実際に、映画化権獲得のコンペティションが行われたのは2003年~2004年にかけて。最終的には日本テレビ1社と、大手の映画会社・テレビ局・出版社・制作プロダクションなどが手を組んだ強力な連合軍との一騎打ちになったという。
「うちの窓口で戦っていたのは、2人のプロデューサーだったのですが、相手は巨大な連合軍。それだけに、『映画化権が取れました』と聞かされたときは、みんなで万歳三唱しました。フロア全員でね(笑)」
奥田氏曰く「竹槍でB-29を突き落とした」ようなもの。決め手となったのが思いの丈が詰まった企画書だ。
「今でもよく覚えているんですが、『ロード・オブ・ザ・リング』はハリウッドで成功した素晴らしい作品だけど、僕らはこの原作で、『ロード・オブ・ザ・リング』以上のものを作りたいんだという心意気に溢れていた。企画書というよりも、むしろ決意文のようでした」
3年かけて実写映画を強化
ここで簡単に、2002年~2004年の日本の映画界を振り返ってみよう。今でこそ、邦画が洋画よりも支持されているが、当時はまだ洋画が邦画を圧倒。邦画のシェアは洋画の30~40%に過ぎなかった。そんな時期に邦画を引っ張っていたのが、ジブリや『ポケモン』に代表されるアニメ映画と、『踊る大捜査線』シリーズを大ヒットさせるなど、ヒット作を連発してきたフジテレビだった。
「ところが日本テレビの場合は、先ほども触れましたがヒット作はジブリ作品ばかりで、実写映画が弱かったんです。その頃、事業部内にコンテンツ事業推進部という部署があり、3ヵ年計画を中心にすえコンテンツの可能性を模索していました。そこで、映画でも同じことをやろうという話になり、日本テレビオリジナルムービー、通称“NOMO企画”というプロジェクトを立ち上げたんです。ちょうどメジャーリーグで野茂英雄さんが活躍していた時期で。後日、野茂さんの代理人をしていたダン野村さんにお会いしたら、『NOMOって名前を使ってましたね』と言われました(笑)。
ところが、2003年に公開した1本目の映画『巌流島』が失敗に終わってしまい……。結局、NOMO企画の名はこの1作で終了とし(笑)、自社幹事作品として、その次の黒木瞳さんと岡田准一さん主演の『東京タワー』が大成功し、以降、『デスノート』シリーズや、『ALWAYS 三丁目の夕日』といった、ヒット作が続々と生まれるにようなっていきました」