逆転ニュルンベルグ裁判
〜ユダヤの嘘を暴いてドイツの無罪を勝ち取れ〜

Subject8:ビルケナウのガス室(クレマW、X)について

 「クレマW、クレマXはガス室なのですか?」

 「そうだ。

このガス室で何千人、何万人の罪のない人々が殺された。

彼らが殺された理由、それは彼らがユダヤ人だった。

それだけの理由だったんだ」

 「クレマW、クレマXはガス室でない。

この部屋でガス殺された人間などいない」

 「何をバカなことを…

殺す必要がないなら収容所の存在意義そのものがわからなくなる」

 「収容所は、一般のユダヤ人がゲリラ掃討作戦の巻き添えを喰わないために必要だった。

ユダヤ人を収容所に入れるのが法的に正当かどうかは議論の残るところだが、収容所そのものはユダヤ人の安全に役に立った面もある。

国際法違反のゲリラやテロリストは、民間人と区別するのは非常に難しい。

ナチスは収容所にユダヤ人を隔離し、ユダヤ人の安全を確保したあとでゲリラ掃討をしていた。

民間人の被害を最小限に抑え、なおかつゲリラを根絶するには、危険分子を一般社会から隔離するのが最善の策だ。

これはイスラエルもパレスチナ人に対してやっていることだ。

ユダヤ人は危険分子だったが、一般社会から隔離してしまえば殺す必要はなくなる。

むしろ貴重な労働力としてユダヤ人は必要な存在だった」

 

 参考資料: 著ヘレン・ミアーズ 「アメリカの鏡・日本」
「総じて私たちは、日本をドイツと同じくらい豊かな工業国と思ってきたが、これはまったく違う。戦時生産局の推定によれば、大戦中、ドイツとドイツ統治領は枢軸国の軍事物資の90パーセントを生産していた。イタリアと日本は残りの10パーセントを分担していたに過ぎない。アメリカが一九四二年末までに生産した戦車、航空機、銃砲、艦船の量は枢軸国全体の生産量に匹敵する。この推定の程度はともかくとして、工業・軍事国家としての日本はドイツやアメリカに比べてピグミー程度のものだった」

 

 「ドイツが占領した地域は、フランスやチェコ、白ロシアやウクライナなどの工業生産力の高い地域が多い。

そして、その生産力を戦時中に維持していたのは収容所のユダヤ人や、占領下の連合国民だった。

日本が占領した地域は資源は豊富だが、工業力は皆無に等しい。

東南アジアは欧米に植民地にされ、鉛筆を作ることさえ許されなかった。

だから日本列島だけで全ての軍事物資を生産しなければならなかった。

日独の生産力の差は、占領下の国民が軍事物資を作れたかどうかが非常に大きく影響している。

ナチスが意味もなく占領下の国民を虐殺していたという話は嘘だろう。

そんなことをしても生産力が落ちるだけで意味がない。

もしもそんなことをしていたら、日独でこれほどの生産力の差があるわけがない。

ナチスが殺していたのは国際法違反のゲリラ、テロリスト、レジスタンスだけだ。

その巻き添えを食らって民間人が死んだかもしれんが、罪もない民間人を無意味に殺すようなことはしてない。

それを裏付ける事実として、ヒトラーは、意味もなく民間人を傷つけるような命令は一度だって出したことはないし、ましてや民間人を殺すような命令は影も形もない

これは収容所のユダヤ人にもそのまま当てはまる話だ」

 「それは書類を燃やしたからだ!」

 「…誰が? 先に言っておくがドイツ兵が燃やしたなら、その証拠を出してもらおう」

 「ぐっ!」

 「で、誰が燃やしたんだ? ん?」

 「日帝ですよ」

  「だからコリアンネタはやめろよ」

 「アイゴー!」

 「…」

 「アイゴー・アッパーカットってどうでしょう?」

 「…アンタの彼女、ちょっと頭おかしいぜ」

 「か、彼、女!?」

 「そうだったの?」

 「ち、違う! 私が好きなのは―――」

 「好きなのは?」

 「そ、それは…」

 「うーん、これがジャパニーズラブコメってヤツだな」

 「両方とも日本人じゃないけどね」

 「とりあえずクレマW、クレマXについての話をしてもらいましょう。話が脱線しまくると読者が理解不能になってしまいます」

 (た、助かった…)

 「了解した。

まずはこれを見ていただきたい

クレマW、Xの図面だ。

クレマWとXは線対称になっている同じ構造の建物だ」

アウシュヴィッツ/ビルケナウ収容所の焼却棟WとX(対称形)の北の側面図(上)と平面図(下)
「著ゲルマール・ルドルフ ルドルフ報告 アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告」 Germar Rudolf, The Rudolf Report. Expert Report on Chemical and Technical Aspects of the "gas Chambers" of Auschwit, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2003より

1: いわゆる「ガス室」; 2: いわゆるチクロンB投下ハッチ; 3: 暖房炉; 4: 石炭室; 5:医務室; 6: 死体安置室; 7: 換気煙突; 8: 下水道; 9: 炉室; 10: 焼却炉

 

 「この図面でもっとも重要なことがある。

ガス室と呼ばれているのは@の部屋だが、この部屋はもちろん、この建物には青酸ガスの使用に不可欠である換気システムが設置されたという証拠がまったく存在しないということだ。

入り口のドアを全開にして自然換気するしかないのでは、ガス室とは到底呼べない。

そんなことをしたら外部の人間は青酸ガスで死んでしまうだろうからな。

というわけで、@の部屋をガス室と呼ぶのはあまりに馬鹿げているとしか言いようがない。

換気装置のないガス室なんて有り得ないからだ」

 「…」

 「はやくも大ピンチだな」

 「換気システムがないのは致命的ですね」

 「問題のガス室とされている部屋は、個人の所有品を殺菌消毒室することが計画されていたが、結局この目的のためには使われなかったと考えるべきだ。

何せ換気装置がないからな。

換気装置がないのではチクロンBを使うことはできない。

換気装置が設置されなかった理由は、1943年初頭から、ドイツ当局はこれらの焼却棟のすぐ近くに大きな温風殺菌駆除施設を持つ大規模な衛生施設群(いわゆる[中央サウナ])の完成にあたっていた。

また、ベルリンが約束していた高周波殺菌駆除施設を早期に使うことができると予想していたためであろう。

このためアウシュヴィッツ当局はクレマW・Xを含めた他の害虫駆除計画を延期していた。

スケジュールでは1943年7月16日から1943年10月21日の間にすべてのの装置が設置・運用開始されるはずだったが、あいにく、連合軍の爆撃でこの予定は一年ほど遅れ、アウシュビッツで本格的に始動し始めたのは1944年6月30日からになってしまった」

 

 参考資料:「High Frequency Delousing Facilities at Auschwitz」 著Mark Weber
(アドレス:ttp://www.ihr.org/jhr/v18/v18n3p-4_Weber.html)
Auschwitz Installation and Operation
Although the first high frequency disinfestation facility was supposed to arrive at Auschwitz on May 15, 1943, actual delivery was delayed. In mid-June 1943 the Reich Ministry for Munitions and Armaments assigned top priority to the new high frequency facilities.At a meeting on July 1, 1943, Dr. Wirths assured colleagues that the stationary high frequency delousing facility would be ready to begin operation at Auschwitz in about eight weeks, and that a mobile facility was to arrive at the camp within the next three weeks. Installation of the mobile high frequency disinfestation unit -- each step of which is thoroughly documented -- was carried out between July 16, 1943 (commission) and October 21, 1943 (last requisition of materials).The "Osten III" model stationary high frequency disinfestation facility -- a modification of the "Osten II" mobile model -- was set up in 1944 at the Auschwitz I main camp, in a building (BW 160) that originally was to house 19 Zyklon delousing chambers. It finally went into operation on June 30, 1944, and on July 29, 1944, the director of the SS Hygiene Institute tested its bacteria-killing ability.
(略)
Auschwitz's new high-frequency delousing facilities immediately proved to be far superior to all other delousing methods of the period, including the widely used method of hydrocyanic gassing with Zyklon B. Treatment of infected clothing with Zyklon required 70 to 75 minutes, and Topf delousing ovens required 60 to 80 minutes per treatment. Disinfestation in gassing autoclaves required a similarly lengthy amount of time. By contrast, the high frequency delousing facility required just seconds to treat infected clothing.
(略)
Furthermore, the new technique was much more thorough. It killed not only lice and their eggs (nits), but even the typhus micro-organisms. The new high frequency facility also took much less space, and was markedly less expensive. The cost of installing the "standard" disinfestation facilities in Auschwitz was 153,000 Reich marks, whereas the cost of installing the high frequency facilities there was 75,000 Reich marks or, according to another source, 98,000 Reich marks.
(略)
On August 10, 1944, the Auschwitz camp physician reported to the central WVHA office in Berlin-Oranienburg "on the effectiveness of the stationary shortwave delousing facility." note 21 After taking time to train the required personnel, wrote Dr. Wirths, full operation of the facility began on July 5, 1944. The new facility functioned promptly and reliably, and was in nearly daily use. However, it was not operating at peak efficiency, in part because of power outages.
(略)
On daily average, he continued, the new facility processed 1,441 sets of underwear and matching garments, and 449 wool or quilt blankets. In other words, he went on, every 32 working days the facility processed the clothing of 46,122 persons, including their underwear and bedding. Under ideal conditions (with no power outages, for example), Wirths stressed, the facility's performance would be three times greater. Tests carried out in Auschwitz by the SS Hygiene Institute, Wirths continued, showed that treatment in the facility of three minutes per sack of clothing -- that is, about 45 seconds for each individual item -- completely destroyed all traces
of staphylococcus, typhus and diphtheria.
(略)
Auschwitz was not the only German concentration camp to receive one of the new "high tech" delousing facilities. In the fall of 1944, a stationary high frequency facility similar to the one at Auschwitz was installed at the Mauthausen camp (near Linz). At that same time, a mobile high frequency delousing facility arrived at Gusen, a satellite camp of Mauthausen, in response to an outbreak of typhus there. Efforts were also made to install a similar stationary facility in the Dachau concentration camp (near Munich), but apparently it was never put into operation.

 

 参考資料: 『アウシュヴィッツ:ガス室の技術と作動』もしくはプレサック(1989)によるとアウシュヴィッツ・ビルケナウの間に合わせのガス室とでたらめのガス処刑 著ロベール・フォーリソン Robert Faurisson, Auschwitz: Technique & Operation of the Gas Chambers Or, Improvised Gas Chambers & Casual Gassings at Auschwitz & Birkenau, According to J.-C. Pressac (1989)歴史的修正主義研究会試訳より

プレサックの困惑は大きい。焼却棟WとXは、その設計・建設が具合悪かったので、すぐに停止してしまった(384、420頁)。だから、プレサックが、これら二つの焼却棟WとXの歴史を悪魔に送ったとしても幸せではないかもしれない。彼は、1944年5月末、ビルケナウの男性収容所で生活していた特別労務班員の大半が、「彼らの宿舎に改造された焼却棟Wに」移されたと書いている(389頁)。

 参考資料: 「アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告」著ゲルマール・ルドルフGermar Rudolf, The Rudolf Report. Expert Report on Chemical and Technical Aspects of the "gas Chambers" of Auschwit, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2003 歴史的修正主義研究会試訳

5.2.3.6. 高周波害虫駆除装置
 おそらく、アウシュヴィッツ強制収容所のもっとも魅力的な側面のひとつは、
高周波装置の設置であろう。それは、技術的には、今日使われている高周波炉のさきがけであった。1930年代末に、ジーメンス社がこの技術を開発し、戦時中に大量生産可能なところまでこぎつけていた。これは、1936年のベルリン・オリンピックをテレビ中継するために作られた強力な電波管の副産物であった。強力な電波はアンテナ周囲の昆虫を殺したからである。ドイツ国防軍は、東部地区で蔓延している疫病の防疫措置を改善したがっていたので、この技術を財政的に支援した。強制収容所の軍需産業に割り当てられていた囚人の労働力は、戦争末期にはとりわけ貴重になっていたので、ドイツ帝国指導部は、最初の装置を兵士の衣服の害虫駆除にではなく、ドイツ帝国最大の作業場、すなわちアウシュヴィッツに投入することを決定した。しかし、連合国による空襲のために、この装置の完成は1年遅れた。このために、数万の囚人が命を落とした。アウシュヴィッツ収容所当局はその設置を1943年と予想しており、そのために、他の害虫駆除計画を延期していた。この装置は1944年夏に稼動し始めたが、その速度と費用の面で、革命的な効果を発揮した。個人の所持品は湿気を与えられて、コンベア・ベルトの端に置かれ、数分後に、完全に衛生・駆除措置を受けて、もう一方の端に登場した。[153]
(略)
焼却棟WとXに関しては、問題の部屋は殺菌駆除室として考えられていたが、この目的のために完成せず、ましては使われもしなかったと考えなくてはならない。
いずれにしても、HCNの使用には不可欠である換気システムが設置されたという証拠はまったく存在しない。[289] その理由は、1943年初頭から、ドイツ当局はこれらの焼却棟のすぐ近くに大きな温風殺菌駆除施設を持つ大規模な衛生施設群(いわゆる[中央サウナ])の完成にあたっており、また、ベルリンが約束していた高周波殺菌駆除施設を早期に使うことができると予想していたためであろう(5.2.3.6章を参照)。

[153]この点については、 H.-J. Nowak, op. cit. (note 97); H. Lamker, "Die Kurzwellen-Entlausungsanlagen in Auschwitz, Teil 2", VffG 2(4) (1998), pp. 261-272 (online: .../1998/4/Lamker4.html)も参照。Mark Weberによる英語の要約は "High Frequency Delousing Facilities at Auschwitz", JHR, 18(3) (1999), p. 4. (www.ihr.org/JHR/v18/v18n3p-4_Weber.html)。
[289]この点について、プレサックは、換気設備が設置されたのはやっと1944年5月末であったと主張してるが、これの点についての彼の指摘には根拠がない。Germar Rudolf, "Some Technical and Chemical Considerations about the 'Gas Chambers' of Auschwitz and Birkenau", in: Ernst Gauss (ed.), op. cit. (note 22), pp. 347f. (online: www.vho.org/GB/Books/dth/fndgcger.html)も参照。

 

 参考資料: ホロコースト講義 著:ゲルマル・ルドルフ
(アドレス:http://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/lectures/346.htm)
 ドイツがアウシュヴィッツの衛生状態を改善しようとしていたことは、1943/44年の驚くべき決定からもわかります。戦時中、ドイツは、食物の殺菌ではなく、衣服の害虫駆除・殺菌のために、高周波炉を開発していました。最初の高周波炉装置は、東部戦線で、兵士たちの衣服の害虫駆除・殺菌のために使用される予定でした。しかし、ドイツ政府は、この新しい装置を東部戦線で使うのではなく、その多くがユダヤ人であった囚人の命を守るためにアウシュヴィッツで使うことを決定しました[8]。伝染病によって危険にさらされている命を守るにあたって、ドイツ側はアウシュヴィッツの囚人に優先権を与えたのです。アウシュヴィッツの囚人たちはシュレジエンの軍需産業で働いていたので、戦争を遂行するにあたっては、戦場の兵士の命と同じように、重要であるとみなされていたのです。

 「なんで絶滅刑務所に殺菌装置なんてものが配備されたんですか?」

 「絶滅刑務所じゃないからだろ」

 「実にシンプルな答えね」

 「マイクロ波殺菌装置のように、当時の最先端の科学装置が配備されることからも、WWU中に流行っていたチフスは深刻な伝染病だった。

昔から東欧やロシアはチフスが流行したことが何度もあって、1918〜1921年のロシアでは、人口の20〜23%にあたる2500万〜3000万人がチフスに感染したそうだしな。

そしてWWU当時の欧州でもチフスが大流行した。

はっきり言えば、わざわざガス室なんて作らなくても、収容所にチフスが流行すればそれだけで全滅の危険がある状況だったんだよ。

本気で絶滅させるなら、収容所に入れた後、殺虫・殺菌なんてせずに放っておくのが一番だ。

何せ安上がりだからな。

調べれば調べるほど、ガス室の存在意義がわからなくなるぜ」

 「そ、その場にいなかったくせになぜ「ガス殺が無かった」と言えるんだ!」

 「ええと、歴史学を否定するのでしょうか?」

 「ぐはっ!」

 「それにその理屈だと、その場にいなかったのになぜ「ガス殺があった」と言えるのか?って言い返すこともできるわよね」

 「うぐぐっ!」

 「そろそろ降伏した方がいいんじゃねぇか?」

 「ふっ 何を世迷いごとを。

この程度でガス室が論破されたと思ってもらっては困る」

 「まだガス室が論破されてないと思っているあたり凄いな」

 「とりあえず現存するガス室の構造についての話はこの辺にしておきましょう。

ブンカーについてはあったかどうかすらはっきりしないので、今回は見送ることにします」

 「はっきりしない時点で「無かった」と見るべきじゃないの?」

 「悪魔の証明ですね」

 「悪魔の証明?」

 「立証不可能なものは存在しないという考えのことよ。

悪魔がいるってのは立証できないでしょ? そういうことね」

 「その通り。

殺人用ガス室のブンカーの存在を示す正式な書類は一枚も存在しない。

あるのは戦後の証言と、連合国が追筆した可能性が高いクレーマー日記のみだ。

跡地さえもわからない以上、ブンカーなど無かったと考えるべきだな」

 「ふっ 古い情報をいつまでも引用するのは感心しないな。。

ブンカーTの跡地が見つかったことがつい最近2001年11月20日公表された。

過去の情報は必要に応じて修正する必要がある」

 「あら。ブンカーTの跡地が見つかったんだ」

 「そうだ。

ビルケナウ収容所にあったガス室、「白い家」とされるブンカーTは1942年3月20日に稼動し、1943年に破壊されたと言われている。

同じく「赤い家」とされるブンカーUは1942年6月30日に稼動し、1944年に破壊されたと言われている。

2001年後半に公表されたのはブンカーTの方だ。

まったく殺人用ガス室であるブンカーがどこにあるかわからないだと?

嘘を言うな」

 「で、そのブンカーが大量殺人用ガス室として使用されたという証拠はあるのか?」

 「・・・」

 「あれ? それじゃあ、ここはガス室のブンカーTですと言っているだけってこと?」

 「そーいうことだ。

連合軍が押収したドイツの資料にも、アウシュヴィッツの地下抵抗運動の報告書にも該当する資料はまったく存在しない。

ドイツはポーランドの農家を改造し、そのうち1つは臨時の消毒用ガス室として利用していた。

それだけのことだ。

他にも1980年代には「ブンカーU」の跡地とされているものがすでに発見されているが、それがガス室だった証拠は一切ない。

大量殺人用ガス室「ブンカー」なるものは存在を裏付ける証拠は何もないのが現状だ」

 

 参考資料:カルロ・マットーニョのWebサイト「Exposing the Fraud of the so-called Discovery ofAuschwitz Gas Chamber "Bunker 1"Old and New Impostures A speech by Russ Granata Third International Conference on Authentic History and The First Amendment Washington D.C., 14-16 June 2002」
(アドレス:ttp://www.vho.org/VffG/2002/2/Mattogno139-145.html)
 Ladies and gentlemen, according to Kalendarium der Ereignisse im Konzentrationslager Auschwitz-Birkenau, before the four crematoria at Birkenau had been built, two pre-existing Polish farmhouses were transformed into homicidal "gas chambers" by the camp administration. The "Little Red House" or "Bunker 1" is said to have gone into operation on 20 March 1942; the "Little White House" or "Bunker 2" on 30 June 1942.
Furthermore, the story goes that "Bunker 1" was demolished in 1943 and all traces of it have disappeared. It is also said that "Bunker 2" was destroyed at the end of 1944, but that the foundations of a house attributed with this name and function are still in existence today forming part of a tour for visitors to the Birkenau camp.

On 20 November 2001 the Corriere della Sera published an article by Gian Guido Vecchi entitled "Shoah. L'inferno comincio in una casa rossa" ("Shoah: Hell began in a red house.")

ビルケナウ収容所のブンカーTの跡地の位置
参考資料:カルロ・マットニーニョのWebサイト「Die "Entdeckung" des "Bunkers 1" von Birkenau:
alte und neue Betrugereien」より
(アドレス:http://www.russgranata.com/Discovery.html)

 参考資料 フリツォフ・メイヤーの新説批判
――「ブンカー」主犯説とガス処刑犠牲者356000名説をめぐって―― 著カルロ・マットーニョ
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/mattogno_09.htm)
プレサックとその他の絶滅論者は、それらは殺人ガス室でもあったと憶測している。にもかかわらず、メイヤーは従来のガス処刑説に疑いを抱いたのである。このために、メイヤーは大量殺戮の現場を「ブンカー」に移したのである。ただし、「ブンカー」が、普通の小屋以外の目的でアウシュヴィッツ中央建設局によって使われたとする資料は一つも存在しない。ましてや、そこで大量殺戮が行われたとする資料も存在しない。

 参考資料:ルドルフ・レポート アウシュヴィッツの「ガス室」の化学的・技術的側面についての専門家報告
Germar Rudolf, The Rudolf Report. Expert Report on Chemical and Technical Aspects of the "gas Chambers" of Auschwit, Theses & Dissertations Press, Capshaw, AL, 2003
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/rudolf_report/05auschwitz.htm)
5.4.3. 農家1と2
目撃証言によると、二つの農家(ブンカー1と2と呼ばれることもある)が
ビルケナウ収容所の北西西にあり、それらは殺人「ガス室」に改造されたということになっている。しかし、その場所とデザインの詳細は不明である 。プレサックは、この点に関して目撃証言を矛盾したものとしている。[294] たとえば、ペリー・ブロードの証言について、彼は、「…利用できないものである。…それは、ポーランド人によって、ポーランド人のためにリライトされているからである」とか「これらの話を総合することは不可能である」と述べている。これらの建物の特徴と場所についてのヘスの話も表面的にすぎない。[295] フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判判決によると[296]、これらの施設で行われたとされるガス処刑は、焼却棟Wと焼却棟Xでのガス処刑と酷似していたという。この手順は、Richard Bockの証言[297]によって、そして、ある程度、Milton Buki[298]、ルドルフ・ヘス、Szlama Dragon、Maurice Benroubi、Moshe Maurice Garbarz、Johann Paul Kremer(フランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判)、Andre Lettich[299]によって明らかにされている。プレサックは、農家2の土台壁の残骸といわれるものの写真を公表している。[300] 連合国の航空写真を分析すると、農家2があったとされている場所の近くに一時的な建物があるだけであり、農家1の痕跡はまったくない。[252]、[301] この写真が撮影されたときには、ハンガリー系ユダヤ人の絶滅が進行しており、数千の犠牲者が毎日殺害され、この地区の大きな戸外壕で大量の焼却の煙が出ていたという。[302] しかし、大きな焼却壕の痕跡も、おびただしい煙を吐き出す炎も、あるいは燃料の山もない。1944/45年の冬に撮影された一つの写真だけに、焼却棟Vの西に数少ない大量埋葬地が写っている。おそらく、それは、ドイツ人が撤退を始めて、1944年秋に、施設を閉鎖・解体したのちの、収容所での混乱した状況での犠牲者のためのものであったろう。[303]細菌発見された資料は、これらの農家のうち一つはたしかに実在し、殺菌駆除に使われていたことを証明している。SSは、危険がともなう場合には、チクロンBを使った個人所持品の殺菌駆除を収容所内で行なうことを禁止されていた。収容所の外にある農家を改造して、臨時のHCN殺菌駆除施設として利用することは、収容所自体には危険ではないために、施設のおかれていた困難な状況から生じたことであろう。建物区画BVの外にある「既存の建物」に入浴施設とサウナが設置されることになるということに触れている資料が2、3存在する。[304]2001年後半、いくつかのヨーロッパの新聞が、イタリアの研究者がビルケナウの「ブンカー1」を発見したと報道した。[305] しかし、マットーニョが明らかにしたように、これは詐欺に他ならない。古いブンカーとされた農家は、ブンカー1があったとされている場所とはまったく別の場所にあり、たんに農家にすぎなかった。[306]
[294]
Ibid., pp. 161ff.
[295]
R. Hos, in: M. Broszat (ed.), Kommandant in Auschwitz, Deutsche Verlags-Anstalt, Stuttgart 1958.
[296]
Judgment of the so-called Frankfurt Auschwitz Trial, ref. 50/4 Ks 2/63, p. 99; see note 83.
[297]
いわゆるフランクフルトでのアウシュヴィッツ裁判での予備審問における証人R. Bockへの尋問。Staatsanwaltschaft beim LG Frankfurt (Main), Strafsache beim Schwurgericht Frankfurt (Main) gegen Baer und Andere wegen Mordes, ref. 4 Js 444/59, sheets 6878ff. Quoted: sheet 6881f.
[298]
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 163.
[299]
J. Graf, Auschwitz. Tatergestandnisse und Augenzeugen, op. cit. (note 43)も参照。
[300]
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 176.
[301]
Pfeiffer, Hansa Luftbild GmbH, aerial photographic analysis of Allied photograph dated Aug. 25, 1944 (note 248), letter dated July 17, 1991; J. Konieczny, The Soviets, But Not the Western Allies, Should Have Bombed the Auschwitz Camp, Polish Historical Society, unpublished paper.
[302]
J.-C. Pressac, op. cit. (note 67), p. 253.
[303]
J.C. Ball, in E. Gauss, op. cit. (note 252), p. 283を参照。
[304]
TCIDK 502-1-24-77, Nov. 30, 1942; 502-1-24-33, Dec. 3, 1942; 502-1-332-46a, Jan. 9, 1943; 502-1-26-66, April 9, 1943; 502-1-238-10, Sept. 30, 1943.
[305]
Le Monde, Nov. 20, 2001; Bild, Nov. 20, 2001; Corriere della Sera, Nov. 21, 2001, p. 35.
[306]
C. Mattogno, "Die 'Entdeckung' des 'Bunkers 1' von Birkenau: alte und neue Betrugereien", VffG 6(2) (2002), pp. 139-145 (online: www.vho.org/VffG/2002/2/Mattogno139-145.html); Engl. see the presentation of Russ Granata, "The 'Discovery' of 'Bunker 1' of Birkenau", www.vho.org/~granata/Discovery.html

※”細菌”は”最近”の誤植だと思われる。改竄は禁止されているため原文のまま引用することにした。

 

 参考資料:航空写真と矛盾している12の「目撃証言」著ジョン・ボール(カナダ人の航空写真の専門家)
John Ball, 12 'Eye-Witness' Stories Contradicted by Air Photos
(アドレス:ttp://www002.upp.so-net.ne.jp/revisionist/air_photo_evidence/ball_02.htm)
注b)「白い小屋、1942年のガス室」
いわゆる「白い小屋、1942年のガス室」の土台。この建物が何に使われたのかは不明である。1941年−1942年には、牛や羊といった家畜の皮をなめす小屋であったという証拠がある(1987年撮影)。

※ ビルケナウ収容所の外部には「ブンカーU」、もしくは「白い小屋」の跡地が確かに存在し、その写真は上記のサイトで見ることができる。しかしそれがガス室だったという証拠はまったくない

 

 「ようするにブンカーは検証する必要がないのではなく、資料がないため検証することができないと言った方が正しい。

この状況でどうやって検証しろと言うのだ?」

 「ぐ…!」

 「アウシュヴィッツ収容所のガス室の構造についてはこれくらいでいいだろう。

深くやってもいいが、それならば歴史修正主義者の論文を読んだほうがはやい。

このコンテンツはあくまで初心者向けの入門レベルだからな」

 「ふむ。ではいよいよロイヒターレポートへいきましょうか。

…と思ったのですが、アウシュヴィッツのガス室の構造的な欠陥の指摘が終った以上、残るは青酸ガスの化学的分析のみ。

このペースで行くとネタが尽きるのは時間の問題です。

これは深刻な問題です。

そこでアウシュヴィッツのガス殺についての証言の検証をしたいと思います」

 「意味あるのそれ? 

死体もない、命令書もない、ガス室も偽物。

物証がなければ証言が1万個あろうと、1億個あろうと証拠不十分なんじゃない?」

 「ネタになればそれでいいのですよ」

 「いいのかよ」

 「いいのです。というわけで次回からは証人の入場ですな」


次回へ続く

 

ロイヒター・レポート&ルドルフ・レポートによる化学分析はこちら