Subject:35
コード言語その5 
Endlosung der Judenfrage(ユダヤ人問題の最終解決)


 「これはSubject23「ラインハルト作戦」を決定したヴァンゼー会議でやったネタだがおさらいしておこう。

1942年1月20日に開催されたヴァンゼー会議では「ユダヤ人問題の最終解決」Endlosung der Judenfrage が策定されたとされる。

この「ユダヤ人問題の最終解決」とは「ヨーロッパの1100万人のユダヤ人を物理的に絶滅させること」だとされている。

さて、イスラエルの歴史家であり、国立ホロコースト博物館の主任歴史家でもあるイェフ・バウアーは1982年、1992年に新聞の紙上で「ヴァンゼーで絶滅計画が決定された」という話を馬鹿話と言っている。

ヒトラーは側近たちに向かって1942年7月に戦後のユダヤ人の移住について語っているし、絶滅計画が決定されたのにアウシュヴィッツ建設局は設備の拡大や資材の調達などの連絡は一切受け取っていない。

つまり、ヴァンゼーで絶滅計画が決定されたとなるとその他の資料と矛盾してしまうのだ。

だからヴァンゼー会議では絶滅計画は決定されなかったし、そこで出てくる「ユダヤ人問題の最終解決」という言葉には何の意味もない。

わたしは、このヴァンゼー会議という存在自体が捏造だと思っている。

「道路建設」などのように決定されたのに実行されてない命令があるし、公式文書でヴァンゼー会議の存在を裏付ける一次資料が一枚もないのはおかしい。

結論を言おう。

ユダヤ人問題の最終解決とは、ヨーロッパからのユダヤ人の追放であるということだ。

最終解決=絶滅が嘘だということは、ドイツ外務省1942年2月10月の文書1つを取っても解決できる。

この文書では当初「最終解決」にはマダガスカルが必要だったが、この先は必要なくなったと書いてある。

たとえ対抗言論のような狂信的なホロコースト信者であろうとも、絶滅計画が行われたのがマダガスカル島のジャングルの奥地だったとは言えまい。

 

 参考資料: 「粘土足の巨人 ラウル・ヒルバーグとホロコーストに関する彼の標準的著作」
著ユルゲン・グラーフ 歴史的修正主義研究会試訳
Jurgen Graf, The Giant with Feet of Clay, Raul Hilberg and his Standard Work on the “Holocaust”, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2001

注目すべきは、ユダヤ人の絶滅決定がなされたのは、1942年1月20日のベルリンのヴァンゼー会議であったという古くからのおとぎ話を支持しているける研究者は誰もいないということである。1992年、イスラエルの「ホロコースト」専門家バウアーは、古くからあるこの神話を「馬鹿話」とあざけった。[17]
[17] Canadian Jewish News, 30th January 1992.

 参考資料:木村愛二著 『偽イスラエル政治神話』(その16)
(アドレス:ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-16.html)
一九四二年一月二〇日に開かれたヴァンゼー会議は、三分の一世紀にもわたって、そこでヨーロッパのユダヤ人の“絶滅”が決定されたと称されてきたのだが、一九八四年以後には、“見直し論者”の最も残忍な敵の文章の中ですら、その姿を消してしまった。この点に関しては、彼ら自身も同じく、彼らの歴史の“見直し”をせざるを得なくなっている。なぜならば、一九八四年五月に開かれたストゥットガルト会議で、この“解釈”が、明確に放棄されたからである(『第二次世界大戦の期間に置けるユダヤ人の殺害』)。
 
一九九二年には、イェフーダ・バウアーが、『カナディアン・ジューイッシュ・ニューズ』の一月三〇日号で、従来のようなヴァンゼー会議の解釈は“馬鹿気ている”(silly)と書いた。最後には、反見直し論者の正統派歴史家の一番最近のスポークスマン、薬剤師のジャン=クロード・プレサックが、この正統派の新しい見直しを追認した。彼は、一九九三年に出版した著書、『アウシュヴィッツの火葬場』の中で、つぎのように記している。《ヴァンゼーの名で知られる会議は一月二〇日にベルリンで開かれた。もしも、ユダヤ人の東部への“追放”という行為が、労働による“自然”の消去を呼び寄せる計画だったとしても、誰一人として、そこでは工業的な消去については語っていない。その後の数日または数週間にわたって、アウシュヴィッツの所長は、会議の終りに採用が決まった装置の研究を要請するような電話も、電報も、手紙も、何一つ受けとっていない》(同書)

 参考資料:National Journal History 2003
(アドレス:http://globalfire.tv/nj/03en/history/wannsee.htm)
Prof. Y. Bauer:"Silly story that at Wannsee the extermination of the Jews was arrived at."
London (JTA) - An Israeli Holocaust scholar has de-bunked the Wannsee Con-ference, at which top Nazi officials are said to have gathered at a villa in a Berlin suburb in 1942 to draw the blueprints of the "Final Solution"
According to Prof. Yehuda Bauer of the Hebrew Uni-versity in Jerusalem, Wann-see was a meeting, "but hardly a conference", and "little of what was said there was executed in detail."
Bauer addressed the opening session of an international conference held here to mark the 50th annivasery of the decision to carry out the "Final Solution". "But it was not made at Wannsee", the Czech born scholar said.
"The public still repeats, time after time, the silly story that at Wannsee the extermina-tion of the Jews was arrived at, Wannsee was but a stage in the unfolding, of the process of mass murder," he said.
Bauer also maintained that fears that memories of the Holocaust are receding with time are unfounded.
"Whether presented authentically or inau-thentically, with empathy and understanding or as monumental kitsch, the Holocaust has become a ruling symbol of our culture. Hardly a month passes without a new TV production, a new film, a new drama, a number of new books of prose or poetry dealing with the subject. Dead Jews, as contrasted with live ones, have very often been a subject of commiseration, sympathy and soulsearching," the professor said.
THE CANADIAN JEWISH NEWS January 30, 1992, page 8
wikiによると、ナショナル・ジャーナル(National Journal)はアメリカの政府と政治に関する週刊誌でアトランティックメディア社の一部。ワシントンDCで広く読まれている。

 参考資料:ホロコースト講義 著ゲルマール・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/294.htm#_edn2)
L:私の記憶しているところでは、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅とそのための措置がヴァンゼー会議で決定されました。
R:会議で決定されたと思われることではなく、議事録の中に記されていることを話してくださいませんか? 議事録を読んだことがおありでしたね。
L:いいえ、読んでいません。しかし、会議で何が決定されたのかはよく知られています。
R:よく知られているのですって? 明らかなのですって? では、議事録には何が書かれていて、何が書かれていないのかについてからお話しましょう。例えば、この議事録は、第三帝国の役人がドイツ影響下の地域で、半ユダヤ人、4分の1ユダヤ人をどのように定義するか、ユダヤ人の数はどれほどかという問題を解決するにあたっての困難さを記録しています。また、ドイツ影響下の地域からのユダヤ人の移住を促進するために、ドイツ政府がこれまでとってきた措置をまとめ、移住政策に代わって東部地区への移送政策が必要であると説明しています。この移送政策との関連で、ユダヤ人を東部地区への道路建設にすぐさま従事させるべきである、厳しい労働条件による自然淘汰のおかげで、ユダヤ人口の減少が生じるであろうと述べています[1]。ユダヤ人は絶滅収容所に送られるなどという内容のセンテンスは、議事録には一つもありません。さらに、ユダヤ人が意図的な絶滅にさらされるかどうか、もしさらされるとしたら、いつどのようにしてか、などについても一言も触れられていません。1982年、イェルサレムのヘブライ大学教授イェフダ・バウアーは、すでにこう説明していました[2]。
「世論は依然として、ヴァンゼーではユダヤ人の絶滅が決定されたという馬鹿げた話を繰り返している
("The public still repeats , time after time,the silly story that at Wannsee the extermination of the Jews was arrived at.")」
[2] The Canadian Jewish News, Jan. 20, 1982, p. 8, publishing a news release of The Jewish Telegraphic from London.

 参考資料:ガス室問題に関するプレサックへの回答 著ロベール・フォーリソン
Robert Faurisson, Answer to Jean-Claude Pressac on the Problem of the Gas chambers、Two further comments on my answer to Jean-Claude Pressac
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurisson_05.htm)
何十年ものあいだ、いわゆるユダヤ人の「ホロコースト」についての歴史家たちは、1942年1月20日、ベルリンのヴァンゼー会議で、ドイツ人はヨーロッパ・ユダヤ人の物理的絶滅を決定したと繰り返し論じてきた。1984年になってはじめて、絶滅論者がシュトゥットガルトでの大会に集まって、この説を静かに放棄した(Eberhard Jackel and Jurgen Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, DVA, 1985, p. 67)。1992年になってはじめて、イェルサレム大学教授で、イスラエルの「ホロコースト専門家」の中心人物であるイェフダ・バウアーが、この説は「馬鹿げて」いるとおおやけに声明した (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158)。プレサックは、新しい定説にしたがって、次のように記している。
1月20日、『ヴァンゼー会議』と呼ばれる会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に移送するという作戦が計画され、そこでは、労働によって幾分かのユダヤ人が『自然に』清算される可能性が含まれていたとしても、工業的な大量清算について語った者は誰もいなかった。この会議に続く日々、週、アウシュヴィッツ建設局は、工業的な大量清算という目的のための施設を計画することを要請する呼び出し、電報、書簡をまったく受け取っていない。」(35頁)

※ 原文を読むと「イェルサレム大学教授」の部分は「the University of Jerusalem」となっているが、イェルサレム大学は「al-Quds University」なので、「イェルサレムの大学教授」と訳すべきと思われる。ヘブライ大学(The Hebrew University of Jerusalem)はイェルサレムにあるからである。
(原文アドレス:ttp://vho.org/GB/Books/anf/Faurisson1.html)
 It was not until 1992 that Yehuda Bauer,
Professor at the University of Jerusalem and a leading Israeli "Holocaust specialist", declared publicly that this thesis was "silly" (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158). In conformance with the new official version, Pressac writes:

 参考資料:試訳:粘土足の巨人 ラウル・ヒルバーグとホロコーストに関する彼の標準的著作  著ユルゲン・グラーフ
ヒルバーグが、「最終解決」(Endlosung)という用語が「絶滅」(Ausrottung)と同義語であると考えていることには疑いがない。例えば、1942年7月31日のハイドリヒ宛のゲーリングの書簡を、ヒルバーグはそのような意味で解釈している。ゲーリングはハイドリヒに「ユダヤ人問題の望ましい最終解決を実行するための組織的・実際的・物質的措置に関する全体計画を、早急に私のところに」24送るように要請すると命じているが、ヒルバーグは、ハイドリヒが今や「絶滅過程の手綱を握った」(p. 420; DEJ, p.401、邦訳上304頁)と付け加えている。ゲーリングの書簡は、ハイドリヒが「移住と疎開という形で、時局の即したもっとも有利なユダヤ人問題の解決を図る任務」を引き受けるべきであると述べているのであるが、ヒルバーグは、ポリャーコフからライトリンガーまでの先人にならって、それを物理的絶滅のコード言語であると解釈している。オリジナル資料をこのように恣意的に歪曲することが許されているのは、第三帝国と第二次世界大戦に関する歴史家だけであろう。 ナチスは、「ユダヤ人問題の最終解決」(Endlosung der Judenfrage)を、ヨーロッパからのユダヤ人の追放(Ausweisung)・除去(Abschiebung)という意味で理解していた。多くの資料がこのことを証明している。例えば、外務省ドイツ局でユダヤ人問題に責任を負っていた役人ラデマッヘルは、1942年2月10日に、外務省のビーフェルトに書簡を送って、総統は「ユダヤ人をマダガスカルではなく、東部地区に移送すべきである」と決意したと述べ、「マダガスカルは最終解決には必要となくなるであろう」25と付け加えている。この書簡の日付1942年2月10日という時期は、ヒルバーグによると、大量殺戮が全面稼動し、チェルムノに続いて、ベウジェッツが第二の絶滅収容所として開設されようとしていた時期である。たとえヒルバーグという巨人であっても、ドイツ人がユダヤ人をガス処刑しようとしていたのは、マダガスカルのジャングルの中であったとは主張しないであろう。そして、ヒルバーグは、このような重要資料をどうして無視してしまうのであろうか。

 

 「以上、コード言語シリーズも今回でひとまずは最終回だ。ではさらばだ」


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