逆転ニュルンベルグ裁判
〜ユダヤの嘘を暴いてナチスの無罪を勝ち取れ〜

Subject:23
「ラインハルト作戦」を決定したヴァンゼー会議

被告 

判事 

検察  

弁護  

陪審員      


 「これより法廷を開廷します」

 「弁護側、準備完了しています」

 「検察側、準備完了しています」

 「久々に逆転裁判っぽくなったわね」

 「いつ終るのかまったく検討がつかんがな」

 「さて、今回のお題は、かの有名なヴァンゼー会議についてです。

さっそくですがアルク検事。

冒頭弁論をお願いします」

 「了解した。

「ヴァンゼー会議」というのは1942年1月20日、ドイツ・ベルリン郊外ヴァンゼー・高級住宅街(Am Grosen Wannsee56-58) にあるヴァンゼー会議館で行われた会議のことだ。

ヴァンゼーの位置はベルリン中央のツォー駅からSバーン(近距離都市鉄道)で30分ほど。

ポツダム駅からベルリン市中心方向へSバーンで一駅がヴァンゼー。

駅から記念館までは巡回バス114で、「ヴァンゼー会議記念館(Haus der Wanseekonferenz, Gedenkstatte
Wanseekonferenz)」停留所にて下車。

この記念館は、ユダヤ人富豪の別荘だった時期もあり、周辺一帯はいまでも保養地・閑静な高級住宅街として、著名な地域でもある。

記念館のすぐ近くはヨット・ハーバーになっていて、ヨットなどで楽しむ人々が多い。

ヴァンゼー会議の行われた部屋は観光名所になっていて、自由に見学することができる。

1942年当時、総統として絶対的な権力を握っていたヒトラーは「ユダヤ人問題」の速やかな解決を願っていた。

そこでヘルマン・ゲーリング国家元帥の指示を受けたラインハルト・ハイドリヒ国家保安部長官はこの日、国家のおもだった代表者15人をヴァンゼーに召集した。

SSゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラー、党代表クロプファー、内閣官房クリツィンガー、

人種と移住担当ホフマンSS中将、東欧占領区担当ライブラント、マイヤー博士、

内務省ウィルヘルム・ストゥッカート、外務担当ルター、4年計画局長エリッヒ・ノイマン、

ラトヴィアSS副指揮官ルドルフ・ランゲ少佐、ポーランド総督府次官ジョセフ・ビュラー、

総督府付SSションガース大佐、司法省ローランド・フライスラー

SSユダヤ人問題担当カール・アドルフ・アイヒマン中佐

そして主催者である保安警察長官ラインハルト・トリスタン・オイゲン・ハイドリヒ長官だ。

ちなみにこのハイドリヒの妻の名前はリナさんというが、スレイヤーズのリナ・インバースとはまったく関係がない」

 「で?」

 「だからまったく関係がないと言っている。

なおこのリナさんだが彼女は熱狂的なナチで、ハイドリヒがナチスに入党したのはこのリナさんの影響だったそうだ。

1930年、ある夏の夕べ。

ハイドリヒは26歳の海軍中尉で、キールの軍港近くで友人と共にカヌーを漕いでた。

と、その時、別のカヌーが近くで突然転覆し、乗っていた二人の女性が海の中に投げ出されてしまった。

ハイドリヒと友人は直ちに海に飛び込み、二人を救出。

そのうちの一人がリナ・オーステンと名乗る19歳の女子学生だった・・・というのが二人の出会いだったそうだ」

 「インチキ臭ぇ!

 「ハイドリヒ自身は1942年に亡命チェコ政府が放った暗殺者の手榴弾で負った傷が元で死んでしまうわけだが、未亡人になってしまった妻のリナさんは、後のドイツ降伏時、彼女は子供を連れて故郷のバルト海のフェールマン島に逃げていた。

ハイドリヒは早期に暗殺されて戦犯に問われなかったため、リナさんは西ドイツ政府から遺族年金を受けて暮らした。

彼女の口癖は―――」

 

 「プラハのバーツラフ広場がチェコ人の頭蓋骨で舗装されるまで二度とあんな町へなんかいくものですか

 

 「だったらしい。 …いろんな意味で血塗れ夫婦だな」

 「…そのアイコンは何?」

 「イメージ画像だ。

彼女の写真が手に入らなかったからこれは仕方がない」

 「だからその一言で全てを片付けるなって」

 「…で?」

 「うむ、話を元に戻そう。

とにかくこのハイドリヒに召集された参加者15人のうち8人は博士号を取得した超エリートだった。

この会議には、ドイツ第三帝国の主要国家官庁の次官クラスが参加した。

したがって、「次官会議」とも称される。

一時間半の会議で当時全ヨーロッパ、ロシア地域に居住していた1100万のユダヤ人の「最終解決」が公式に決議された。

そしてこのヴァンゼー会議によって「ラインハルト作戦」が決定された。

「ラインハルト作戦」とは、ナチスの掌握する領土全体にわたって存在するユダヤ人を絶滅に追い込む計画のことで、この計画を遂行するために三大絶滅収容所(トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ)が設置された。

このヴァンゼー会議は ユダヤ人の組織的虐殺の過程でひとつの重要な結節点をなすもので、ホロコーストにかかわるどんな記述にも登場する。

つい最近は映画にもなったほど有名な会議だ」

 

謀議 CONSPIRACY 
▲/監督:フランク・ピアソン/脚本:ロリング・マンデル
/出演:ケネス・ブラナー、スタンリー・トゥッチ、コリン・ファース
/米・英2001/96分

 「ヴァンゼー会議についての説明はこれくらいだろう。

「ラインハルト作戦」の詳細について詳しく説明すると収拾がつかなくなってしまうからだ」

 「よくわかりました。

ではアルク検事。

そのヴァンゼー会議があったことを示す証拠品の提出をお願いします」

 「了解した。これがヴァンゼー会議の存在を裏付ける書類だ」

 

 

↑ ヴァンゼー会議の会議録の表紙
(アドレス:ttp://www.nizkor.org/ftp.cgi/places/germany/wannsee/images/ftp.py?places/germany/wannsee/images//brief.jpg
ttp://www.nizkor.org/ftp.cgi/places/germany/wannsee/images/)より

 

 「なるほど、たしかにこれは証拠に―――――」

 

 「それは証拠にはならない!」

 「ふっふっふ・・・ 弁護人 それは何を根拠に言っているのかな?」

 「簡単だよ。

検察の提出した「ヴァンゼー文書」は公式書類ではないからだ」

 「説明してもらいましょう」

 「当時のナチス・ドイツでは公式文書を作成するさい、担当官庁名いりの用箋ようせん書状を書くのに用いる紙。便箋びんせんのこと)を用い、とじこみ用の連続番号を記入し、末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインすることになっていた。

ところがこの「ヴァンゼー文書」なるものは、官庁名がはいっていない普通の用紙にタイプされており、連続番号もサインもまったくない。

そのくせ、「最高機密」というゴム印がおされているから、かえって奇妙だ。

印章がない。日付がない。署名がない。安っぽい形式の紙に、普通の機械[タイプ]で打っている

ようするに「ヴァンゼー文書」は偽造書類の特徴をすべて兼ね備えている」

 「日付がない?

それじゃあ「1942年1月20日にヴァンゼー会議が行われた」っていう主張は何を根拠にしているの?」

 「それは文書の本文に書いてあるからだよ。

ほれ、この通り」

↑ 「1942年1月20日」の根拠
(アドレス:ttp://www.nizkor.org/ftp.cgi/places/germany/wannsee/images/ftp.py?places/germany/wannsee/images//prot01.jpg
:ttp://www.nizkor.org/ftp.cgi/places/germany/wannsee/images/)

 「あ、ホントだ」

 「「ヴァンゼー文書」は調べれば調べるほど怪しい文書だ。

先ほどの形式が違うという点以外にも、その内容自体に問題がある。

「ヴァンゼー文書」には「ユダヤ人の労働可能なものに「道路建設」をさせる」という作業命令があるが、このような命令は実際には実行されていない。

ドイツ軍の主な輸送手段は鉄道だから、そもそも道路建設なんてものは必要ない。

ただでさえ労働力不足なのに意味のない道路なんぞ作る余裕はないぜ」

 「1941年6月、ドイツ軍はソ連に侵攻して大きく占領地を広げたが、そのために鉄道車両不足に悩まされていた。

そのため、ヴァンゼー会議が行われたとされる1942年から1943年の間の鉄道車両の生産量は急増している。

ヴァンゼー会議の結果、鉄道レール・鉄道車両の増産が決定されたならば話はわかるが、「道路建設」の命令は実際のドイツ軍の動きと矛盾している」

 「この「ヴァンゼー文書」は作者、作成年代、作成場所が判明しない。

つまり歴史学からの基本からすれば、「ヴァンゼー文書」は第四次史料に当たる。

よって検察の提出した証拠には証拠能力がない」

 

 参考資料:小林よしのり著 「戦争論2」
P,314
(解説)
歴史学の基本は「史料批判」歴史資料の信憑性を検証することにある。事件発生当時、発生場所で当事者が作成したもの、これを「一次史料」という。
事件から時間が経過した後に、当時者が作成した回想などが、「第二次史料」
そして「第一次史料」「第二次史料」を基に作成したものが、「第三次史料」
史料価値があるのは、ここまで。
作者、作成年代、作成場所が判明しないものは「
第四次史料
何のために作られたのかわからないものを「第五次史料」といわれ、史料価値は、ゼロと見なされる。

 参考資料:木村愛二著 アウシュヴィッツの争点 (その58)ヴァンゼー「会談」主催者をヒトラーにしてしまう「おそまつ」
(アドレス:www.jca.apc.org/~altmedka/aus-58.html)
「ヴァンゼー会談」の主催者は、ゲシュタポ長官兼保安警察長官のラインハルト・ハイドリッヒだということになっている。なお、ハイドリッヒは戦争中に暗殺されているので、ニュルンベルグ裁判の当時すでに「死人に口なし」の状態であった。
 (略) だがまず、一九四二年一月二〇日に「ヴァンゼー会議」がおこなわれた証拠とされているのは、
会議の決定を記録した公式文書ではなくて、一片の会議録、厳密にいえば筆者すら不明の個人的なメモにすぎないのである。しかもそのメモが本物だとしても、そこには「最終的解決」イコール「ユダヤ人の民族的絶滅」などという方針は明記されてはいない。さらに決定的なのは、絶滅的に立つホロコースト史家たちでさえ、もはや、ヴァンゼー・メモをユダヤ人虐殺計画の決定文書だとは認めなくなっているという、矛盾に満ちた事態である。ペイシーほかの編集による「ラウル・ヒルバーグに敬意を表して」という副題のエッセイ集『ホロコーストの全景』によれば、その理由の第一は、「ヒトラーの国家では、このような重要な問題の決定を官僚の会議でおこなうことなどはありえない」からであり、第二は、「虐殺は一九四一年からはじまっていた」からである。ヴァンゼー会議がおこなわれたとざれているのは、メモの日付によれば、一九四二年一月二○日である。絶滅説の物語はこのように、つぎつぎと矛盾があきらかになり、書きなおしをせまられているのである。

「会議録」は国際検察局のケンプナーが作成の「偽造文書」という説
 シュテーグリッヒ判事は、このヴァンゼーの会議録を、ニュルンベルグ裁判の国際検察局のボスだったケンプナーが作成した「偽造文書」だと主張する。その理由を簡単に紹介すると、つぎのようである。
当時のナチス・ドイツでは公式文書を作成するさい、担当官庁名いりの用箋を用い、とじこみ用の連続番号を記入し、末尾に作成担当者、または会議の参加者が肉筆でサインすることになっていた。ところがこの「ヴァンゼー文書」なるものは、官庁名がはいっていない普通の用紙にタイプされており、連続番号もサインもまったくない。そのくせ、「最高機密」というゴム印がおされているから、かえって奇妙である。連続番号がないかわりに、一ページ目に“D・・・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。内容的に最も奇妙なのは、「東方移送」するユダヤ人のうちで「労働が可能な者」に「道路建設」をさせるという、実際にはおこなわれていない作業命令の部分である。当時のナチス・ドイツでは、アウシュヴィッツなどの軍需工場群への労働力供給が最優先課題だった。「東方移送」は鉄道を利用しており、「道路建設」の必要はなかった。シュテーグリッヒ判事は別の箇所で、つぎの点に注意をむけている。
「いわゆるヴァンゼー文書は、アメリカのケンプナー検事が[ニュルンベルグの国際軍事裁判の]のちにおこなわれた“ヴィルヘルム通り”裁判ではじめて提出したものである」ケンプナーは、ニュルンベルグ裁判ではアメリカのジャクソン主席検事の「準備チーム」に属していた。つまり、法廷では裏方だったのだが、その後、高級官僚を被告にした“ヴィルヘルム通り”裁判では主席検事になった。そこではじめてケンプナーが「いわゆるヴァンゼー文書」を提出したというのは、非常に興味深いことである。すでに国際軍事裁判で「ホロコースト」物語は認定されている。しかし、自分が主役の裁判となると、ケンプナーには不安がある。すでに一部から疑問がだされていたからだ。そこで、ゆらぐ屋台骨をささえるために「ニセ文書」をつくったと考えれば、納得がいく。

※ ヴィルヘルム・シュテーグリッヒ判事は、クリストファーセンとおなじく元軍人で、アウシュヴィッツのそばの対空部隊勤務を体験し、当時のアウシュヴィッツ収容所を何度かおとずれている。
(アドレス:ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/aus-22.html)

 

 参考資料:Webサイト 「欧州戦記史料 第2篇 輸送と補給」
(アドレス:ttp://maisov.oops.jp/oss/nif2.htm)
ドイツでは1941年末に(占領地が急拡大したことにより)機関車の不足に直面した。早速設計されたのが、戦時量産型機関車の52型である。このタイプは後に更に簡易化された42型機関車と共に、ドイツ戦時経済を支えた。この本はこれら両形式を中心とした内容だが、これらの機関車生産台数、貨車生産台数をはじめ具体的な数字が多い。ライヒスバーン(ドイツ国有鉄道)への鉄鋼割当量は1940年の第4四半期になって(おそらく対ソビエト戦の準備のために)それまでの160000トン前後から215000トンに引き上げられ、1942年の第2四半期まで190000〜210000トン/四半期で推移したが、1942年第3四半期に262000トンに急伸する。この「割り増し」は1943年の第3四半期まで続くが、この間機関車の生産量は増加の一途をたどり、ピークの1943年8月には月産535両に達する。その後は鉄鋼割当量も機関車生産数も落ち込んでゆくが、これはおそらくドイツが各戦線で後退を始めて補給線が短くなり、正面装備の生産に対して機関車生産が相対的に優先度を落とされたためであろう。貨車の生産は1942年に跳ね上がった後、1944年まで漸増を続けていることを考え合わせると、編成あたりの平均移動距離が下がって、より少ない機関車で間に合うようになったと思われる。
(略)
物流現場でのトラックの過不足を直接検証できる資料は見たことがないが、トラックの生産に関する状況は、第1篇で挙げたHahnの著作などいくつかの資料から得ることが出来る。トラックの場合に話をややこしくするのは、新造車両に対して工場修理を受けたセコハン車両がかなり多く、大戦後期には6:4くらいになっていることと、民間への引き渡し分がそれなりに存在することである。ここから先は印象論になるけれども、筆者は知る限りの事実を総合すると、トラックは重点生産品目ではなかったと考えている。まず
1940年の水準に対する1944年の数字は、工場修理分を含めてもやっと2倍というところである。機関車は正味の生産だけで2倍(ただし月間生産量)になっており、例えば明らかに重点的に増産された8トンハーフトラックの場合は1940年の996両から1944年の3352両と3倍以上に伸びている。これらと比較すると、高い伸びとはいえない。また、アメリカ戦略爆撃調査団報告書によれば、1939年には自動車産業に17万3千人が働いていたにもかかわらず、1944年には9万5千人に過ぎず、そのうち4万6千人は外国人である。大戦末期における製造業の外国人労働者の平均的な比率は30%であったから、労働者の絶対数の少なさの点でも、生産性の低い外国人労働者を平均以上に含んでいるという点でも、この産業への労働投入はかなり抑制されていると考えられる。

 

 「なるほど。

たしかに第四次史料、しかも文書の内容に事実と矛盾した点があるのでは証拠と見なすわけにはいきませんね。

検察は言うことはありますか?」

 「ある!

弁護人の言っていることは矛盾だらけではないか!」

 「ほぉ?」

 「木村のソースには大きな問題がある。

まず、「アウシュヴィッツの争点」では

「連続番号がないかわりに、一ページ目に”D・III・29・Rs”という記号が記入されているが、ドイツの官僚機構は通常、こういう形式で記録の分類はしない。」(p.261.)

とあるが、これは間違っている。

まったく、ヴァンゼー会議のメモのような重要な文書について、それを虚偽だとしているならば、該当史料を実際に調べるのが当然というものだ。

これは「ヴァンゼー文書」の表紙画像を拡大したものだ。

よく見ていただきたい」

↑ Webサイト「対抗言論のページ」より
(アドレス:ttp://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Points/Point02.html
  ttp://clinamen.ff.tku.ac.jp/Holocaust/Souten.html)

 「見てのとおり、「D・III・29・Rs」が正確ではないことが判る。

「D.    g. Rs.」という記述を含んだスタンプが押されたあと、III 29・という数字が手書きで空白のところに挿入されているのだ。

29のつぎにある点については、それがスタンプのものなのか、手書きの一部なのかは、写真ではよく判らんが、いずれにしても「D・III・29・Rs」ではない。

そして「g. Rs.」という略号はgeheime Reichssache、つまり、「国家最高機密」を意味する。

こんないい加減なソースで「ヴァンゼー文書」が偽文書と言うなど正気の沙汰ではない」

 「ちっ・・・」

 「ふむ、たしかにこの写真を見る限り、木村氏のソースには一部間違いがあったようですね。

しかし―――――」

 「…」

 「それは「ヴァンゼー文書」が公式書類であるという証明にはなりませんよ」

 「う!」

 「まあ当然の話よね」

 「ヴァンゼー記念館には様々な資料が展示されています。

それなら公式書類の一つや二つくらいはありそうなものですが、どうなのです?」

 「・・・」

 「おい、どうした検察。

第四次史料なんていい加減なものじゃなくて公式書類を提出しろよ」

 「……それは議論が進むにつれて明らかになるだろう」

 「できれば今ここで明らかにしていただきたいのですが・・・」

 「・・・・・・」

 「ふっ、ヴァンゼー会議の存在を裏付ける公式書類が一枚もないのか?

中学校の生徒会だって会議の公式書類くらいはあるぞ。

ヴァンゼー会議は小学校の学級会レベルか?

いや、小学校の学級会さえも担任教師の報告書には書かれているだろうから、ヴァンゼー会議は小学校の学級会以下だな」

 「弁護人は挑発しないように。

しかし弁護人の言うことももっともです。

この会議がドイツの国家政策を決定したほどの重要な会議ならば、秘密の通信記録・オフレコの会話・命令書・報告書・物資の手配記録・輸送記録・人員配置記録などなどありとあらゆるところから「ヴァンゼー会議」の存在を裏付ける証拠が出てきそうなものです。

弁護人、それらすべてを調べても公式書類が一枚もないのですか?」

 「ありませんね。

ヴァンゼー会議の存在を裏付けている資料は検察側の出した第四次史料だけです。

ヴァンゼー会議について書かれている本はたくさんあるというのに、その根拠となっている公式書類が一枚もないのでは、War ウォーGuilt ギルトInformation インフォメーションProgramプログラム の一種と判断するべきでしょう。

弁護側はそう主張します」

 「アルク検事、反論はありますか?」

 「ふっ、判事。

あなたはもっとも重要なことを忘れている。

それはユダヤ人絶滅計画のように、表に出たら困ってしまうようなものを示した書類を残すほどナチはバカではないということだ。

そこでナチスは重要書類を燃やした。

だから公式書類は残っておらず、残っているのはさきほどの「ヴァンゼー文書」だ。

ヴァンゼー記念館の説明でもそうなっている

 「お約束だが、一応聞いておくぞ。

「書類を燃やせ」という命令書はあるのか?

ドイツは降伏前にヒトラー総統が自殺。

他の指導者も自殺、逃亡、あるいは逮捕され、終戦直後のドイツは無政府状態に陥っていた。

ドイツ軍は個別に降伏していき、最後のドイツ政府の最高責任者はナチス関係者ではなく、カール・デーニッツ海軍元帥だ。

こんな状態で極秘書類の一斉破棄なんてできるわけがない。

日本は終戦時にも国家組織は生き残っていたからこそ書類を焼くことができたが、ドイツにはまず無理な話だ」

 

 参考資料:Japan on the Globe 国際派日本人養成講座 人物探訪:鈴木貫太郎(上)〜聖断を引き出した老宰相〜
ドイツでは、ヒトラーが降伏を拒否して、ドイツ軍を勝ち目のない戦さに駆り立てていた。ヒトラー暗殺計画は何度も試みられたが失敗し、また秘密裡の和平工作も実を結ばなかった。最後にはヒットラーは自殺し、他の指導者も自殺、逃亡、あるいは逮捕され、ドイツは無政府状態に陥った。軍は無統制のまま、各部隊が個別に降伏した。全土が連合軍に分割占領され、その後の東西分裂の原因となった。[1,p325]
三国の中では、日本のみが統一を維持したまま、条件付き降伏にこぎつけた。内外5百万の軍隊が、わずか一日で降伏を受け入れ、矛を納めたのは、世界史にも例のない引き際であった。

 参考資料:毎日新聞2001年8月15日大阪朝刊
昭和20(1945)年8月15日、当時私は国民学校で教員をしていた。扇風機もない職員室はうだるような暑さで、「こんな日に日直とはついてないなあ」と、何も手につかずボンヤリしていると、隊長の少尉さんが駆け込んでこられた。この学校は敵機の空襲が多い旧国鉄の吹田操車場に近く、兵隊さんが駐屯していた。隊長は「天皇陛下の放送があるのでラジオが運動場で聞こえるようにして下さい」と言われた。隊員たちが整列して聞いていたが、雑音が多くて聞き取れなかった。隊長に尋ねると「非常時だからみんな頑張るようにとのお言葉だった」との答え。しばらくすると運動場のあちこちで書類を焼く煙がたち始め、隊長が職員室に来られ悲痛な顔で話された。「日本は負けた。校内に缶詰があるから、たくさん持って帰りなさい」と言って、真新しいブリキのバケツを渡して下さった。いろいろある缶詰の中から、なぜか豆と豚肉を煮込んだ缶詰を一つだけ入れた。とめどなく涙があふれ、何も見えなくなった。日直誌にも何を書いたか覚えていない。

 

 「アッハッハッハ!

何をバカなことを言っているのですか ヴォルフ・フォン・シュナイダー!

そのような重要な書類は日帝が燃やしたに決まっているでしょう!

現に日本の書類を焼く作業は日帝の命令によって――――」

 「ほぉ、日帝が?

では極東にいた日帝が、具体的にどうすればドイツの書類を燃やせたのか詳しく説明してもらおうか?

まずは、日帝がデーニッツ元帥でさえ知らなかったユダヤ人絶滅計画をどうやって知ったのかを説明してもらおう」

 「……」

 「どうした?はやく言え。それともまた妖術だのなんだのと言う気か?」

 「うう、白人がいじめるよぉ〜・・・」

 「こんな白人が実在するわけないでしょうに・・・」

 「北朝鮮に東ドイツと同じ”におい”を感じるのは何故であろうか!

滅びる国の運命という物か!!!」

 「我と共に生きるは冷厳なる勇者、出でよ!

第三帝国の黄昏たそがれ こそ、我が心が痛む時であり、同時に一番美しい時でもあった!」

 「ロンメル将軍のアフリカ戦線ではまだ、松本零士並みの騎士道が残っていた」

 「ドイツの魂は鉄と血からなる」

 「ドイツ軍はヨーロッパ随一の組織化された軍隊である。

プロイセンの伝統を受け継ぐ、最強陸軍帝国ドイツ軍。

1941年にアテネを包んだ炎は、戦乙女ヴァルキリーブリュンヒルデが竜殺しドラゴンスレイヤージークフリートの亡骸と自身の身体を焼いた炎の再来であった。

ニーベルングの指輪の呪いによって、天上のヴァルハラ城は炎に包まれ、古代ゲルマンの神々に終焉の時が訪れた。

あのパルテノン神殿に鉤十字ハーケンクロイツの旗が掲げられたとき、私は古代ギリシアの神々もまた終焉の時を迎えたことを予感したのである!」

 「 神は死んだ!

 「魂までも凍らす極寒のロシアのヴォルガ川に立てられた多くの墓標を見て、私はドイツ軍の不敗神話が崩れるのを感じた・・・

それはパウルスが元帥になる前日であった・・・」

 「しかし国防軍神話は地に落ちたのではない。新たな伝説を創造したのだ」

 「死が美しいというのは語弊である。

死しか見えない戦争後を見つめてなお、1%の望みに賭けたSS義勇兵達の運命の過酷さが我々にとってある種の美学を感じる物であるということだ。

誰も魚の目のような死んだ瞳をした兵士など、勇敢だとは思うまい。

兵士とは本来、死をも乗り越えて生きるべきなのである。

そして死をも乗り越えた兵士は英雄となり、その魂は戦乙女ワレキューレによってヴァルハラに送られる。

来るべき神と巨人の戦争「ラグナロク」のために!」

 「ドイツは敗北したが、決してゲルマンの血が絶えたわけではない。

アメリカの衰退後は再び、大ドイツの時代が訪れる」

 「1991年、邪悪の化身ソビエト連邦 千年王国ミレニアム さながらに崩壊していく様は誠に痛快なことであった!

この年、マルクス主義者どもの砂上の楼閣は、 最後の大隊レッツテ・バタリオン 亡霊ガイスト によって叩き潰されたのである!」

 「憂愁のドイツ軍ほど美しいものはなし。我がドイツ軍兵士の軍靴の響きを聞け。

 「ドイツの敗戦に大作オペラのクライマックスを見るような 浪漫ロマン を感じるのは何故であろうか!」

 「真実は一つ! アンチ・ドイツマニアもみな、始めはドイツ軍が好きだった!」

 「偉大なるドイツ軍にビールで乾杯! ジークハイル!」

 「 Achtungアハトゥンク

総員、大ドイツの軍旗に敬礼 !

 「…さっきから何やってるのかしら、この人たち?」

 「さながら日本軍に憧れる韓国人といったところね。

毒電波の濃度が今までとは段違いだわ」

 「うーん、これほど的を射た表現もないわね」

 「ひ、酷い…!

ドイツ人は悪魔の人種だわ!

欧州の永遠の災いのもと

唯一の善いドイツ人は死んだドイツ人!

ドイツ人は去勢されるべきだった!

イギリス人、ユダヤ人、ロシア人、アメリカ人の言っていることは正しかったのよ!」

 

 参考資料:アウシュヴィッツの争点 木村愛二著
(アドレス:www.jca.apc.org/~altmedka/nise-13.html)
一九四〇年九月四日、ヒトラーは、スポルトパラスト(Sportpalast)[運動宮殿。壮大なオリンピック・ス
タジアムの固有名詞化]で宣言した。《もしもイギリスの爆撃機が三千または四千キログラムの爆弾を落としたらならば、われわれは、その仕返しに、一万五千、二万、三万、四万キログラム、いや、それ以上を、たった一晩で落としてやる。》これは、ルフトヴァッフェ(Luftwaffe)[空軍。ドイツのという意味のドイツ語の使用]による戦略爆撃の
可能性についての極端な誇張でしかないが、両陣営の民族の間の憎しみが、どれほどの度合で上昇するもの
かを示している。これに応じて一九四二年に、週刊誌『ニューヨーカー』の編集長で、“著述家戦争委員会”の筆頭格、半官の文壇代表の立場にあったクリフトン・ファディマンが、著述家たちに、《ナチの指導者に対してだけでは
なく、ドイツ人全体に対する激しい怒りをかき立てる》ように頼んだ。この提案は論争を呼んだが、ファディマンは固執した。
ドイツ人に分からせるための唯一の方法は殺すことだ。それでもなお彼らは分からないのではないかと思う》一九四二年四月に、デ・サレスの本、『明日を作る』を褒めながら、ファディマンは、自分の人種主義的概念を発展させて、つぎのように記した。《現在のナチの侵略は無頼漢の集団の仕業というよりも、むしろ、ドイツ人に深く埋めこまれている本能の根本的な表現である。ヒトラーは、彼自身よりもはるかに強大な力の化身である。彼が説教する邪教は二千年の歴史を持っている。その邪教とは何か? アルミニウス[前1世紀にローマの支配に反乱を起こして3軍団2万人を全滅させたゲルマンの族長]とともに始まる西欧文明への反乱以外の何物でもない。……この戦争の次元は、このように考えると非常に明瞭になる。……》彼は、つぎのようなヘミングウェイの提案にも賛同した。《唯一の根本的な解決(the only ultimate settlement)は外科的な意味で、ナチを不毛化することである》彼は、ナチと他のドイツ人を区別したドロシイ・トムソンを笑い者にした。彼の意見は世間とかけ離れたものではなかった。ヒトラーの“スポルトパラスト”での演説のあとで、ロンドンの『デイリー・ヘラルド』紙に載った記事では、牧師のC・W・ウィップが、つぎのように宣言している。
合い言葉は“彼らを一掃せよ”でなければならない。そのために、われわれの科学の粋を尽くして新型の、さらに恐るべき爆弾を発明すべきである。……福音を説く牧師は、そういう感情に従わないだろうが、私は率直に言う。もしも可能ならドイツを地図から抹殺したい。ドイツ人は悪魔の人種であり、ヨーロッパの永遠の災いの基である》幸いなことにイギリスでは、こういう常軌を逸した行き過ぎに対して、抗議の声があがった。イギリス人がドイツ人と比べて文化の高さで必ずしも優るわけではないが、それでもなお、血に飢えた指導者や憎しみと死の狩人によって、混乱させられることはなかった。一九三四年一月、シオニスト指導者のヴラジミール・ジャボチンスキーは、ユダヤ人の新聞『ナーシャ・レ
ッシ』[われわれの権利]紙上で、つぎのように宣言していた。
われわれユダヤ人の利益を守るためには、ドイツを永久的に滅ぼす必要がある。全体としてのドイツ人が、われわれにとっての危険を代表しているからだ
チャーチルはまた彼なりに、一九四〇年五月一六日、ポール・レイノードに向かって、つぎのような本音を
明かしていた。
《われわれはドイツを飢えさせる。われわれは彼らの町を破壊する。われわれは彼らの作物と森を焼き払う
》(ポール・レイノード『九か月の政府勤め』)
一九四二年には、イギリスの大臣で紛れもない憎しみの伝道者、ヴァンシタート卿が、イギリス空軍の爆撃
の恐ろしさを正当化するために、こう語った。
唯一の善いドイツ人は死んだドイツ人だ。だから、われわれは彼らに爆弾を降り注ぐのだ
一九四四年一月、ウィンストン・チャーチルは、参謀総長のヘイスティングス・イメイ将軍に四頁のメモを渡したが、そこには、つぎのような計画の提案が記されていた。

私は、あなたが極めて真剣に、この窒息性ガスの問題を熟考することを願う。……馬鹿気た話だが、前の戦争では皆がこれ(窒息性ガス)を使い、道徳家や教会からの何の抗議もなかったというのに、今では皆が、この問題の議論に道徳性を持ち出す。その一方、当時は無防備都市への爆撃はタブーと見なされていたのに、今では誰もが当然のことのようにやっている。女のスカートの長さと同じで、単なる流行の問題でしかないのだ。……私は、窒息性ガスを使用するために、どれだけの費用が必要かを冷静に研究してほしいのだ。……われわれは、馬鹿気た原則で手を縛られているべきではない。……われわれは、ルールや、その他のドイツの都市を、この方法で溺れさせ、大部分の住民が常時治療を必要とするようにすることができる。……とりあえず、数週間または数か月後、私はあなたに、ドイツを窒息性ガスで溺れさせる命令を出すだろうが、やる時には徹底的にやらなければならない。それまでに、この問題の冷静な研究を、そこらで右往左往している制服を着た興ざめのする御幣担ぎのメダカの群れにではなくて、まともな判断力のある連中にやってほしいのだ
(『アメリカの遺産』85・8/9)
チャーチルも、スターリンも、トルーマンも、戦争犯罪人として被告席には座ったことはなかった。ニュルンベルグ裁判所は、さらに恥ずべき犯罪を煽った著者たちを、被告として告発していない。その内から、特に熱狂的な二つの事例だけを紹介しておこう。一九四二年には、これこそ本物の意味での“ジェノサイド”を煽る本、アメリカのユダヤ人、テオドール・カウフマン著、『ドイツ人は消滅すべきだ』が発表された。その主要な主張はこうだ。《ドイツ人は、反ナチであろうと共産主義者であろうと、たとえユダヤ人が好きであろうとも、生きる価値がない》。カウフマンの結論はこうだ。《戦後に二万人の医者を動員して、一日に一人で二五人づつのドイツ人の男女に不毛化手術を行えば、三か月で子供を作れるドイツ人が一人もいなくなり、以後、六〇年でドイツ人種は完全に絶滅する》
この本は、反ユダヤ主義を養う上で格好の拾い物だった。ヒトラーは、すべてのラディオ放送局で、この本の抜粋を読み上げさせた。もう一つの同じ扱いを受けた本は、一九四四年に発表されたソ連の作家、イリア・エレンブルグの著書、『赤軍への訴え』である。
殺せ! 殺せ! ドイツ人の中には、生きている者の中にも、これから生まれてくる者の中にも、無実の者はいない! 同志スターリンの命令を実行し、穴に隠れた野獣のファシストを、撃滅し続けろ! ドイツ女の高慢さを、暴力で打ち砕け! 彼らを正当な戦利品として取り扱え! 奪え! 殺せ! 殺せ! 勇敢な赤軍の兵士たちよ、君達の止むに止まれぬ攻撃によって
([ナチス・ドイツの]デーニッツ提督著『一〇年と二〇日』の引用による)
以上に挙げた内、一つとしてニュルンベルグで告発されたものはないし、その有様は、それを隠していた各国の元首たちについての状態と良い勝負だった。同じく、二〇万人の民間人が犠牲となったドレスデンの爆撃は、ソ連軍がすでに目標を超過達成していた状況下に行われ、何らの軍事的理由もなかったにもかかわらず、イギリスとアメリカの責任者は誰も告発されなかった。同じく、三〇万人の民間人が犠牲となった広島と長崎への黙示録的な原爆投下は、天皇がすでに降伏を決定していた状況下に行われた。この場合にも、やはり、何らの軍事的必要性もなかったにもかかわらず、その罪を犯したトルーマンは告発されなかった。 同じく、ベリアもスターリンも、たとえば彼らは、何千人ものポーランド将校をカチンの森で虐殺しながら、その罪をドイツ人になすりつけていたのだが、やはり、まったく告発されなかった。

 

 参考資料:シャーロック・ホームズのガス室――ホロコーストのガス処刑説の文芸学的分析の試み――サミュエル・クロウェル著 Crowell,The Gas Chamber of Sherlock Holmes, An Attempt at a Literary Analysis of the Holocaust Gassing Claim
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/crowell_01.htm)
ニュルンベルク裁判の起源は、連合国がナチスの指導部に復讐し、ドイツ国民を罰しようと願った1943年にある[248]。ドイツとの戦争はもはやありえないようにしようとするというのもその願望の一部であった。だから、初期の段階でも、数万のドイツの指導層を処刑するとか、ドイツ国民全体に不妊手術を施そうといった要求があったのである[249]。
[249]
ルーズベルト大統領自身が、ドイツ人を去勢するという妄想にとりつかれていた。 Morgenthau, op. cit.参照。 Butz, op. cit.,はクリフトン・ファディマンとアーネスト・ヘミングウェーを引用している。アーヴィングは、Goebbels, p. 369, 372-373のなかで、この考え方をアメリカ系ユダヤ人の本にまでさかのぼっている。

 

 

 「むぅ、この手の悪口にはマニュアルがあるとしか思えん。

なぜ米軍が日本軍に対して言っていたことまったく同じことを言うのだ?」

 伝統だから!」

 「伝統か。ならば仕方あるまい」

 「うんうん。伝統だから仕方ないのよね」

 「なんの伝統よ・・・」

 「アホコントが終了したところで話を元に戻しましょう。

検察の持っている証拠は史料価値の低い第四次史料に過ぎない。

つまり、「ヴァンゼー会議でラインハルト作戦が決定された」というのは立証できないということですか?」

 「……」

 「しょうがないわよね。

実行されてない命令が書いてある非公式のメモだけじゃ説得力がないわ」

 「だから重要書類は燃やしたと――――」

 「他に言い訳は思いつかんのか?」

 「っていうか「燃やした」の一点張りじゃ某半島のキムチ民族と同レベルね」

 「違う! わたしをあいつらと一緒にするな!」

 「だって同類だろ。どう見ても」

 「うむ、貴公には名誉キムチの称号を与えよう。

存分に胸を張るがいい」

 「キムチ!

 「キムチ!

 「キムチ!

 「・・・・・・・・・」

ぷっつん・・・

 「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお―――――――!!!

 「あ、切れた」

 「違う違う、これはファビョったのよ」

 「毎度のことだな」

 「だんだん症状が悪化してるけどね」

 「ああ・・・ あたしのアルクがどんどんおかしくなっていくわ・・・」

 「と言いながら楽しんでるでしょ」

 「うん」

 「お、言い切ったな」

 「さて、たしかに弁護側の言うように、「ヴァンゼー文書」だけでは第四次史料に過ぎません。

しかし、それならば「ヴァンゼー会議でラインハルト作戦が決定された」という説を否定する人間がもう少しいてもいいような気がしますが」

 「いますよ。

1982年1月20日、イスラエルの「ホロコースト」専門家イェフダ・バウアーは「カナディアン・ジューリッシュ・ニュース」紙上で「世論は依然として、ヴァンゼーではユダヤ人の絶滅が決定されたという馬鹿げた話を繰り返している」と言いました。

また、1992年1月30日にも「カナディアン・ジューリッシュ・ニュース」紙上で、古くからあるこの神話を「馬鹿話(Silly)」と言いました」

 

1982.1.20(The Canadian Jewish News, Jan. 20, 1982)
「The public still repeats , time after time,the silly story that at Wannsee the extermination of the Jews was arrived at.」

1992.1.30(The Canadian Jewish News, Jan. 30, 1992)
Silly story that at Wannsee the extermination of the Jews was arrived at.」

 

 「イェフダ・バウアーはイスラエル・ヘブライ大学教授であり、エルサレムのヤッド・ヴァシェム(Yad Vashem )記念館の主任歴史学者でもあります。

ヤッド・ヴァシェム記念館はイスラエルの国立ホロコースト博物館で、そこの主任歴史学者が検察の主張を「馬鹿話(Silly)」と言っているんです。

これはイスラエルの見解と受け取っていいのではないでしょうか?」

 「政府が公式に発表したのでないのでは、そういうわけにもいかないでしょう。

それにイェフダ・バウアーはヴァンゼー会議そのものを否定しているわけではありませんし。

ヴァンゼー会議で絶滅計画が決定されたことを否定しているだけで、会議そのものはあったと考えていますから」

 「おいおい、絶滅計画の決定に関係ないヴァンゼー会議って何の意味があるんだ?

それじゃあベルリンのヴァンゼー記念館の立場がないだろ。

「この部屋で絶滅計画が決定された」ってのを売り物にしてる観光名所なのに、本家イスラエルのホロコースト博物館がそれを「馬鹿話」なんて言ったら存在価値ゼロじゃねぇかよ。

観光客になんて言えばいいんだ。「この部屋は絶滅計画が決定されたと言われてますが、それは間違いです。そのような決定はされてません。ただの会議でした」って言えってことかよ」

 「ハッハッハ。堂々と「決定されました」と言えばいいだけです。

そうすればここを観光した客は懺悔したような気がしてすっきりした気分になり、博物館も潤う。みんなで幸せになろうよ」

 「……ただの詐欺じゃねぇか」

 「騙される方が悪いんです。

こんなの特定アジアじゃ日常茶飯事です」

 「…うわぁ」

 「連中は金が儲かればそれでいいんだろ。

英国の歴史学者デヴィット・アーヴィングがなかなかうまいことを言っている。

「「にせホロコースト生存者その他うそつき協会(Association of Spurious Survivors of the Holocaust and Other Liars)」

略して「ASSHOLS(クソったれ)」を設立した」ってな。

まさにヴァンゼー記念館のためにある言葉だぜ」

 「さすがは皮肉を言わせたら世界屈指の英国紳士。

アーヴィングはなかなか面白い男だな。

それに比べるとエルンスト・ツンデルは直球過ぎる。

これがドイツ人とイギリス人の考え方の違いかもしれん」

 

 参考資料:ホロコースト裁判―――ツンデル裁判記録より――
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/holocaust_trial.htm)
C:弁護士クリスティ H:検事側証人ヒルバーグ B:検事側証人ブローニング
C:『ヒトラーのテーブル・トーク』の471頁、1942年7月24日の項目には、「汚れたユダヤ人が追い出され、マダガスカルかその他のユダヤ人国家に追放されるまで、町を一つ一つ破壊するであろうとヒトラーは言った」とあります。
H:この翻訳には同意できません。「これらのシラミだらけのユダヤ人がマダガスカルかユダヤ人国家に追い出されるまで、町を次々に破壊するつもりである」と訳すべきです。
C:
ヒトラーが1941年にユダヤ人の絶滅を命令したとすれば、彼が戦後のユダヤ人の移住について語っているのはなぜですか。
H:彼がテーブルで誰に対して話しているのかを考えてみなくてはなりません。
C:ヒトラーは忘れてしまったのでしょうか。テーブルについている人々に何らかのふりをしているのでしょうか。
H:アドルフ・ヒトラーは忘れてしまっているのではありません。しかし、別の人々に別の話をしているのです。何が起こっているのは秘密にしておくことが重要であることを彼は明らかに知っていました。

 参考資料: 「粘土足の巨人 ラウル・ヒルバーグとホロコーストに関する彼の標準的著作」
著ユルゲン・グラーフ 歴史的修正主義研究会試訳
Jurgen Graf, The Giant with Feet of Clay, Raul Hilberg and his Standard Work on the “Holocaust”, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2001

注目すべきは、ユダヤ人の絶滅決定がなされたのは、1942年1月20日のベルリンのヴァンゼー会議であったという古くからのおとぎ話を支持しているける研究者は誰もいないということである。1992年、イスラエルの「ホロコースト」専門家バウアーは、古くからあるこの神話を「馬鹿話」とあざけった。[17]
[17] Canadian Jewish News, 30th January 1992.

 参考資料:木村愛二著 『偽イスラエル政治神話』(その16)
(アドレス:ttp://www.jca.apc.org/~altmedka/nise-16.html)
一九四二年一月二〇日に開かれたヴァンゼー会議は、三分の一世紀にもわたって、そこでヨーロッパのユダヤ人の“絶滅”が決定されたと称されてきたのだが、一九八四年以後には、“見直し論者”の最も残忍な敵の文章の中ですら、その姿を消してしまった。この点に関しては、彼ら自身も同じく、彼らの歴史の“見直し”をせざるを得なくなっている。なぜならば、一九八四年五月に開かれたストゥットガルト会議で、この“解釈”が、明確に放棄されたからである(『第二次世界大戦の期間に置けるユダヤ人の殺害』)。
 
一九九二年には、イェフーダ・バウアーが、『カナディアン・ジューイッシュ・ニューズ』の一月三〇日号で、従来のようなヴァンゼー会議の解釈は“馬鹿気ている”(silly)と書いた。最後には、反見直し論者の正統派歴史家の一番最近のスポークスマン、薬剤師のジャン=クロード・プレサックが、この正統派の新しい見直しを追認した。彼は、一九九三年に出版した著書、『アウシュヴィッツの火葬場』の中で、つぎのように記している。《ヴァンゼーの名で知られる会議は一月二〇日にベルリンで開かれた。もしも、ユダヤ人の東部への“追放”という行為が、労働による“自然”の消去を呼び寄せる計画だったとしても、誰一人として、そこでは工業的な消去については語っていない。その後の数日または数週間にわたって、アウシュヴィッツの所長は、会議の終りに採用が決まった装置の研究を要請するような電話も、電報も、手紙も、何一つ受けとっていない》(同書)

 参考資料:National Journal History 2003
(アドレス:http://globalfire.tv/nj/03en/history/wannsee.htm)
Prof. Y. Bauer:"Silly story that at Wannsee the extermination of the Jews was arrived at."
London (JTA) - An Israeli Holocaust scholar has de-bunked the Wannsee Con-ference, at which top Nazi officials are said to have gathered at a villa in a Berlin suburb in 1942 to draw the blueprints of the "Final Solution"
According to Prof. Yehuda Bauer of the Hebrew Uni-versity in Jerusalem, Wann-see was a meeting, "but hardly a conference", and "little of what was said there was executed in detail."
Bauer addressed the opening session of an international conference held here to mark the 50th annivasery of the decision to carry out the "Final Solution". "But it was not made at Wannsee", the Czech born scholar said.
"The public still repeats, time after time, the silly story that at Wannsee the extermina-tion of the Jews was arrived at, Wannsee was but a stage in the unfolding, of the process of mass murder," he said.
Bauer also maintained that fears that memories of the Holocaust are receding with time are unfounded.
"Whether presented authentically or inau-thentically, with empathy and understanding or as monumental kitsch, the Holocaust has become a ruling symbol of our culture. Hardly a month passes without a new TV production, a new film, a new drama, a number of new books of prose or poetry dealing with the subject. Dead Jews, as contrasted with live ones, have very often been a subject of commiseration, sympathy and soulsearching," the professor said.
THE CANADIAN JEWISH NEWS January 30, 1992, page 8
wikiによると、ナショナル・ジャーナル(National Journal)はアメリカの政府と政治に関する週刊誌でアトランティックメディア社の一部。ワシントンDCで広く読まれている。

 参考資料:ホロコースト講義 著ゲルマール・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/294.htm#_edn2)
L:私の記憶しているところでは、ヨーロッパのユダヤ人の絶滅とそのための措置がヴァンゼー会議で決定されました。
R:会議で決定されたと思われることではなく、議事録の中に記されていることを話してくださいませんか? 議事録を読んだことがおありでしたね。
L:いいえ、読んでいません。しかし、会議で何が決定されたのかはよく知られています。
R:よく知られているのですって? 明らかなのですって? では、議事録には何が書かれていて、何が書かれていないのかについてからお話しましょう。例えば、この議事録は、第三帝国の役人がドイツ影響下の地域で、半ユダヤ人、4分の1ユダヤ人をどのように定義するか、ユダヤ人の数はどれほどかという問題を解決するにあたっての困難さを記録しています。また、ドイツ影響下の地域からのユダヤ人の移住を促進するために、ドイツ政府がこれまでとってきた措置をまとめ、移住政策に代わって東部地区への移送政策が必要であると説明しています。この移送政策との関連で、ユダヤ人を東部地区への道路建設にすぐさま従事させるべきである、厳しい労働条件による自然淘汰のおかげで、ユダヤ人口の減少が生じるであろうと述べています[1]。ユダヤ人は絶滅収容所に送られるなどという内容のセンテンスは、議事録には一つもありません。さらに、ユダヤ人が意図的な絶滅にさらされるかどうか、もしさらされるとしたら、いつどのようにしてか、などについても一言も触れられていません。1982年、イェルサレムのヘブライ大学教授イェフダ・バウアーは、すでにこう説明していました[2]。
「世論は依然として、ヴァンゼーではユダヤ人の絶滅が決定されたという馬鹿げた話を繰り返している
("The public still repeats , time after time,the silly story that at Wannsee the extermination of the Jews was arrived at.")」
[2] The Canadian Jewish News, Jan. 20, 1982, p. 8, publishing a news release of The Jewish Telegraphic from London.

 参考資料:ガス室問題に関するプレサックへの回答 著ロベール・フォーリソン
Robert Faurisson, Answer to Jean-Claude Pressac on the Problem of the Gas chambers、Two further comments on my answer to Jean-Claude Pressac
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/faurisson_05.htm)
何十年ものあいだ、いわゆるユダヤ人の「ホロコースト」についての歴史家たちは、1942年1月20日、ベルリンのヴァンゼー会議で、ドイツ人はヨーロッパ・ユダヤ人の物理的絶滅を決定したと繰り返し論じてきた。1984年になってはじめて、絶滅論者がシュトゥットガルトでの大会に集まって、この説を静かに放棄した(Eberhard Jackel and Jurgen Rohwer, Der Mord an den Juden im Zweiten Weltkrieg, DVA, 1985, p. 67)。1992年になってはじめて、イェルサレム大学教授で、イスラエルの「ホロコースト専門家」の中心人物であるイェフダ・バウアーが、この説は「馬鹿げて」いるとおおやけに声明した (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158)。プレサックは、新しい定説にしたがって、次のように記している。
1月20日、『ヴァンゼー会議』と呼ばれる会議がベルリンで開かれた。ユダヤ人を東部地区に移送するという作戦が計画され、そこでは、労働によって幾分かのユダヤ人が『自然に』清算される可能性が含まれていたとしても、工業的な大量清算について語った者は誰もいなかった。この会議に続く日々、週、アウシュヴィッツ建設局は、工業的な大量清算という目的のための施設を計画することを要請する呼び出し、電報、書簡をまったく受け取っていない。」(35頁)

※ 原文を読むと「イェルサレム大学教授」の部分は「the University of Jerusalem」となっているが、イェルサレム大学は「al-Quds University」なので、「イェルサレムの大学教授」と訳すべきと思われる。ヘブライ大学(The Hebrew University of Jerusalem)はイェルサレムにあるからである。
(原文アドレス:ttp://vho.org/GB/Books/anf/Faurisson1.html)
 It was not until 1992 that Yehuda Bauer,
Professor at the University of Jerusalem and a leading Israeli "Holocaust specialist", declared publicly that this thesis was "silly" (The Canadian Jewish News, 30 January 1992; cf. as well, "Wannsee: 'Une histoire inepte'", R.H.R. no. 6, May 1992, pp. 157-158). In conformance with the new official version, Pressac writes:

 参考資料「ユダヤ石鹸」著マーク・ウィーバー
(アドレス:ttp://www.nsjap.com/v_b/06.html)
近代ユダヤ史を研究しているデボラ・リプシュタット教授も1981年,同じように歴史の「書き換え」に同意している.彼女は書いている.「実はナチスは決して,石鹸製造,その他の目的でユダヤ人の身体を利用することはありませんでした.」 イスラエル・ヘブライ大学のイェフーダ・バウアー教授は,ヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館の館長シュムエル・クラコウスキーと同じく,第一線のホロコースト歴史家と見做されている.このバウアー教授も1990年4月,人間石鹸物語は真実ではないことを認めた.「囚人はドイツ人について,どんな恐ろしい物語でも信じ込んでしまう状況だった」と彼は記している.しかし彼は厚かましくも,その後で噂の責任をナチスに押し付けている.

 参考資料:MYRTOS Home Page - 月刊ミルトス2000年4月号
(アドレス:ttp://www.myrtos.co.jp/index.html?url=http://www.myrtos.co.jp/pub/mp_month/backnumber/000458.html)
一九九一年カナダのカルガリーで行なった講演で、アーヴィングはもっと露骨に、「アウシュヴィッツのガス室で死んだ女性よりも、チャパキディック事件でエドワード・ケネディの車の後部座席で死んだ女性のほうが多い」と主張した。
(略)
 インタビューのなかでアーヴィングは、「ヒトラーは有罪だと、イギリス法廷を半分でも納得させるような証拠を持ってきた者はだれもいない。現在の人種的憎悪に関する法令に照らせば有罪で、執行猶予付きで十八カ月の刑という判決はあり得る。現状の証拠ではそれくらいが関の山だ」と述べている。
(略)
「もしもアーヴィングが勝訴したら、すべてのホロコースト否定者にとっての認可証になるだろう」。サウサンプトン大学のユダヤ史教授であり、ホロコーストの記録保管では最も古く、評価の高い公文書館の一つであるロンドンのウィーナー図書館館長をつとめるデヴィッド・カサラニは言う。「フランスのル・ペンやオーストリアのハイダーなど、ナチの残虐行為はできるだけ小さなものとして、ヒトラーの名誉を回復したいと思っている人たちにとっては、助けとも励みともなろう」
エルサレムのヤッド・ヴァシェム・ホロコースト記念館の主任歴史学者イェフダ・バウアーは、「アラブ世界は、アーヴィングが勝てば、ユダヤ人を打ち負かしたと大いに喜び、満足するだろう。すでに反ユダヤ人の題材が数多く、エジプト、シリア、ヨルダンの出版物に現れている。この三つの国は私たちにとってきわめて重要であり、なかには平和条約を結んでいる国もある。非常に恐ろしいことだ」
(略)
アーヴィングは、一九九一年のカルガリーでの講演で、
「にせホロコースト生存者その他うそつき協会(Association of Spurious Survivors of the Holocaust and Other Liars)」、略して「ASSHOLS(くそったれ)」を設立したと言って、極右の聴衆を喜ばせた。九年後、彼はこの言葉を「うまい表現だ」と称賛した。あまりよい趣味ではないと私が反論すると、彼は言い返した。「あまりよい趣味ではないユダヤ人はたくさんいるし、彼らはあまりよい趣味ではない手段を使う。金はそこに流れ、彼らはそれを繰り返す。それが欲張りなユダヤ人という認識を生んでいるのだ」

※ 英国の歴史家デビット・アーヴィングがアメリカのジョージア州アトランタのエモリー大学で現代ユダヤ教およびホロコースト研究の教授をつとめるデボラ・リップスタット(ユダヤ人女性)を相手どり、一九九四年の著書『ホロコースト否定論――激化する真実と記憶に対する攻撃(Denying the Holocaust: the Growing Assault on Truth and Memory)』のなかで、ホロコースト否定者の烙印を押されたことに対する訴訟を起こした。
2000年4月11日、英国高等法院で判決が言い渡されアーヴィングは敗訴した。アーヴィングは判決文の中で、彼は「イデオロギー上の理由から、永続的かつ故意に、歴史的証拠をねじまげ、操作している」と指摘された。

 参考資料:ニュルンベルク: 消えざる犯罪」著エルンスト・ツンデル
(アドレス:ttp://www.nsjap.com/v_b/12.html)
私は,彼らへの敬意に頭を垂れる.彼らはニュルンベルクで法的に殺害されたのである.彼らは世界の殉教者であり,悪党などではない.公正な裁判で裁かれていたなら,彼らの誰一人として死刑にはならなかっただろう.そう,一人として! 忘れてはならない.彼らが西洋文明を救うためにドイツ国家全体,そして最後には自分自身を犠牲にしたことを.彼らは,着飾った殺し屋,軍服を着たギャング,いかさま師に雇われた陰謀者たちに敗れたのである.東欧ゲットーあがりの殺し屋,ギャング,陰謀者たちに.

 

 「・・・ということですが反論は?」

 「捏造!捏造!捏造!捏造!

ラインハルト作戦はあったんだ!

絶滅計画はヴァンゼーで決定されたんだ!

 「完全にファビョったわね」

 「ほほほ! なんて無様なのかしらアルク・フェルナンデス!

現実を認めたくないがゆえに人格障害を起こすその哀れな姿!

そう、今のあなたはまるで人生の敗残者のようですよ!

貧弱 貧弱 貧弱ぅぅううう!

URYyyyyyyyyyyyyウリイイイイイイイイイ !!!!

 「うがああああああああああああああああああああ――――!!

 「アッハッハッハッ!

なんとも心地よい声ですわ!

その悲痛な叫び! その悔しそうな顔!

ああん 背筋がゾクゾクしちゃいます♪」

 「まったくもって容赦がないな」

 「つーか、どんどんキャラが壊れてくね、彼女」

 「いつものことだけどね」

 「ああ・・・ アルクさんの苦しむ姿を見ると胸が熱くなります。

もしかしてこれがというものなのでしょうか?」

 「それは違うと思うんだけど・・・」

 「――――――」

 

・・・ばたん

 

 「あ、倒れた」

 「ふっ 悪は滅んだ

 「悪って、をい・・・」

 「霊柩れいきゅう 無き者は、ただ滅するのみ。

魂の束縛は潰えた。この場に留まる理はもうない――――」

 「ニダ!」

 「どうしてリューシ―ちゃんはすぐに裏切るのかねぇ。

君は検察側じゃなかったのか?」

 「「相手が勝ち誇ったとき そいつはすでに同盟国!」」

 「これが我が国ウリナラ のやり方。

老いてますます健在というところでしょうか」

 「―――なるほど。検察が不利だから寝返っただけか」

 「ハッハッハ。わたしには検察も弁護側も関係なきこと。

とりあえず叩けるものがあったらストレス解消に叩いておく主義なのです。

ことわざにあります。犬も溺れれば棒で叩けと」

 「ひでぇ・・・」

 「ね、いい国でしょう。これだからいいんですよ、これが!

要はなれですよ、なれればこの国のふところの深さがわかります」

 「そーいう腐った根性だから931回も侵略される史上最弱の国家なんだよな。

同じ半島でも栄光のローマ帝国を築いたイタリア半島とは大違いだぜ」

 

 参考資料:Webサイト「新しい歴史教科書をつくる会 平成11年5月号(通巻14号)より」
(アドレス:ttp://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi14_text01.html)
この点は、黄文雄氏も、同様の指摘をしている。「朝鮮半島は有史以来、計931回も侵略されたことに三国時代以降は、平均2年に1回という頻度で侵略をうけたともいわれる。日本には36年間支配されたが、モンゴルには1世紀近くも支配を受けた。『高麗史』は『モンゴル軍が通過したところは、すべて焼きつくされた』と記録している。(中略)しかし、それほど侵略されたにもかかわらず、大陸から半島への侵略をあまり糾弾せずに、海からの『日帝』の侵略ばかりを『突出』させるのは、それなりの理由があろう」と。

 

 「史上最弱が…………」

 「最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も恐ろしィィマギィ――――ッ!!

 「――――――」

  「……」

 「というわけで休憩です」


次回へ続く