「準備中だって書いてあったでしょう?
どうしてここに来たの?
さてはあなた妖魔ね!
え? 違う? 釣られた?
何をわけのわからんことを……。
まあいいわ。来ちゃったものはしょうがないもんね。
ホントはダメだけど書いたとこまで見せてあげるわ」
逆転ニュルンベルグ裁判
〜ユダヤの嘘を暴いてナチスの無罪を勝ち取れ〜
Subject13-3: モルゲン検事の事件簿〜カール・コッホ事件〜
「ふぅ。なかなかいいソースが見つからんものだな」
「おいーすっ!遊びに来たわよー!」
「お前もヒマなヤツだな」
「何言ってるの。自分たちだけ新作に出ようったってそうはいかないわ。山猫(は獲物を逃さない」
「で、また東京マ●イの新しいエアガン買ったのか。ガンでジャグリングするな。アホに見えるぞ」
「アホ?」
「そもそもお前はオートマティックに向いていない。
リコイルの衝撃をひじを曲げて吸収する癖がある。
どちらかと言えばリボルバー向きだ」
「・・・。ま、考えとくわ。で、
何調べてるの?」
「『SSが勝手に囚人を殺すのは禁止されてる』ってソースをSubject13:
アウシュビッツの食事、生活、規則は?で出しただろ。
それで死刑になった収容所の所長カール・コッホを例に出したわけだが、これに納得できないってヤツがいる」
参考資料: 文・西岡昌紀「戦後世界史最大のタブー ナチ「ガス室」はなかった」
マルコポーロ1995年2月号より
例えば、ドイツ政府の中でユダヤ人問題を総括する立場にあったハインリヒ・ヒムラーは、チフス等の病気によるユダヤ人の死亡が多いことに神経をとがらせ、収容所の管理者たちに対し、もっと死亡率を低下させよという命令を出してすらいる。例えば、一九四二年十二月二十八日の日付けで強制収容所の統括司令部がアウシュヴィッツ収容所に送った命令書には、こう書かれている。「収容所の医師達は、これまで以上に被収容者の栄養状態を観察し、関係者と連携して改善策を収容所司令官に提出しなければならない」これは、ヒムラー自身の言葉ではないが、この命令書はヒムラーの次のような言葉を引用しているのだ。
「死亡率は、絶対に低下させなければならない」
この命令は、言われているような「民族皆殺し」と両立する命令であろうか?
しかし、こうした生の資料(一次資料)から気付くことは、ナチスの政策自体は非道であったにせよ、我々が『シンドラーのリスト』などから与えられてきた強制収容所のイメージは、歴史的事実とは懸け離れたものだということである。一例を挙げるなら、『シンドラーのリスト』の中で、ゲートという収容所の司令官が、朝、ベランダから面白半分にユダヤ人を銃で撃ち殺すショッキングな場面があるが、これは絶対にウソである。何故なら、当時の強制収容所では、確かにユダヤ人等の被収容者が体罰を加えられることはあったが、それには事前に書類を提出して許可を得ることが義務づけられていたからである。その書類は、ベルリンにまで送らなければならなかったし、もし、この手続きを無視すれば、そのドイツ兵は、軍紀違反で厳罰に処せられたのである。このことは、戦後西ドイツで法務官吏を勤めたヴィルヘルム・シュテークリッヒ
(Wilhelm Staglich) が自著 'AUSCHWITZ:A Jude Looks at the
Evidence'
の中で述べているし、アメリカの歴史家セオドア・オキーフェ
(Theodore O'keefe)
なども述べている。中には、死刑に処せられたドイツ人すらいる。お分かりだろうか?ナチスの政策そのものは不当であったにせよ、そのドイツにおいて、ユダヤ人などを虐待したという理由で死刑に処せられたドイツ人がいたのである。「ユダヤ民族の絶滅」がドイツの目標であったなら、何故そんな厳罰に処する必要があったのだろうか?
※ 『囚人の体罰にベルリンの許可がいる』という説のソース(「収容所の解放」事実と嘘」 著セオドア・オキーフ(原題 「The Liberation of the Camps: Facts vs. Lies」by Theodore J. O'Keefe )原文アドレス http://litek.ws/k0nsl/detox/LiberationCamps.html)
While German camp commandants in certain cases did inflict physical punishment, such acts had to be approved by authorities in Berlin, and it was required that a camp physician first certify the good health of the prisoner to be disciplined, and then be on hand at the actual beating. (note 10) After all, throughout most of the war the camps were important centers of industrial activity. The good health and morale of the prisoners was critical to the German war effort, as is evidenced in a January 1943 order issued by SS General Richard Glücks, chief of the office that supervised the concentration camps. It held the camp commanders "personally responsible for exhausting every possibility to preserve the physical strength of the detainees." (note 11)
note11. Nuremberg document NO-1523. Published in Trials of War Criminals Before the Nuernberg Military Tribunal (NMT "green series"), Vol. 4, pp. 372-373.
「へぇ。新ネタね。それで、そのソースは?」
「・・・対抗言論のサイト」
「…はぁ?」
「ちなみにこれがそのソースだそうだ」
参考資料:対抗言論
アドレス:http://en.wikipedia.org/wiki/Konrad_Morgen
彼が「ユダヤ人虐待」の罪に問われて処刑されたというのが、西岡さんの主張でした。もう一度、その部分を引用しておきます。
「例えば、ブーヒェンウァルト収容所の司令官だったコッホというドイツ人は、そうしたユダヤ人への虐待を理由に、当時のドイツ当局によって死刑に処せられています。」(『真実』p.72.)
西岡さんはさらに、ご自分が論拠にしたヒルバーグの本の当該部分のコピーを送ってくださるとのことでしたが、実際に送られてきたのは、不完全な筆写で、比較の役には立ちません。このメールは木村愛二さんの手でamlに公開されているので、そこから引用しましょう。
「この様に,ヒルバーグは,収容所での虐待(sadism)の問題と汚職(corrup tion)の問題を区別せずに,連続した記述の中で述べて居ます。実際,コッホの事例は,コッホが被収容者を殺害してその財産を奪うと言う事例だった訳ですから,「虐待」と「汚職」の両方に該当する事例だった訳で,この記述の流れの中でコッホの処刑が言及されて居るのは,文脈にかなって居ると言えるのではないでしょうか?
そして,この最後のKoch himself....,he was....executed(コッホ彼自身も....,彼は....処刑された。)と言う個所の引用資料は同書579ページの脚注では,(21)とされ,Paulmannの自白と成って居ます。(Affidavit by Paulmann, July 11,1946,SS-64)これは,モーゲン関連文書の一つで,コンラート・モーゲンに近い立場に有ったドイツの法務官ポールマンがコッホ事件について戦後述べた証言書ですが,この中で,ポールマンは,コッホは被収容者を殺害してその金品を奪ったと言うモーゲンの証言を支持して居ます。重要な事はヒルバーグがこの証言を自分の記述の根拠として引用した事です。つまり,このヒルバーグは,このポールマンの戦後の証言を信用出来る物と見なして居る訳で,それを私は,「アウシュヴィッツ・ガス室の真実」(日新報道)の86ページで,
[注41 SS−64 cited in [R.Hilberg前掲書]]
と略記ですが提示した訳です。」
話が込み入ってくるのを避けるため、また、私は木村さんや西岡さんほどいいかげんな態度でホロコーストに対応したくないので、ヒルバーグの典拠そのものに当たってみます。ニュルンベルク裁判の記録です。使ったのはドイツ語版です(Der Prozess gegen die Hauptkriegsverbrecher vor dem Internationalen Militaergerichtshof. Nuernberg. 14 November 1945-1.Oktober 1946. )。大判で500ページから600ページもある本で、なんと42巻にもおよぶ記録です。全部を読む時間はとうていありませんが、幸い関連部分を見つけることは容易でした。コッホについての重要な言及は、第20巻にあるギュンター・ライネッケとゲオルク・コンラート・モルゲンの証言(Bd.XX, pp.453-507, 531-563.)、それに第42巻にあるヴェルナー・パウルマン(ポールマンではありません)とモルゲンの宣誓供述書(Bd.XLII, pp.543-565.)です。私はこれらの部分はすべて読みました。しかし、くだくだと内容を繰り返す必要はないようです。
ライネッケのつぎの証言だけで充分です。このライネッケは親衛隊准将(上級大佐とも訳されます)で、最高親衛隊・警察裁判所主席判事でもありました。彼はこう述べています(Band XX, p.482.)。
「コッホに対する訴訟の出発点は汚職であって、それを理由に彼は死刑をも宣告されたのです。」(Der Ausgangspunkt des Verfahrens gegen Koch war Korruption, weshalb er auch zum Tode verurteilt worden ist.)
ここで「も」(auch)がついていることに注意してください。彼のほかにもさまざまな罪で裁かれた親衛隊員がいたのですが、そのほとんどが懲罰部隊送りになったりしながらも、死刑を免れています。しかし、コッホは汚職のおかげで、特別に死刑を「も」プラスさせられたのです。
「ユダヤ人虐待」のゆえをもってコッホが死刑になったなどというでたらめは、これでおしまいです。もうこの問題はかたがつきました。うなぎは料理されたのです。
ついでながら、モルゲンの証言と供述書を読んでみると、彼が親衛隊員の汚職追求のため、アウシュヴィッツにまでおもむいていたこと、そして、そこでのユダヤ人のガス殺や、そのための選別について明言していることが判りました。否定派には困った話です。原資料に当たると、こういう発見もできるわけです。孫引き屋には味わえない楽しみです。モルゲンの証言は、別の機会に紹介します。
「・・・なにこれ?
対抗言論のサイトに何かを期待するのが間違っているのはわかってたけど、やっぱりね。
「コッホは、汚職&虐待のセットで死刑を言い渡された。だから「虐待で処刑されたと言うのは嘘だ!」と言っているだけじゃない。
これのどこが「許可なしの囚人虐待は犯罪ではない」っていうソースなの?
まじめにやる気あるわけ?」
「・・・そーいう正論を言い出したらだ〜〜〜れも反応してくれないだろ。
掲示板で反論を呼びかけてからず〜〜〜〜と閑古鳥が鳴いているところにようやくネタが投下されたんだ」
「それにカール・コッホがどのような経緯で死刑になったのかを知る必要がある。
そもそもなぜカール・コッホは囚人を虐待したのだ?」
「誰でもよかった。むしゃくしゃしてた。今は反省してる」
「・・・ソースは?」
「・・・」
「そこで沈黙するからホロコーストネタは盛り上がらんのだ……」
「わーったわよ。要するにネタを投下したいってわけね。
それで、どこまでわかったの?」
「うむ。
BBC(英国放送協会BBC: The British Broadcasting Corporation)のホームページにカール・コッホ事件の経緯が書いてあった。
ボルンシャイン(Bornschein)が不当利益を得ている、という申し立てがあったので、それを調査しにきた警察官、もしくは調査官の(エミル・ホルトシュミット)Emil Holtschmidtが来た。
通報したのが誰かは書いてないが、ともあれこうして捜査のメスが入ったわけか。
カール・コッホ(Karl Koch)はボルンシャインと結託していた。
ボルンシャインの調査をしたら、カール・コッホについての疑惑が持ち上がった模様」
「ボルンシャイン(Bornschein)ってのは何?」
「人名か地名・・・。おそらく人名だろう。
ググるとこの単語の名前が出てくる」
「ドイツ語で「schein」が「光」という意味で、発音が「シャイン」だから読み方はボルンシャインで決まりだな」
「OK。それで?」
「モルゲン(Morgen)(調査官の事務所か、調査官自身)が調査していたわけだが。
コッホについては
という疑惑が出てきたらしい」
「いや、キャンプの労働者というのは収容者でいいな。
とすると、「camp labourers」とあるのは、刑務所かなんかで労働している囚人のことだ。
で、カール・コッホは囚人を強請って無理矢理働かせて稼いだ金を着服したわけだな。
調査官は囚人に尋問したが、囚人が怯えるようであまり証言が得られなかった。
調査官ではなかなか仕事が進まず、辛抱強く調査を進めるのを拒否したため、モルゲン本人が調査を続けることにした。
それで調査の矛先をコッホ夫妻間の手紙や、銀行の口座にした。
結果、少なくとも10万マルクの横領と、KrämerとPeixでの殺人の証拠を発見した」
「ビンゴ! 殺人で死刑になったってソースじゃない」
「それはどうかな。
キャンプの医者(Dr Waldemar Houst)も殺された、とある。
一概に「囚人を殺したことだけで重罪だった」とはこのソースだけでは言えない」
「その後、カール・コッホは逮捕され、モルゲンは別の共犯者を捕まえて証言させた。
最終的にカール・コッホは終戦末期にSSによって処刑された。
以上がカール・コッホ事件の大まかなあらすじだ。
今のところ、こんなところかな」
参考資料:BBC ホームページ
アドレス:http://www.bbc.co.uk/dna/h2g2/A592931The Karl Koch Case
カール・コッホ事件
It all started with a call that was placed to Morgen's office by the SS Police County XX11, Kassel, who was responsible for the Buchenwald concentration camp, asking for help in investigating a provisions merchant, who was also a Nazi Ortsgruppenleiter, called Bornschein. Emil Holtschmidt, a KP officer who was investigating allegations of profiteering by Bornschein in collusion with Karl Koch, the Camp Commander of Buchenwald, ran into a dead end when Bornschein joined the Waffen SS and had himself posted to the HQ staff over which the SS Police had no jurisdiction. As Bornschein could now only be investigated by an officer in the RKPA, Morgen was brought in to continue the investigations.
それはモルゲンの事務所SS警察署XX11にかかってきた電話からはじまった。
ブーフェンヴァルト収容所の責任者カッセルは助けを求めたinvestigating 調査
provisions 準備
merchant, 商業の
Ortsgruppenleiter ナチ党における管区制のでの最小の組織単位が「Ortsgruppen=地区」となっており、「Ortsgruppenleiter」はその指導者ということで「地区指導者」と翻訳されている。
KP=KriminalPolizei
基本的にKPとRKPAは同じようなもんと考えていいでしょう。<KP officerという表現が出てる
RKPAは「ReichsKriminalPolizeiAmt」の略 国家犯罪警察庁
Bornscheinは「ボルンシャイン」ですな。多分人名(姓)か、地名
In July 1943, the Bloodhound travelled to the Weimar, established himself in a local hostelry called the Elephant Hotel, which, ironically, was also Hitler's favourite local hostelry, and began a surreptitious inquiry into Bornschein's activities.
Superficially, Buchenwald turned out to be quite a nice place, with clean freshly painted installations, gardens with flowering plants and apparently well fed and healthy inmates. But, as Morgen progressed with his investigations into Bornschein's peccadilloes, he found that all was not well with the camp Commandant, Karl Koch.
1943年7月に、BloodhoundはBornscheinの活動にワイマールに旅行して、また、皮肉にもヒットラーのお気に入りの地方のユースホステルであったElephantホテルと呼ばれる地方のユースホステルに自分を設立して、秘密の問い合せを始めました。
表面的に、清潔な新たに塗装されたインストールに従って外にかなり良い場所になるように回されたBuchenwaldは顕花植物と明らかによく食べさせられて、健康な収監者と共に庭造します。 しかし、モルゲンが彼の調査でBornscheinの微罪に進歩したとき、彼は、すべてがキャンプ校長(カール・コッホ)によって順調であったというわけではないのがわかりました。By the time Morgen had accrued enough proof of Bornschein's transgressions to convict him, Koch found that he was quite firmly in the Bloodhound's sights. Morgen suspected Koch of hiring out camp labourers to civilians, racketeering in food supplies, murdering inmates who opposed him and generally running the camp for his own profit.
Morgen tied up the Bornschein case quickly and started on Koch's trail. He had a special agent interview the prisoners about the irregularities, but the prisoners were not very forthcoming and those who showed signs of being so seemed to die of various causes with an alarming rapidity.
His special agent grew frustrated with the total lack of headway he was making and refused to persevere with the investigation, so Morgen turned detective himself.
He intercepted letters between Karl and his wife Ilse, dug into their accounts in the local banks and conducted stealthy inquiries within the camp itself. Within a short period of time, he found out that Koch had embezzled at least 100,000 marks and also found proof of the murder of Krämer and Peix, two inmates of the camp, and indications that witnesses to the murder were slain as well. He also found out that others, like Dr Waldemar Houst, the camp doctor, were involved in the murders and in acts of sadism at the expense of the inmates.
accrued増やす
proof 証明 立証
transgressions違反
Bloodhoundブラッドハウンド。犬の種類の名前。優秀な警察犬
convict有罪を立証する
found わかる 気付く
firmly きっぱりと、安定して、
suspectedうすうす気付く
hiring 人を雇う
labourers レイバー。労働者
civilians 一般人
racketeering 不正で金を得る
murdering
inmates
opposed
generally
profit
trailagent 代理人
grew ・・・になる
frustrated 失敗させる
headway 仕事の進み、進捗
total lack すべての欠落
refused to persevere with the investigation 調査を辛抱強く続けるのを拒否しました。モルゲンがBornscheinの違反の彼を断罪することができるくらいの証拠を生じさせる時までには、コッホは、彼が全くしっかりBloodhoundの光景にいたのがわかりました。 モルゲンは、コッホがキャンプ肉体労働者を民間人に貸し出すと疑いました、食物供給におけるゆすり、彼に反対した収監者を殺害して、一般に、彼自身の利益のためにキャンプを経営していて。
モルゲンは、すぐにBornscheinケースをタイアップして、コッホの道を始めました。 彼は特別なエージェントを不規則に関して囚人にインタビューさせましたが、囚人がそれほど愛想がよくなかったので、存在の兆候を示した人々は様々な原因で驚くべき急速で死ぬように思えました。 彼の特別なエージェントが、彼がしていた前進の総不足でだめにされるのに成長して、調査を辛抱強く続けるのを拒否したので、モルゲンは探偵自身になりました。 彼は、カールと彼の妻のイルセの間で手紙を傍受して、地方銀行で丹念にそれらのアカウントを調べて、キャンプ自体の中で秘密の問い合せを行いました。
短期間以内に、彼は、コッホが少なくとも10万のマークを横領したのを見つけて、また、Krとaumlの殺人の証拠を見つけました; mer、Peix、キャンプの2人の収監者、およびまた、殺人への目撃者が殺されたという指摘。 また、彼は、Waldemar Houst博士のような他のもの(キャンプの医師)が殺人と収監者を犠牲にしたサディズムの行為にかかわったのを見つけました。
The material he amassed was enough to fill a briefcase. He submitted the lot to Nebe, the Chief of the Criminal Police, who blanched on realising the impact of the evidence and hastily passed it on to the Gestapo chief Müller who promptly shifted responsibility to Ernst Kaltenbrunner, the chief of the RSHA. Even he was not willing to handle the now red hot evidence and got the Chief of the SS Legal Department involved, who, now predictably, kicked it up to Himmler himself.
Not one to be put off by red tape, Morgen dutifully took the evidence to the Reichsführer's office and sneaked it to Himmler's desk by using a cautiously worded telegram to Himmler outlining the case and with the help of a sympathetic member of Himmler's staff.
Surprisingly, Himmler immediately gave Morgen full authority to proceed against the Koch coterie. In December 1943, Morgen trapped an accomplice of Koch's by the name of Köhler and got him to testify against Koch. Koch wilted against Morgen's relentless interrogation and was packed off to be shot as punishment by the SS Legal Department.
彼が集めた材料は、ブリーフケースをいっぱいにするために十分でした。 彼は、Nebe、証拠の衝撃がわかるとき白くなったCriminal警察のChiefにロットを提出して、急いで、それをゲシュタポチーフのMとuumlに通過しました; 責任をエルンスト・カルテンブルンナー(RSHAのチーフ)に即座に移動させたller。 彼さえ、現在かんかんな証拠を扱うのを望まないで、部がかかわったSS LegalのChiefを手に入れました。(現在予想どおりに、SS Legalはそれをヒムラー自身まで蹴りました)。
お役所流で延期されるというわけではない1つ、モルゲンはケースについて概説するヒムラーとヒムラーのスタッフの同情的なメンバーの助けで従順にReichsfとuumlへの証拠; hrerのオフィスを持って行って、用心深く言い表された電報を使用することによって、それにヒムラーの机に潜入しました。
驚いたことに、ヒムラーはすぐに、コッホ同人を訴える完全な権威をモルゲンに与えました。 1943年12月に、モルゲンは、hlerにKとoumlの名前のコッホの共犯を捕らえて、彼にコッホについて不利な証言をさせました。 コッホはモルゲンの容赦のない査問に対してしおれて、罰としてSS Legal部によって撃たれるように、追いやりました。
参考資料:ヴィキ 「カール・オットー・コッホ」
アドレス:http://en.wikipedia.org/wiki/Karl_Otto_Koch
According to The Buchenwald Report, Col. Koch was arrested in August 1944 by the Gestapo for forgery, embezzlement, mismanagement, and insubordination. The prosecutor was SS judge Konrad Morgen.
After an investigation and trial that determined Koch had ordered Walter Krämer and his medical assistant Peix killed, to prevent their discussing the fact they had treated him for syphilis. Koch was condemned to death, and executed on April 5, 1945, one week before American liberators arrived.
Acquitted by Morgen, Ilse Koch was sentenced after the war to life in prison. She hanged herself in prison in 1967.Buchenwald Reportによると、コッホ大佐は1944年8月に偽造、着服、不始末、および反抗でゲシュタポによって逮捕されました。 検察官はSSコンラッド・モルゲン裁判官でした。
コッホがウォルターKrとaumlを命令したのをそんなに決定している調査とトライアルの後に; merと彼の医療助手Peixは、彼らが彼らが梅毒のために彼を治療したという事実について議論するのを防ぐために殺しました。 アメリカ人の解放者が到着する1週間前に、コッホは、死ぬほど非難されて、1945年4月5日に処刑されました。
参考資料: 『Did Six Million Really Die?』 著Richard E Harwood
The Office of the Public Prosecutor conducted thorough investigations into each case of criminal arrest, and those found innocent were released; those found guilty, as well as those deportees convicted of major crimes within the camp, were sentenced by military courts and executed. In the Federal Archives of Koblenz there is a directive of January 1943 from Himmler regarding such executions, stressing that "no brutality. is to be allowed" (Manvell and Frankl), ibid, p. 312). Occasionally there was brutality, but such cases were immediately scrutinised by S.S. Judge Dr. Konrad Morgen of the Reich Criminal Police Office, whose job was to investigate irregularities at the various camps. Morgen himself prosecuted commander Koch of Buchenwald in 1943 for excesses at his camp, a trial to which the German public were invited. It is significant that Oswald Pohl, the administrator of the concentration camp system who was dealt with so harshly at Nuremberg, was in favour of the death penalty for Koch. In fact, the S.S. court did sentence Koch to death, but he was given the option of serving on the Russian front. Before he could do this, however, Prince Waldeck, the leader of the S.S. in the district, carried out his execution. This case is ample proof of the seriousness with which the S.S. regarded unnecessary brutality.野蛮が時折ありましたが、そのような場合はすぐに、様々なキャンプで不規則を調査する仕事がことであったドイツCriminal警察のオフィスのS.S.裁判官コンラッド・モルゲン博士によって詮索されました。 モルゲン自身は1943年に不節制で彼のキャンプでBuchenwaldのコッホ指揮官を起訴しました、ドイツ人の公衆が招待されたトライアル。
オスワルドPohl(ニュルンベルクでそれほど厳しく対応された強制収容所のシステムの管理者)がコッホのための死刑を支持してあったのは、重要です。 事実上、S.S.法廷はコッホに死刑を言い渡しましたが、ロシアの前部の委員となるオプションを彼に与えました。 以前、彼はこれができて、しかしながら、ワルデック王子(地区のS.S.のリーダー)は彼の処刑を実行しました。 本件はS.S.が不要な野蛮を見なした重大さの十分な証拠です。
「モルゲン判事の調査の信用度はどれくらいなの?」
「その目安となるソースを見つけた。
モルゲン判事の調査データを元に、戦後に米軍が囚人に死刑宣告したというソースだ」
参考資料:
アドレス:http://www.scrapbookpages.com/Buchenwald/Atrocities.html
Dr. Waldemar Hoven(ヴァルデマール・ホーフェン博士)
Dr. Hoven was tried by the SS in Dr. Morgen's court, convicted and sentenced to death for murder. He spent 18 months in prison at Buchenwald, but was then reprieved because of the critical wartime shortage of doctors.
He was prosecuted again by a U.S. military tribunal in "The Doctor's Trial" and was executed in 1948 after being found guilty of killing prisoners. According to an official U.S. Army Report on April 24, 1945, Dr. Hoven was an important Communist ally who killed numerous anti-Communist prisoners in Buchenwald with lethal injections.
意訳:ホーフェン博士は、モルゲン博士の法廷でSSによって試みられて、断罪されて、殺人によって死刑を言い渡されました。 彼はBuchenwaldの獄中の18カ月を過ごしましたが、死刑執行は延期にされた。それは戦時中の医者不足のためです。
彼は、再び米国軍事法廷によって「医師の審理」で起訴されて、殺している囚人に関して有罪であると判決された後に、1948年に処刑されました。 1945年4月24日の公式の米国陸軍レポートによると、ホーフェン博士はブーフェンヴァルトで薬物注射で多数の反共産党員囚人を殺した重要な共産党員でした。
「まったく・・・ホロコーストネタは情報が断片的にしか集まらんから困る。
これだけ情報を集めるだけでも一苦労なのに、まだこれをまとめる作業が残ってるんだぞ。はあ・・・」
「気長にやりましょうや。ちょっとずつ保管していけばいい。
準備中なんだから、まさかこのページを見てる読者がいるわけないっしょ」
「そうね。準備中なんだから、まさかこのページを見てる読者がいるわけないわ。
ちらかってても大丈夫だって」
「その通り!
準備中という便利な単語を並べておけば、いい加減な情報を垂れ流してもケンチャナヨですよ。ホルホルw」
「あんたいつの間に?」
「See
Next again bye bye〜♪」
その他使い道に困る資料・・・
参考資料:試訳:ホロコースト講義 著ゲルマール・ルドルフ
アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/290.htm
↑ 人間石鹸。証言通りの製造法では製造不可能(笑
2.9 ユダヤ人石鹸、電灯の傘、縮んだ首
R(ルドルフ):ここで、ホロコースト正史派は、戦時中と戦争直後の報告されたことはすべて真実であるとみなしているかどうかという問題に移ります。この問題は、ドイツの強制収容所での事件との関連で、何回も何回も報告されてきた事例――ごく少数なのですが――にかかわっています。第三帝国時代には、多くの製品を生産した帝国工業油脂供給局(Reichsamt fur Industrielle Fettversorgung)略称RIFという機関がありましたが、油脂から作られる石鹸も製造していました。1946年のニュルンベルク裁判では、ソ連側は、大量殺戮によって死亡したユダヤ人の脂肪から製造されたとする石鹸を展示証拠として提出しました[1]。しかし、法廷はこの告発を認めませんでした。この告発は、ドイツが戦死した死体から石鹸を製造しているという第一次世界大戦中の虐殺物語の延長線上にあるものでした[2]。ドイツの石鹸の刻印RIFがRJF「純粋ユダヤ人脂肪(Reines Juden Fett)」のことであるという解釈は、今日にいたるまでしつこく登場していますが、1990年春、イスラエルのホロコーストセンター・ヤド・ヴァシェムが訂正を発表しました[3]。The Daily Telegraph
1990年4月25日
ユダヤ人石鹸物語は「ナチの嘘だった」
イスラエルのホロコースト博物館は、これまで通用してきた一般常識を否定して、ナチスが第二次世界大戦中に殺したユダヤ人の脂肪から石鹸を作ったことはまったくない、しかし、皮膚は電灯の傘のために、髪の毛はマットレスのために使われたと、昨日発表した。
歴史家イェフダ・バウアーはこう述べている。多くのユダヤ人が自分たちの殺された家族や友人たちは石鹸に変えられたと信じているが、それはナチス自身がそのような話を宣伝したからである。「ナチスは、自分たちがユダヤ人から石鹸を作ったとユダヤ人たちに話した。それは心理的拷問のサディスティックな道具であった」というのである。これによると、ユダヤ人の脂肪から製造された石鹸という空想物語を発明したのは、ユダヤ人を心理的な拷問にかけようとしていた民族社会主義者であったというのです。しかし、この説明の中で確実なことは、人間の脂肪から作られた石鹸など存在しなかったという点です。また、ここで興味深いことは、嘘がばれてしまうと、嘘の被害者に責任を転嫁しようとする試みがなされ、そのことが世界に広まっていったことです。まさに、被害者自身に責任があるというモットーにしたがっているわけです。また、人間の脂肪から作られた石鹸など存在しなかったという情報を、ヤド・ヴァシェムがどこから入手したのかという問題も興味深い問題です
L:ヤド・ヴァシェムもこの嘘がどのようにして作られ、広められていったのか詳しく知らなかったためではないのですか?
R:いいえ。ヤド・ヴァシェムの研究者もそんなに愚かではなかったはずです。彼らは、人間石鹸神話の証拠として引用されてきた目撃証言やその信憑性についてよく知っています。今でも、このような証言が数多くありますが、時がたつにつれて、その質は悪くなっていくようです。
ニュルンベルク裁判のとき、ソ連首席検事スミルノフは、ジグムント・マズールなる人物の証言を提出しています。それは次のようなものです[4]。「1943年夏、解剖研究所の庭に、 3つの部屋のある一階建ての石造の建物が建てられました。この建物の目的は、死体の利用と骨の煮沸でした。シュパンナー教授が公にそのように言っていました。この実験室は、骨の製作、肉と不必要な骨の焼却のための実験室と呼ばれていました。しかし、1943−1944年に冬に、シュパンナー教授は、人間の脂肪を集めてきて、それを捨てないようにと命令しました。この命令は、ライヒェルトとボルクマンに出されました。
1944年2月、シュパンナー教授は、人間脂肪からの石鹸を製作する処方箋を私にくれました。この処方箋によると、5sの人間の脂肪と10リットルの水、500−1000gの苛性ソーダを混ぜ合わせます。これを2−3時間煮沸してから、冷やします。石鹸が表面に浮き、水その他の沈殿物が下に残ります。これに、少量の塩とソーダが加えられます。新鮮な水も加えられて、再度、2−3時間煮沸します。さまされたのち、石鹸が鋳型に流し込まれます。」マズールはニュルンベルク裁判には出廷していませんので、反対尋問も受けていません。
フィリップ・ミューラーは、殺されたユダヤ人の脂肪をどのように手に入れるのかを証言している目撃者の代表です。彼は、アウシュヴィッツの数千の死体が戸外の焼却壕で焼却された様子を証言しています。そのうちの二つを引用しておきます[5][6]。
「数日後、われわれは、焼却壕を作った。2つの壕は長さ40−50m、幅8m、深さ2mであった。…中央から両側にわずかに傾斜している溝を掘ることで、壕の中で燃え上がる死体から出てくる脂肪を、溝の両側の収集鍋に集めることができた。」
「2500体ほどの死体が積み上げられた2つの壕に火がつけられた。われわれ火夫が、燃え上がる死体に油や木のアルコール、それに加えて、壕の両側の2つの収集鍋の中に集められ、その中で煮えたぎっている人間の脂肪をたえず注がねばならなかった。バケツを使ってすくい出された煮えたぎった脂肪は、壕の各所に注がれ、その結果、炎は一層パチパチと燃え上がるようになった。」
ミューラーによると、脂肪は燃料として利用されたようです。別の目撃証人によると、脂肪は石鹸に加工されました[7]。
L:この種の証言が偽証であるとどのようにして証明できるのですか?
R:自分の告発すなわち被告人の有罪を証明しなくてはならないのは告発者の側であり、無実を証明しなくてはならない被告人の側ではありません。この点をまず念頭においてください。たんに主張するだけでは、たとえそれがホロコースト生存者の主張であったとしても、立証にはなりえません。しかし、この問題に関しては、磐石の科学的所説にもとづいて、人間脂肪石鹸という話を論駁することができます。動物脂肪の引火点――人間脂肪の引火点と基本的に同じです――は、184℃です。これらの脂肪は、火や火の燃えさしがあれば、184℃で燃えはじめるのです。それゆえ、燃えている木は、死体からの脂肪に火をつけてしまうに違いありません。ステーキから脂肪の玉がグリルの石炭に落ちていくのを見たことがある人であれば、この現象はよく理解できると思います。非常に多くの脂肪の玉が燃えている石炭に落ちれば、グリル全体が炎に包まれるのです。ですから、フィリップ・ミューラーその他多くの目撃証人が述べているような、死体から流れ出た脂肪をすくい出すなどという話は、まったくナンセンスなのです[8]。
参考資料:試訳:ホロコースト講義 著ゲルマール・ルドルフ
アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/2994.htm
マーザー教授はドイツ軍がソ連による虐殺行為を発見した文脈の中で、連合国による虐殺宣伝をとらえかえしています。ドイツ国防軍は、独ソ戦の開始以来、ソ連による残酷な虐殺行為のあとを占領した大都市で発見してきました。ソ連軍は急いで撤退するにあたって、ウクライナ、ロシア、バルト諸国の町の監獄に収容していた多数の反政府派を数十万単位で屠殺していきました。ドイツ軍は、町に入ると、腐った死体の散乱した監獄を発見しました。ドイツはこの発見を使用して、ヨーロッパの青年が共産主義の脅威と戦うようにアピールしました。このアピールは、ドイツ軍が、ソ連による20000名ほどのポーランド人エリート死体の大量埋葬地――カチンその他――を発見したときにとくに成功を収めたのです[7]。数年間にわたって、ドイツは、100万以上の外国人義勇兵を対ソ戦に動員することに成功しましたが、この軍隊は、人類史の中で、外国と戦う最大の義勇兵部隊でした。
連合国は、こうしたドイツの宣伝の成功に対抗するために、同じような大量虐殺物語を必要として、それを苦労して作り上げ、それを利用して、ドイツを非難しました。341頁に、マーザーは、イギリス心理戦争局、すなわちイギリスの嘘工場のボスであったEllic Howe[8]が、1943年のカチンの大量埋葬地の発見直後から、次のような捏造された内容のポスターをポーランド各地にばら撒いたことを個人的に認めていることを伝えています。
参考資料:アドレス:http://www.scrapbookpages.com/Buchenwald/Atrocities.html
According to the March 1945 issue of the Red Cross monthly
bulletin, American soldiers held as POWs in German camps were
given typhus vaccine, which was delivered by the Red Cross and
distributed by the Germans. Since this vaccine was only given to
Americans, and there were no American POWs at Buchenwald, the
Germans were working to develop their own vaccine for the rest of
the prisoners and for the German Army.
意訳:月刊赤十字1945年3月号によると、ドイツ収容所で捕虜として収容されていた米兵はチフスのワクチンを与えられた。そのワクチンは赤十字によって与えられ、ドイツ政府によって分配された。
このワクチンはアメリカ人に与えただけであって、どんなアメリカ人の捕虜もブーフェンヴァルトにいなかったので、ドイツ人は囚人の残りとドイツの陸軍のためにそれら自身のワクチンを開発するために働いていました。
参考資料:試訳:ホロコースト講義 著ゲルマール・ルドルフ
アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/140.htm
しかし、この場合には、第一次大戦のときとは異なって、今でも、本当の話とみなされています。ただし、20世紀末には、ユダヤ人を殺すためにガス室を建てたり、チクロンBを保管しているような国は存在しない、したがって、ユダヤ人がもう一度ホロコースト、すなわち数百万の絶滅に直面するようなことはないと考えられています。結局、ガス室物語はドイツと「ナチ」固有のものであり、二度と起るはずはないであると考えられています。
しかし、皆さんが、ホロコーストとガス室物語は今日では二度と登場することがないと考えていらっしゃるのでしたら、驚くべき事例を紹介しておかなくてはなりません。二つの事例があります。それは、二番目の「ホロコースト」が生じてからほぼ50年後の1991年に起った戦争からの事例です。アメリカがイラク軍をクウェートから追い出すために、はじめて派兵したときのことです。ニューヨークを拠点とし、「最大の独立系アングロ・ユダヤ系週刊誌」を自称するJewish Pressは、1991年2月21日、タイトルページにこう書いている。イラクはすべてのユダヤ人用のガス室をもっている
また、ロサンゼルスのユダヤ系のサイモン・ヴィーゼンタール・センターが刊行し、部数381065のResponse 12巻1号(1991年春)のフロントカバー広告にはこうあります。
ドイツ人はイラクでチクロンBを生産
(イラクのドイツ製ガス室)その2ff頁にはこうあります。
衝撃の事実:ドイツの会社がイラクでチクロンBを生産
ドイツ商業ビジネス界は、ナチ時代の祖先の遺産にしたがって、現在の中東の災禍に関与しているとの非難を免れようとしている。『われわれはイラクに大量破壊兵器を提供していない、われわれは法律を犯していない、われわれは注文をこなしているだけである』というのである。さらに不気味なのは、イラクはチクロンBを含んだ新しい強力ガスを開発したという報道である。…このガス、神経ガスのタブンは、ドイツの会社がイラク人のためにとくに設計したガス室の中で、イラン人戦争捕虜を使って実験された。…(ガス室のプロトタイプを撮影した表紙写真参照)。ドイツのガス室:復活する悪夢
信じることができなければ、資料が掲載されている付録55f頁を参照してください。