学会員が運営する「富士宮ボーイ」掲示板に以下のようなことが書かれていた。先の「日中国交正常化」関連記事に対する反応だ。
他板での独り言モードなので直接的反論ではないけれど、どこで語られようとも、「お客様」の意見は大切。ブログ主として真摯に傾聴し、相応の応対をさせていただこうと思う。
富士宮ボーイNo.31469記事 (by 安部日ケ~ン氏)
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(URL省略:「正義顕揚七百五十年」板の魚拓へのリンク)
フェイクが「願望的推測」(造語)だと批判しまくっていた蛍ッくの「願望的推測」記事を
売り子が れいな恩人宅に投げ込んだ (笑)
黒川くんすでに中国語訳でギブアップw
結局どこが蛍ッくの言う「ウソ」の根拠なのかお手上げの模様。
(URL省略:弊ブログ「『日中国交正常化は先生のおかげ』のウソ」記事の魚拓へのリンク)
※前述した通り1965年まで中国を「中共」呼ばわりしていた池田氏が、その前年の公明党誕生時にこのような殊勝な提案をしていたとは考えにくい。
当時の中国が「反体制」の人間を主席に会わせるような事が出来たか
よく考えて欲しいなぁ。
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※印は蛍文からの引用のマーク。安部日氏特有のスタイルだ。
まず前段:
>>結局どこが蛍ッくの言う「ウソ」の根拠なのかお手上げの模様。
この一行の意味がよくつかめないが、タイトルにある「ウソ」を論証しきれていないという意味かな?
拙稿はまだ(1)しかUPしていない段階なので、タイトルと中身の不整合の指摘や最終評価は全部を見てからにしていただきたい。
もっとも(1)だけでも、「日中国交正常化は池田先生のおかげ」という独り善がりが史実を反映していないことを、資料をもとにそれなりに論証したつもりだが、もし不足があれば、今後の投稿で補っていきたい。
続いて後段:
>>当時の中国が「反体制」の人間を主席に会わせるような事が出来たかよく考えて欲しいなぁ。
池田氏は毛主席には会っていないので、周総理のことを言ってるのだろう。当時の時系列をよく見れば、上のような指摘が無意味であることが分かると思う。
結論から言えば、中国側からのアプローチや指導が功を奏し、池田氏や公明党の対中意識に変化が生じたのを確認できたため、会わせてもらえた、ということではないか。
当時の時系列を(1)で書いたことをもとに整理するとこうなる。
●をつけた赤字項目は、「(1962年以前から)折に触れて、国連は中華人民共和国を認めるべきであることなどを訴えてきた」とする新人革記述と矛盾する事実--すなわち中国に対し必ずしも友好的でなかったことを示す事実。
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1961 ●池田、スピーチで中国を「中共」と呼ぶ。(1961/4/22中国総支部幹部会)
この年、公明政治連盟結成
1962 ●池田、スピーチで中国を「中共」と呼ぶ。(1962/6/2 中国総支部地区部長会)
このころ、高碕達之助が周恩来に創価学会のことを伝える。
周恩来、創価学会研究を指示
1963 池田、高碕達之助と会見
1964 公明党創設。公明党に「中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。」と指示したとされる(新・人間革命13巻「金の橋」)
1965 ●池田、スピーチで中国を「中共」と呼ぶ。(1965/5/28 倉敷会館入仏式)
1966 中国サイドと初接触
有吉佐和子が周恩来の伝言を池田氏に伝え、その後、学会幹部が孫平化らと会談
●会談前、学会青年部幹部が次のように中国に対する警戒感を表明
「はい。日中友好は大事だと思いますし、先方も、そのために会いたいと言っているようですが、●どうしても警戒心を拭いきれません。共産主義国では、宗教を否定的に見ているにもかかわらず、なぜ、学会と交流を希望するのか疑問です。何か、別の意図があるように思えます」
1968 学生部総会で日中国交正常化に言及
1969 公明党、日台条約破棄を主張(それまでの「二つの中国」路線をようやく放棄)
1971 中国、公明党訪中を受け入れる
このころの周恩来発言「学会が日和見を起こさぬよう、頻繁に接触・指導しなさい」(取意:詳細は弊ブログ「周恩来の学会評を参照のこと)
1972 竹入・周会談
1974 池田・周会見
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「折に触れて、国連は中華人民共和国を認めるべきであることなどを訴えてきた」という池田記述が本当であれば、その考え方は学会幹部にも浸透していたはずで、1966年の中国側から会談申し入れは、もろ手を挙げて歓迎すべき平和友好対話の好機と捉えるのが普通であろう。
ところが、青年部幹部は会談前に、積極的友好姿勢とは程遠い疑心悪鬼な警戒発言をしているのだ。当時の青年部の対中意識はこの程度だったのだろう。となると、上の池田指導が本当にあったのかどうか非常に疑わしくなってくる。
いずれにしても上の時系列から、池田・公明・創価の対中意識が1966年の中国サイドとの初接触を機に180度変化したことが見て取れる。
そしてその後1968年の池田“提言”および1969年の公明の日台条約破棄の主張を見て、学会・公明が明確に親中国になったことを中国側が確認し、それでようやく公明党の訪中が叶い、池田側から要望されていた(矢野元書記長談)池田-周会談が叶った、ということであろう。
公明党初訪中後、周総理が部下に発した指示から、総理がまだ学会・公明を100%信頼しきれていなかったことが伺える。
その信頼を100%にさせたのが、竹入氏であると私は考えている。
シリーズの次稿でその辺りを検証するつもりだ。