真理とは・・・知りたい?
真理(本当の事、真実)とは?
本当の事(真理)が知りたい。たぶん多くの人も願っている事だと思います。只、平たく言えば演歌ではないにしても「嘘をつき続けてほしかった」、「だまし続けてほしかった」そして「知らなければよかった」はある意味で正しいと思える時もあります。年を重ねてきますと真理が持つ残酷さゆえに目を閉じたくなる事も少なからずありますから。「ひとの心」の複雑さ、真理の一面を物語っている事だと思っています。
シンプソンと言う人は次の様な言葉で、その事を言い当てています。「真実は薬のようなものである。つまり、真実には薬理作用がある。真実の投与量が不十分であると十分な効果が得られず、治療者への信頼を損ねる。逆に投与量が多すぎると異常反応や副作用が出現する。」(恒藤暁訳/Simpson M.A. Therapeutic use of truth. In:Wilkes E.(ed.)The Dying Patient. Ridgewood,N.J.:Bogden and Sons,1982)と言うものです。
真理をやや硬い言い方で表現するとすれば、次のようにも言えると思います。
「真理とは時間や空間を始めとして存在を成り立たせている各要素をこえ、その全てをつらぬいている普遍的な道理、在り様の事と定義することができます。各存在要素の在り様により変化する動的真理とは異なり絶対真理と言うことができます。具体的には事実や経験と表現や表出(言語表現、造型表現、身体表現、聴覚表現、臭覚表現、味覚表現、触覚表現、そしてこれらの総合表現を含む)と内的存在精神(理性や感性及び霊性)が一致する事」と考えます。しかし、さてその様なものは本当に存在するのでしょうか。もう一つの視点を忘れてはなるまいと思うのです。
「真理」を一応上の様に文切ってしまいました。…しかし“なだいなださん”日はく
「…だが、統一された基準は、絶対的な基準じゃない。真理は、話し合われてきまるようなものじゃないからね。…真理であれば誰もが認める。しかし、意見が一致すれば真理だとはいえない。多数決で真理をきめることはできませんよ。…話し合いや、意見を統一することでおこなわれるのは、基準の見せかけの絶対化なのさ。」(くるい きちがい考、頁20〜21、なだいなだ著、KK.筑摩書房刊、2000年)と言うのです。
真理について話し合ったり、文章などに解答を求めようとしますと時折真理の前に「何か」が付くときがあります。「自然科学的真理」とか「社会(科学)的真理」とか、「宗教的真理」とか言われますが、絶対的真理と比較しましてもここに一つの問題がありそうに思えます。それは、「真理は一つだ」と思う人(々)と「真理は複数でもいいのだ」と思う人(々)、そして更には(これはこの私、個人の意見ですが)「真理は一つの場合もあれば、複数の場合もありうる」それは事前に規定するのではなく、時とその内容により変わりうる場合が「ありうる」と言う事ではどうでしょう。「万物は流転する」それでは真理も流転するのか?えっ!真理は物なのですか?流転しないものを真理と言うのではなかったのでしょうか?「普遍的事実を真理」とすれば真理は流転しない。そう言うものが実際存在するのでしょうか?私の頭の中だけに、貴方の頭の中だけに存在するだけでなく、私と貴方の間(外)にも存在するのでしょうか?
では真理とは何か?知りたい、知りたい私の内なる旅が始まります。
この自分はいやがおうにも自身を歴史的存在だと感じてしまいます、貴方はいかがですか。この私は「ポン」と無から生じ「ポン?」と無に消失してしまう存在でなく、多くの生命の流れの中で私が好むと好まずとにかかわりなく生じた存在だと思い、思わされているからです。その流れの中で過去(私の見る事のできない、見たことのない)の時代の出来事を残された「客観的」資料の中から(何が)真実であるかを知りたいと思う。ある資料の「事実」が「真実」だけではなさそうです。ある事実は「一つの真実」ではあるが「真実」ではないのではなかろうと思う時があります。と言いますのは、ああ!やはり言葉は不自由だ。魂が(又は肉体も含め)生きるか死ぬかと言う大切な時や事には、言葉では一言も言えないものだと思うからです(今はそんな時ではありませんが…)。歴史の中に残された事実「言葉、映像、物」など、それそのものが真実でなく、その向う側に何か本当の真実がありそうに思えるのです。
話しを少し展開してみます。塩野七生さん(ローマ人の物語XU/迷走する帝国;頁120、新潮社刊、2003年)は次のように述べています。
「同時代に生きしかも現場証人でもあった人の証言ならば何でも信用できるかというと、必ずしもそうとは言えないのだ。事件現場に送られた特派員記者の報告を思い起こすまでもなく、自分が実際に見たこと聴いたことだけが真実であると思いこむ性向は、人間には多少とも常にある。」
これが歴史の中の真実にせまろうとする彼女の「一つの」視点なのでしょう。真理を視るには真実を視る眼が必要なのだが…さて、あえて言ってしまうのであればその眼は所謂「神の眼」と言われるものでしかないのではないでしょうか。どうだろう。しかし、事実、事実をいくら、なんぼ積み上げしても真実に至ってしまうことはないと思う。
人が物や事を見る場合の視点、「公正」で「中立」そして「客観性」を保っているなどありはしないのではないだろうか。100人の人間がいれば100の現実があり、唯一絶対の真実を知っている者がいるとすれば、それは信じているのであり事実とは異なるのではなかろうか。「101番目の真実」があるのかないのかは信仰の有無の問題であるようにも思うのです。現代ではCNNやBBCもましてNHKも一神教視になる資格は十分です。そこで私の現実と貴方の現実はまだまだ異なると言う視点・現実から出発し始める事の方がまだ話ははじめられると思います。でないと、「話せばわかる、…問答無用」の繰り返しになってしまうのではないでしょうか。
ウイリアム・シェークスピアは言う「人間は、それぞれ自分流に物事を解釈するもの、物事自体の意味とはまるでかけ離れてな。」(ジュリアス・シーザー;1幕3場34−35行)と。物事を知ると言う事に関し「現実」や「事実」の客観性と言う問題を考えてみた場合、“私が見た(聞いた)現実や事実”が“貴方が見た(聞いた)現実や事実”と同じか?又、彼との場合はどうか?そうした場合、いかに現実や事実に対する客観性があやふやなものかが理解できると思います。
映画「羅生門」(黒沢明監督)の中の話、同じ事件であるにもかかわらず発言人物によりその視点が異なること、そして、同様なテーマがすでに芥川龍之介の「藪の中」にもみられます。たとえ「写真」や「ビデオ」であっても、それらは連続する一場面の一時を「恣意的」に切り取ったに過ぎない、それも多分ある一方向からのみでしょう。只、現実や事実への客観性を持たせようと努力していることはわかります。しかしそれに過ぎない(だから私は無意味だと言っているのではありません)。そこで事実・真実に近づこうとする事が生きることだと淡々と理解すればいいのだとはわかっています(全く反対の行為を同じ人間がやることもあるのだから)。
私は「正しい答」がほしくて右往左往する。科学的な方法でそれが手に入れられるのではないか、又信仰でそれが得られるのではないかと。しかし、よく考えてみると「正解」や「真実」は唯一絶対的存在が「前提にあって」存在するものであり、一つの「一神教の信者」にならなくては手に入らないものではないかなと気付きます。一神教の信者は自分とは異なる他の人が信じる事を捨てさせ、排除しないと成り立たないのではないでしょうか。しかし、奇妙なものです。実際「私はキリスト教徒です」と言う多くのクリスチャンの人々に各々「あなたの神はどんな神ですか?」と言う質問をしてみればよくわかります。不思議なことに各人それぞれ「キリスト」像が異なっていたり神概念が異なっていたりするのです。一度、自分はキリスト教徒と言う人々にそれらを聞いてみて下さい。キリスト教の歴史、そして現存する教派への分裂はその事を十分教えてくれます。
話を更に続けてみます。何が真実で何が嘘か。ある人間が「私は嘘つきです」と言った、この人は正直者か?それとも嘘つきか?
○この人間を嘘つきだと仮定した場合/この人間が嘘つきなのだから、この人が言っている事も嘘と言うことになり「私は嘘つきです」は嘘となり「この人は正直」と言うことになります。
○この人を正直者と仮定した場合/正直者なのだから「私は嘘つきです」は正しく、この人は嘘つきと言うことになります。
以上、ある人間が正直か嘘つきかは判断しかねることになります。意味を持った言葉を自分について言う場合、仮定と結論が逆になり判断しかねることがあります。それではどうすればよいのでしょうか?それではある言った言葉が真実か虚偽かを判断しようとする場合
@ その言った事を真実と仮定しても偽と仮定しても、必ず同じ結論が得られる場合。
→言っている事は正しい、すなわち真実です。
A その言った事を真と仮定すれば偽、偽と仮定すれば真となり、必ず逆の結論が導かれる場合→言っている事はパラドックスとなり真とも偽とも判断できません。
B その言った事が真と仮定すれば真。偽と仮定すれば偽となり、仮定どうりの結論しかえられない場合→意味のない言葉です。(物理学と神、頁93、池内了著、集英社刊、2002年)
さて「古代クレタの哲学者の言葉に『全てのクレタ人は嘘つきである』というのがあります。もし仮に、これが本当だとすればクレタ人は必ずしも常に嘘を言うわけではない。」はジョージ・ソロス(青柳孝直訳)の言葉です。
話を変な横道にそらしてみます。その人が「善人」であるからと言っても、その人の思想や行いが全て真理ではないでしょう。反対にその人が「悪人」だからと言って、その人の思想や行い全てが真理でないと言う事はできないと思います。一番危険と思われるのは善人と思われている(又はぶっている人)です。それはその人の物の考え方や行いについて誰からも疑われる事がほとんどなく、その虚偽的部分から事前に逃れられているからだと思うのです。
さて、聖書の中の真理についても考えてみます。
ヨハネによる福音書(18:38)…ピラトは言った。「真理とは何か。」…とイエスに問うています。福音書の中でイエスはこの問に答えていません。しかし、その前節の(18:37)で…「わたしが王だとは、…。真理に属する人は皆わたしの声を聞く。」とイエスは答えています。それらより推測してみれば、イエスの声を聞く人が真人で、真人が真理を聞きかつ分かっている人であると言うことになります。さらに進めれば「イエスが言う事、言った事が真理である」と言う解釈が成り立つようにも思えてきます。
無教会の内村(鑑三)の真理に対する視点はどうでしょう…。
異端、異端と言う。しかし、実は世に異端ほど貴いものはないのである。世に異端があればこそ進歩があるのである。預言者は異端であった。イエスも異端であった。パウロも異端であった。ルーテルも異端であった。ウェスレーも異端であった…。異端は不道徳ではない。不道徳は正教の中にもある。しかり、余輩の見るところをもってすれば不道徳は異端の中においてよりも正教の中においてより多く行なわれる。異端は独創の思想である。真理を探究するに当たって人のオソリティー(権威)に頼らない事である。異端は真理の直参である。その陪審ではない。人には構わず一直線に真理と真理の神とに向って進むことである(明治41年)。余輩は必ずしもキリスト教を説かず、余輩が真理と信ずることを説く。余輩は聖書が示すゆえに真理なりを言わず、真理なるが故に真理なりと言う。余輩は聖書を研究す、聖書に盲従せず。余輩は神の愛を信ず、ゆえに僭越を恐れずに余輩の確信を語る。…との視点を示していられます。うーうーむ…やはり、すごい。もう、よく言ってくれてます。
また横道。政治的リーダーや宗教的リーダーは「民衆」に(集団)幻想をあたえ「つづける」のが仕事と言われますが、それは「真理と言う幻想」を言っているのではないでしょうか。
余談。「神は細部に宿りたもう」と言うことわざがありますが…、小さな具体的な「行い」に神は宿るのであり「○○○の社会を考えるシンポジウム」などに宿るものではなかろう。ましてや、某宗教集団の「○○を考える集い」などには…。
別の視点。ホッブスは「リヴァイアサン」の中で「真実と虚偽は、ことばの属性であって、ものごとの属性ではない。そして、ことばがないところには、真実も虚偽もない。」と言っています。ああ、しかし…真理や真実(と言う言葉)をもてあそぶのはもうやめにしたい。…とは言うもののね…。
投機家のジョージ・ソロスの言葉にも耳を傾けてみます。「抽象的な論議の中で身動きがとれなくなるよりも、むしろ実験もしくは経験による発見を通して議論していこうと思う。」(青柳孝直訳)
さらに、「『万有引力の法則』はリンゴを地面に落とさせるのではなく、リンゴを落とさせる力を説明しているに過ぎないのである。しかし抽象観念を振り回す者にとっては、抽象観念が現実の大部分を占めることになる。」もジョージ・ソロス(青柳孝直訳)の言葉ですがこの抽象観念のさいたるものが「神」であるとも思うのです。
「普遍的な理念というものは大概は評判が悪い。人々は自分が生きることに精一杯である。集団的な生存に対する真の脅威、あるいは仮想の脅威がなければ、人々が共通の命題に目覚めることは有り得ない。」とさらにジョージ・ソロス(青柳孝直訳)の言葉でありますが“世の終りが近づいている”という脅威(不安)を適度にあおるのでなければいつの世も人は目覚めはしないでしょう。ローマ時代であれば「パンとサーカス(剣闘)」や今では「失業保険とテレビのバカ番やファミコン・ゲーム」さえあれば、外で何がおころうが明日何がおころうが、「今の」、「私が」さえ良ければそれでよいのではないでしょうかなあ。しかし、そこを何とかこえたいと思うのだが…。
そんなに、どうして貴方は真理などと言うわけのわからないものを求めるのですか?「一般的に人間は、物質的な幸福を最大限に求めると考えられている。確かにその考え方には間違いはないが、それだけでは十分ではない。人間には物質的な幸福以上のものを求める願望がある。こうした願望は、物質的な欲求が満たされたとき初めて表面化するが、時として偏狭なる利己心を超越することも多い/ジョージ・ソロス(青柳孝直訳)。」
ほっと、ひと休み…して下さい。相田みつをさんは簡単で明瞭…「真理/生まれて老いて病んで死ぬ。だれにも避けられない永遠の真理、真理の中に生かされているわたしのいのち」
ブレヒトは言う。「まず食うこと、それから道徳。」(三文オペラより)そして真理もね。…ああ、やっぱり真実よりもまず自分で食うことか…ただどの様に食うかが問題なのだがなあ。パンだけでも生きて行けないし、霊だけでも生きて行けまいし。真理だけでも生きて行けまい…。
道元が言いますには「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己を忘るるなり/正法眼蔵」とあります。真理と言うものを探究しようとするならば自分自身を求め極めてみることなのかなあ。自分を探求することはこれすなわち自分自身を忘れてしまうことなのだととらえることができます。…要は「無我夢中」になればそれでいいんだよと言ってくれていると勝手に解釈してしまいます。最後に私の大好きな、マルクス・アウレウスさんに一言お願いします。
「君がなにか外的の理由で苦しむとすれば、
君を悩ますのはそのこと自体ではなくて、
それに関する君の判断なのだ。
ところがその判断は君の考え一つで
たちまち抹殺してしまうことができる。」
(ローマ皇帝マルクス・アウレウス「自省録」第8章47/神谷美恵子訳、岩波書店)
ああ…真理、真実に関してもそうだろうな。そしてやはり真理・真実は言葉を超越しているんだ…。答えは言葉の中にはない…そのとおり!
そして、人は自分が見ようとするものしか見えず、自分が知っているものしか認識できない。
○「勇気を持たなければ真実は見えない」チャールズ・ダーウィン
○「人は真実を信じるのではなく、そうなりたいと思うことを信じる」フランシス・ベーコン
○時にはうそでしか表現できない真実もある。