックという諸説がある。

ソ連の反独宣伝で思いっきり利用された事件なので、もう何が何やらさっぱりわからん。

殺されたユダヤ人の人数にしても3,000(3千)名〜300,000(30万)名とソースによって実にバラバラなのだ。

ドイツが検証したカチンの森やヴィンニツァ(ウクライナ)の虐殺事件では実際に埋葬地と死体が発見されていたため、事件の概要にほとんど異論はなされない。

それほど完璧な現場検証が行われたため、誰も揚げ足を取ることができんのだ。

それに対してソ連は検証しようにも、そのような虐殺事件そのものが存在しないため埋葬地すら発見できなかった。

バビー・ヤール事件に関して、1996年夏、リトアニアのマリヤムポル市は、ドイツの特別行動部隊に殺されたとされる数万のユダヤ人の記念碑を建設しようとした。

しかし、埋葬地がどこにあるかわからなかった。

なぜならバビー・ヤールの大量虐殺事件など存在せず、ゆえに埋葬地も存在しなかった。

存在しない事件だから、その中身も適当で諸説があふれがえっているというわけだ」

 

 

 

 「さて、ソースごとにいろいろ数字が並んでいるが、特に「33,771名」という数字が信憑性が高いとされている。

なぜならこの数字には報告書というドイツ側の資料に書かれた数字だからだ。

特別行動部隊の戦時中の行動を研究するにあたって使われるソースには大きく3種類ある」

 

@ 1941年6月23日から1942年4月24日のあいだの「保安警察長官とSDのソ連邦事件報告(Ereignismeldungen UdSSR des Chefs der Sicherheitspolizeiund des SD)」。合計195の文書のうち194が現存している。=「逮捕と射殺のリスト

A 1942年5月1日から1943年5月21日のあいだの「保安警察長官とSD司令部の東部占領地区報告(Meldungen aus den besetzten Ostgebieten vom Chef der Sicherheitspolizei und des SD-Kommandostab)」。55報告がある。

B 「ソ連邦における保安警察SD特別行動部隊行動状況報告(Tatigkeits- und Lageberichte der Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des SD in der UdSSR)」。[45]=処刑の要約報告

 

 「バビー・ヤール事件に関して、とくに重要なのは1941年9月1〜31日をカバーする「ソ連邦における保安警察とSDの特別行動部隊行動状況報告第6号」、通称「行動状況報告第6号」だ。

それは次のように述べている」

 

行動状況報告第6号(1941年)
 「ユダヤ人に対するウクライナ住民の態度はきわめて険悪である。ユダヤ人はキエフでの爆破事件に関係していたと非難されているからである。また、ユダヤ人は、ウクライナ人に対するテロルに責任を負う内務人民委員部の情報提供者、スパイとみなされている。ユダヤ人全員が、キエフに放火したことに対する報復として逮捕され、9月29日と30日に、合計33771名のユダヤ人が処刑された。金、貴重品、衣服は保管され、地元のドイツ人市民のためのNSV[31]に、また一部は、困窮した住民を支援する臨時市当局に提供されている。」

 

 「たしかにこの「行動状況報告書」にははっきりと書かれている。

問題なのは、この「行動状況報告書」の内容がどこまでが事実で、どこまでが信用できないのか、ということだ。

「事件報告書」とは時期が同じならば同じ事件を扱っているはずだから、その資料と合わせて矛盾がないかどうか確かめる必要がある。

同じ事件を扱っているのに内容が不一致ならば、当然その内容に疑いを持たねばなるまい。

まず、上記の「行動状況報告」に登場している爆破の件について、研究書にもとづいて少々説明しておこう。

特別行動部隊に関するもっとも高名な専門家でドイツのメインストリームの歴史家ハンス・ハインリヒ・ヴィルヘルムHans-Heinrich Wilhelm)はこの事件について、次のように述べている」

 

「キエフ占領後の1週間のあいだに、いくつかの爆破事件が起こり、かなりの人的・物的損害を生み出した。
この事件は、『対抗報復措置』を実行する口実としてすぐに利用された。…」[32]

 

 「『最終的解決』の著者であり、著名なユダヤ系専門家ジェラルド・ライトリンガーは、次のように述べている」

 

「[1941年9月]24日、第6軍司令部のあったコンチネンタル・ホテルで、大きな爆破事件が起こった。火はまたたくまに広がり、21日に到着していたブローベルは執務室を疎開させなくてはならず、25000名が家を失い、数百名のドイツ軍兵士が、その多くが消火作業のときに死亡した。」[33]
 アルフレド・ヨードル将軍は、この件について、ニュルンベルク裁判で次のようにコメントしている(1946年6月4日)[34]。
「その直前に、ロシア軍はキエフを放棄した。われわれが町を占領しようとすると、次々と爆発が起こった。市中の大半が焼け落ちた。50000名が家を失った。この火事のときにも大きな爆破事件が続いたので、われわれは大きな被害を被った。キエフの地元司令官は、爆破地図を手に入れるまで、この事件が地元住民の妨害活動によるものであると考えていた。しかし、この地図には、キエフの50−60の爆破対象が書き込まれており、この計画はかなり前から計画されていたものであった。先遣部隊の調査もこのことをすぐに確証した。少なくとも40の爆破対象があり、無線による遠隔操作で大半の爆破が呼び起こされた。」

 

 「これは典型的な焦土作戦というやつだな。

ドイツ軍に利用されそうなものは片っ端から焼き払うという地元住民のことはまったく考えない赤軍ならではの戦術だ。

この爆破事件によって、キエフ市中が焼け落ち、地元住民が損害を被っただけではなく、ドイツ軍も数百の兵士とその指導部すべてを失ったことになる。

地元の軍司令官とウクライナ人住民は、最初、これが妨害工作によるものであるとみなしていた。

家が一軒火事になったから軍が攻撃したというならば口実になるだろうが、市中の大半が焼け落ちたことに対して報復することは口実のレベルを超えている。

パルチザンに対する攻撃は正当な報復だったのだ。

このようにパルチザンが民間人に化けてテロ活動をすると、パルチザン狩りの巻き添えで罪の無い一般人が犠牲となる。

パンツァー・マイヤーが述べているように、パルチザンこそ戦争犯罪の源なのだ。

さて、1941年9月28日の事件報告97号によると、「20名のユダヤ人の公開処刑」が計画された。

しかし、この処刑が実行されるはずの時期の事件報告98号(9月29日)、99号(9月30日)、100号(10月1日)には、この処刑についてはまったく触れられていない。

計画されただけで実行されなかったのだろうか?

1941年10月2日の「事件報告」101号と10月7日の106号だけが、33771名のユダヤ人の処刑について報告しているだけだ。

20名の公開処刑はこの33771名に含まれているのだろうか?

それはわからない。だって33771名が処刑されたとしか書いてないからだ。

さらに言えば、この101号と106号は本物なのかどうかわからない。

なぜならこの2つをソースに上げているホロコースト肯定派たちは著書でオリジナルのテキストを使っていないからだ。

ホロコースト肯定派の研究者たちは典拠資料を実際にはチェックしておらず、ある研究書からのコピーを繰り返しているにすぎない。

ということはつまり、オリジナルの101号・106号の事件報告書は存在しないと見ていいだろう。

存在すると言い張るなら出してみろ。

結論としては、33771名の処刑に関するソースは「行動状況報告書第6号」のみということになる。

「事件報告」はとくに逮捕と射殺のリストをあげているものだ。

だから「状況報告6号」の内容は「事件報告」でリストになって載っているはずだ。

その「事件報告」が33771名の処刑については報告していない。

これは一体どういうことだろうか?

「状況報告」と「事件報告」の内容が一致しないというのはどちらかが間違っているということではないのか」

 

 

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
バビー・ヤール事件での事件報告問題
 バビー・ヤールは、ウクライナの町キエフの近くにある浸食渓谷の名である。ドイツ軍が1941年9月にキエフを占領したのち、33771名のユダヤ人(成人男女と子供)がこのバビー・ヤールで9月29日と30日に射殺されたという。この情報資料は、特別行動部隊の「行動状況報告(Ereignismeldungen and Tatigkeits-und Lagebericht)」、および目撃証言である。とくに重要であるのは、1941年9月1−31日をカバーする事件報告第6号である[30]。それは次のように述べている。
「ユダヤ人に対するウクライナ住民の態度はきわめて険悪である。ユダヤ人はキエフでの爆破事件に関係していたと非難されているからである。また、ユダヤ人は、ウクライナ人に対するテロルに責任を負う内務人民委員部の情報提供者、スパイとみなされている。ユダヤ人全員が、キエフに放火したことに対する報復として逮捕され、9月29日と30日に、合計33771名のユダヤ人が処刑された。金、貴重品、衣服は保管され、地元のドイツ人市民のためのNSV[31]に、また一部は、困窮した住民を支援する臨時市当局に提供されている。」
 1. キエフでの爆破事件
ここで、上記の「行動状況報告」に登場している爆破の件について、研究書にもとづいて、少々説明しておかなくてはならない。ヴィルヘルムはこの事件について、次のように述べている。
「[キエフ]占領後の1週間のあいだに、いくつかの爆破事件が起こり、かなりの人的・物的損害を生み出した。この事件は、『対抗報復措置』を実行する口実としてすぐに利用された。…」[32]
 ライトリンガーは次のように説明している。
「[1941年9月]24日、第6軍司令部のあったコンチネンタル・ホテルで、大きな爆破事件が起こった。火はまたたくまに広がり、21日に到着していたブローベルは執務室を疎開させなくてはならず、25000名が家を失い、数百名のドイツ軍兵士が、その多くが消火作業のときに死亡した。」[33]
 アルフレド・ヨードル将軍は、この件について、ニュルンベルク裁判で次のようにコメントしている(1946年6月4日)[34]。
「その直前に、ロシア軍はキエフを放棄した。われわれが町を占領しようとすると、次々と爆発が起こった。市中の大半が焼け落ちた。50000名が家を失った。この火事のときにも大きな爆破事件が続いたので、われわれは大きな被害を被った。キエフの地元司令官は、爆破地図を手に入れるまで、この事件が地元住民の妨害活動によるものであると考えていた。しかし、この地図には、キエフの50−60の爆破対象が書き込まれており、この計画はかなり前から計画されていたものであった。先遣部隊の調査もこのことをすぐに確証した。少なくとも40の爆破対象があり、無線による遠隔操作で大半の爆破が呼び起こされた。」

 2. 報復措置
 したがって、この爆破事件によって、キエフ市中が焼け落ち、地元住民が損害を被っただけではなく、ドイツ軍も数百の兵士とその指導部すべてを失ったことになる。地元の軍司令官とウクライナ人住民は、最初、これが妨害工作によるものであるとみなしていた。こうしたパルチザン攻撃に対する報復銃殺は、戦時中には、普通のことであり、正当化される対抗措置であったにちがいない。だから、これらの攻撃は、Krausnickのいうような「口実」として利用されなかった。
 1941年9月28日の事件報告97号によると、「20名のユダヤ人の公開処刑」が計画された[35]。しかし、この処刑が実行されるはずの時期の事件報告98号(9月29日)、99号(9月30日)、100号(10月1日)には、この処刑についてはまったく触れられていない。10月2日の事件報告101号と10月7日の106号だけが、33771名のユダヤ人の処刑について報告しているだけである。Krausnick/Wilhelmの記述は明瞭ではない[36]。彼らは、少なくとも約34000名の殺戮の証拠として考えるべきこれらの事件報告から引用しておらず、1972年のAlfred Streimの論文[37]からの引用ですませてしまっている。これらの事件報告が実在していたとすれば、なぜそのオリジナル・テキストを使わなかったのであろうか。Krausnickは『同上』という脚注をつけており[38]、それは、事件報告101号と106号をさしているのかもしれないが、それだけでは、33771名の殺戮の証拠としては不十分である。
 事件報告101号や106号に33741名の銃殺が報告されているのかどうかという問題について、研究書の見解は一致していない。これらの研究者たちは典拠資料を実際にはチェックしておらず、ある研究書からのコピーを繰り返しているにすぎない。ヒルバーグは事件報告101号をあげており[39]、Klee/Dresen/Riesも同様である[40]。ライトリンガーは、Krausnickが参照しているStreimと同じように[41]、事件報告106号をあげている[42]。ところで、Streimはあとの著作では事件報告を引用することをまったく避けているが、行動状況報告第6号が唯一の典拠資料であると述べている[43]。Krausnickも1941年10月の行動状況報告第6号に触れている。
 事件報告はとくに逮捕と射殺のリストをあげているものであるが、その事件報告が33771名の処刑については報告していない。これは信じがたいことであるが、実際にそうなのであろう。

 

 「独ソ戦では「事件報告」は、無線かテレックスでベルリンの国家保安本部に送られた。

現存しているかたちでの報告最終原稿に責任を負っていた役人は、ギュンター・ノブロック(Gunther Knobloch)博士(1910年生)だった。

彼は、1959年にルードヴィヒスブルク中央局から尋問を受けたとき、事件報告と行動状況報告の作成について次のように述べている」

 

「私は、殺到する大量の情報伝達文の中から、興味深い箇所に赤い印をつけました。秘書は、これらの伝達文をどのようにまとめあげたらよいのかよく知っていました。…注目すべきは、この当時、これらの情報伝達文が大量であったことです。…このために、伝達文を受け取ったときには、その中から取捨選択して、数日分を2、3の伝達文ですませたこともありました。個々のコマンドやグループからの伝達文は、コマンド・グループファイルにまとめられましたが、間違いをなくすことはできませんでした。…中身の改変は実際にはまったくありませんでした。…しかし、SS集団長ミューラーがたびたび、中身に手書きで変更を加えたこともあったことを付け加えておかなくてはなりません。…伝達分の情報では、事件や数が誇張されていることもあったとの印象を持ちました。・・・1942年のある時期、毎日の事件報告を2週間ごとの報告書に要約しなくてはなりませんでしたが、のちには、1ヵ月後との報告書に変りました。私がその要約を作成しました。…これらの報告書はもっぱら、毎日の事件報告にもとづいていました。」

 

 「現存している資料をまとめ上げた本人が「間違いをなくすことができなかった」と言っている。

現場の報告がいい加減で、その報告をまとめあげたものもいい加減なのだ。

よって、この報告書は間違いがあるのだから、現実とは一致していないことがある。

これは当たり前のようで、実はとても重要なことだ。

なぜならホロコースト肯定派の学者たちはこの文書が本物であることばかりに重点を置き、内容についてはまったく検証してこなかった。

内容は無条件で正しいという前提で話を進めてきたのだ。

…いや、違うな。

検証すると、書類の内容と現実が一致しないことがわかってしまったので、わざとスルーしてきたのだ。

だからまともな頭を持ったホロコースト肯定派の歴史家は苦悩したのだろう。

自身の明瞭な頭が『特別行動部隊の事件報告書がソースにならない』という結論を出しているのだからな」

 

 

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
 3. 事件報告の資料的価値と真実
 Krausnick/Wilhelmの著作は、特別行動部隊の活動に関するはじめての、そして入念な研究である。この研究の主要資料は「ソ連邦事件報告(Ereignismeldungen UdSSR)」である[44]。これらの事件報告は、次のような題名を持つ一連の文書の一部にすぎない。
@ 1941年6月23日から1942年4月24日のあいだの「保安警察長官とSDのソ連邦事件報告(Ereignismeldungen UdSSR des Chefs der Sicherheitspolizeiund des SD)」。合計195の文書のうち194が現存している。
A 1942年5月1日から1943年5月21日のあいだの「保安警察長官とSD司令部の東部占領地区報告(Meldungen aus den besetzten Ostgebieten vom Chef der Sicherheitspolizei und des SD-Kommandostab)」。55報告がある。
B 「ソ連邦における保安警察SD特別行動部隊行動状況報告(Tatigkeits- und Lageberichte der Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des SD in der UdSSR)」。[45]
ハンス=ハインリヒ・ヴィルヘルムは、「歴史資料としてのソ連邦事件報告」について、次のように述べている[46]。
「これらの報告は、軍事的な通信手段を使って、毎日三回とはいわないが、毎日、通常数日後には受け取られた。しかし、この報告を作成する訓練を受けた人物がどこにでもいるわけではなかった。無線やテレックスを使った伝達のために、第三者、大半は戦闘部隊を使わなくてはならなかったが、部隊はその配置場所を頻繁に変えてしまうために、戦闘部隊を利用することには難題が付きまとった。さらに、『報告作成手順』の質も悪く、ハイドリヒがたびたび激怒したにもかかわらず、事態は改善されなかった。単純な規則さえも守られなかった。例えば、軍事報告としては考えられないことであるが、事件がいつどこで起こったのかについての正確な情報が記載されていないことも頻繁であった。また、『事件報告』の編集者は、情報伝達文の問題の箇所をつねにチェックできる立場にあるのであるが、情報伝達文の見出しのデータをテキスト文本体の中にいれることを忘れてしまったり、データがテレックスを介してタイピストに口述筆記されたときに、タイプされた報告がチェックされずに、誤解を招いてしまうようなこともたびたびであった。特別行動部隊とコマンドの行動スピードはさまざまであったので、情報伝達文が交錯したり、長すぎて優先順位が低かったために、長期にわたって放置されたことも多かった。同じ事件が1、2回だけではなく、数回も伝達され、事件を裏づけるような情報伝達文が数日、数週間後に発送されたために、RSHA[47]にいた編集者が事件の日付や前後関係を混同したとしても驚くにはあたらなかった。このために、これらの報告書が不完全であることがまもなく明らかとなった。ある特別行動部隊は2週間ごとにユダヤ人の殺害について報告していたが、この報告にもとづく暫定的な数字と、実行結果についての個別的な報告を比較すれば、これらの報告書が完全でないことがすぐにわかる。」
 
キエフ(バビー・ヤール)での33771名のユダヤ人の銃殺に言及している事件報告はまったく存在せず、「行動状況報告」第6号だけがそれに触れているのであるが、ヴィルヘルムの引用文の最後のセンテンスは、こうした事態を説明しようとしているのかもしれない。 Alfred Streimは1984年5月3−5日にシュトゥットガルトで開かれた大会で、「第二次世界大戦中のヨーロッパ・ユダヤ人の殺害」について発言しているが、この発言も、バビー・ヤールでの銃殺についての事件報告が存在しないことを確証している。彼は、バビー・ヤール渓谷での殺戮について報告するにあたって、事件報告ではなく、「処刑の要約報告」すなわち「行動状況報告」に言及しているからである。 事件報告は、無線かテレックスでベルリンの国家保安本部に送られた。現存しているかたちでの報告最終原稿に責任を負っていた役人は、Gunther Knobloch博士(1910年生)であった。彼は、1959年にルードヴィヒスブルク中央局から尋問を受けたとき、事件報告と行動状況報告の作成について次のように述べている[48]。
「私は、殺到する大量の情報伝達文の中から、興味深い箇所に赤い印をつけました。秘書は、これらの伝達文をどのようにまとめあげたらよいのかよく知っていました。…注目すべきは、この当時、これらの情報伝達文が大量であったことです。…このために、伝達文を受け取ったときには、その中から取捨選択して、数日分を2、3の伝達文ですませたこともありました。個々のコマンドやグループからの伝達文は、コマンド・グループファイルにまとめられましたが、間違いをなくすことはできませんでした。…中身の改変は実際にはまったくありませんでした。…しかし、SS集団長ミューラーがたびたび、中身に手書きで変更を加えたこともあったことを付け加えておかなくてはなりません。…伝達分の情報では、事件や数が誇張されていることもあったとの印象を持ちました。・・・1942年のある時期、毎日の事件報告を2週間ごとの報告書に要約しなくてはなりませんでしたが、のちには、1ヵ月後との報告書に変りました。私がその要約を作成しました。…これらの報告書はもっぱら、毎日の事件報告にもとづいていました。」
Knoblochは「1942年のある時期」と述べているが、それは誤植か、彼の記憶違いであろう。これらの行動状況報告は、独ソ戦の開始当初、すなわち1941年6月から作成されているからである。しかし、これらの要約が何を意味しているのかはっきりしていない。ヴィルヘルムが行動状況報告と事件報告を比較したときに気がついたように、行動状況報告の中で繰り返されていることは、なぜ、繰り返しではなく、新しい報告書のかたちをとっているのだろうか。
ヴィルヘルムとKnoblochが述べていることから、次のようなことがわかる。すなわち、能力のない人物が作成した前線からの報告――同じ事件について、二回報告されたり、ひいては三回も報告されることもある――は、しばしばかなり遅れて、ベルリンの国家保安本部にラジオかテレックスで送られた。Knoblochがそれを受けとり、重要部分に赤い印が付けられて、それを秘書が筆記し、チェックされずに無修正のまま、最終的な事件報告として発送された。数週間後に、これらの事件報告から要約が作成されるが、理由のはっきりしない根拠にもとづいて、新しいデータが付け加えられたり、別のデータが削除されたりした。これらの要約が「行動状況報告」として送り出された。
Krausnick とWilhelmは、あいまいな素性をもつこれらの報告を「本物の」資料とみなしている。彼らによると、次のような諸点がこの信憑性を確証しているという[49]。
@ これらの報告を捕獲したのはアメリカ軍である。
A これらの報告は、ニュルンベルクその他の関連裁判で引用されている。
B その信憑性に重大な疑問を呈した弁護士は誰もいない。
C 国家保安部の中でその作成を担当した作成者と多くの報告受取人が、これらの報告を確認している。
Cについていえば、Knoblochは、ルードヴィヒスブルクでこの報告の写真コピーを見せられたときに、次のように証言している[50]。
「私に見せられた報告の写真コピーは、その書式についていえば、当時発行されていた事件報告とみなすことができます。」
Knoblochは「書式についていえば」と言っているだけで、その内容については何も語っていないのである。すなわち、その内容が本物であるとは語っていないのである。
Krausnick とWilhelmがあげた諸点は、提出された資料の信憑性をまったく確証していないにもかかわらず、依然として本物であるとされている。しかし、重要なことは、WilhelmとKnoblochの記述からも明らかなように、本物とみなされている資料の中で報告されている事件が、現実とは一致していないことである。

 

 「結局、バビー・ヤール事件では何名が殺されたのか?

最初に言ったように、それはよくわからない。

1941年9月9日の事件報告97号によると、50000名のユダヤ人の射殺が予定されていたが、33771名が報告されている。

しかし、処刑を担当した特別行動部隊4aの司令官パウル・ブローベルは、せいぜい16000名が射殺されたとニュルンベルク裁判で述べている。

事件報告97号は、市の司令官が20名のユダヤ人の公開処刑を勧告したとも伝えている。

ニュルンベルク裁判に提出されたソ連側資料USSR-9は、10万以上の成人男女、子供、老人がバビー・ヤールで射殺されたとさえ述べている。

このように、ソースによって数字がバラバラなのだ。

一般的に受け入れられている数字は33771名であるようであるが、これほど自己矛盾しているようでは、特別行動部隊の報告書は非常に信憑性が低いと言わざるを得ない。

同じ事件を何回も報告したり、タイプしたときにそのようなことが起こってしまったわけだが、そもそも実際、そのようなことが起こり得るものだろうか?

答えは起こる得るものなのだ。

そのような数字上のマジックが行なわれた事例が、少なくとも一つ存在する。

これは、ドイツの歴史家H・H・ヴィルヘルムが発見したものだ。

1941年11月11日の、ラトヴィア治安警察司令官ドゥナブルク前哨基地報告には、1134名のユダヤ人が殺されたとある。

1942年2月の要約報告には、同じ数字が、タイプ・ミスによってか、11034名に水増しされている。

一つのゼロが付け加えられて、1000が10000となったのである。

しかし、H・H・ヴィルヘルムは、11034という数字が特別行動部隊Aの新しい報告にも登場するので、この数字の方が正しいとみなしている。

さしあたり、少なくとも、どちらが正確であるのかを決定するには、問題の資料を批判的にさらに検証しなくてはならない。

しかし、これらの資料の素性と起源についての情報にもとづくと、事件報告と行動状況報告は、たとえそれが本物だとしても、学術的水準によれば、そこに登場する事件が実際に起こったことを立証しているわけではないといえる。

実際に起こったことであると断定するには、その他の質の高い証拠を提出しなくてはならない」

 

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
4. 33771名のユダヤ人が殺されたのか?
何名のユダヤ人がこの二日間にバビー・ヤールで殺されたのかという問題は、研究書の論点となっている。ヒルバーグは、「キエフでの行動の成果を見積もることは難しい」と述べている[51]。1941年9月9日の事件報告97号によると、50000名のユダヤ人の射殺が予定されていたが、33771名が報告されている。しかし、処刑を担当した特別行動部隊4aの司令官パウル・ブローベルは、せいぜい16000名が射殺されたとニュルンベルク裁判で述べている[52]。事件報告97号は、市の司令官が20名のユダヤ人の公開処刑を勧告したとも伝えている35。ニュルンベルク裁判に提出されたソ連側資料USSR-9は、10万以上の成人男女、子供、老人がバビー・ヤールで射殺されたとさえ述べている[53]。しかし、この数はそれ以外のところでは引用されていなかった。一般的に受け入れられている数字は33771名であるようである。Krausnickは、この数が、事件報告――どの事件報告か特定していない――と行動状況報告第6号に中で、「数回報告されている」と主張している[54]。しかし、この数は数回報告されたのではなく、一度だけ報告されて、それを写した文書の中で繰り返されたのであろう。ライトリンガーも事件報告と行動報告を引用しているが、二つの名前を混同している。「行動報告」に触れていながら、実際には事件報告のこともあり、その逆のこともある。彼は、「行動報告106号と事件報告6号には同じ数字33771名と記載されている」ので、33771名という数字は信用できるとも主張している[55]。ここでは、報告の写しが報告自身を確証するかたちになっている。ライトリンガーは、自著の中で一度だけ「事件報告106号」に触れているが、実際にそれを自分の目で見たのかどうかも疑わしい。もし見ていたとすれば、その資料を正確に引用したはずだからである。ヴォルフガング・ベンツも、「虐殺の実行犯、目撃者、生存者の証言が殺された人々の数(33771名)を確証している」と述べている[56]。Herbert Tiedemannは、バビー・ヤールについての「目撃者」とその他の報告者の話がまったく、混乱した、恣意的なものであることを明らかにし、これらの証言を証拠として認めるべきではないと論じている[57]。しかし、このような数字が、どのようにして間違って報告に紛れ込んでしまったのか。同じ事件を何回も報告したり、タイプしたときにそのようなことが起こってしまったのか。この数字はかなり水増しされていると思われるが、どうしてそのようになってしまったのかを再現することは困難であろう。しかし、特別行動部隊報告には、そのような数字上のマジックが行なわれた事例が、少なくとも一つ存在する。これは、Wilhelmが発見したものである。1941年11月11日の、ラトヴィア治安警察司令官ドゥナブルク前哨基地報告には、1134名のユダヤ人が殺されたとある。1942年2月の要約報告には、同じ数字が、タイプ・ミスによってか、11034名に水増しされている[58]。一つのゼロが付け加えられて、1000が10000となったのである。しかし、Wilhelmは、11034という数字が特別行動部隊Aの新しい報告にも登場するので、この数字の方が正しいとみなしている[59]。さしあたり、少なくとも、どちらが正確であるのかを決定するには、問題の資料を批判的にさらに検証しなくてはならないであろう[60]。しかし、これらの資料の素性と起源についての情報にもとづくと、事件報告と行動状況報告は、たとえそれが本物だとしても、学術的水準によれば、そこに登場する事件が実際に起こったことを立証しているわけではないといえる。実際に起こったことであると断定するには、その他の質の高い証拠を提出しなくてはならない。

 

 「ここまで散々説明してきたが、ようするに「報告書の数字は当てにならない」ということだ。

報告書の数字など当てにせず、実際に死体を掘り起こして数えればいいじゃないか、という正論は、その通りなんだが不可能だ。

ホロコースト肯定派によれば、ドイツ軍は東部戦線から撤退するとき、ドイツが犯した大量虐殺の証拠を隠蔽するために大規模な作戦を取ったとされている。

通称「作戦1005

大きく二期に分けられ、前半は1942年6月、ヘウムノ絶滅収容所の死体を焼却することからこの作戦が始まり、トレブリンカなどの東部地区絶滅収容所の死体が掘り起こされて、焼却された。

後半は1943年6月初頭から1944年7月末まで続いたという。

この過程で、ソ連とポーランドにあった大量埋葬地は空になり、虐殺の痕跡は消し去られたという。

すなわち、ドイツ軍の「1005コマンド部隊」は、13ヶ月間で、広大な地域に散在する数百の地点で数千の埋葬地を掘り起こし、それを空にした。

しかも、まったく物的・文書資料的痕跡を残さずに。

現在、調査してもまったく埋葬地が発見できないのはドイツの死体処理がそれほどまでに完璧だったからだそうだ。

……。

いかん、あまりのアホすぎる説に絶句してしまった。

作戦1005に関しての文書資料はまったく存在しない。

誰が犯罪を隠すために死体を焼却して証拠隠滅をしろと命じたのか、どのように命じたのか。

さっぱりわかってない。

ということは、「作戦1005」などという証拠隠滅作戦は最初から存在しなかったとしか考えられないだろう」

 

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
ホロコースト正史が、いわゆる「作戦1005」についてどのように語っているのか、それはどのような資料にもとづいているのかを検証してみよう。『ホロコースト百科事典』はこう述べている[651]。
「作戦1005、占領下のヨーロッパでのナチスによる数百万の人々の殺戮の痕跡を抹消するための大規模な活動のコードネーム」
この作戦の開始を許可する決定は、1942年初頭にベルリンで下されたという。
1942年2月20日、ゲシュタポ長官ミューラーは、外務省のルターに、死体埋葬が不十分な状態であるとの内容の書簡を送ったという[652]。そして、この書簡は、ミューラーが「ヴァルテガウであふれている死体についての匿名の苦情を受けとった」後にかかれたことになっている。そして、この書簡が証拠として引用されているのである。この書簡のファイル名は「IV B 4 43/42gRs (1005)」であり[653]、この文書に、「作戦1005」なる名称が由来しているのである。
しかし、この書簡を先入観なく引用しているアルフレド・シュトライムは、こう述べている。
「1942年11月20日、ヒムラーは、国家保安本部第4部長ミューラーSS集団長に、こう命じている(Zst. Dok. Slg. Ordner 3,Bl. 583)。
これらの死亡したユダヤ人の死体が各地で燃やされるか、埋められるように、どこであっても、これらの死体に何か別のことが起こらないように保証しなくてはならない…』」
シュトライムは、この書簡のヘッダーが「IV B 4 43/42 gRs (1005)」であると述べていないし、この書簡に「1005」という呼称を割りあててもおらず、こうコメントしているにすぎない[654]。
「請け負った作業は、国家保安本部の官僚手順にしたがって、『1005』という呼称を与えられた。」
したがって、問題の書簡の日付は、1942年2月20日ではなく、11月20日である。すなわち、作戦の呼称「1005」は、何と、それが開始されてからまる5ヵ月後に与えられたことになる。さらに、書簡では、ユダヤ人は、「射殺された」とか「殺された」ではなく「死亡した」となっている。その上、死体の処理は焼却か埋葬となっている。すなわち、ヒムラー書簡は、射殺されたユダヤ人の死体の発掘・焼却とはまったく関係がない。したがって、この書簡を射殺されたユダヤ人の死体の発掘・焼却と関連させることは、まったくの詐術である。
ホロコースト正史によると、SS大佐パウル・ブローベルが「作戦1005」の責任者となり、「1942年6月、ヘウムノ絶滅収容所の死体を焼却することからこの作戦が始まった」という。最初の段階では、いわゆる東部地区絶滅収容所の死体は、掘り起こされて、焼却されたことになっている。この件については、第4章で、トレブリンカの典型的な事例を取り上げて検証している。
第二段階は1943年6月初頭から1944年7月末まで続いたという。この過程で、ソ連とポーランドにあった大量埋葬地は空になり、虐殺の痕跡は消し去られたというのである。
『ホロコースト百科事典』には、こうした活動が行なわれたとされるもっとも重要な地点の地図が掲載されている。南北方向に1500km(北海から黒海)、東西方向に1300km(西ポーランドから独ソ戦前線)にまたがる広大な地域である[655]。レンベルクのヤノフカ収容所から始まって、この地域にはそれぞれの「特別コマンド1005」が割りあてられたという。このコマンドは、Sicherheitsdienst(保安局)、Sicherheitspolizei(保安警察)のメンバー、Ordnungspolizei(通常警察)のメンバー、実際の作業を担当する数十、数百の囚人――大半がユダヤ人――から構成されていたという。「特別コマンド1005-A」と「特別コマンド1005-B」は、キエフで活動していたという。2つともその後別の場所に移ったという。「特別コマンド1005-ミッテ」はミンスクで活動を始め、別の「特別コマンド‐1005」はリトアニア、エストニア、ビャウストク地方、総督府、ユーゴスラヴィアに配置されたという[656]。
このテーマについてのもっとも包括的な研究によると、特別行動部隊だけで220万人の(ユダヤ人と非ユダヤ人)を殺害したという[657]。国防軍、SS、警察も数万の殺戮を行なった咎で告発されている。また、すでに強調したように、ソ連もポーランドも、数千の死体の入った大量埋葬地でさえも、一つも発見していない。だとすると、「特別コマンド1005」は、150万から300万のあいだの死体を掘り起こして、それを焼却したことになる。すなわち、彼らは、13ヶ月間で、広大な地域に散在する数百の地点で数千の埋葬地を掘り起こし、それを空にしなくてはならなかったことになる。しかも、まったく物的・文書資料的痕跡を残さずにである。
もしも、
こうした埋葬地が記載されている数千の地図を持っていなかったとすれば、120万平方km以上にわたる地域に散在する数千の大量埋葬地を見つけだすことは不可能だったにちがいない。しかし、このような地図は、特別行動部隊報告にもその他の文書にもまったく言及されておらず、そのような地図は、第二次世界大戦の戦勝国が捕獲したドイツ側の文書中にもまったく発見されていない。目撃証人は、数千の薪の山が、灯火管制中の夜にもかかわらず、燃え上がっていたと証言しているが、ソ連の偵察機はそのような光景を目撃していないし、撮影してもいない。もしも、撮影していたとすれば、そのような写真は大々的な宣伝に利用されたにちがいない。
 Thomas Sandkuhlerはこう述べている[658]。
「作戦1005の極端な隠匿性のために、この件についての文書資料はきわめて少ない。」
言い換えれば、まったく存在しないということである。
ザンドキューラーの一文は、ホロコースト正史派の歴史家たちが文書資料の欠如という事態に直面した困惑をまったく反映している。彼らは、このような事態に直面すると、いつも、「極端な隠匿性のために」文書資料は存在しないという言い訳にすがるのである。こうした言い訳は、ライトリンガーが述べているような事実とまったく矛盾している[659]。
「[特別行動部隊報告]のオリジナル文書はほぼ200の報告からなり、それぞれから60−100のコピーが作成・回覧されている。…殺人者たちがどうしてこのような証拠を残してしまっているのか不可解である。」
ソ連邦事件報告は、全体で「2900頁以上のタイプ・テキスト」であり[660]、それぞれから少なくとも30部のコピーが作成され、回覧されている。したがって、ドイツ側は、特別行動部隊による大量射殺に関する数万頁の文書を配布し、その後、犯罪の痕跡を消すために、突然、死体を掘り起こして、焼却しなくてはならないと考えながらも、犯罪の証拠となる文書資料を破棄することは忘れてしまったことになる。
 「作戦1005」の物語は、少数の信憑性のない目撃証言にもとづいているにすぎない。その中の第一のものは、ソ連の調査委員会かジャーナリストが集め、エレンブルクとグロスマン編の『黒書』に掲載された。この本は、「目撃証人」の話を集めた宣伝目的の著作にすぎない。上記のダヴィドフ以外には、ビャウストクに関するシモン・アリエルとザルマ・エデルマンの(伝聞)証言[661]、カウナスからの少数の(彼ら自身の話による)逃亡者の証言[662]、ポナリ(リトアニア)についてのY・ファベルの証言[663]が掲載されている。しかし、これらの証人は、「作戦1005」や「特別コマンド1005」についてはまったく報告していない。
「特別コマンド1005」なる呼称自体がソ連側の発明である。ニュルンベルク裁判1946年2月9日の公判で、ソ連首席検事スミルノフは、「特別コマンド1005-A」と「1005-B」の活動について触れている、アメリカ軍パトリック・マクマホン中尉が作成したゲルハルト・アダメツの尋問調書(Exhibit USSR-80, Document Number USSR-80)からの抜粋を読み上げている[664]。
1946年、「1005旅団」についてのもっとも詳しい目撃証言である、Leon Weliczkerの著作『死の旅団』がウッチで出版されたが、ザンドキューラーは、またもや控えめな表現を使いながらも、この著作について、「Weliczkerの恐ろしい記録は、証拠としてはさしたる価値をもっていない」とコメントしている[665]。端的にいえば、まったく価値をもっていないということである。
Weliczker は、SS大佐パウル・ブローベルが「作戦1005」に関係していたことを知っていない。ブローベルと「作戦1005」を結びつけたのは、ロシア戦役の開始から1941年9月まで保安警察特別行動部隊C特別部隊Vの隊長であり、SS大佐ラッシュのもとで働いていたエルヴィン・シュルツであった。しかし、このシュルツも、死体の発掘・焼却にあたったこの大規模な作戦の名前については知らなかった。彼は、1945年12月20日、こう述べている[666]。
「1943年ごろ、私は、国家保安本部第1部長をつとめているときに、SS大佐ブローベルが、国防軍が撤退するはずの地域で射殺・清算された人々の大量埋葬地を隠匿しなくてはならなかったことを知った。私の記憶が正しければ、大量埋葬地のカバーネームは『水場』であった。」
最後に残されたのは、個々ばらばらの証言を寄せ集めることであった。
1946年11月、ルドルフ・ヘスはクラクフの監獄でこう記している[667]。
「ブローベルSS大佐は、全東部地区の大量埋葬地すべてを探し出して、隠匿することを命じられていた。彼の部隊は『1005』というコードナンバーを与えられた。」
最後に、1947年9月29日から1948年2月12日までニュルンベルクで開かれた特別行動部隊裁判の予備尋問で、ブローベルは、検事側のために「公的権威によって裁定された」事実となっていることを「自白」することが好都合であると判断した。彼は、1947年6月6日のニュルンベルクでの「法廷陳述」の中で、こう述べている[668]。
「1941年6月、私は、特別コマンド4Aの隊長となった。この特別コマンドは、ラッシュ博士の指揮下にある特別行動部隊Cに所属していた。私に割りあてられた特別地域は、ライヘナウ元帥の指揮する第6軍の地区にあった。1942年1月、軍規上の理由から、私は特別コマンド4A隊長の職を解かれ、ベルリンに召喚された。ベルリンでは、しばらくのあいだ、仕事がなかった。私は第4部の管轄下、集団長ミューラーの管轄下にあった。1942年秋、私はミューラーの代理として、東部占領地域に派遣され、特別行動部隊の処刑による大量埋葬地の痕跡を消し去る任務を与えられた。この任務は1944年夏まで続いた。」
アメリカ軍の尋問官はこの「自白」に不満足な様子であったので、ブローベルは、さらに「法廷陳述」を行なわなくてはならなかった。今度は、もっと詳しく証言した[669]。
「私は、この職務を解かれたのち、ベルリンにいってSS上級集団長ハイドリヒと集団長ミューラーに報告しなくてはならなかった。そして、1942年6月、集団長ミューラーから、東部地区での特別行動部隊の処刑の痕跡を消し去るという任務を与えられた。保安警察とSD司令官に個人的に報告し、ミューラーの命令を彼らに口頭で伝え、その活動を監督することが私に与えられた命令であった。この命令は国家機密であり、ミューラーから発せられたものであるが、その極秘性により、いかなる文書の交換も許されなかった。」
新しい日付(「1942年秋」ではなく「1942年6月」となっている)を記載したこの陳述は、ホロコースト正史の重要文献にまで高められた。2つの陳述の中で、ブローベルは「作戦1005」や「特別コマンド1005」についてまったく言及していないが、このような矛盾はホロコースト正史派の歴史家の常として、まったく無視されている。
次のことを十分に理解していただきたいのだが、われわれは、これまで述べてきたことによって、大量埋葬地が存在しなかったとか、死体の焼却がまったく行われなかったとか、まして、ユダヤ人の射殺がまったく行なわれなかったとか主張しているわけではない。ホロコースト正史はこれらの事件がきわめて大規模であったと主張しているが、われわれが疑問を呈しているのは、まさにこの規模なのである。

 「話を元に戻そう。

ホロコースト肯定派によれば「作戦1005」によってバビー・ヤール事件にも証拠隠滅工作が行われたそうだ。

バビー・ヤール事件から2年後の1943年8月18日〜9月19日の間に掘り起こして焼却したとされている。

だから死体が無いそうだ。

この隠蔽工作にはドイツ側の文書資料は一切存在しないが、証人がたった一人だけ存在する。

実際に焼却作業に参加したというヴラヂーミル・K・ダヴィドフというユダヤ人の囚人だ。

1944年11月9日、キエフでのドイツ犯罪調査委員会メンバーであったラヴレンコ少佐は、ユダヤ人目撃者ヴラヂーミル・K・ダヴィドフを尋問した。

ダヴィドフは、1943年8月18日、自分と99名の囚人(大半がユダヤ人)がキエフから5kmのところにあるシレツキ強制収容所から選別され、バビー・ヤールに連れて行かれ、1941年に射殺されたユダヤ人の死体を掘り起こさせられたと証言した。

ダヴィドフによると、バビー・ヤールの大量埋葬地には70000体が埋められていた。

囚人たちはこれらの死体を掘り起こして、「炉」の上で焼却した。

その「炉」は、キエフのユダヤ人墓地から奪った花崗岩のブロックで作られており、その上に、線路が置かれていた。

線路の上に、薪が置かれ、その上に死体が積み上げられたので、死体の巨大な山は10−12mにまで達した。

当初は、1つの「炉」しかなかったが、その後、何と75の「炉」が作られた。

死体は、完全には燃えつきなかった。

このために、燃やされる前に埋められていた壕に投げ込まれたという。

この証人は次のように述べている」

 

「(1943年)9月25日と26日、作業が終わりに近づくと、もう一つの炉を作るように命じられた。
われわれ自身が焼却されるのである。バビー・ヤールにはもはや死体がなかったのでそのように憶測した。
しかし、われわれはその炉を作った。」

 

 「ダヴィドフと彼の仲間の多く(35−40名)は、自分たちが殺されてしまうのを逃れるために、9月29日の夜に逃亡した。

しかしその過程で、少なくとも10名が殺されたという。

日付に関しては、ダヴィドフは、死体の焼却が終わったのは9月25日か26日であったと述べている。

そして、この日に、囚人たちは、自分自身のための最後の「炉」を作ったという。

これがバビー・ヤール事件の唯一の証言だ。

結論から言おう。

死体を掘り起こして焼いたというのはだ。

1943年9月26日、ドイツ空軍は、バビー・ヤールのある地域の航空写真を撮影している。

証言が事実ならばその写真には証拠隠滅工作をしている、あるいはその痕跡が見えるはずだ。

特に26日という日付はダヴィドフによればまだ焼却作業中だったとある。

ならば写真に炎が写ってないのはおかしい。

いくら証言があろうと、物的証拠がそれを否定しているのではこの証言は嘘だと判断するしかないな」

 

 

 参考資料:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」 著:ジョン・ボール
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/revisionism_site/air_photo_evidence/ball_02.htm)

1. 曲がりくねったバビー・ヤール渓谷の外延。渓谷は数千年に渡って渓谷を作り出した小さな小川のようであった。
2. V字型の渓谷の底。馬やトラックを使って数千の死体を埋葬・発掘・焼却することは、航空写真でも良く見えるはずである痕跡を作り出したことであろう。
3. 1940年には耕作されていたが、1943年には耕作されていない畑。
4. 木々
5. 数百の個人の墓の共同埋葬地
6. 墓を結ぶ直線道路
7. 共同墓地の中の建物
8. 64000名の死体が1943年9月26日に撮影された航空写真の5週間に発掘・焼却されたとされる渓谷の場所。そこには、分散した植物があり、まったく掘り返されていない土地がある。5週間のあいだ毎日1600の死体を戸外で焼却するための輸送に必要であろうブルトーザー、トラック、馬の移動の痕跡は航空写真にはない。(注1)
9. 渓谷の壁には道路や馬の道の痕跡はない。
10. 東方のキエフに向かうメルニク通り
11. 渓谷に入るメルニク通りにはトラックや馬の道の痕跡はない。
12. メルニク通りの終わりから西方に狭い道路と馬の道が続いている。
(注1)
Gutman, I. Ed. Encyclopedia of the Holocaust. N.Y. U.S.A. 1990.

 

 

 「これでわかったように、数万人のユダヤ人が殺されたバビー・ヤール事件などというものは存在しない。

すべては戦勝国とユダヤ人のプロパガンダなのだ。

埋葬地の痕跡が発見できないというのは、バビー・ヤール事件だけでなく、東部戦線におけるすべての大量射殺事件に共通してそれが捏造だったという強力な証拠となる。

ソ連・ポーランドはドイツ軍による大量虐殺の埋葬地を発見できなかった。

ドイツ側は、地元住民の協力で、殺害されたウクライナ人の大量埋葬地を97箇所も発見しているが、ソ連側が発見したのは、トレブリンカT周辺の3つの大量埋葬地と13の個人墓地であり、ポーランド人が発見したのは、41の疫病の犠牲者の大量埋葬地だった。

このことから考えて、ホロコースト肯定派が言うような「東部戦線における大規模な大量虐殺事件」は存在しなかったと考えられる。

存在するというなら埋葬地がどこにあるか言ってみろ。

東部戦線であったのは正規軍同士の戦闘と、パルチザン狩りの戦闘だった。

戦争中に東部戦線で多くの人々が命を落としたことは不幸な出来事であるが、それだけの話に過ぎない。

最後に、ホロコーストの生き証人にしてノーベル平和賞受賞者エリー・ヴィーゼルの本にはバビー・ヤール事件についてどう書かれているか紹介しておこう」

 

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
そして、もしも、ソ連側が合計100以上の殺害されたユダヤ人(ならびに無数の非ユダヤ人)の大量埋葬地を実際に発見していたとすれば、ソ連側はもっと大々的な宣伝キャンペーンを繰り広げたことであろう。しかし、そのようなキャンペーンは行なわれなかった。ソ連側は、ドイツがカチンやヴィンニツァで発見したものに匹敵するような証拠をまったく発見できなかったからである。ソ連側は殺人現場を発見できなかったというような反論はまったく無意味である。ドイツ側は、地元住民の協力で、殺害されたウクライナ人の大量埋葬地を97箇所も発見しているからである。第3章で指摘したように、ソ連側が発見したのは、トレブリンカT周辺の3つの大量埋葬地と13の個人墓地であり、ポーランド人が発見したのは、41の疫病の犠牲者の大量埋葬地であった。だから、ヒルバーグの数字を借用すれば、特別行動部隊、ドイツ国防軍、SS、警察、ルーマニア人が殺害したほぼ150万人のソ連系ユダヤ人の死体、ならびに無数の非ユダヤ人の死体が発見できないとすると、これらの死体は、完全に焼却されて、消え去ってしまったことにしなくてはならなかったのである。

 参考資料:ホロコースト講義 著:ゲルマール・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/nonsense/17.htm)
[ヴィーゼルの本から]
Elie Wiesel,The Jews of Silence,New York: New American Library, 1972,page 48.
何人のユダヤ人がバビー・ヤールで殺されたのか?正確な数字をあげることは難しい。7万人という人もいれば、15万人という人もいる。目撃証人によると、殺戮が終わってから数ヶ月間、血の間欠泉が大地から噴き上げ続けたという。

 

 「実に馬鹿馬鹿しいが、これが多数の文学賞を獲得した作家だというから驚きだ。

いかにホロコースト関連の本が印象操作だけで作られているかわかるな。

では今回は以上だ」


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