Subject:36
特別行動部隊アインザッツグルッペン


 「悪名高き、特別行動部隊「アインザッツグルッペン」。

フィクション小説「シンドラーのリスト」によれば”アインザッツ”とは普通の軍事用語としては”出撃”の意であり、”挑戦”とか”騎士道精神”とかいうとかいうニュアンスをかなり濃く含んでいるらしい。

特別行動部隊「アインザッツグルッペン」は警察の機動部隊で、ゲシュタポやSD、ジポの要員からなり、治安平定のために東欧の占領地域で敵の検挙や処刑にあたった。

合計3000名の特別行動隊員は運転手、通訳、無線技師といった非戦闘員集団も含んでいる。

3000人の部隊は大きく4つに分けられ、さらに120〜150名から成る特別行動中隊4つに分けられた」

◆特別行動隊A……司令官フランツ・シュターレッカー (兵力1000名)──北方軍集団に配属。東プロイセンから出撃し、リトアニア、ラトビア、エストニア、更にレニングラードへと前進を続けた。

◆特別行動隊B……司令官アルトゥール・ネーベ (兵力655名)──中央軍集団に配属。ポーランド総督領北部から出撃し、白ロシアを主作戦地域として、ミンスク、スモレンスク、更にモスクワへ向かった。

◆特別行動隊C……司令官オットー・ラッシュ (兵力700名)──南方軍集団に配属。シュレジェンから出撃し、北部ウクライナを作戦地域としてロヴノ、キエフ、クルスク、ハリコフと前進した。

◆特別行動隊D……司令官オットー・オーレンドルフ (兵力600名)──南方軍集団第11軍に配属。ルーマニアから出撃し、南ウクライナとクリミア半島を作戦地域としてオデッサ、ニコライェフ、更にクリミア半島へと向かった。

参考資料:ヘブライの館より

 

 「わたしはアインザッツグルッペンがなぜホロコーストと関係あるのか理解に苦しむ。

だって、アインザッツグルッペンがやったことはただの便衣兵狩りだからだ。

便衣とは中国語の「長い服」を意味する。

戦闘など活動的な仕事に従事する場合は、「短い服」を着用すべきところであるが、昔の中国では、肉体労働をしない者が「長い服」を着るとされるため、一般市民にまぎれての行動につき、実際に長くなくても「私服」と云う意味でこの語が使われる。

つまり、私服で戦闘行為を行うゲリラのことだ。

特にヨーロッパで活動したゲリラをパルチザンと呼ぶ。

このパルチザンに悩まされていたドイツ軍がそれを駆逐するのは当然だ。

ゲリラ狩りはゲリラ活動をする方が悪いのだ。被害が大きくなるのもすべてゲリラのせいだ。

民間人だと思って油断したら後ろから撃たれたなんてことがあったら、怪しい奴は片っ端から殺さなければこっちがやられる。

その結果、ドイツ軍に非協力的なものがゲリラではないのに誤射されることもあっただろうが、それはゲリラが民間人に化けるから起きたことなのだ。

共産主義国家はパルチザンの戦いを美化しているが、それはとんでもない嘘だ。

いわゆるパルチザン(レジスタンス)の《栄光の》戦いは、卑劣な殺人以外の何ものでもない。

この戦いの発案者こそ真の戦争犯罪人である。

彼らは人道にもとった行動をとり、人間の最も低劣な本能にアピールしたのだ。

ソ連パルチザンは戦時中にチフスなどの病原菌をばら撒いてドイツ占領下に伝染病を撒き散らした。

これはパルチザンが生物兵器を使ったということだ。

そのせいでドイツ軍の兵士だけでなく、収容所のユダヤ人や占領下の地元住民にも伝染病が広まって大勢が死んだ。

まさに無差別テロだ。ドイツ軍にダメージを与えるためなら本来は味方であるはずの地元住民まで平気で犠牲にする。

これがパルチザンだ。

ドイツが収容所や占領下でチフスのような伝染病とも戦わなければならなかったのは、意図的に伝染病を広めようとするパルチザンがいたことも理由の一つなのだ」

▲ 図50:「報復活動 … 腸チフス菌と発疹チフスシラミ 数百件」[7]
[7] For document excerpt with source see ibidem.
参考資料:『ホロコースト講義』著:ゲルマル・ルドルフより

 

 「通常、ゲリラを捕らえたときは処刑しても構わない。

しかしドイツ軍は1943年7月以降、パルチザンを戦争捕虜として扱うことにした。

これは世界史上類を見ない寛大な処置だった」

 

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
パルチザンの活動を賞賛するために、これらのデータがどの程度水増しされているかはわからないが、赤軍が1941−42年に後退していったときに採用した「焦土戦術」[13]とパルチザンの妨害・殺害工作が、東部戦線でのドイツ軍の敗因の一つであったことには疑いがない。赤軍とパルチザンは、開戦当初から、上層部の命令を受けて、きわめて残忍な戦闘方法を採用した。これについては、ヨアヒム・ホフマンが活写しており[14]、また、最近では、エピファノフ[15]とザイドラー[16]が言及している。A.M. de Zayasは、ドイツ国防軍戦争犯罪局についての研究の中で、ドイツ政府が赤軍によるだけではない虐殺行為についての文書資料を収集していたことを明らかにしている[17]。彼はまた、ドイツの戦時中の指導者たちが報復を標準的な手段とはみなしていなかったにもかかわらず、とくにロシア戦線では、前線でソ連軍との戦闘経験をつんだ下級部隊が、その経験にもとづいて行動し、上部組織から命令されていない、もしくは承認を受けていない報復(復讐)を実施してしまったことを明らかにしている[18]。最後に、1943年7月以降、ドイツ軍とSSはパルチザンを正規軍の戦闘員として扱うことに同意したことも指摘しておかなくてはならない。すなわち、国際法と一般的なやり方にしたがえば、パルチザンを捕まえたときには、処刑しても許されたのであるが、そのようにするのではなく、正規の戦争捕虜として扱うようにしたのである[19]。これは、私の知るかぎりでは、世界史上前例のない、寛容で人道的な措置である。

 

 参考資料:元武装SS少将回顧録『擲弾兵―パンツァーマイヤー戦記』 著:クルト・マイヤー 

いわゆるパルチザン(レジスタンス)の《栄光の》戦いは、卑劣な殺人以外の何ものでもない。この戦いの発案者こそ真の戦争犯罪人である。彼らは人道にもとった行動をとり、人間の最も低劣な本能にアピールしたのだ。私はパルチザンとの戦いを体験していない。フランス人、ベルギー人から、よく引用される憎悪を感じたことはない。むしろ、ドイツ軍と占領地住民の友好な関係をいくども目撃しているのだ。ことに、災厄にみまわれたノルマンディーの住民において、この感が深い。パルチザンたちが頭をもたげるのは、自分たちに生命の危険がなくなった時に限られている。彼らは戦ったのではなく、ドイツ軍の構成員個人をだまし討ちにしたのだ。軍事的に見た場合、パルチザンの行動はドイツ軍の作戦に何の影響をも及ぼしていない。しかし、この国際法にもとる戦闘の発案者たちのために、無関係な住民が、ドイツ軍の報復処置によってひどい目にあったのである。国民間の憎悪は、パルチザンの犯罪的投入によって計画通りあおり立てられ、長期にわたって深まっていった。これは否定できないことだが、連合国が《パルチザン政策》を行なったために、西ヨーロッパで共産主義思想が広まることになったのである。《勇敢なる》パルチザンの卑劣な投入がなければ、占領地で《戦犯裁判》が開かれることはなかったであろう。

 

 「ドイツ軍がパルチザンを戦争捕虜として扱ったことは寛大な処置だったはずなのに、なぜ特別行動部隊は悪名高いのか?

それは、このアインザッツグルッペンが非難されているのは「ユダヤ人を見つけ次第片っ端から殺していった。最初は銃殺だったが、後にガストラックを使った」と言われているからだ。

ただし、言っているのはラウル・ヒルバーグのようなホロコースト産業で儲けてるユダヤ人と「対抗言論」のようなサヨクだったりする。

なお、ガストラックなど存在しない。実物も、設計図も、ガス殺遺体もないのでは実在を信じろという方が無理だ。

さて「対抗言論」によれば、この部隊は「ユダヤ人をユダヤ人という理由だけで殺した」とある。

それはだな。

特別行動部隊の報告書にはパルチザン活動や伝染病など「射殺の理由」が書かれているからだ。

皆殺し政策ならこんな理由は必要ないだろう。

また特別行動隊の報告書にはゲットー(ユダヤ人居住区)に入れられたユダヤ人についても書かれている。

そのゲットーには労働ができない赤ん坊や子供、高齢の老人までいた。

つまり、特別行動隊はユダヤ人を無差別に殺していたわけではない。

アドルフ・ヒトラーが命令したことは、ユダヤ人住民全員を殺すことではなく、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員を殺すことだったのだ。

今回はそれらについて説明しよう」

 

 参考資料:Wikiより 国家保安本部
1941年:独ソ戦開始に伴い、ハイドリッヒは国家保安本部のSD(第III局)、ゲシュタポ(第W局)、クリポ(第X局)の各局のメンバーから成る数個のアインザッツグルッペン(Einsatzgruppen,特別殺戮部隊、移動特別部隊、特別行動隊とも訳される)を創り、ユダヤ人を排除するために国防軍の進撃に追随させ、占領地でユダヤ系住民を移住させると称して集結させ、これらを殺戮した。銃撃による大量殺戮は部隊員に過大な精神的負担を強いることとなり、後にアウシュヴィッツ収容所に見られるガス室(チクロンB)による大量殺害の方法が案出されるきっかけになった。無抵抗の民間人の殺戮を見聞きした陸軍上層部にヒトラー排除の陰謀が広がる。民間にあってもミュンヘンにおけるショル兄妹の白バラ抵抗運動のきっかけにもなった。

 参考資料:対抗言論 「アインザッツグルッペン」の説明
(アドレス:http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points/Einsatzgruppen.html)
『争点』では悪名高いナチスの「アインザッツグルッペン」が、つぎのように解説されます。
「親衛隊員で編制された東部戦線の遊撃分隊」(p.69.)
これではなんだか、ソ連のパルチザンのドイツ版のようです。しかし、「アインザッツグルッペン」(Einsatzgruppen)は、こんなに可愛いものではありません。独ソ戦の開始にさいして、ヒトラーたちは単にソ連正規軍だけを殲滅しようとしたのではなく、もうひとつの「戦線」をも同時に開いています。つまり、ドイツ軍の占領地域にいる共産党員、パルチザン、捕虜のユダヤ人、さらには精神「障害」者までを含む人々の抹殺という戦いです。やがて、
ユダヤ人全員が対象になります。そのために作られたのが「インザッツグルッペン」でした。この殺戮部隊は親衛隊員によって構成され、100万を越える数の人々が容赦なく射殺されたとされます。詳しくはラウル・ヒルバーグ『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』望田幸男他訳、柏書房、1997年、上巻、第7章南利明『ナチス・ドイツの国家と社会』勁草書房、1998年、pp,457-468.などを参照してください。「アインザッツグルッペン」はヒルバーグの翻訳では「移動殺戮部隊」、南さんの本では「特務部隊」と訳されています。木村さんはナチスによるユダヤ人への「差別、虐待、虐殺までを否定する」つもりはないといっておられますが(p.41.)、上記の「アインザッツグルッペン」の説明のように、ナチスの犯罪行為を軽いものにすることには熱心です。

 参考資料:対抗言論 殺戮部隊
(アドレス:http://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points/Einsatzgruppen.html)
 通常、特別殺戮部隊(Einsatzgruppen)と呼ばれる特別な親衛隊組織が、対ポーランド戦争の時期から活動しており、特に対ソ戦の開始とともに、陸軍の進撃にぴったりと付き添いながら、多数のソ連人、そしてユダヤ人を容赦なく殺害したことは、よく知られています。幸い、残された文書から、彼らの活動の多くを再現できるので、さすがの否定派もそのすべてを否定することができないでいます。
 西岡さんはどうそれに対処しているでしょうか。
 「特にソ連戦線では、多くのユダヤ系市民がパルチザンなどと混同されて銃殺されるということが、『アインザッツグルッペン(Einsatzgruppen)』と呼ばれる特別の部隊によって、現に起きています。・・・しかし、全てのユダヤ人をただユダヤ人だというだけでドイツが『絶滅』しようとしたという話には、根拠もなければ裏付けもありません。」(『真実』、p.77.)
 移動殺戮部隊が作成した文書は多いので、西岡さんの主張に真っ向から対立するものだけを選んで紹介します。
 最初は、ルードルフ・ランゲの報告(42年1月)です。
 「アインザッツコマンド2が当初から念頭に置いていた目的は、
すべてのユダヤ人の処刑を通じての、ユダヤ人問題の根本的解決(eine radikale Loesung des Judenproblems durch die Exekution aller Juden)であった。」[1]
 部隊の目的がこのように明らかに宣告されているのです。
 その活動の結果を見てみます。
 特別殺戮部隊A(主にバルト地域、白ルテニアにおいて活動)の、41年10月16日から42年1月31日までの「戦果」です(地域別の数字もありますが、総計だけを引用します)。
 ユダヤ人        21万8050人
 ポグロム           5500人
 リトアニア国境巡視      5502人
 共産党員           8359人
 パルチザン          1044人
 精神病患者          1644人
 その他             311人
 総計           24万0410人[2]
 このうち、ポグロムは民衆の反ユダヤ人感情をたきつけて行わせた殺害ですから、その犠牲者もユダヤ人の数に入れると、
殺害された人々のほぼ94%がユダヤ人です。注意してほしいのは、「ユダヤ人」という項目が、「パルチザン」や「共産党員」という項目とはまったく別個に立てられていることです。「パルチザンなどと混同」されてなどいません。はっきりとユダヤ人はユダヤ人であるという理由で大量虐殺されています。こういう資料が「裏付け」ている事実を、西岡さんは理解できないのです。ここで利用したクラウスニクとヴィルヘルムの本によれば、彼らが殺した総計は220万人にのぼります。
  [1] Helmut Krausnick/Hans-Heinrich Wilhelm, Die Truppen des Weltanschauungskrieges. Die Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des SD 1938-1942, Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart, 1981, p.534.
 [2] Ibid., p.607.

 

 

 

 「特別行動部隊が行った殺戮の規模は文献によって実に数字が様々だ。

規模が大きければ大きいほどアインザッツグルッペンを残酷で無慈悲な悪党に仕立て上げられるからだろう。

だが誇張しすぎなものも多い。はっきり言ってやりすぎだ。

3000人のアインザッツグルッペンが500万人を殺害したというのはもはや漫画の世界だぞ。

一騎当千どころか一人あたり1666人か。

南京大虐殺の百人斬りもびっくりな数字だ。

特別行動部隊には吸血鬼 モンティナ・マックスSS少佐 やサイボーグ シュトロハイムSS大佐 や魔術師 グルマルキンSS大佐 でもいたのか?

対抗言論の220万人という数字も大きすぎるような気がするが、今回は殺害の人数についてはやらない。

それはすでに他所でやってるし、それを明らかにしても意味がないからだ。

特別行動部隊が数多くの大量射殺を行ったことについては疑いの余地がないし、むしろ数は多ければ多い方がドイツ兵最強伝説のネタになる」

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
ドイツ軍がソ連に侵攻すると、合計3000名――運転手、通訳、無線技師といった非戦闘員集団も含む[576]――の4つの特別行動部隊が占領地区で活動するようになった。もちろん、その任務の1つは、後方地帯の治安維持、すなわちパルチザンと戦うことであった。しかし、ホロコースト正史によると、これ以外の別の、もっと邪悪な任務が特別行動部隊には与えられたという。ヒルバーグは、特別行動部隊D司令官オットー・オーレンドルフの戦後の供述に言及することで[577]、次のようにまとめている[578]。
「オーレンドルフによると、特別行動部隊の司令官はヒムラーから個人的に命令を与えられた。彼らは、自分たちの任務の重要な部分は、ユダヤ人――女性、男性、子供――と共産党機関員の除去であると知らされた。」

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
 ヒルバーグによると、特別行動部隊は90万以上のソ連系ユダヤ人を殺害し、その数は、ドイツ占領下のユダヤ人犠牲者のほぼ「3分の2」であった。残りは、ドイツ国防軍、SS、警察、ならびにドイツ側に協力したルーマニア人に殺されるか、収容所やゲットーで死亡したという[579]。 特別行動部隊による数十万の殺戮の証拠として、しばしば引用されているのが、いわゆる「事件報告」である。それは、1941年6月から1942年5月の時期のものであり、大量殺戮の犠牲者の数を5桁の数で言及している。連合国はベルリンの国家保安中央本部の事務所で、これらの文書を発見したという。この文書は適時に簡単に焼却できるのであるから、ドイツ側がこのような犯罪の証拠となる文書を放置して、敵側にやすやすと手渡してしまったことは、きわめて奇妙である。事実、「事件報告」の信憑性に疑いの目を向けている修正主義的研究者も存在しているし、少なくとも一部は偽造された文書であると考えている修正主義的研究者も存在する。こうした説の根拠となっているのは、この文書に記されているような大量殺戮の証拠がないことであるが、この問題については、あとで検討しよう。さらに、バッツは、次のような理由を挙げている[580]。「それら[文書]は謄写版刷りであり、署名があるものはまれである。もしあったとしても、犯罪的な内容ではない頁についている。たとえば、資料NO-3159は、R. R. Strauchの署名がついているが、特別行動部隊のさまざまな部隊の配置がしめされている冒頭の頁だけである。1942年8月−9月に363211名のロシア系ユダヤ人を処刑したことをヒトラーに報告したヒムラーの報告とされているNO-1128もある。この話はその4頁目に掲載されているが、ヒムラーの署名とされている署名は不適切な1頁目にある。さらに、ヒムラーの署名を偽造するのは簡単である。1つの水平線に3つの垂直線を引けばよい。」 ウド・ヴァレンディはこう付け加えている[581]。「ドイツ国防軍総司令部裁判でのアメリカの軍事法廷がすでに述べているように、『ソ連邦事件報告』は配置、指定時刻、部隊、その他、兵力、装備、補助兵力、兵站などの詳細について非常にあいまいである。ベルリンで書かれた、あるいは書かれたとされる文書の断片にある数字は、たとえ報告自体が本物だとしても、歴史家にとってはきわめて脆弱な証拠である。文書の断片に登場している数字は、偽造可能であり、文書を綿密に検証することが必要だからである。」

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)

 さまざまな組織の中で、とくにパルチザンとの戦いに責任を負っていたのは国家保安本部特別行動部隊であった[21]。
特別行動部隊は1941年夏に4000名ほどからスタートしたが、1942年末には、15000名のドイツ人と240000名の地元住民が関与するまでになっており[22]、そのことは、この当時、パルチザン戦争が熾烈になってきたことを示している。だが、特別行動部隊はパルチザン活動の鎮圧にあまり成功しなかった。この点を考えると、もともと少数集団から出発したこの部隊に、広大な地域(数10万u)の治安の維持をゆだねることには無理があり、彼らの目が行き届かない遠方地域では、パルチザンの影響力が強まっていったことを指摘しておかなくてはならない[23]。だから、H. Hohneの次のような記述はいささか馬鹿げている[24]。「ハイドリヒの死の部隊は、その残酷な冒険を始めた。3000名がロシアの500万人のユダヤ人を追い求めていた。」ヘーネは、この部隊が同時に100000名ほどのパルチザンとも戦っていたことに触れていない。特別行動部隊は、パルチザンとの絶望的な戦闘以外に、ドイツ国防軍兵士と協力して、最終解決計画の実行にあたり、数百万のユダヤ人を殺戮したという告発がなされている。しかし、ライトリンガーも指摘しているように、これはまったく信じられない[25]。

 

 「実際の報告書を見てみよう」

 

Subject: Report to the Fuhrer about fight against gangs
Report No. 51
Southern Russia, Ukraine, Bialystok
Successes in fight against gangs
from 1st October until 1st December 1942
1.) Bandits:
a) Casualties in fights (x)
August September October November total
227 381 427 302 1337
b) Prisoners executed immediately
125 282 87 243 737
c) Prisoners executed after thorough interrogation
2100 1400 1596 2731 7828
2.) Bandit accomplices and suspects
a) arrested
1342 3078 8337 3795 16553
b) executed
1198 3020 6333 3706 14257
c)
Jews executed(処刑されたユダヤ人)
31246 165282 95735 70948 363211
3.) Turncoats thanks to German propaganda
21 14 42 63 140
(x) The number of casualties are to be considered much higher,
because the Russians carry off their fallen or bury them immediately
.

▲ ヒムラー・レポート(1942年8月1日から12月1日までの特別行動隊の報告書)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Himmler_report.jpg

 

 「これには確かにユダヤ人の処刑数が書いてある。

だがそれは絶滅計画の証拠にはならない。

この報告書からわかることは「ユダヤ人の処刑数がパルチザンとは別にカウントされていた」ということだけだからだ。

特別行動部隊の虐殺の根拠される「事件報告」は連合軍がベルリンの国家保安中央本部の事務所で、これらの文書を発見したそうだ。

この報告書が犯罪の証拠ならば、なぜドイツは焼けば証拠隠滅になるのにそれをしなかったのか奇妙だ。

特別行動部隊の虐殺は「埋葬地が発見できない=物的証拠がない」という大問題がある。

ドイツ軍は地元住人の話からソ連に粛清された人々の埋葬地をカチン以外にも見つけています。ソ連軍に殺害されたウクライナ人の大量埋葬地を97箇所も発見している。

ソ連側が発見したのは、トレブリンカT周辺の3つの大量埋葬地と13の個人墓地であり、ポーランド人が発見したのは、41の疫病の犠牲者の大量埋葬地だった。

ソ連はドイツを悪者にするために必死で埋葬地を探していたが、結局見つからないまま終わってしまった。

もしも100人以上の虐殺死体が見つかれば、アウシュヴィッツなど無視してそれを大きく宣伝し、西側メディアを呼びよせてドイツを叩きまくっただろう。

ヒムラー・レポートの欠点は、大量殺害が明記されているのに、それを裏付ける死体の山が見つからないことだ。

なお、アウシュヴィッツ・ビルケナウでは、ソ連側は536体を発見し、すべてが検死された。死者は多くの人々の前で、荘重に葬られた。その光景について多くの写真とフィルムが撮影されている。

だが、ガス殺遺体は一体もなかったことは周知の事実である。

さて、ヒムラーレポートの数字が信用できないことは埋葬地がないことから言えるが、ユダヤ人の枠が他の民族のパルチザンとは別枠になっているのはユダヤ人をユダヤ人だけで狙ったということではないか、という指摘がある。

それは違うな。

ユダヤ人枠が別にあったのは、共産主義者にユダヤ人がとても多かったからだ。

ユダヤ人は独ソ戦よりさらに前、ロシア革命の頃からユダヤ人は共産主義者の手先となって東部地区で粛清を繰り返してきた。

だから地元住人はユダヤ人が大嫌いだったし、ドイツ軍の影響力がおよばないところで地元住人がポグロムを行うこともあった。

独ソ戦ではソ連軍の人民委員はほとんどがユダヤ人だった。

人民委員とは赤軍に特徴的な、軍隊の指揮官とは別に政治的イデオロギーを指揮する政治将校のことだ。

ソ連兵が退却しようとすると後ろから味方を撃ち殺すという赤軍名物だ。

ドイツ軍がソ連領に攻め込んだとき、ロシア人は誰もソ連のために戦おうとしなかった。

なぜならロシア人はソ連に酷い目に合わされてきたからソ連は大嫌いだったのだ。

ソ連軍からはドイツ軍に寝返る人間が続出した。

しかし人民委員はそんなロシア人を強制的にドイツ軍と戦わせた。

また、ヒトラーの側近であるアルフレート・ローゼンベルグは独ソ戦直前の1941年5月7日「ウクライナ総督のための指示」の中で東部地区のユダヤ人を2種類に分けている。

1つは昔からそこに住んでた大多数のユダヤ人。

もう1つは1939-1940年に赤軍の列車でやってきたソ連系ユダヤ人。

後者は特別な集団を作り、スターリンの手先になって地元住人を虐待・粛清してきたために、地元住人にすごく恨まれていた。

そしてドイツ軍に対して地元住人を戦わせ、パルチザン攻撃を仕掛けてきたのはこいつらだ。

だからドイツ軍はすなわちユダヤ人-共産主義者を取り除かねばならなかったのだ」

 

 

 

 参考資料:ツンデル裁判記録 C:弁護人ダグラス・クリスティ H:検察側証人ラウル・ヒルバーグ
(http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/holocaust_trial.htm)
<第二の尋問:ユダヤ人絶滅命令と最終解決>
C:ヒトラーのユダヤ人絶滅命令は存在したのですね。
H:存在したというのが私の見解、私の結論です。
C:それは重要な命令ですね。
H:はい。
C:1961年のあなたの本『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』177頁には、「殺人の局面がどのように生じたのか。基本的に、われわれは二つのヒトラーの命令を扱っている。一つの命令は1941年春に出された」とあります。具体的には、どの命令のことを言っているのですか。
H:この命令の本質について多くの議論と論争が行なわれました。そのために、私は第二版では、このテーマを入念に研究してきました。
C:どのような命令でしたか。
H:ドイツ陸軍司令部は、占領予定のソ連地域の「住民の処遇」についての計画を作成しました。この命令はアドルフ・ヒトラーに提出され、彼の承認が求められました。ヒトラーは、この指示を変更するように求めました。それが、私が引用している1941年3月の指示です。私がお話ししているのは、ヒトラーの命令ではなく、指示についてです。
C:私が関心を持っているのは、あなたが自著で挙げている命令のことなのですが。
H:あなたの関心はわかっていますが、ご質問は非常に込み入っているのです。だから、ドイツの著名な歴史家たちが、1984年にシュトゥットガルトで国際会議を開き、このテーマを討論したのです。
判事:質問に答えてください。
H:質問はヒトラーの命令についてでした。指示の草稿がありました。ヒトラーはその変更を望みました。その後、4月に変更がなされ、アドルフ・ヒトラーに提出され、彼の承認が求められました。
C:わかりました。1941年4月にアドルフ・ヒトラーが承認したヒトラーの命令があるというのですね。
H:はい、4月までにということですが。
C:この命令には、どのように書かれていたのですか。
H:この文書を書いたヨードル将軍によれば、こうです。アドルフ・ヒトラーは、自分はユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員は清算されるべきであることを望んでいると語った。彼は、SSと警察の諸機関がこの任務に直接責任を負うべきであると語った。彼は、軍部はこの目的のために細部をSSと警察と議論すべきであると指摘した。これが、ヨードル将軍が記述した命令の内容です。
C:すると、実物の命令はないのですか。
H:命令は口頭でした。残っているのは、ヨードルがアドルフ・ヒトラーの話について覚えていることです。しかし、アドルフ・ヒトラーの話を聞いた人々の話も残っており、それはもっと直接的で、もっと明確です。だが、これらの話はハインリヒ・ヒムラーの演説のように、様々な文脈のなかで、他の人々によって語られたものです。いずれにせよ、命令は口頭でした。
C:命令が口頭だとすると、あなたは正確な文面を知らないのですね。
H:そのとおりです。誰も正確な文面を知りません。文面がわからないといっても、全体の意味がわからないということではありません。正確な文面がわからないという意味です。
C:ということは、文書となったかたちでの命令は存在しないということですね。あなたが話したことは、アドルフ・ヒトラーがそのように語ったと思われるとヨードル氏が語ったと思われることについてのあなたの解釈です。その資料は西ドイツの文書館にあり、
ユダヤ人とボリシェヴィキという二つの単語のあいだに「-」があったというのですね。
H:そのように記憶しています。
C:殺されるべきなのは、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員ではないというのですね。ユダヤ人だというのですね。
H:この問題は、多くの議論を呼んだ問題です。正確な文面に関しては明確な答えはありません。できることは、特別行動部隊に命令を伝えた人たちの説明から、中身が何であったのかを推測することだけです。
C:特別行動部隊に対する人民委員命令のことですか。
H:最終的には、この命令は特別部隊に対してだけではなく、軍に対してもだされました。
C:この命令は、「
ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員を絶滅せよ」と述べていると理解していいですね。
H:うーーーん。
C:「ユダヤ人とボリシェヴィキ人民委員を絶滅せよ」という意味であると解釈しているのですね。
H:そのとおりです。
C:しかし、
「ユダヤ人とボリシェヴィキ人民委員」とは言ってはいないのではありませんか。
H:ええ、言ってはいません。問題が単純ならば、研究者の会議を招集して討論したり、資料を探す必要もありません。
C:あなたの本の177頁には、「基本的に、我々が扱っているのは二つのヒトラーの命令である。一つの命令が出されたのは、1941年春、ソ連侵攻を計画中のことである。それは、SSと警察の小部隊がソ連領に送られ、町から町をまわって、ユダヤ人住民を即座に殺すべしと述べている」とあります。そんなに複雑な問題のようにはみえません。命令されたことは、ユダヤ人住民全員を殺すことではなく、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員を殺すことだったのではないでしょうか。
H:特別行動部隊の設置理由は、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員の殺害でしたが、これは口実です。ボリシェヴィキ人民委員は、ごく少数であり、捕虜となることもあまりありません。ごく少数の人々を殺すために、高級将校の指揮する3000名の部隊を4つも設立する必要はありません。
C:
特別行動部隊その他に対して、すべてのユダヤ人住民を即座に殺せというアドルフ・ヒトラーの命令はないということですね。
H:例えば、命令はヒムラーに与えられました。彼はこの問題の解決に責任を負いました。
C:どのような問題ですか。
H:いわゆるユダヤ人問題です。
C:ここで議論しているのは、ユダヤ人-ボリシェヴィキ人民委員命令のことで、ユダヤ人問題のことではないと思っていますが。
H:ここで、複雑な歴史のプロセスをお話することは場違いなのかもしれませんが、アドルフ・ヒトラーは、独ソ戦がいかなる戦争とも異なる戦争、決着がつけられるべき戦争と述べていました。

 

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
東ヨーロッパの反ユダヤ主義の諸原因
 このことは、東部地区においてSS隊員、ドイツ国防軍、特別行動部隊によって射殺されたユダヤ人は一人もいないことを意味しているのであろうか。もちろん、そうではない。後方地帯での「対パルチザン戦闘」と関連した、とくに報復殺人というかたちでの多数の民間人の射殺が、ドイツ軍によって行なわれたことは否定できない[65]。さらに、きわめて残酷に戦われた東部戦線では、過度の報復措置がしばしばとられた、すなわち、国際法にしたがって、パルチザン、その支持者および犯罪者(そして、戦争捕虜も)が報復として殺されただけではなく、報告措置とはまったく関係のない無実の民間人も殺されたのであろう。 
このような報告措置の犠牲者を選択するにあたっては、ウクライナ人、ベラルーシ人、バルカン諸民族、バルト諸族、カフカース諸族は選択されなかった。彼らの多くは、ドイツ側に味方して戦っていたからである。ユダヤ人がこうした諸族のあいだでとくに嫌われるようになったのには、近年の出来事が関連していた。すなわち、ここ数十年のあいだ、多くの人々が、共産党の人民委員から恐ろしい経験をしてきたが、人民委員の多くが、とくに、ソ連のボリシェヴィズム時代の最初の数準年間には、ユダヤ系であったからである。ロシア系ユダヤ人女性ソーニャ・マルゴリナは、ボリシェヴィキによるテロル支配に関与したロシア系ユダヤ人について、次のような興味深い指摘をしている[66]。

 参考資料:パルチザン戦争と報復殺人 著:G. ルドルフ、S. シュレーダー
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_06.htm)
民族社会主義者と、自分たちの自由を求めて闘った東ヨーロッパの諸民族は、ユダヤ人一般をボリシェヴィキのテロル、人民委員の活動と同一視していた。この同一視は、徹底的であり、広範囲にまたがっていたけれども、正しくはない。しかし、以上のようなことを考えると、こうした同一視が登場し、広まっていった状況は理解できるものであろう。だからこそ、パルチザン戦争やその他のソ連による戦争犯罪の犠牲者とならなくてはならなかったのは、まず第一にユダヤ人であった。このことを非難するとすれば、東部戦線でのパルチザン戦争の責任者が誰であったのかを看過すべきではないであろう。その責任者とは、戦争が始まる前から、ヒトラーと同じように、自分の支配下にあるユダヤ人を過酷に扱ってきたスターリンなのである[69]。

 参考資料:ロシアにおける歴史的修正主義 著:ヴォルフガング・シュトラウス
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/strauss_01.htm)
1941年6月22日の時点で、赤軍には530万人がいた。しかし、同年10月までに、この軍隊はもはや存在していなかった。80万ほどが殺され、450万人は、戦うよりも、捕虜となることを選択した。スターリンが「阻止部隊」の設立を命じたのは、開戦わずか数週間後のことであった。映画制作者アレクサンドル・イヴァノフ=スハレフスキイは次のように述べている。
ソ連政府のために誰も戦おうとしなかった。誰も戦争に行こうとはしなかった。ドイツ国防軍が攻撃を始めるやいなや、武器を捨てて、後方に身を隠し、故郷の村に戻っていった。赤軍が崩壊してしまうのを阻止するために、機関銃を装備した阻止部隊が、前線と広報地帯のあいだの区域を封鎖した。それでも逃亡しようとしていた兵士は、前進して、ドイツ軍に投降した。」(450頁)
共著者イヴァノフ=スハレフスキイは次のように述べている。
「ドイツ国防軍、すなわち第三帝国の軍隊は、ヨーロッパ文明の歴史の中で、とくに、一人の兵卒の命を尊重する点では最良の軍隊であった。」(437頁)
本書の大半は「ホロコースト」と「ユダヤ人問題」を扱っている。ミハ・シャフィルがEast European Perspectives誌(2002年6月12日号)で述べているように、旧東側陣営の修正主義的著述家と出版者の共通分母は、ホロコーストの「否定」である。しかし、これはBig Civil Warの著者たちにはあてはまらない。ユダヤ人に対する迫害や虐殺の存在を否定していないからである。しかし、ここでは、「ホロコースト」という概念は別の歴史的意味合いを持っている。すなわち、農民ホロコースト、ウクライナ人ホロコースト、カザーク・ホロコーストというように使われているのである(206f頁)。「カザークの殺戮」、「ウクライナ人の殺戮」、「スラヴ人の殺戮」、「農民の殺戮」が信じがたいほど大規模であったことを知ったとすれば、共産主義者の考え方がその当初から絶滅戦略であり、それゆえホロコースト・ポグロムであったことが理解できるであろう。

 参考資料:オットー・レーマー少将は語る
(アドレス:http://www.bunkyo.ac.jp/~natasha/revisionist/remer_01.htm)
Q:ドイツ人はロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたのですか?
A:ナンセンスです!ロシア人は他の人々と同じように人間です。
われわれがロシア人のことを「下等人種」と呼んでいたかどうかというあなたのご質問はナンセンスです。われわれはロシア人と良好な関係を築いていました。
われわれが対処しなくてはならなかった唯一の例外は、ソ連の人民委員でした。彼らすべてがユダヤ人だったのです。人民委員たちは、機関銃を手にして前線の後ろに立ち、ソ連兵を戦闘に駆り出していました。われわれは彼らにすみやかに対処しました。命令にそっていたのです。この戦争は基本的生存のためのイデオロギー戦争であり、その中で、こうした政策は当然のこととされていたにすぎません。ロシア人のことを野蛮なアジア系遊牧民とみなすような話もあり、兵士たちが下等人種についておしゃべりしていることもありましたが、「下等人種」という用語が公式に使われたことはありません。
(中略)
Q:以前、ユダヤ人人民委員について話されていますね?
A:
問題は、ドイツ軍やその他の国々の軍隊とは異なって、ソ連軍には、指揮官とともに、命令を発する権限を持つ政治人民委員がいたことです。ほとんどがユダヤ人でした。例えば、[ウクライナの]リヴォフの東のタルナポリとゾロチェフで、軍事攻勢がすみやかな成功を収めたときの事例をあげておきます。私自身が経験したものです。われわれはゾロチェフを占領し、2両の戦車が遅れて続いていました。敵の反撃があるのか、それともこのまま攻撃を続けるのかはっきりしていなかったので、わが軍は町外れで休息をとっていました。戦車の到着待っていたのです。この小さな町で、私は幼い子供たちが窓から放り出されているのを目にしました。また、通りに倒れた女性が棍棒で死ぬほど殴られているのを目にしました。彼らはユダヤ人でした。私は[地元の]女性を呼びつけました。彼女は私の車にやってきて、「私たちがなぜ困難ことをしているのか教えてあげます」と言いました。われわれは車で地元の刑務所に向かいました。囚人が散歩するための、壁で囲まれた区画がありました。そこには、死体がうずたかく積み上げられていました。まだ、血を流している死体もありました。2時間ほど前、ソ連軍が撤退するときに、ソ連兵は、投獄されていた地元をウクライナ人民族主義者たち全員を機関銃で銃殺したのです。これをやらせたのがユダヤ人人民委員でした。だから、地元のウクライナ人たちがユダヤ人にポグロムを行なっていたのです。ウクライナ人は、ユダヤ人を見かければ、すぐに殺しました。われわれはこの当時、地元の事柄に影響を与えることがまったくできなかったにもかかわらず、このポグロムの件で非難されているのです。われわれが秩序を回復することができたのはかなりあとのことでした。

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
 1941年5月7日、ローゼンベルクは、「ウクライナ総督のための指示」の中で、こう指示している[585]。
「事態の成り行きとして当然起こることであるが、ユダヤ人をすべての公職から追放したのちに、ユダヤ人問題は、ゲットーや労働部隊の設立による決定的な解決を経験するであろう。強制労働が導入されるべきである。」
 「住民区分」のパラグラフにある「茶色の書類」は、
東部ユダヤ人を2つのカテゴリーに分けている[586]。
「個々の帝国総督府、その中の弁務府では、ユダヤ人が全住民の中のかなりの部分を構成している。例えば、白ロシアとウクライナでは、数世代にわたってそこに生活している300万人のユダヤ人がいる。一方、ソ連邦の中央地域では、ボリシェヴィキ時代だけでそこに移住してきたかなりのユダヤ人がいる。ソ連系ユダヤ人は特別集団を形成している。彼らは、1939年−1940年に赤軍の列車によって、東ポーランド、西ウクライナ、西白ルテニア、バルト諸国、ベッサラビア、ブコヴィナに運ばれてきた。これらのさまざまな集団に対して、さまざまな扱いが行なわれている。まず、過去2年間に、ソ連が新しく占領した地区に移住してきたユダヤ人は、彼らが逃亡していない限り、厳しい措置によって取り除かれるべきである。これらの集団は、地元の住民たちにテロルを行使し、そのために、激しい憎悪を呼び起こしているために、彼らに対する絶滅が、ドイツ軍の面前で、多くの場合、地元住民によって行なわれている。この種の報復的な措置を反対すべきではない。その他の居住ユダヤ住民は、まず、強制的出頭によって登録されるべきである。ユダヤ人すべてが、はっきりとそれとわかる記章をつけていなくてはならない(黄色のダヴィデの星)。」
「ソ連系ユダヤ人」は射殺され、その他圧倒的多数の居住ユダヤ住民はゲットーに収容されたのである。しかし、その他多くの東部地区ユダヤ人も、サボタージュ、反ドイツ活動、疫病の媒介者、とりわけ、パルチザン攻撃への報復措置として殺された。

 

 「アインザッツグルッペンがユダヤ人絶滅を命じられたとする証拠は何もない。

さっきの報告書のように一見するとソースになりそうな書類はあるが、別の報告書にはユダヤ人絶滅命令を否定するような内容が書かれている。

しかしホロコースト肯定派はこの手の別の報告書は見なかったことにする。

なぜならそれを見ればユダヤ人絶滅命令などなかったことが明らかになってしまうからだ」

 

 参考資料:1941年8月1日〜31日の「行動状況報告」書
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)

「[白ロシア]。ゴロドニアでは165名のユダヤ人
テロリストが、チェルニゴフでは19名のユダヤ人共産主義者が清算された。

また8名のユダヤ人共産主義者がベレスナで射殺された。 とくにユダヤ人女性が抵抗を示すケースも頻繁であった。

このために、クルグロイェでは28名のユダヤ人女性を、モギリョーフでは337名のユダヤ人女性を射殺しなくてはならなかった。 

ボリッソフでは331名のユダヤ人サボタージュ主義者と118名のユダヤ人略奪者が処刑された。

ボブルイスクでは、ドイツ占領軍に対する中傷・虐殺宣伝を行なっていた380名のユダヤ人が射殺された。

タタールスクでは、ユダヤ人が勝手にゲットーを離れ、前の居住地に戻って、そこからロシア人を追い出そうとしている。すべてのユダヤ人男性と3名のユダヤ人女性が射殺された。

サンドルドゥブスにゲットーを設立するときには、一部のユダヤ人が抵抗したので、272名のユダヤ人を射殺しなくてはならなかった。その中には、政治人民委員もいた。

モギリョーフのユダヤ人もゲットーへの再定住をサボタージュしようとした。113名のユダヤ人が清算された。さらに、4名のユダヤ人が就労拒否の咎で射殺され、2名のユダヤ人が、負傷したドイツ軍兵士を虐待し、指示された記章をつけていなかった咎で射殺された。

タルカでは222名のユダヤ人が反ドイツ宣伝の咎で射殺され、マリナ・ゴルカでは996名のユダヤ人が、ドイツ占領当局の命令をサボタージュした咎で射殺された。 

シクロフでは、627名のユダヤ人がサボタージュ行動に関与した咎で射殺された。伝染病の感染に危険が高かったので、ヴィテプスクのゲットーに暮らすユダヤ人の清算が始められた。約3000名のユダヤ人である。」
Activity and Situation Report no. 6 of the Einsatzgruppen of the Security Police and the SD in the USSR (period of report from October 1 to 31, 1941). RGVA, 500-1-25/1, pp. 221f.

※アインザッツグルッペンの活動を示す報告書は3種類ある。
@ 「保安警察長官とSDのソ連邦事件報告(Ereignismeldungen UdSSR des Chefs der Sicherheitspolizeiund des SD)」
A 「保安警察長官とSD司令部の東部占領地区報告(Meldungen aus den besetzten Ostgebieten vom Chef der Sicherheitspolizei und des SD-Kommandostab)」
B 「ソ連邦における保安警察SD特別行動部隊行動状況報告(Tatigkeits- und Lageberichte der Einsatzgruppen der Sicherheitspolizei und des SD in der UdSSR)」

上記の報告書はBの「状況報告」書に当たる。

 

 

 

 「この報告書を見れば「殺されたユダヤ人にはそれなりの理由があった」ことがわかる。

もしもユダヤ人を無差別に殺していたのなら、こんな理由付けは必要ないだろう。

他の報告書を見てみよう。

1942年1月16日―31日の全体報告」では、34500名(といわれる)のユダヤ人がカウネン、ヴィルナ、シャウレンのゲットー(ユダヤ人居住区)に存在することが次のように説明されている」

 

「労働配置のために、ユダヤ人の完全な清算が実行されないので、ゲットーが作られた。これらのゲットーは現時点では以下の通りである[上記に引用されている数があげられている]。これらのユダヤ人は、防衛目的に必要な労働に雇用されている。」

 

 「これによると、労働に適格なユダヤ人だけが、上記の3つのゲットーで生活することを許されたようだな。

この論理によると、労働不適格者、とくに子供はすべて、殺されたということになる。

ホロコースト物語では働けないユダヤ人を選別して先に殺したというから確かにつじつまが合う。

だが、これには大きな問題点がある。

しかし、1942年5月末に実施された人口調査によると、14545名のユダヤ人が、ヴィルナには生活していた」

▲ 赤丸がヴィルナの位置。ポーランド国内に位置している。

 「ヴィルナ・ゲットーに住んでいたユダヤ人の名前は、誕生日、職業、住所とともに、ヴィリニュス(ヴィルナのリトアニア名)のユダヤ博物館によって公表されている。

さらに、この資料からは、14545名のユダヤ人のうち、少なくとも3693名が15歳以下の子供である。

年代ごとの子供の数は、以下の表となる」

 

誕生年 1942年時
の年齢
人数
1927 15 567
1928 14 346
1929 13 265
1930 12 291
1931 11 279
1932 10 216
1933 9 226
1934 8 195
1935 7 227
1936 6 229
1937 5 182
1938 4 188
1939 3 181
1940 2 117
1941 1 172
1942 生後数ヶ月 12

▲ ヴィルナ・ゲットーの15歳以下の子供の数
1942年5月末に実施された人口統計より 

 「

これはどういうことだ?

生後数ヶ月、1歳、2歳とかは明らかに労働ができない年齢だぞ。

さらに、人口調査に登録されているユダヤ人のあいだには、65歳以上の人物が59名いる。

最年長は、1852年生まれの90歳になるChana Stamlerieneだった。

ホロコースト物語では殺される対象の人間が皆生きていたのだ。

ゲットーではユダヤ人は家族と共に暮らしていた。

だから3693名の子供が家族とともに暮らしていたというのだから、労働不適格者と雇用不可能者(子供の世話をしなくてはならない母親)の数はもっと多かったにちがいない。

この報告書とユダヤ博物館の統計から考えると、特別行動隊は労働ができないユダヤ人を殺す必要はないと考えていたということになる」

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
f. リトアニアのゲットーと収容所での労働不適格ユダヤ人
 特別行動部隊報告には、射殺されたユダヤ人の数だけではなく、そのカテゴリーについても疑問の余地がある。
 「1942年1月16日―31日の全体報告」では、34500名(といわれる)のユダヤ人がカウネン、ヴィルナ、シャウレンのゲットーに存在することが次のように説明されている[597]。
「労働配置のために、ユダヤ人の完全な清算が実行されないので、ゲットーが作られた。これらのゲットーは現時点では以下の通りである[上記に引用されている数があげられている]。これらのユダヤ人は、防衛目的に必要な労働に雇用されている。」
 これによると、労働に適格なユダヤ人だけが、上記の3つのゲットーで生活することを許されたかのようである。この論理によると、労働不適格者、とくに子供はすべて、殺されたはずである。しかし、1942年5月末に実施された人口調査によると、14545名のユダヤ人――彼らの名前は(誕生日、職業、住所とともに)は、ヴィリニュス(ヴィルナのリトアニア名)のユダヤ博物館によって公表されている――が、ヴィルナには生活していた。
さらに、この資料からは、14545名のユダヤ人のうち、少なくとも3693名が15歳以下の子供である。年代ごとの子供の数は、以下の表となる[598]。
さらに、人口調査に登録されているユダヤ人のあいだには、
65歳以上の人物が59名いる。最年長は、1852年生まれの90歳になるChana Stamlerieneであった。
 子供たちはゲットーでは家族と暮らしていた。例えば、ミハイロフスキイ家は、1905年生まれのナッハマン、1907年生まれのフルマ、1928年生まれのペシア、1932年生まれのニウシア、1935年生まれのソニア、1904年生まれのマネ、1903年生まれのソニア、1930年生まれのモテル、1933年生まれのハナで構成されていた[599]。カセフ家は、1909年生まれのハイム、1921年生まれのハヴァ、1941年生まれのスロマで構成されていた[600]。シュメレヴィチ家は、1896年生まれのアブラム、1909年生まれのハワ、1938年生まれのソラ、1941年生まれのリヴァで構成されていた[601]。最後に、ツッカーマン家は、1916年生まれのコセル、1912年生まれのシマ、1932年生まれのクシア、1934年生まれのマルカ、1904年生まれのアブラム、1909年生まれのシフラ、1930年生まれのブルマで構成されていた[602]。
 3693名の子供が家族とともに暮らしていたので、労働不適格者と雇用不可能者(子供の世話をしなくてはならない母親)の数はもっと多かったにちがいない。
 特別行動部隊がすべてのユダヤ人、少なくとも労働不適格ユダヤ人すべてを清算しなくてはならないとしたならば、これらの3693名の子供たちは、1942年10月のゲットー第2号の解体(解体されたといわれている)のときに、なぜ殺されてはいなかったのであろうか。
 これらの子供たちには死の危険がほとんど迫っていなかったことについては、アブラハム・フォックスマンによる、ヴィルナ・ゲットーの学校制度の様子からもはっきりとしている[603]。
「1941年、ゲットーが設立されてから数日後、教師集団がクラブを作り、これが、ゲットーの教育システムを組織することになった。入学者を募ると、3000名の子供が登録された。当初、入学は自発的なものであったが、1943年4月には、義務となった。『1943年4月28日に、ゲットー代表者会議が発した指令第3号は、ゲットー学校への入学が義務となると告げている。3歳から13歳までのすべての子供は、無料のゲットー学校に入学しなくてはならない。ブロック長は、入学が義務づけられている子供たちが入学することに責任を負う。』
 ゲットーの初年には、20以上の教育施設が創立され、それは、ゲットー学校への入学が義務となっている子供の80%をカバーしていた。学校および作業施設もカウエンに創設された。ゲンス[604]は、ゲットーの外の森の中に、フェンスで囲まれた区画を確保する許可をドイツ人から得た。教師が週に4回、100−150名の子どもを連れて、この森の中に歩いていった。1942年、しょう紅熱が蔓延したために、開校が遅れた。10月、作業が再開され、1500−1800名の子供たちが入学した。60名の教師がいて、彼らは毎週42時間勤務した。それ以外の18時間は、厨房での作業、生徒や両親の家庭訪問、本や教科書の修理、およびさまざまな集会の指導にあてられた。」
 1944年5月12日、「ロシア人無法集団」がリトアニアのいくつかの施設を攻撃し、そこを略奪した[605]。「ボフメリシュキ・ユダヤ人キャンプ――1592――には、約300名の女性、男性、子供たちがいたが、そこでは、5−6のMPIと数丁のライフルを略奪した。」
[598] Vilnius Ghetto: List of Prisoners, Volume 1. Vilnius 1996, p. 212, no. 163. (Text in Lithuanian, Russian, and English).
[599] Ibid., p. 85.
[600] Ibid., p. 150.
[601] Ibid., p. 213.
[602] Ibid., p. 329.

 

 「民族の物理的絶滅というボリシェヴィキ的な方法はドイツにはふさわしくない。

アドルフ・ヒトラーの意志は特別行動隊の行動が証明している。

さらに他のゲットーを見てみよう。

ブレストはポーランドとの国境近くに位置し、現在はベラルーシ共和国にある都市だ。

ここは独ソ戦でドイツ軍が攻撃したブレスト要塞があり、現在は記念碑と博物館がある観光名所となっている。

ここにあったブレスト・ゲットーでは、9000名以上のユダヤ人の年齢がわかっている。

そこには65歳以上の932名の老人もいたが、彼らの年齢構成は以下のとおりだ」

 

誕生年 年齢(1942年時) 人数
1872-1876 66〜70 397
1867-1871 71〜75 309
1862-1866 76〜80 152
1857-1861 81〜85 57
1852-1856 86〜90 14
1850-1851 91〜92 3
  合計 932

▲ブレスト・ゲットー 1942年

 「900人以上の老人が生きていたというのはホロコースト物語と明らかに矛盾している。

ホロコースト物語が事実ならば彼らは真っ先に殺されてなければおかしい」

 

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
g. ブレスト・ゲットーの労働不適格ユダヤ人
もっぱら労働適格ユダヤ人だけが生存を許されていたはずのゲットーで、高い割合の老人と子供も生活していた事例もある。
ブレスト・ゲットーでは、9000名以上のユダヤ人の年齢がわかっており、そこには、65歳以上の932名の老人もいたが、彼らの年齢構成は以下のとおりである。
さらに、このゲットーには、15歳の子供(1927年生)380人、14歳の子供(1928年生)128人、13歳の子供(1929年生)4人、12歳の子供(1930年生)1人、10歳の子供(1932年生)1人、9歳の子供(1933年生)2人も暮らしていた[606]。

 

 「ミンスクは旧ソ連ベラルーシ共和国の首都だ。

独ソ戦ではミンスクを含む一帯がソヴィエトのパルチザンの拠点となった。

そのことにより、1974年、ミンスクはソヴィエト当局より「英雄都市」の称号を与えられている。

それだけパルチザンが多かったのならばドイツ軍のパルチザン狩りで巻き添えを食らった地元住人も多かったことだろう。

このミンスクのゲットーの878名のユダヤ人に関する1943年(月不詳)のリストには、少なくとも227名の子供が存在している。

その年齢構成は以下のとおりだ」

 

誕生年 年齢(1943年時) 子供の数
1928 15 45
1929 14 28
1930 13 28
1931 12 17
1932 11 23
1933 10 10
1934 9 4
1935 8 9
1936 7 11
1937 6 17
1938 5 12
1939 4 17
1940 3 4
1941 2 2
  合計 227

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)h. ミンスク・ゲットーの労働不適格ユダヤ人
ミンスク・ゲットーの878名のユダヤ人に関する1943年(月不詳)のリストには、少なくとも227名の子供が存在しており、その年齢構成は以下のとおりである。
このリストには、12名ほどの老人も含まれており、そのうちの最年長者は1857年生まれ、86歳であった[607]。

 

 「ミンスク・ゲットーにはやはり子供と老人がいた。

最後にバルト系ユダヤ人の子供のシュトゥットホフ収容所への移送を見てみよう。

シュトゥットホフ収容所はポーランドのバルト海湾岸グダニスク近郊にあった。

シュトゥットホフにはカウナスとリガのゲットーからの多くのユダヤ人が移送された。

カウナスは旧ソ連リトアニア共和国の第2の都市だ。

第二次世界大戦までの間、カウナスはリトアニア最大の都市として、工業的にも発展した。

大戦が始るとリトアニアを含むバルト三国はポーランド東部と共にソ連に占領されたが、間もなくドイツ軍が侵攻し街は破壊された。

カウナス・ゲットーは1943年秋にユダヤ人居住区から強制収容所に変わっていた。

リガは旧ソ連ラトビア共和国の首都でバルト海沿岸に位置している。

1944年7月12日から10月14日のあいだに、合計10458名にユダヤ人の10回の移送集団がカウナスから、合計14585名の6回の移送集団がリガから、シュトゥットホフ収容所した。

この移送者のリストは断片的にしか現存していないが、このリストの中には、少年・少女と呼ばれている15歳以下のバルト系ユダヤ人(その他)が数多く掲載されている。

3098名(うち510名の名前がわかっている)を移送した1944年7月12日の移送には、このカテゴリーにあたる80名の子供が含まれていた。

1944年7月19日のリストでは、1097名の移送者(名前がわかっているの2名だけ)の中に、88名の子供がいる。

以下の表は、子供の数と年齢をまとめたものだ」

 

年齢 1944年
7月13日
の移送
1944年
7月19日
の移送
15 3 -
14 7 4
13 4 28
12 8 13
11 2 6
10 4 9
9 10 2
8 4 6
7 5 7
6 9 8
5 7 -
4 8 3
3 8 2
2 1 -
合計 80 88

 

 「1944年7月26日、1983名の囚人がシュトゥットホフ収容所からアウシュヴィッツに移送された。

その大半がリトアニア系ユダヤ人だった。

その中には、546人の少女、546人の少年ならびに801人の「母親である女性」が含まれていた。

この移送者の名前のリストのかなりが現存している。

年齢がわかっている1488名の囚人のうち、850名が子供であるが、その年齢構成は以下のとおりだ」

 

誕生年 年齢 子供の数
1929 15 31
1930 14 117
1931 13 146
1932 12 94
1933 11 36
1934 10 61
1935 9 26
1936 8 58
1937 7 44
1938 6 61
1939 5 54
1940 4 60
1941 3 52
1942 2 8
1943 1 2
  合計 850

 「このリストには、1944年7月13日の移送に登場した80名の子供のうち24名が記録されており、7月19日の移送に登場した88名の子供のうち84名が記録されている。

9月10日にシュトゥットホフ収容所を出発してアウシュヴィッツに向かった移送者のリストは、登録簿にもとづいて部分的に再現することができるが、この移送には、少なくとも345名のリトアニア系ユダヤ人の子供と12歳から17歳の少年が含まれている。

その年齢構成は以下のとおりだ」

 

誕生年 年齢 子供の数
1927 17 56
1928 16 136
1929 15 119
1930 14 26
1931 13 6
1932 12 2
  合計 345

 

 「移送リストは不完全であるので、カウナスとリガから移送された少年・少女の数は、文書資料に裏づけられている1250名ほどよりもはるかに多かったにちがいない。

1944年夏にカウナスとリガにこのような子供たちが存在していたという事実は、特別行動部隊がユダヤ人の全体的絶滅、少なくとも労働不適格ユダヤ人の全体的絶滅を行なっていたという説をまったくくつがえしている」

 

 

 参考資料:東部占領地区での特別行動部隊の役割 著:C. マットーニョ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/treblinka/07.htm)
i. バルト系ユダヤ人の子供のシュトゥットホフへの移送
1944年夏、カウナス(リトアニア)ゲットー――1943年秋に強制収容所に変わっていた――とリガ(ラトヴィア)ゲットーからの多くのユダヤ人がシュトゥットホフに移送された。7月12日から10月14日のあいだに、合計10458名にユダヤ人の10回の移送集団がカウナスから、合計14585名の6回の移送集団がリガから[608]、ダンツィヒ(今日のグダニスク)の東に位置する収容所に到着した。この移送者のリストは断片的にしか現存していないが、すでに確証したように、このリストの中には、少年・少女と呼ばれている15歳以下のバルト系ユダヤ人(その他)が数多く掲載されている。3098名(うち510名の名前がわかっている)を移送した1944年7月12日の移送には、このカテゴリーにあたる80名の子供が含まれていた。7月19日のリストでは、1097名の移送者(名前がわかっているの2名だけ)の中に、88名の子供がいる。以下の表は、子供の数と年齢をまとめたものである。
(中略)
 1944年7月26日、1983名の囚人がシュトゥットホフからアウシュヴィッツに移送された。その大半がリトアニア系ユダヤ人であった。その中には、546人の少女、546人の少年ならびに801人の「母親である女性」が含まれていた[609]。この移送者の名前のリストのかなりが現存している。年齢がわかっている1488名の囚人のうち、850名が子供であるが、その年齢構成は以下のとおりである[610]。
(中略)このリストには、7月13日の移送に登場した80名の子供のうち24名が記録されており、7月19日の移送に登場した88名の子供のうち84名が記録されている。9月10日にシュトゥットホフを出発してアウシュヴィッツに向かった移送者のリストは、登録簿にもとづいて部分的に再現することができるが[611]、この移送には、少なくとも345名のリトアニア系ユダヤ人の子供と12歳から17歳の少年が含まれており、その年齢構成は以下のとおりである。

移送リストは不完全であるので、カウナスとリガから移送された少年・少女の数は、文書資料に裏づけられている1250名ほどよりもはるかに多かったにちがいない。1944年夏にカウナスとリガにこのような子供たちが存在していたという事実は、特別行動部隊がユダヤ人の全体的絶滅、少なくとも労働不適格ユダヤ人の全体的絶滅を行なっていたという説をまったくくつがえしている。さらに、大量絶滅説に対する、もっと明確な反証がある。物的痕跡が欠けていることである。

 

 「以上、特別行動隊の報告書に書かれたゲットーの状態を見てみたが、ユダヤ人絶滅命令の存在を否定する要素ばかりだ。

共産主義者でもなく、ドイツに対して敵対行動を取ることもない善良な一般市民や、そもそも労働に適さない子供やお年寄りを殺すことはなかった。

特別行動隊の敵はユダヤ人-共産主義者であってユダヤ人そのものではない。

今回は以上だ」


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