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とりあえず以下の文章を読み、猜疑心や嫉妬心などを抱くことなく、興味をもたれた方はこちらにメールを下さい。





『本気で悟りたい人のために―私の見性体験記―』       那田尚史

     −本書を現在90歳の母に捧げる−


目次

まえがき 
第一章 始めに 
第二章 参禅の動機と修行 
第三章 坐禅会をやめ、座禅から離れる 
第四章 玄侑宗久師とメルトモになる 
    再び座禅を始める・私の座禅法・コツは言葉を捨てること・工夫の末に坐禅の形が定まる
第五章 見性の予兆 
    一家和楽に近づく・気宇壮大になる(年賀状の言葉)・競馬の的中率が上がる・女性に好かれるようになる・前向きな人生観を持つようになる(糖尿病の治療開始)・容姿への劣等感が暴れ始める・法悦感の増大と「微笑禅」の発見
第六章 見性体験 
第七章 見性体験を振り返る 
第八章 悟りを目指す読者へ 
    誰でも悟れるか・心掛けが良ければ悟れるか・悟ると何かいいことがあるのか・どんな人が悟り易いか・我流の座禅で悟れるか・途中で体を動かしてもいいか・坐禅をするのにどんな道具が必要か・どんな本を読むべきか・禅宗と日蓮宗の二股を掛けるのは矛盾ではないか・やはり坐禅は毎日やるべきではないか・歩行禅の秘訣を教えてほしい・悟ったかどうかは明確に自覚できるか・悟ったら鬱病は治るのか・私はあなたのように特別な資質の無い凡人である。凡人でも悟れるか・難しい理屈は分からないが、どうしても悟りたい。そのコツの肝心要の部分だけを、なるべく易しい言葉で教えてほしい・努力してみたがどうしても悟れません
第九章 「無位の真人」と「父母未生以前の本来の面目」 
第十章 神通力 
第十一章 終りに 

巻末エッセー@あなたは超常現象を信じますか 
      A剣道上達のコツ 
      B浪人時代・学生時代 
      C父の面影 
D牧野さんの家のほうへ 




まえがき

禅寺の門を叩いて禅に関わる本を読むようになって以来、私は長い間一つの疑問を持ち続けてきた。「坐禅のコツ」を書いた本は腐るほどあるが、「見性(悟り)のコツ」を書いた本は一冊もないのだ。なぜだろう。

悟った、という事実を示す逸話はいくらでもある。
お釈迦様は夜明けの明星を見て悟り、香(きょう)厳(げん)智(ち)閑(かん)禅師は竹に石が当たる音を聞いて悟り、霊(れい)雲(うん)志(し)勤(ごん)禅師は桃の花が咲いているのを見て悟った。日本人では、道元は坐禅中に隣で居眠りをしていた僧が老師に一喝された瞬間に悟り、一休さんはカラスの鳴き声を聞いて悟った。昭和以後になると、玉城康四郎や山田耕雲が見性体験の短文を書き残している。しかし「いかにして悟ったか」という見性の秘訣を書いた者はただの一人もいない。
12世紀に日本の禅宗の歴史が始まって以来一千年近く、なぜ誰一人も悟りのコツを書かなかったのか、私は不思議で仕方ない。

現代ではさらに不可解な状況が続いている。
見性の秘訣どころか、「私は悟った」と公言する師家(見性を印可され坐禅を指導する資格を持った人)すらいないのだ。もしかするとどこかにいるのかもしれないが、寡聞にして私は知らない。そのせいか「戦後生まれで本当に悟った人はいないのではないか」という風説さえ流れている。
そのうえ、ある本を読んでいたら「本当に悟った人間は悟った話などしないものだ」などと書いている禅者がいた。しかし私はこの意見は詭弁だと思う。
確かに、私も本当は見性の話などしたくない。なぜなら見性体験のない者に見性の話をしても、リンゴを食べたことの無い人間に対して言葉だけでリンゴの味を教えるのと同じ空しさを感じるだけだし、第一「私は悟った」と公言することは、「お前さんたちは凡夫だが俺は如来だ」と言うに等しく、当然相手のプライドを傷つける。どんな愚かな人間でも、否、愚かな人間に限ってプライドと虚栄心にしがみついて生きているのだから、他人が悟った話など聞きたくないのが普通の人間の本音なのだ。また99%の人は私を「狂人」か「ホラ吹き」だと思うだろう。だから見性体験を語っても私自身には一つもいいことがない。
しかし、だからこそ敢えて「私は悟った」と公言し、見性のコツを書き、また指導することこそ菩薩道であり、まさしく大慈大悲というものではないだろうか。私はそう思う。
生まれて初めて坐禅を組んで以来、もしも運良く悟ることが出来たならば、徹底して具体的な見性のコツを書き残したいものだ、と私は強く意識してきたが、幸いにして見性体験を得ることができた。
坐禅の入門書は山ほどある。だから本書は、どのような日常生活の中で、どのように坐禅を工夫し、どのようなコツをつかんで見性に至り、また見性の後でどのような心境の変化が訪れたか、できる限り具体的に書いた。
その意味では本書は「告白小説」に近い。どうか読者は小説でも読むつもりで気軽に本書を開いてほしい。また本気で悟りたいと願う読者は、本書をボロボロになるまで繰り返し読んで欲しい。これは約一千年にわたる日本の禅宗の歴史の中で誰も記し得なかった書である。

なお、本書は私のホームページに掲載していた原題『私の見性(悟り)体験記』が高い反響を呼び、書籍化を要望する声に押され、同じくホームページに掲載している他のエッセーを巻末に添えてこのたび○○社から出版されたものである。出版化の過程で様々な人々の温かい協力を得た。改めて感謝の意を表します。



{はじめに}

本文を書く前に先ず、先祖累代への報恩謝徳、故郷愛媛でブティックを経営し長年私のようなチンピラに仕送りし続け現在要介護で私と暮らしている90歳(2010年現在)の老母、これまでお付き合いして頂いた全ての友人の方々(善人も悪人も)、幼稚園から大学院まで私を導いてくれた全ての教師、私の体と心の健康のために尽力された全ての医師、また坐禅のアドバイスを頂いた僧侶と師家の方々、全ての袖摺りあった有縁の人々に心より感謝申し上げます。

私は平成20年(2008年)1月28日午後2時から始めた坐禅ののち忘我の法悦状態になり、翌日29日の午後7時に元維新政党新風副代表の瀬戸弘幸氏と会談するまでの一日半の間、禅で言う「見性体験」、一般にいう「覚醒体験」、精神医学でいう「変性意識体験」を経験した。
それ以来、現在(2008年8月)までの間に計6度の見性を繰り返してきた。
見性体験というのはなかなかあるものではなく、またあったとしても詳細な記録は(私の知る限りでは玉城康四郎と山田耕雲のもの以外)非常に少ない。両者の手記も、見性体験の記録のみであり、どのような修行によって悟ったか、という悟りの秘訣についての記述は無い。従って、多くの菩提心ある人々の参考ために、この手記を出来る限り具体的に、私の長所も欠点も隠さず曝け出して書きたいと思う。とくに私の場合は禅寺の息子でもなんでもなく、中年になって一つには鬱病治療のために禅を始めたド素人だから、この体験記は多くの人に勇気を与えるものになるだろう。
(前置きはいいから見性体験のみを手っ取り早く知りたいと思う読者は、{見性体験}からお読み下さい。但しそれのみを読んでも得るものは無いでしょうから、結局は最初から読むことになるはずです)
 
なお、私の見性は現在自分で検証してみる限りでは大悟徹底ではない。というのは徹底すると次のような神通力が備わると文献には書いてあるが、私の場合そこまでに至っていないからである。

@天眼通(全てが見える。死後の世界が見える)
A宿命通(前世が見える)
B他心通(人の心が読める。いわゆるテレパシー)
C天耳通(全ての言語が理解できる)
D神堺通(空を飛んだり、姿を消したりすることが出来る)
E漏尽通(輪廻の終わりを確認する)

実際、山本玄峰師は、足音を聞いただけで相手の心が読め、鳥の鳴き声が何を意味しているか分かる、と述べているし、また玄峰師の弟子・井上日召は、鳥とも蟻とも会話できると記している。
面白いことに、オウム真理教のような密教はこの神通力の獲得を修行のゴールとするのだが、禅はこれらを魔境と呼んでそこに執着しない。
ともかく、私はこの神通力は得ていないので、今後さらに見性を繰り返し、その間に徐々にこれらの力を得るものと想像する。ちなみに私は少年から青年時代にかけて、予知夢を含む様々な超常体験をしたので(巻末「あなたは超常現象を信じますか」参照)、神通力がどこまで備わるか、今後の楽しみだ。

さて、この体験記は菩提心ある全ての人の参照になるように、と書いたが、私は普通の人と比べるとちょっと特異な面がある。以下に記すように優れた身体能力と、極度に脆弱な精神と、強い集中力を持っているのだ。その点について以下に明記しておく。

★{身体能力}

私は小学6年のときの身体測定で握力と背筋力は学年一位だった。中学時代は測定なし。高校2年の結果は握力、背筋力、垂直高飛びがそれぞれ学年一位。その他反復横飛びやソフトボール投げなども三位以内だった。後述するが、坐禅において背筋力が強いというのは大変有利なのである。

★{心の病}

私が鬱病と診断されたのは30代の後半だが、思い起こせば小学6年ごろから「意のままに体が動かない」という症状が現れ、高校時代には自宅学習が全く出来なくなった。当初はそういう性格、あるいは鈍重肝臓なのだろう、と思っていたが後で鬱病が原因だと分かった。現在まで投薬治療を続けて16年、その間カウンセリング治療を4年おこなった。
また現在は克服したものの、対人恐怖、狂気恐怖などの神経症歴もある。さらに中学一年のときから不眠症になり、現在でも晩酌のあとに睡眠薬と安定剤を飲まないと熟睡できない。
それに加え、精神病院の筆記テストと問診で、自己同一性拡散という精神障害に認定されたことがある。これは俗に「ピーターパン・シンドローム」とか「モラトリアム人間」とか称される社会的自己同一性を決定できない人々を指す。しかし私の場合は鬱病と言わば合併症の状態にあり、本当の自分が分からないという深刻な、実存に関わる病理だった。心を覗くと、真っ暗な部屋から遠く離れた奥座敷に行灯で照らされた白い部屋がある。差し迫った仕事、例えば原稿などを書くときには、もがき苦しんだあげく奥座敷の行灯の部屋の自分が出てくるが、普段は暗い部屋のほうに自分がいる。その二人の自分の距離が遠すぎて苦しむのである。
つまり自己同一性が曖昧で自意識が分裂していのだ。通常ではただの病気にすぎないこの精神的特質は逆に禅定を強めるのに大変強い武器になった。詳細は後記する。 

★{集中力}

書道は小学4年から始めて3年間で3段になった。剣道も同時期から始めて5年間で5段の師範と真剣勝負して逆小手を取って勝った。それで、剣道も大体ここまで来ればいいだろうと思い、剣道部をやめ、演劇部を作った。子供の頃から何においても熱中する癖があった。
普通の人と違うかもしれない、と思ったのは中学生のときだ。寮で暮らしていたので同室の生徒5人ぐらいが机を並べて夜の勉強をしていたとき、私は世界地図を見ていたのだが、どうやらそのときに寮内放送で私の名前が呼ばれたらしい。私は全く気付かず、教師が呼びに来てやっとその事実を知った。私は同室の連中に「なぜ教えてくれなかったんだ」と詰問したら、「わざと無視していると思った」と答えるので、「集中していたら音が聞こえなくなることなどザラにあるじゃないか」と言うと「天才でもあるまいし、嘘をつくな」と口論になったのである。
大学受験のときは鬱病のせいで、高校時代、浪人時代と全く学習意欲が湧かなかったが、ある友人から侮辱されたことへの怒りがエネルギーになり「3ヶ月だけ受験勉強をしよう」と決意して、受験地獄と言われた時代に競争率45倍の早大第一文学部に受かった。その学習方法も普通の人とはかなり変わっていた(巻末「浪人時代・学生時代」を参照)。
学生時代も新宿歌舞伎町のバッティングセンターにほぼ毎日2年ほど通い、何度も「月間ホームラン王」になって景品の腕時計を100個前後もらった。
車の免許を取ったときも「最初の一年間は毎日100キロ以上運転する」と決意し、台風の日もお構いなくその決意を貫いた。そのために愛媛県西南部(南予地方)のほとんどの道路を覚え、全てのブラインドカーブの角度が頭に入ってしまった。
また、私は釣りを始めるとほぼ毎日、数年間、車を飛ばして波止場に通い、宇和海では名人と呼ばれる腕前になったり、日曜大工に凝り始めると熱狂して、大工には一切頼まず地面をコンクリートで塗り固めることから始めて自宅に書斎を作り、また学習塾を開いたときも、柱を立て、壁を張り、さらに塾生80人分の椅子、机まで全部一人で作り上げた。
私の本職の研究や読書に関しては言うまでもない。論文を書くときなど8時間ぐらいは一瞬に過ぎ、夢の中でも原稿の続きを書いていて、目覚めた後、夢で書いたままに原稿を書き継いだことも一度ならずある。
妻は私を「凝り始めると憑き物が憑いたようになって、それを極めるまでやる」と言う。自分でも自覚しているが、こういう面に関して私は少し狂っているのである。
こういう異常な集中力と凝り性という性格が坐禅に向けられたことで、見性体験に至ったことは間違いないと思う。

また、私の場合、最初の参禅から4年半、途中2年ほど挫折したので実質2年と少しという短さで見性を得たが、その前段階として信仰体験があったことも述べておこう。
私が3歳のときに母が日蓮系の新興宗教に入信し(早い話創価学会だが、当時は日蓮正宗の信徒として遠受戒は受けたが、別に入会届けなどはなかったと記憶している)、私は母の膝に乗せられて一緒に勤行(朝夕の読経と唱題)をつとめ御書(日蓮遺文)講義を聴くという体験から始まって、約11年の間はほぼ欠かさず日々の勤行と教学に励んだ。だから日蓮を通しての大乗仏教の理解は中学時代には完成していた(当時中学生で受けることの出来た教学試験の最高位に合格していた。尚、現在は母とともにその創価学会とは縁を切っている)。
さらにこれは宗教とは言えないが、前述したとおり5年間剣道に集中した。剣道では稽古のたびに「黙想」を行い無念無想になる訓練をすると同時に剣道の上達に従い禅の修業と類似した精神力が備わってくる。
 
私が見性出来たのには以上のような前提があった。事実として記しておく。



{参禅の動機と修行}
 
私が禅に興味を持ったきっかけは右翼思想への傾倒からである。
右翼思想と言っても、私は別に国粋主義者ではない。現在の近隣諸国条項に従った被虐史観や朝日・毎日新聞といった左傾したマスコミ情報に洗脳された人々の中では、事実を主張するだけで「右翼」と見られるだけで、私自身は中道思想のつもりである。
但し私は「要人テロ容認論者」だ。ここでは詳細を述べる暇は無いが、「大化の改新」と「赤穂義士の討ち入り」と「桜田門外の変」の三つの事件を批判する歴史学者は(まともな研究者であれば)国内はおろか世界中にいないだろう。が、これらは全て要人テロなのである。
だから私はまず「血盟団事件」の黒幕・井上日召の幻の自伝『一人一殺』を早稲田大学の図書館で見つけ出し、全文コピーして熟読した。日蓮宗の僧・日召が師事したのが臨済宗の山本玄峰師であり、日召はそのもとで法華禅(題目を唱えながら瞑想する)の方法で見性し、国家改革のために血盟団事件を起こしたのだった。
続けて戦後右翼の巨魁・田中清玄の自伝を読んだ。この人は、戦前は共産党の最高指導者だったが転向して天皇主義者になり、戦後は経済界、政界のフィクサーとなった人物であり、昭和天皇に全国巡幸を直言したのも田中である。その田中も山本玄峰師の弟子だった。
それで私は山本玄峰に興味を持ち、評伝を読んで益々惹かれ、最後に入手したのが山本師の『無門関提唱』だった。「無門関」というのは臨済宗や黄檗宗で使う公案集で、公案というのは見性を目指すための、まあナゾナゾのようなもの。提唱というのはその解説である。
私はこの本を一度目は熟読し、二度目は熟読しながら感動した部分に赤線を引き、三度目は赤線を引いた部分だけを読んだ。私は公案そのものにはほとんど興味を惹かれなかったが、提唱の言葉の端々に山本師の澄み切った心境をと度胸を感じ取り、禅の修行をする決意がついた。
その時の消息はホームページに書いた書評「山本玄峰『無門関提唱』ほか禅関係の書籍」から引用する。

さて、この本を読んで、私は、どうしても見性したいものだ、と思い始めた。どうせ人間として生まれたからには悟った人生を送りたい、煩悩に悩まされ右往左往する人生よりも、ガラーッと悟ってみたい。
 そう思いながら歩いていたら、自宅から6〜7分ぐらいのところに曹洞宗の禅寺があり、土曜日には座禅会を開いている、と書いてあった。なんとなく宿命じみたものを感じた。
 さっそく土曜に門を叩いてみた。参加者は5名程度。座禅を組むのは辛いものだと思い込んでいたが、集中力を保つために座禅は40〜50分で終わり、呼吸を数えて(数息観という)心を真っ白にして座っていたら、あっという間に時が過ぎて少しも辛くない。初めての座禅体験は、本当に心がスカーッとして気持ちがいい、温泉に入って涼しい空気に当たったときのような感覚だった。

 それで、週に一度の座禅ではもったいない、毎日やろうと決心して、家でも座禅を組むことにした。
 座蒲団を2つに折って座ってもいいのだが、仏具屋にいって座蒲(座布)という座禅専用の座蒲団を4千5百円出して買ってきた。高いなあ、女房に作らせたら原材料は千円で済む、と思ったが、これで悟れるなら、と思い奮発した。
 そういうわけで、週に1度は寺で、残りの6日は家で座禅を組む生活が始まって、今日で10日目になる。
 かなりの心境の変化があった。まず、私の鬱病の症状で一番苦しんでいた「原稿を書く前に逃避行動をする癖」がなくなった。心が空白になるから苦痛が消えるし、体は「この世の借り物」という気が起きるから、正しいと思う方向へスッスと持っていける。これは大いに助かった。おかげでこの10日で40枚の論文を書いて恩師にメールで見せたら、「大変面白く読んだ」と、普段は絶対に褒めない恩師に生まれて初めて褒めてもらった。

 次にこれは、いいことでもあり悪いことでもあるのだが、自分の心境が高くなったために、他人が「動物のように見える」という現象が起こってきた。
 キャバクラに行くと、ホステスや客たちが、鳥獣戯画のように動物に見えるのである。女はたいてい鳥のような顔をしている。男は堕落したタヌキのような顔をしている。気持ち悪くて仕方がない。ホステスと話していても、馬鹿馬鹿しくて喋るのも嫌になる。英語に夢中になっているホステスに「まず日本文化を勉強しなさい。馬鹿が英語が喋れるようになっても、英語の喋れる馬鹿でしかないよ」と本当のことを言ってしまい、嫌な沈黙が続いたりした。とにかく馬鹿馬鹿しくて話題がなくなるのだ。
 それから、知り合いでNPOやらフェミニズムに打ち込んでいるオバサンがたまにメールをくれるのだが、そのメールを読むと心境の低さにげんなりしてしまう。文章の奥に潜む相手の心に、ブリキの洗面器に腐った水がたまっていてボウフラがその中に湧いている、というイメージが浮かぶのである。
 そうそう、芸能人なども見ていられない。叶姉妹はもちろん、お笑い芸人やらタレントたちが「人間の顔をした亡者」に見える。政治討論番組などを見ていても、田嶋陽子も小泉純一郎も竹中平蔵も、どうしようもなく根性が腐っている、と分かってしまうのだ。
だから、この10日は、ほとんどキャバクラにも行かず、テレビも見ず、原稿執筆のための研究と、禅関係の本を読むことに集中している。

 もっとも、こういう心境は悟りの世界から見ると悪いのである。というのは、我は清く、人は穢れている、という差別観が生じているからで、本当に悟れば、一切衆生悉有仏性(どんな奴でも仏様)という心境になるらしい。だから私の現在の心境は、昨日までの私よりはよほど上昇したが、悟りの立場から言えば、まだまだだ。地獄に入ったら地獄の中で遊戯三昧、という心境でなければならないらしい。(でも、やっぱり馬鹿は馬鹿だね、と思うのだが・・・・・)

 それから、非常に重要な夢を一晩に二つ見た。一つは、私が創価学会のカリスマ教祖・池田大作になって演説している夢である。私はその教祖を国賊、仏敵だと思っていて、いつかは首を切り落としたいと祈っているほどに嫌いな人間だ。この夢はユングの言うところの究極の「影」の夢である。あの教祖と調和したのだから、無意識の領域においては自己実現は完了したのではないか、と思う。
 次いで、家が新築になり、庭の池の水が泥水から清流に一挙に変化している夢を見た。これまでの夢解釈の経験から、私の夢の中では家は心の象徴だ。これまで無数の家の夢を見たが、いつも古く、ガタが来ていて、トイレの床などは今にも踏み抜きそうに腐っていた。また家の地下に秘密のクラブがあって、そこには酒をついでくれる不思議な顔をした女性たちがいる・・・など、私の家は壊れかけていて隠微だった。今度の夢は、生まれて初めて見た新築の頑丈な家である。心が生まれ変わったのだろう。いずれにしても劇的な変化である。

 そういうわけで、この本は私の人生を変えた一冊である。
本当に全力を尽くして、私は毎日座禅を組んでいる。いつか「見性体験記」が書けるようになりたいものだ。


この文章を書いたのは2003年の8月である。2008年の8月、本当に見性体験記を書いているとは・・・実に感慨深い。(引用文には書いてないが、生まれて初めて座禅を組んだ後、住職に「本当に坐禅は初めてですか?とても初体験の人とは思えない」と誉められた事実は記しておく)
いずれにせよ、最初の参禅から僅か10日でこのような劇的な体験をしたわけだ。自分でも読み直しながら、凄まじい変化だなぁ、と思う。
特に夢で池田大作という「影」(具体的には最も嫌いな同性の人物として現われる無意識に抑圧排除された否定的人格)と統合したというのは私にとって物凄いことである。ユングは影との統合により「個性化」(自己実現)に飛躍する、と書いている。僅か10日で無意識の有り様が180度変換したのだ。
また庭の池が泥水から清くなり新築の家になった、というのも凄い。少し話が難しくなるかもしれないが、唯識論では、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識の奥にマナ識とアラヤ識という無意識の領域があり、それはどうしようもない根本的な煩悩とエゴイズムから成り立っている、と説く(詳しく言えばアラヤ識は「真妄和合識」といい、煩悩と仏種が混在している)。その根本的な煩悩を浄化(転識得智(てんじきとくち))すれば悟るというのだが、唯識説ではその修行は気の遠くなるような期間を要し、この世では悟れないことになっている。それほど難しい無意識の変容を僅か10日で遂げているのである。
なお、私は数息観(呼吸の出入りを心で数える)も随息観(呼吸の出入りを見つめる)も一回目の指導で楽に出来た。後述するがこれは稀有のことらしい。だからそれ自体は簡単だったのだが、『無門関提唱』に山本師が、一呼吸30分になる、と書いているのを真に受けて、せいぜい30秒ぐらいしか息が持たない自分の呼吸法を変えようと苦しんだ。常識的に考えればそんなことはありえない。呼気が細くなると「息を吐きながら吸う」ことが出来るようになるので、おそらく玄峰師はその要領を掴んでいたのだと思う。

ともかくこういう事情で私は最初の坐禅で快感を得て約2年間その禅寺に通い、家でも坐禅を続けた。
その寺の住職によれば修行中の僧の読書は許されない、とのことだったが、私は熱心に禅に関わる本を買って読んだ。この手記を書くまでは「20〜30冊は読んだはずだ」と思っていたが、本棚を整理するついでに数えたら80冊以上の禅書があった。
また、直接的な禅の本ではないが、縁起説や一念三千論を証明するための補強として読んだ脳科学、宇宙論、量子論の本も30冊を超えている。私は熱中すると周りが見えなくなるので、いつの間にかそれだけの本を読んでいたのである。
こういう風に知識を貪欲に取り入れて納得しながら理解を深めていくことを「理入」といい、もっぱら坐禅修行に打ち込む方法を「行入」という。理入を批判する人もいるようだが、納得しないと信じられないタイプの人間は大いに読書すべきだと私は思う。
特に私の場合、理論から納得する手立てとして『唯識のすすめ』(岡野守成)が大変に役立った。もちろん書籍だけでなくネット上の禅関係のサイトも片っ端から読んでいった。

それで参禅初体験から1ヶ月以内に面白いことが起こった。
住職の話を聞いても、どの本を読んでも、「我執」が良くないのだから、それを消して「無我」になれ、と書いてある。
それで座禅中に「本気で無我になろう」と決意して一座組んでみた。そうしたら確かに「我」は消えたが、魂が抜けた亡霊のようになり、あるいは催眠術にかけられた人のように正気を失い、丸一日不快感に包まれてしまった。これはどうしたことだ、と思い、翌日師家さんに質問のメールを出した。
当時私はネットで探した在家禅のサイトを2つ「お気に入り」に登録していた。一つは曹洞宗系の「三宝教団」、もう一つは臨済宗系の「人間禅」である。それぞれ師家さんがいて私の質問に丁寧に答えてくれた。
どちらの師家にメールしたかは忘れてしまったが、その事情を報告すると「あなたには坐禅の才能があります。我執は消しても意識は凛然と保って、張り切った坐禅をしてください」とアドバイスをもらった。
師家さんが「才能がある」といったのは、魂が抜けるほど無我に集中できる資質を指したものと思えるが、これは前述した自己同一性拡散という病理と、異常な集中力が坐禅において有利に働くからだ。私の場合、自意識を自在に動かしたり消したりすることができるのである。
このアドバイスは有難かった。そうか、野球では打席に立つときに無我になれ、というが、文字通り無我になればバットを振ることすら出来ない。無我というのは「たとえ話」なのだ、と気付いた。しかし、我執や自意識を消したあとで、凛然として私を見ている何者かの主体は何と呼べばいいのだろうと悩んだ。見性体験をした今は、それは「仏性である」と断言できるが、私の場合一つ一つに名前をつけて整理していかないと前に進めないので、この疑問は長く残った。
そんな具合で丸2年は自宅近くの曹洞宗の寺に通いながら自宅でも修行するという日々が続いた。

思い出したことがあるのでこのついでに書いておこう。
理入の過程で「クリティカル・ブッディズム」という学派と出会い、これは本当に修行の邪魔になった。袴谷憲昭とか松本史郎といった学者たちの唱える説である。結論から言えば、見性体験のない学者たちが、一切の神秘を信じず、ひたすら科学的合理主義で仏教を批判する、という前提そのものを間違えた立場に立ち、多くの論文を書いているのである。しかも困ったことに、彼らの主張は一種のブームになって現在では仏教学の主流になっているのだ。
彼らは、たとえば縁起説(全ての存在は条件と原因、因果律と共時性などの関係性の上に仮に姿を見せているだけであり、それは常に変化し続け、もの本来の自性などない、という仏教の根本思想)から見れば、如来蔵思想(人間は本来仏性を持っているという説)や天台本覚論(如来蔵思想が中古日本で発展したもので、極端な場合人間はそのままで仏=無作三身如来であると説く)は仏教ではない、と主張する。これはいわゆる大乗仏教の伝統的理論を根本から否定するものであり、理の当然として原始仏教以外は認めないという傾向に陥る。
興味のある方は子細に研究すれば分かるのだが、この主張は「言葉の抽象化による意味論的曖昧さ」の上に成り立った説であり、縁起説を「無」「不定」と断定し、如来蔵思想を「有」「定」と粗雑に断定して、絵に描いたような二項対立の図式化をしてしまったための誤解である。真実は二項対立を超えたところにあるということが分かっておらず、所詮は悟れなかった学者たちの戯論(けろん)、愚論である。当然そういう学派は「永遠の生命」など頭から否定する。言うまでもないことだが、永遠の生命を説かない宗教など宗教とは言えず、それは単なるの思想・哲学に堕する。
今は見性の後なのでこのような下らない学者の説に惑われることはないが、当時は苦しんだあげく「三宝教団」の外池禅雄師に質問のメールを出した。すると外池師はわざわざ手紙をしたためられて丁寧に答えていただいた。要約すれば、学者の説に惑わされてはならない、悟れば生命が永遠であることが分かる、釈迦は断見(死んだら魂は消えるという見方)も常見(死んだら魂が残る)も両方否定している、と書かれてあった。
私は何度もその手紙を読み直し、つまり悟ってみないと何も分からないのだ、学者の説に惑わされずひたすら修行しよう、と誓った。




{坐禅会をやめ、坐禅から離れる}

ところが、2年目を過ぎてから坐禅会に行くのが面倒になった。
何故かと言うと、指導してくれる若住職の法話が無駄に長いのである。折角坐禅を組んで爽快感に溢れているのに、雑談混じりの法話が延々と続き、しかもそれが取りとめなく論理性が欠如している。このために折角の快感や充実感がダレてしまうのだ。だから私は自宅のみで坐禅を組むようになった。

当時の私の坐禅の心境を簡単に説明しておこう。私は数息観を20分したあとに随息観を20分する。数息観の途中で三昧に入る。妄想や雑念に苦しんだことは一度もなく、無念無想の坐禅である。一座終わると喜びに包まれ、畳に両手をつき頭を垂れて3分ほど動けない。ちょうどサウナ風呂に入って汗をかいたあとに水風呂に飛び込むと最高に気持ちいいが、それとよく似た喜びの坐禅である。だから坐禅を組むことは楽しみであり、「安楽の法門」とは言い得て妙だと思ったものだ。

ここで私の家の間取りを説明しておく。私は2DKのマンションを2部屋持っており、1部屋は書斎に、もう1部屋は家族の生活の場に用いている。道元をはじめとして多くの禅師たちが「坐禅を組むには静かで綺麗な場所で、暗過ぎず明る過ぎず」等々書いている。だから、私は書斎の一隅を整頓して坐禅を組んでいた。
ところが、私は本来重い鬱病なので徐々に書斎に行くのが億劫になり、坐禅を組まなくなってしまったのだ。

何がきっかけだったのか、記憶を蘇らせてみると、おそらく某大学の選任教員募集に応募して落選したのが発端だったと思う。
ちなみに私の副業は大学の非常勤講師で、前衛映像の歴史と理論を教えている。非常勤講師は1コマの授業を受け持って月収3万以下というワーキングプアなのだが、これが選任教員になると高給取りになる。同じ大学教員といっても天地の開きがあるのだ。
ところで非常勤講師と選任講師の差は何によって決まるかというと、99%は人脈、つまりコネで決まるのである。学会機関誌に一本の論文すら掲載されていないのに選任教師になっている連中がゴロゴロいる一方、何本も論文を載せ、その分野の第一人者と目されていても薄給の非常勤講師のままの者もいる。日本は談合型社会といわれるが、アカデミズムの世界でさえ人事は人間関係で決定されるのだ。
私はこれまでの経験でそういう裏の事情は知悉していたし、この平成大不況の冬の時代、大学の専任教員といったオイシイ稼業は狭き門なので落ちたこと自体はショックではなかったが、そのアフターケアが酷かった。
 
その大学の教授の一人で、当然人選に深くかかわった人物は私の先輩であり、大学院生のころは毎日のように喫茶店でお喋りした仲だった。それで彼にメールを出し、今後はどういう点に留意すればいいか、もっと研究の幅を広げて積極的にアピールしたほうがいいか、などなどアドバイスを求めた。
私が前衛映像、実験映像、自主映像、小型映画、といった分野ではかなりの実績を積んできたことは研究者なら誰もが認めている。映画史における前人未到の処女雪を一歩ずつ踏み分けて、病苦、経済苦の中で出来る限りのことは行ってきた。が、なぜか私には敵が多く「那田は前衛映画批評は出来るが普通の劇映画については分かっていない」などという連中もいる。馬鹿馬鹿しい言いがかりだが、言うまでもなくこれは逆立ちの論理である。詩人はいつでも娯楽小説は書けるが、その逆は不可能だ。あんな映画は下らないと思うから前衛のほうに自然に進んだのであり、普通の劇映画の批評をやらせたらお前さんたちは相手にならないよ、という自信は常にあった。ただ、それを公言すると憎まれるので黙っていただけである。
すると彼から「メールで返事するのは面倒なのでT駅まで来て欲しい」と電話があった。私は鬱病の症状として一番辛いのが電車に乗ることであり、最寄り駅からT駅まで約一時間の距離を耐えるのは辛くて仕方なかったが、直接面談を求める限りは何か特別なアドバイスがあるのだろうと思い、無理をして出かけた。
夕方に会ったので、一杯飲みながら話しますか、と言うと、そんな暇はない、と答えてセルフサービスのコーヒー店に入った。それで話を聞いてみると、なんと私に対する「難癖」と「嫌味」のオンパレードなのである。しかも話の途中で気付いたのだが、彼は私が応募規定に添って提出した主要論文を「全く読んでいない」ことが明らかになった。そして彼の言葉のふしぶしから彼がいかにアヴァンギャルド映画が嫌いか、むしろ憎んでいることが分かった。
なるほど、「メールで返事をするのは面倒」というのは、文字通り本当に面倒くさいので、彼は自分の都合で人を遠くから呼びつけておいて、ひたすら皮肉が言いたかったのである。「蛇は一寸出ればその大小を知る。人は一言出ずるもその善悪を知る」とはよく言ったものだ。何という人物だろう、私は呆れ果てた。

当たり前のことだが、先輩ならばせめて「これこれこういうことに気をつけて、今後のチャンスを待ちなさい」と言うのが常識というものだ。その常識すら持ち合わせていないのである。
私は講義のときに「教授教授と威張るな教授 教授オタクの成れの果て」とよく言う。事実、オタクが教授になるのであり、この程度の人物が威張っているのがアカデミズムの世界なのである。事実私は、教え子たちが彼を「映画オタクが大人になっただけ」と軽蔑しているのを直に聞いている。
ちなみに仏教では「二乗不成仏」という。二乗とは人間の精神レベルを10段階に分けた十界論の用語で、レベルの低い方から、地獄、餓鬼、畜生、修羅(これらを四悪道あるいは四悪趣という)、人間、天界(ここまでの六種の精神世界の中でさまようことを六道輪廻という)、声聞、縁覚、菩薩、仏界(この上位4段階を四聖という)、という10ランクの中の「声聞」「縁覚」を二乗と称する。大雑把に言えば、真理を追究する修行僧や学者などで、努力型が声聞、天才型が縁覚と思えばよい。
これらの精神世界に住む者は自分の知識の完成のみにこだわり、利他の心、つまり他人への慈愛や民衆救済という心掛けが欠如しているために、法華経が説かれるまでは「絶対に成仏できない人々」と蔑視されていたのである。
私は20数年間アカデミズムの世界と深くかかわってきたが、研究者は実際にエゴイストだらけである。オタクのままに大人になって、精神が未熟なまま教授になってしまった連中がいかに多いことか。「先生といわれるほどのバカじゃなし」という川柳があるが、知識は一流でも人間としては三流、しかも自分を偉いと思っているのだから、本当に度し難い。

私はこの体験で研究生活を続けることが馬鹿馬鹿しくなり、人間不信に陥った。研究者、大学教授といってもこのレベルかと思うと、人生の目標を失った気分になった。大学院時代の恩師は私が専任教員になることを応援してくれ、私も研究者としては恥ずかしく業績を残してきたが、結局人脈で採用が決まるのだからどんなに優れた論文や批評を書いても全く意味がないのだ。
自然と酒量が多くなり、また抑鬱症状も重くなり、色んな面でやる気を失った。それで坐禅が組めなくなったのである。いや、正確にいうと、坐禅は楽しい体験なので本心では組みたいのだが、そのために隣の部屋の書斎まで移動することが辛くなったのだ。これは鬱病の人にしか分からないと思う。たとえば私は朝の洗顔が面倒で仕方なく、大抵午後の6時前後にまで延び延びになる。典型的な鬱病の症状である。普通の人ならどうってことのない簡単なことが物凄く億劫なのだ。
 
そういうわけで精神的にボロボロになって毎日のように飲み歩き、とうとう糖尿病になってしまい、心も体も最悪の状態に陥ってしまった。
それで、これではいけない、と思い、約2年ぶりにまた坐禅会に出席してみた。
久しぶりの坐禅体験は素晴らしかったのだが、なんとその寺は宗旨を変えてしまい、以前と正反対の指導をするようになっていたのである。
具体的に言えば、私が坐禅会を欠席していた間に住職は例の「クリティカル・ブッディズム」の信奉者になったらしく、以前私が熱心に通っていた頃には「衆生本来仏なり。水と氷の如くにて、水を離れて氷なく、衆生の外に仏なし」という白隠の『坐禅和賛』を教えて如来蔵思想・本覚思想を教義の基本に据えていたが、「世界は所業無常であり“本来”などということはありえない」と言い始めた。
私は、これではどうしようもない、と見切りをつけた。
人間は自分の心に仏性があると信じているからこそ修行に励めるのであり、なにもかも「諸行無常」では救われない。この住職のような偏りを「空病」とか「沈空」という。煩悩の一つである。専門的になるが、仏教では「空仮中の三諦」という一種の弁証法により空病の弊害を乗り越える。しかしこのように空病に陥っている禅者は非常に多い。
かなり昔の話だが、目の前を走っている電車を見て「これも実体のない空だ」と信じて線路内に飛び込んで死んでしまった人間もいるという。「色即是空」と同時に「空即是色」なのだ。空病に囚われることは大変危険である。

それからどれぐらいの月日が流れただろう。
ある師家さんにメールで何かを質問したところ(その内容は忘れてしまった)、「坐禅を始めて2年や3年で数息観など出来るはずがありません。やっと姿勢が整う程度です」と書かれており、とすると私のこれまでの体験は全部偽物だったのではないか、あの無念無想の心境も法悦感も、本当の坐禅ではないのかもしれない、と思った記憶があるので、坐禅は組んでいなくても「理入」の勉強は続けていたようである。

そういう状態で去年(2007年)の夏、心も体も経済もどん底に落ちてしまった。特に88歳になり郷里で一人暮らしをしている母親を東京に呼んで同居したいのだが(私は一人っ子である)、経済的困難のためにどうにもならない。これは本当に辛かった。
迷いに迷ったあげく、ネットで霊能者を調べてみた。直感的に全てインチキ臭さを感じた。また料金もバカ高い。そんなことをしているうちに偶然北海道の日蓮系の寺が「無料人生相談」をしていたのでメールを出した。返事があり、また電話でも直接アドバイスを頂いた。おまけに、その寺のパソコンの手伝いをしている信者のKさんが非常に奇特な人で文字通り菩薩行を実践されており、その後も頻繁にメールでアフターケアをしてくれたうえに、曼荼羅と仏具一式をタダで送ってもらった。
曼荼羅は近くの日蓮宗の寺で開眼供養(入魂の祈祷)をするように、と言われたのでそれに従った。同じく人生相談をしている埼玉県川口市のJ寺に出かけて素晴らしい助言をもらい、地元の小さな寺の月例題目会にも参加するようになって、私はどん底の状態からまず日蓮宗の信徒になることで救われた。
(創価学会に入会していた時代、会員は日蓮宗を“身延派”と呼んで軽蔑していたが、幾つもの日蓮宗の門を叩いた実体験からすると、全ての寺が「一家和楽」を実践しており、心づかいも言葉づかいも上品で、創価学会とは月とスッポンの違いがあることが分かった)
 
私は新しく日蓮宗の信仰を始めたことで、日蓮教学の根本原理である「一念三千論」を極めたいと思い、日蓮遺文(御書)を読み直し、天台の『摩訶止観』を読み、またそれに関する種々の書籍を集め、ネット上の論文を印刷するなどして研鑽した。それは「母が生きているうちに日蓮教学の真髄を教えたい」という親孝行の気持ちでもあった。日蓮自身は「末法の愚かな衆生にはこの法門は難解すぎるので学ぶ必要はない。ひたすら題目を唱えることで仏性が現れる」と説いているが、折角日蓮宗の信徒になった限りは「理入」もしてみたいと思ったのだ。だから「87歳の母にも分かる一念三千論」というエッセーをなるべく早く書き終えて自分のホームページに掲載し、それをプリントアウトしたものを郷里の母に送りたいと願っていた。




{玄侑宗久師とメルトモになる}

法華経曼荼羅を開眼供養し題目を挙げるようになったのが去年(2007年)の9月である。その翌月、ボンヤリとNHK教育テレビにチャンネルを合わせたら、ある僧侶が話をしていた。番組の終わりかけだったので、その僧侶の話を聞けたのは1〜2分ぐらいの僅かな間だったが、直感的に、この人は分かっている、と感じた。エンディングタイトルを見ても名前が出てこないので、私は直ぐにNHKに電話をかけ、その僧侶の名前が「玄侑宗久」だと教えてもらった。
早速パソコンで検索したところ、芥川賞作家で禅寺の住職をしている人だと分かった。
薄ボンヤリとだが、以前新聞で現役の僧侶が芥川賞を取った記事を読んだ記憶が残っていたが、私は同時代の小説に関心がなくなっていたので、その小説も読んでいなかった。
それで玄侑師のホームページを見つけ、早速メールで質問してみた。去年(2007年)の10月5日のことだ。
まずクリティカル・ブッディズムの「如来蔵思想批判」に疑問を持っていたので、「縁起説と如来蔵思想を両方同時に受け入れることは可能か?」いう質問を出した。すると翌日早速返事があり「私は可能だと思います。しかし仏性を実体的に捉えるのではなく、それもまた縁起による現象だ、と見ることが肝要です」との返事。さすが私が見込んだ人だけある。私はこの答えに満足し、納得した。仏性というのは潜勢的可能体であり、修行に伴う無数の縁によって発現するものだ、と思っていたからである。

★再び座禅を始める

この玄侑宗久さんのメールを読んだのを契機に、私はその日から坐禅を久々に復活することにした。そしてその坐禅の方法は普通の作法から見れば全くの邪道だった。しかし今思えば、その邪道のお陰で見性できたのである。

前述したように坐禅は「綺麗で静かな部屋」で行うのが規則である。しかし、この時期の私は鬱病のどん底にあったので、わざわざ隣室の書斎までいって坐禅を組む気にならなかった。それで寝室で坐禅を組むことにした。寝室には、後述するが妻は「片付けられない症候群」なので、常に布団三組が敷きっぱなしになっている。さらに寝室は4車線のバイバス通りに面しているので車の音がひっきりなしに聞こえている。始終パトカーや救急車が通り、わざとマフラーの消音装置をはずしたヤンキーたちの車やバイクがけたたましい音をたてて通り過ぎていく。そういう中で坐禅を組んだため、次第に騒音が気にならなくなった。やがて座禅中に子供が帰ってきて隣室でテレビをつけたり(我が家は襖で仕切られているのでテレビの音はガンガン響く)、私の後ろを行き来したりしても瞑想三昧が壊れなくなった。とうとう私が座っている横にあるマッサージチェアを誰かが使っていても全く気にならず禅定が揺らがない、という状態にまでなった。
 
余談になるが、似た体験があるのでたとえとして記しておこう。
太刀魚のウキ釣りは堤防釣りの中でも至難と言われ、上達者が30匹も釣り上げているのに、その横にいる初心者は1匹も釣れない、というほど腕の違いが極端な釣果の違いになって現れる。私はこの釣りに夢中になったことがある。太刀魚は見かけと異なり非常に臆病で繊細な性格なので、これを釣るには穂先の柔らかいグレ竿を使うのだが、私は逆に穂先が極度に硬い投げ竿を使って練習した。分かる人には分かるが、これは無茶苦茶な、セオリー無視のやり方なのだ。
しかし私は金欠状態だったので投げ竿一本しか持っていなかったうえ、工夫をすれば竿など関係ない、と高慢な考えを抱いていたので、竿が硬いぶん手首を柔らかく使うテクニックを獲得して太刀魚釣りをマスターした。後日、穂先の柔らかいグレ竿を使い出すとさらに楽々と釣れるようになり、気付けば名人と呼ばれる腕前になっていた。
要するに何事においても、悪い環境の中で真剣に訓練しておくと普通の環境に置かれたときには達人になる、という理屈である。

おまけに座禅のときは寝巻きのままで、顔すら洗わなかった。これも鬱病の症状の一つで、その動作に移るのが億劫でたまらず、前述したように最初の洗顔と歯磨きは午後6時ごろになるのが日常になっていたからだ。坐禅の前に靴下を脱ぎ、時計を外すという常識も無視した。
ところがこういうルール無視の坐禅を久々に組んだところ、実に巧くいき、最初から法悦境に入ることが出来た。参考になると思うので、以下に私の坐禅の方法と心境を具体的に記述しておく。

★私の座禅法

仏壇の前に敷いてある布団の上に座蒲を置き、仏壇の扉を開く。結跏趺坐を組んで5分ほど首を回してストレッチする。
(これは私が大学院生のときに個人映像を鑑賞する際、ペンライトで細かにノートを取っていたことに由来する。個人映像はほとんどレンタル化されないので、まず二度と同じ作品を見ることは出来ない。だからメモを取る必要がある。ところが猫背になりながらスクリーンとノートを交互に見る、という動作を繰り返したことで首を痛め、或る日突然激痛が走って首が動かなくなった。接骨院で見てもらったら第七頚椎ヘルニアになっていると言われ、私は休業日以外は毎日接骨院に通い、牽引を中心に電機治療とマッサージを丸2年続けた。それで8割がた症状が治まったものの未だ完治せず、放っておくと首筋が痛み頭痛に苦しむのである。それで坐禅前に姿勢を正す準備運動として首を回すわけだ)
ストレッチが終わったら臍の後ろの腰骨(脊梁(せきりょう)骨(こつ))を反らし気味にして姿勢を正す。既述したように私は異常に背筋力が強いのが見性の原因の一つになったのだが、坐禅ではこの腰骨を反らすのに背筋を使う以外は、全身を脱力させねばならない。これは坐禅の秘訣の一つである。
ついで右手の上に左手を乗せて法界定印を結ぶ。このときに丁度両手の小指が腹に当たるが、そこが「臍下(せいか)丹田(たんでん)」である(普通は臍の下9センチといわれる)。
視点は目の前1メートルぐらいのところに置き、富士山のように堂々と座り、頭は宇宙の果てを突き破って伸びているというイメージを抱く。
私の場合は、まず20回から30回の数息観から始める。実際は鼻から息を吸うのだが、イメージとしては頭頂部から宇宙のエネルギーを吸い込んで、丹田に降ろす感覚だ。そして充分に丹田でそのエネルギーを受け止めて味わってやる。ちょうど美味しい水を飲んだような感覚になり、もうそれだけで心地良さを感じるはずである。ときどき小指を丹田に当てて少し押して場所を確認し、吸気をそこに落とすようにするといいだろう。(禅の入門書によっては、丹田呼吸と複式呼吸を一緒にしているものもあるが、これは全く別物なので要注意)
ついで呼気はなるべく細くゆっくりと、鼻から吐くのではなく、全身の毛穴から息が漏れていくイメージを抱く。その際、体内のあらゆる病根は呼気とともに吐き出されると信じることだ。
私の場合、調子がいいときは最初の5呼吸のうちに三昧に入る。三昧に入ると脳内に快感物質がビビビッと放出される。
数息観が終わったあとは、これは私のオリジナルの方法だが、呼気を長くするために呼気の秒数を数える特殊な数息観を行う。私の場合は吸気に3〜5秒、呼気に20〜25秒である。その呼気を出来るだけ長くするために数を数えるのだが、20秒当たりを超えると苦しくなって下腹の筋肉が震える。それを我慢して1秒でも長い呼気が出来るように、これも20〜30回繰り返す。後日、玄侑宗久さんとメールを交わしたおり、「呼吸の長さを気にする必要はない」と言われたが、私はこの方法を試すようになって禅定の力が更に強くなった。
それが終わったら最後に心いくまで随息観をする。
もうこの頃には体中が喜悦と安楽に溢れており、道元の記した「仏の家に投げ入れられる」という言葉が実感として分かる。
坐禅では「二の念を継がず」といって、どのような想念も心で追いかけてはならないのだが、私の体験で言えば、喜悦・安楽といった法悦感は充分に受け止めて楽しんだほうがいい。むろんそれに執着してはならないが、じっくりと味わい楽しむのは見性のためのコツだと思う。
ちなみにそういう法悦感は殆どが脳内で起きるが、首、背筋、手先、太股などが鳥肌立つような歓喜に震えることもある。それを充分に受け取って座禅三昧の原動力にすればいい。
この段階になると私は吸気の入り口を頭頂部、前頭葉、後頭部と自在にイメージして、脳全体をクリーニングすることを意識する。パソコンで言えばハードディスクの再セットアップのようなものだ。頭がカンカンに冴え返ると同時に法悦に包まれ、申し分のない心境になって坐禅を終える。座中は真剣勝負だから真冬でも軽く一汗かいている。
座蒲を取り、結跏趺坐を解いた後は、両手を畳に付き頭をうな垂れて数分の間余韻に浸る。そして法華経曼荼羅に対して朗々とした声で唱題し、最後に祈願して終わる。

★コツは言葉を捨てること

以上の通りだが、念のために二つだけ秘訣を記しておく。
まず、数息観の勘定を数えるときも「頭で数えるのではなく、丹田で数えること」、視点を1メートルほど前に置くときも「目で見るのではなく、丹田で見ること」、この二つを徹底することだ。山本玄峰師が「数息観を足の指で数えられるようになるといいのだが」と言っているのを読んで、最初は全く意味が分からなかったが徐々に分かってきた。私は丹田で数え、丹田で見るが、玄峰師ぐらいになると足の指に意識を置いて息を数えることが出来たのだろう。
もう一つは上記したことと密接な関係を持っているが、「言葉とイメージによる思考を一切停止すること」である。これが坐禅をするに当たって最も重要なことだ。
仏教では「眼、耳、鼻、舌、身、意」の六識も、「色、受、想、行、識」の五陰も全て煩悩だと規定する。つまり全ての感受作用、イメージ形成作用、言葉による概念化作用、これら全てが煩悩の源泉だと説くのである。
だから簡単に言えば、坐禅とは言葉を使わず、そのことによって概念による思考を遮断する訓練なのだ。唯識論的に言えば、その意識的訓練を繰り返すことで、無意識であるマナ識もアラヤ識も浄化され煩悩が仏智に転化(転識得智)するのである。
もっと具体的に書こう。
坐禅中、坐禅と関係ない雑念に囚われるなどというのは論外である。私はそういう心理状態になったことは一度もない(繰り返すが、こういう人間は稀有らしい)。但し、「頭頂部から息を吸って」とか「丹田に吸気をゆっくり受け止めて」とか「丹田で数を数えろ」とか「丹田で見ろ」などなど、坐禅を正すために内言を吐くことは許されるだろう。ここが肝要だが、やがて「言葉を使わなくとも思考できる」という不思議な状態が訪れる。
「丹田で見ろ」が、「丹田」に縮まり、やがて「タ」になり、最終的には言葉を使わずに丹田で見ることが出来るようになる。「非思量」とか「不思量底を思量せよ」というのはこの意味だと私は理解している。

この極意を別の面から見てみよう。
何の本に書いてあったのか忘れてしまったが、ゾウリムシの世界像は「食べ物である」「食べ物でない」「障害物である」「障害物でない」という4つのファクターでのみ構成されているらしい。私はそれを知ったときに、頭に閃くものがあった。
「ゾウリムシとはなんて原始的な生き物だ」と思ったのではない。逆に、人間の世界像もある境地から、たとえば如来から見れば、ゾウリムシ並みに原始的で愚かなものではないだろうか?と閃いたのだ。
この発見は修行をするのに大変な励みになった。想像を絶する超越存在が予感されたからである。つまり、我々の感受作用、イメージ形成作用、言語化作用と認識、それに伴う意味と価値の体系を、我々は疑いもせず、さらに悪いことに、自分達はもっとも高度に進化した霊長類だと自惚れて生きているが、ある視点に立ったとき、我々もゾウリムシレベルなのかもしれない、と自覚するようになったのだ。と同時に、とすれば認識の最大の道具である「言葉」を離れることが見性の第一歩であり、如来には如来の言葉(あるいは非言語)がある、と思い、座禅中は無念無想になることのみを心がけるようになった。
事実、坐禅を終え唱題した後は、頭の中が空っぽで「言葉を使うのが不潔」な感じがして、しばらくは「非思量」のまま行動している。面白いもので、慣れてくると言葉を使わなくても人間は行動できる。当然一日中そんな状態を続けることは出来ないから、読書をしたり、テレビをつけたり、家人と話すときに仕方なく言葉の世界に戻っていく。
「人間はゾウリムシかもしれない」「言葉を捨てよ」「如来には如来の認識法がある」という発見は、私の修行を続ける上での強い牽引力になってくれた。

次いで「歩行禅」についても記しておく。
これは禅寺の門を叩いて間もなく何かの本を読んで、それをヒントに実践するようになった。既述したように、私は坐禅をやめていた時期が二年以上あるが、この歩行禅だけは続けていた。
具体的方法を記すと「我」を土踏まずの下に置いて、それを踏みしめながら無念無想で歩くのである。つまり我執を消すための訓練である。これは本当の坐禅よりも遥かに難しい。私が「完璧な歩行禅が出来た」と納得できたのは、後述する見性体験の後のことである。私は最初の坐禅で瞑想三昧を得ることが出来たのに、歩行禅はそれほど至難の業である。
当然と言えば当然だ。坐禅は静かな場所で視点を一点に定めて瞑想するのだが、歩行禅は街中で、体を動かしながら、それに従って当然視点と風景が変化する中で、しかも横には車が轟々と通るのを無視し、人や自転車とぶつからないよう気を配りながら、その困難な状況の中で無念無想を貫くのである。こんな悪条件はない。この歩行禅が出来るようになれば、静かな部屋で座ってやる普通の坐禅などは朝飯前になるはずである。

★工夫の末に座禅の形が定まる

そうそう、同時期に中村天風の影響を受けたことも記しておこう。
私のネットの「お気に入り」に、ある掲示板が置いてある。その常連投稿者の一人のパウロさん(私と同郷愛媛県出身のボヘミアン)が中村天風のことを教えてくれた。
天風は日清・日露戦争のときに軍事探偵(スパイ)として大陸に渡り「人切り天風」と呼ばれたつわものだが、当時の医学では治癒できない死病(奔馬性肺結核)に罹り、その治療法を求めて世界を旅して医学を学んだあげく失望して帰国の途に着く。途中、偶然にヨガの達人と出会い、ヒマラヤ山中で数年の修業ののち悟達し死病も克服した人物である。天風は会社を経営して成功するがあるとき全ての財産を処分して辻説法を始め、のちに「天風会」を組織し、門下には東郷平八郎から頭山満、総理大臣、皇族まで錚錚たる人々が名を連ねた。宗教ではなく、ヨガ行を取り入れた天風哲学と称すべき理念に基づく修行法である。
 
この中村天風の語録が読め、肉声が聞けるサイトを教えてもらったわけだ。私は一時期「天風病」になった、と言っていいほど大きな影響を受けた。特に「不安、悲しみ、恐れ、といったマイナス感情を一切捨てよ。口にも出すな」という教えに感動した。たとえば「俺は酒が弱い、と言うのも駄目だ。俺は酒が強くない、と言え」と教えている。私は映像学の専門家なので少し注釈すると、イメージには否定語がないので「このパットが外れませんように」と否定語で祈ると、イメージは「パットが外れた」場面のみを提出する。だから天風が強調する通り、ネガティブな言葉を使っているとそれが無意識に作用して悪感情の連鎖に陥るのである。パットを入れたければ、「パットが入っている」状態をイメージしなければならない。
また天風はもともと豪傑なので線香臭さが全くなく「人生は楽しむためにある。他人に迷惑をかけない限りは大いに楽しみ、快楽を追求せよ」とも述べている。私は、天風と出会ってから、恐れ、不安、悲しみ、愚痴、虚勢、などの一切の感情を心から払拭したつもりである。

そういうわけで私は、玄侑宗久師からメールをもらって以来、坐禅に打ち込み、また中村天風の影響もあって、徐々に心境が高まっていった。
玄侑師とはメルトモのようになり、著作を次々と読んで読後感などを送っていたが、玄侑師が共著の『実践 元気禅のすすめ』を読んで、ハタと悩んでしまった。
やはり例の瞑想における雑念・妄念の問題である。玄侑師の表現を借りれば、瞑想中に「心の教室の中で三千人の生徒たちが一斉に暴れだす」と断言してある。
これはどの禅書を読んでも例外なく書いてあることで、藤平光一(詳しくは後述する)も「蟹が泡を吹くようにブクブクと妄念が湧き上がるから、ノイローゼの人は坐禅をしてはいけない」とまで言っている。
とすると、ただの一度も雑念や妄念に苦しんだことがなく、無念無想の法悦に浸っている私の坐禅は、どこか根本的に間違っているのではないか、という不安がまた持ち上がってきた。
それで私は玄侑師へのメールに『実践 元気禅のすすめ』の読後感を書き、ついでに自分の坐禅を具体的に記して点検を受けることにした。
「そもそも数息観は数を数えることに集中し、随息観は呼吸を見つめることに集中するのだから、雑念など湧くはずがないじゃないですか」「私の坐禅はどこか間違っているのでしょうか」等々書いて返事を待った。
このメールを出したのが去年(2007年)の12月18日のことである。いつもは必ず翌日返事があるのだが、待てど暮らせど返事がない。ホームページを見ると人気作家だけあって過密なスケジュールが書いてあり、また僧侶だから年末は忙しいのだろうと想像した。

それで、その本に書いてある「全的自己を丹田に集中させよ」という言葉が気になって、それまでの頭頂部から丹田に吸気を降ろす方法を止め、丹田にのみ意識を置く坐禅を組んでみた。すると座中に視界が真っ暗になり、眠くて仕方ない。結局、座を解いたあと座蒲を枕にしてしばらく眠ってしまった。
以前、無我になろうとして魂が抜けてしまったことを思い出した。自己同一性拡散のせいか異常な集中力のせいか、私はそういう特殊な状態に陥ってしまうのである。
これではいけない。丹田に意識を置きながらも同時に頭部にも意識を残さないと本当の法悦は得られない、と確認した。
それが気になって様々に意識の置き方を工夫していたときである。まさに共時性(シンクロニシティ)の体験をした。
前述した掲示板でまたもパウロさんが藤平光一の本を紹介していたので興味を持ち、直ぐに著作を二冊注文し、その一冊『気の威力』を読んでいたら、「丹田に心を静めれば自然に天帝に意識が集中し、自然に脳髄の思考も統一される」と書いてあったのだ(天帝とは眉間のこと)。
私の体験から丹田に全意識を置くと眠くなるだけだから、本当は藤平氏の言葉は嘘なのだが、とにかく丹田と眉間とに意識を集中させることがコツだと理解できた。それで座禅中に様々に工夫を凝らし、結局、普通の数息観と、呼気を長くする訓練をする私のオリジナルの数息観のときは、「眉間から息を吸って丹田に降ろす」のが最善の方法だと分かった。
そして、最後の随息観は以前と同じように頭部の様々な場所から吸気を入れて脳全体を活性化させるようにした。これで私の座中における呼吸イメージのフォーマットは完全に定まった。
欲しい本を探そうと図書館に行くと、書棚の目立つところにその本が置いてあり一瞬で見つかる、といったシンクロニシティを「図書館の天使」というが、まさに藤平氏の著書との出会いは共時性の現われだった。

ちなみに藤平光一とは、肋膜炎を克服するために坐禅からはじめて合気道を学び、合気道の創始者で様々な伝説を持つ植芝盛平に師事して植芝を超え、前述の中村天風に師事して天風を超えた天才型の合気道家であり、現在のように合気道が海外へ広く流布したのはこの人の貢献によるものである。
この人の言葉にも私は大きな影響を受けた。丹田と眉間の関連性だけでなく、次のエピソードも紹介しておこう。
藤平氏は参禅により様々な公案も透過して、死ぬことなど怖くないという心境で戦地に赴いたが、実際の戦闘に巻き込まれ機銃掃射を受けると、それまでの修行の成果など吹っ飛んで死の恐怖に慄いた。そこで「私が修行を続けているのは天地から使命をもらっているからだ。しかし自分はまだ何も世の中のために役立っていない。もし自分がここで死ぬとすれば天地に心などないことになる。そんな天地に未練はない。いさぎよくおさらばしよう。死ぬも生きるも天地任せだ」と腹をくくり全身の力を抜いたら、敵の銃撃が怖くなくなった、と記してある。
坐禅は、生きながら死を体験する側面があるので、私も「いつ死んでも怖くない」と思っていたが、このエピソードを読んで、観念的な覚悟と実際的な覚悟との距離を思い知らされた。中村天風も同様に、剣道の達人が馬賊に出会ったときに恐怖のあまり全く役に立たなかったエピソードを披露して、普通のときは誰でも落ち着くことが出来るが、窮地に陥ったときこそが大事なのだと「晴れてよし雲りてもよし富士の山」という道句を紹介している。確かにどん底のとき、大変なことが起こったとき、果たして霊峰富士のように泰然としていられるかどうか、まさにそのときに人間の器が試されるのである。
腹をくくって、力を抜いて、丹田に気を籠めて、いつ何時でも堂々と生き、そしてにっこり笑って死ぬこと・・・その大切さをこの二人に教えていただいた。

それにしても玄侑宗久さんからのメールが届かない。2007年12月18日に出してから年が明けても返事がないので、松の内が過ぎた2008年1月8日に再度メールを出してみた。すると同日にすぐに返事があった。
法事や葬儀が重なり返事が遅れましたと謝罪の言葉があり、私の坐禅について、「確かにあなたは坐禅の要諦をすでに掴んでおり、禅定をあっさりものにされています」との回答があった。
この言葉を読んで私はその場で踊り出したいぐらい嬉しかった。雑念が起きず無念無想になる私の禅は根本的にどこかおかしいのではないか、とそれまで心の奥に蟠っていた不安が一瞬にして消えた。よし、俺は坐禅の才能がある、これからもますます精進しようと心に誓った。



{見性の予兆}

私が見性体験をしたのが1月28日なので、玄侑宗久師のメールからちょうど20日後である。
前年の10月5日に玄侑師にメールを出して坐禅を再開して以来、4ヶ月弱の間に様々な見性の兆しが現れた。以下項目ごとに記す。

★一家和楽に近づく

坐禅を再会した後から、それまでギスギスしていた家庭環境が徐々に穏やかになっていった。
実は私の妻は「片付けられない症候群」の患者である。これは読者の想像を超えているので具体的に書いておこう。
郷里愛媛で母と同居しているとき、皿や鍋などを棚に整理するのに妻は半径の小さいものを一番下に置いて大きいものを上に順番に重ねるので、通りすがりにちょっと触れるとガラガラと崩れてしまう。本や雑誌についても同様だ。小さな本の上に大型の本を積み重ね、さらにその上に小物入れなどを置いているので、ちょっと体が当たるとバラバラと崩れ落ちる。また、化粧道具や小物類を棚の前面ギリギリに並べる癖があり、これも少し触れただけで落っこちてしまう。
母は嫁苛めをするような器の小さな人間ではないが、この整理下手にはいつも嘆いて注意していた。妻はよほど整理の才能が無いのだろう、結婚して以来数百回となく注意しているのだが、未だにその悪癖が治らない。

もし誰かが私たちが住んでいるマンションを突然訪問したとしたらビックリするに違いない。まさにゴミ屋敷である。フローリングにはコンビニのレジ袋と新聞紙と雑誌と衣服が散らばっていて床が見えないほどだ。2DKの部屋には大きなゴミ箱が2つあるが、共にゴミが山盛りになって周りにこぼれている。一部屋は寝室で、3組の布団が年中敷きっぱなしになっている。布団を干すのはおそらく数ヶ月に一度だろう。
ベランダを見ると折り畳んだダンボールの間に仕舞い忘れた洗濯物や郷里の母が送ってくれた藍染の座布団などが挟まっていて、何ヶ月も雨ざらしになっている。
押入れを開くと本来捨てるべきガラクタがパンパンに押し込められているので崩れ落ちる。私の大工道具を入れてある専用の引き出しの中に、気付くと片方だけの靴下やお菓子が入っている。タンスの整理も無茶苦茶で、妻のいない時に私のTシャツを探そうとしたら、子供の服も大人の服も、上着も下着もあらゆる棚にゴチャゴチャに入っている。完璧にジャンル概念が欠如しているのだ。
妻はパートに出ているとはいえ午後4時過ぎには帰ってくるし、週に一度の休日もある。それなのに、こういう無茶苦茶なゴミ屋敷にしてしまうのだ。一日に20〜30分掃除すれば綺麗になるのに、どうしてもそれが出来ないのである。
さすがに怒って、いつ片付けるんだ、と言うと、今度の休みの日にやる、と答えるのだが、当日になると昼過ぎまでダラダラと寝て、片付けのことを忘れ去っている。それで、もうこれは仕方なく、私は時々怒りを爆発させて妻に「何月何日に絶対に掃除します」と紙に書かせ壁に貼り付ける、というところまで行かないと動かない。

また高校3年の娘も性格に難があり、これも時々叱らざるを得ない。娘は下に弟が生まれたときに自家中毒を起こしたぐらいだから、弟が疎ましいらしく、いつも難癖をつけて嫌味を言っている。長女らしさが全くないワガママな一人っ子性格に育ってしまった。
頭はいいのに、私はバカだと言い、好きな教員の教える教科では学年1位の成績を取る一方、嫌いな教員の教科は全然勉強せずに赤点を取る始末である。そういう性格だから高校受験のときは美術の教師に嫌われて通知表が3だった。このために第一志望の公立高校に落ちた。通っている学習塾で試験結果を調べたら、志望校の合格者平均点よりも高い得点を取っているのに、内申点が足りずに落ちたことが判明したのだ。
それで私立高校の進学クラスに通い出したが、周りの生徒のレベルが低い、とか、教員が気に食わない、とか常に不満を漏らし、全く勉強せず、授業中も家に帰っても寝てばかりいる。それで注意するとヒステリックに叫んで「高校を中退してフリーターになる」と自棄を起こす。反抗期、思春期という理由もあるが、私のことを「ジジイ」と呼ぶ。
そんな娘だから、これも女房と同じで時々叱り心掛けを入れ直さないとどうにもならない。
中学1年の息子は真面目で几帳面で、黙っていても毎日勉強し、おまけ空手初段でその上いつもニコニコしているから文句なしだが、我が家は女性陣が出来が悪い。私が酒に溺れて夜になるとキャバクラやスナックへ通いだした理由の一つに、このようなギスギスした家庭環境があったことは確かである。
 
ところが、坐禅を再開するようになってから、自然と和やかな空気が生まれ始めた。私の言葉遣いが変化したからだ。普段は妻を頭ごなしに怒鳴りつけるのに、「おい、ちょっと文句を言うから真面目に聞け」と目を見つめて説得するようになった。娘に対しても同様に「お前のためにこれから大事な話をするから少しだけ聞け」と諄々と諭すようになった。こちらの言葉遣いが変化すると、相手もヒステリーを起こしたり膨れっ面になったりしなくなる。少しずつだが家庭が穏やかになっていった。
やがて妻を私が鬱病治療に通っている心療内科でカウンセリングを受けさせることにした。医師の診断で、やはり空間認識障害と強迫神経症があることが分かった。私も知恵を絞り、顔を見ながら注意するとどうしても感情的になるので、専用の連絡帳を作って妻への要求はそこに書きつけることにした。そうすると喧嘩にならない上に、妻自身、自分はこれほど異常なのかという自覚と病識が育つようになる。ちょっとしたアイデアだがこの連絡帳はとても役立っている。まだ人並みとまではいかないが、障害を治そうという意思が芽生え徐々に部屋も綺麗になっている。
娘は私に反抗して、パパが出た早稲田大学だけは絶対に受験しない、などと言っていたが、学校や塾の教員たちの間で早稲田の評判が抜群に高いのに影響されたせいか、または現実社会の厳しさが分かってきたのか、ある日から、絶対早稲田に合格する、と言い出した。
自分の気に入った進学塾に通いたいというので授業料を聞くと、予想外に高額で100万円を超える。私は娘に我が家の経済状態を包み隠さず話し、「借金はあっても貯金はないが、国民生活金融公庫に行って教育ローンの融資を頼んでみよう」と、諸手続きを済ませた。
一週間ほど経って融資OKの手紙が届いた。娘にその手紙を見せ、「200万借りたから、お前が一番取りたいコースを自由に取っていい」と言うと、娘はその瞬間にポロポロと涙を流し、「ありがとうございます。これからは勉強します」と震える声で言った。私は娘の変貌ぶりに驚いた。
その言葉通り、その日以来人が変わったように勉強に熱中し始め、それに伴い弟いびりも全く無くなった。

山本玄峰師が「家族の中に一人でも悟った人間が出ると一家和楽になる」と述べているが、なるほどそういうものなのだろうと理解できた。
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★気宇壮大になる(年賀状の言葉)

今年(平成20年・西暦2008年)の年賀状は非常に評判が良かった。次のような文句を書き添えたのだ。

年末にテレビで鑑定番組を見ていたら、今再評価されている備中松山藩の陽明学者・山田方谷の書に高い値段がつきました。私はその歌を読んで感動し、壁に貼り付けていた「禁酒・禁煙」の紙を引き剥がし、その歌をパソコンで印刷して貼り付けました。出来もしない決心をしてストレスを溜めるより、これぐらいの気概で一生を送りたいものです。女性の方は「美人」を「美男」に代えてお読み下さい。
         
 世の中は 後ろに柱 前に酒 左右に美人 懐に金

山田方谷は危機状態にあった藩の経済を「質素倹約」を徹底させて再建させた人物だが、そのような人間でさえ、心の中ではこういう遊び心をもっていたのだ(尚、この歌は方谷のオリジナルではなく、誰かの狂歌なのだろう、古典落語にも出てくる)。
経済苦、鬱病、糖尿病、アルコール性慢性肝炎といった四重苦の中でこんなふざけた年賀状を書いたということは、かなり心に余裕ができ、諧謔精神が備わってきた証しだろう。

★競馬の的中率が上がる

私は学生時代から競馬をやっているのでもう30年のベテランになる。今年になってから不思議に勘が冴え、僅か6週間の間に馬連の万馬券を4回も取った(私は馬連しか買わない)。決して大穴狙いばかりしているわけではなく、本命馬券もしっかり取っているが、なぜか「このレースは荒れる」と分かるようになり、計算の上で万馬券が狙えるようになった。経験が長いのでもともと普通の人よりは上手かったが、ますます直観力が鋭くなった。
 坐禅の心境が進むとギャンブルなどといった煩悩から離れて枯れていくものとばかり思っていたが、逆にそのときそのときに集中し、遊びは遊びで充分に楽しめるものだと分かった。

★女性に好かれるようになる

私の住んでいる街は駅前に飲食街が集中し、スナックやキャバクラの数が非常に多いので有名な地域である。9年前に当地に転居してから、酒の好きな私は夜になると決まったように飲みに出かけていた。やがて糖尿病と診断され、また収入も減ったので家で飲むようになった。ところが坐禅を再開した昨年(2007年)の10月に、たまたま駅前まで散髪しに行ったついでに久しぶりに夜の街に出かけてみた。
店に入ると前から顔なじみの美人ホステスがついた。酒を飲みながら「君みたいな綺麗な恋人が欲しいな」と、定番の大人の会話をした。女の子が横につく飲み屋にいったことの無い人のために念のため断っておくが、そういう場での猥談や口説きは「お約束」であって、いちいちそれを真に受けるようなホステスさんはいない。だから普通は「嘘ばっかり」とか「奥さんに叱られるわよ」と上手にいなされるのだが、彼女は意外にも「本気なの?」と聞き返してきた。それで「もちろん」と答えると、「私嫉妬深いけど、それでもいい?」と念を押してくる。長年の経験で、これは口説けるな、と思い、次回同伴の約束をした。
同伴してみると嘘のように会話が進み、野暮な説明は省くが、人目を避けてキスをするぐらいの仲にはすぐに進んだ。
さらにまた別のホステスさんに同じような軽口をたたいたら、これもまた不思議なことに真に受けて実質的なOKサインが出た。
経済難なので頻繁には会えないが、ともかく若くて美人の恋人が二人できたのだ。若い頃ならともかく、50歳を過ぎ腹の出たデブ親父で、ヤクザか右翼に間違えられるような怖い顔をした私が何故?と自分でも信じられない。

またこれは全くの偶然なのだが、若い女性と付き合いだしたのと同時に、25年も前に別れた初恋の女性が突然メールを送ってきた。彼女は私が浪人下宿にいたとき、浪人仲間の間で「早稲田小町」と呼ばれた美人高校生だった。私は大学に合格してこの女性と本当の意味での最初の恋をして数年付き合った。結婚したいと思ったほど惚れた相手だったが、簡潔に言えばお互いの浮気がもとで別れ、彼女は別の男性と結婚した。その女性がパソコンで検索して私のHPを見つけ、メールしてきたのである。
人生の荒波に揉まれたらしく、彼女は聖女のように美しい魂の持ち主になっており、今でも貴方を愛している、と言って思いやりの篭ったメールをくれ、今はすっかり仲の良いメルトモになっている。「男は別れた女に悪口を言われるようではダメだ」と誰かが述べているが、この女性が私を慕ってくれていることで、私は胸のツカエが取れ、充実した日々を送っている。
 
(生真面目な読者から見れば、見性の兆しという神聖な話題にギャンブルと女の話をするなどもってのほかと思われるかもしれない。しかし事実は事実として記しておきたい。「他人に尊敬されたい」とか「威厳を保ちたい」という気持ちこそがまさに煩悩なのだ。体裁を繕わずただ事実を書き残す)
 
★前向きな人生観を持つようになる(糖尿病の治療開始)

次いで、性欲という煩悩が原因で結果的に真面目な生き方が出来るようになった、という面白い逸話を語ろう。
前述のように女性に好かれるようになり、いつでもベッドインできる条件が整ってくると、気になるのは糖尿病によるED症状のことである。男の嗜みとしていざというときのためにED改善薬(バイアグラやレビトラ)は用意していたが、個人輸入の製品の大半が偽物だという報道があったのをきっかけに、2週間に一度抗鬱薬をもらいに通っている心療内科の医師に処方を頼んでみた(この医師には8年以上お世話になっているので、何でも語れる親しい関係になっている)。すると、その病院では処方していないがいい医者を紹介する、と家の近くにある内科医院を教えてもらった。
早速受診してみたところ、先ず血液検査を受けさせられた。その結果が以下の数値である。


Hb-a1c 血糖値 中性脂肪 γーGTP
私の数値 9.3 424 405 495
正常値 4.3〜5.8 70〜109 50〜149 70以下

医師は「これはいつ昏睡状態になってもおかしくない危険な数値です。まず糖尿病から治療しましょう」といい、投薬、管理栄養士による食生活改善、一日30分のウォーキングというプログラムを提示した。
これは有難かった。私は高校生の頃から何故か「自分は50代で死ぬだろう」という固定観念めいた確信があり、それならそれでいい、と思って生きてきた。好きなだけ酒もタバコも飲んでいたし、γ―GTPなどは最高1300まで上がったことがあるが、禁酒することは出来なかった(今でもしていない)。
この治療によりもし自分が長生きできるなら、将来のために現在を意義深く使わねばならない、という普通の人にとっては当たり前の、ごく真っ当な考えが持てるようになった。
また、真冬のウォーキングという鬱病患者にとっては非常に厳しい行為を試したところ、意外にもこれが楽しく、現在では生き甲斐すらなっている。さらに私はウォーキングの際に歩行禅を試みるので、この行動が見性体験の助けになった。詳細は後述する。

★容姿への劣等感が暴れ始める

これまで書いてきたことは言わば「陽性反応」だが、面白いことに逆に「陰性反応」も現れた。
自己愛やエリート意識が煩悩であることは誰にでも分かるし、それを消滅させることは以外に簡単だが、実は最もやっかいな煩悩とは「劣等感」であり、これを乗り越えることは並大抵のことではない。「凡夫即仏」という思想は使い古されて慣れっこになっているが、なるほど確かに、言葉は簡単でも自分の仏性を本当に自覚することは至難の業なのである。

若い頃の私はなかなかの色男で、芸能人に間違えられたこともあり、女性にも相当にもてた。しかし私は自分の顔に劣等感を持っていた。具体的に言うと前歯の上下が4本ずつ少し前に出ていて、大げさに言えば馬の歯のようになっているのだ。この歯並びの悪さは、それが親からの遺伝なら諦めもつくのだが、明らかに自分自身の意図的行為が原因だったので余計に気になり後悔していた。
というのは、幼稚園児から小学低学年のころまで私は親戚の「真理ちゃん」という女性に可愛がられていた。私より5歳か6歳年上で、美人で頭が良く、とても優しいお姉さんだった。だから私はいつも「大きくなったら真理ちゃんと結婚する」と言ってなついていた。その真理ちゃんの癖が「笑うときに舌を前歯に押し付ける」というものだったのだ。そうして笑うと歯の隙間から桃色の舌が見えて、不二家のマスコット人形のペコちゃんのように可愛いのである。
それで私は彼女の真似をして、笑うとき意識的に舌で前歯を押すようになった。このために乳歯から永久歯に生え変わるときに歯並びが悪くなったのである。その事実を自分で自覚しているから、人から容姿を誉められても自分自身では劣等感を抱き続けていた。
若い頃は容貌に少し欠点があっても逆にそれがチャームポイントになるが、年を取るに従いそれはただの欠点に収まっていく。たとえば女優の南野陽子が若い頃はリスのように可愛かった前歯(大きくて少し出ていた)を後年差し歯にしたように、私も自分の前歯を出来るものなら治したいと常に思っていた。
 
坐禅を再会した頃からこの劣等感が急激に膨らんでいった。ふと気付くと無意識のうちに舌や唇で前歯をいじっている。次第にその癖が強迫神経症のようになって、寝ているときと坐禅を組んでいるとき以外は常に口元を動かすようになってしまった。自分でも分かっているのだがその行為が止まらない。妻に「助けてくれ」と泣きついたほど自己コントロールが出来なくなったのだ。
それで僅か4ヶ月ほどの間に、以前はふっくらしていた上唇が薄くなり、法令(小鼻の付け根から口の端にかけてのシワ)が長く、深くなり、人相まで変わってしまった。おまけに、その癖のせいでアゴ関節に常に力が加わるため「耳下腺炎」を起こして病院に通うまでになった。
坐禅の心境が深まるに従い無意識が浄化している最中に、最後の最後まで執拗に残っているのが容姿への劣等感だということが分かった。
曹洞宗で最後に悟った人と言われる澤木興道師が、実際はゲンコツを握ったような顔をしているのに、「俺は男前だ。ただそれが凡人には分からないだけだ」と述べているのを読んで、へぇ悟った人でも容貌が気になるのか、と不思議な思いをしたものだが、実際、それぐらいに容姿へのこだわりは無意識に食い込んでいるのである。
(見性後はさすがにこの強迫神経症は治まったものの、未だに少しは気になる)

禅は「自己否定」から始まり「無我」となって仏性を体現するが、自己否定は意外と楽々と出来るもので、究極に近づくと逆に「自己肯定」のほうが難しい。
たかだか自分の顔すら肯定できないという事実を前にすると、「十界互具」とか「凡夫即仏」という如来蔵思想・本覚思想が、文字づらこそ当然のように見えるが、実は驚天動地の革命思想だったことが分かる。
下手な公案などよりも「凡夫即仏」のほうが遥かに理解しがたいものなのである。

★法悦感の増大と「微笑禅」の発見

2008年1月8日、玄侑宗久師からのメールで自分の坐禅を認めてもらってから自信がつき、禅定の力が一層強くなり、座中の法悦感が飛躍的に伸びた。
明らかに変わった点がある。おかしなことを書くようだが、座中に「陰茎の根本が射精時のように痙攣する」ようになったのである。脳内に快感物質が迸るから陰茎がピクンピクンと痙攣するのか、それとも痙攣するから脳内に快感物質が放出されるのか、未だにどちらか分からないのだが、ともかく先ずそういう身体反応の変化が起こった。10呼吸に1度、あるいは5呼吸に1度ぐらいの頻度で痙攣する。時には連続して痙攣することもある。
それに従い、座中に「楽で楽で、嬉しくて嬉しくて仕方ない」「もうこのまま死んでもいい」という心境になり、思わず微笑んでいる。時々喜びが抑えきれず声に出て、フフフ、と含み笑いをしてしまう。なんだか爆笑寸前のところを必死でこらえているような心理状態が続き、嬉し涙で視界が曇るようになった。はたから見たら狂人になったと思われるだろうが、自分では相当な境地に進んでいるのが分かった。そこで私は自分の坐禅を「微笑禅」と名付け、妻に「このまま行けば今年中に悟るかもしれないぞ」と予告した。


{見性体験}

今年(2008年)の1月28日月曜日、私は靖国神社に行って初詣がてら昇殿参拝を受けるつもりで午後1時には家を出ようと考えていた。愛国者として一度は行くべき場所であり、私の叔父(父の長兄)は日露戦争のおり旅順で戦死しているので私は遺族でもある。また何かと話題の遊就館も一度は見学したかった。
ところがパソコンに向かってメールの返事を書いたり、お気に入りのサイトに書き込んだりしているうちに2時になってしまった。それでいつもは40分ほど坐禅を組むのだが、時間がないから今日は20分で終わらせようと、あわてて座蒲に座った。
早く終わらせようと思ったためにいつもより集中力が増したのだろうか、そのときの坐禅はいつもよりも法悦感が強く、陰茎の根本がしきりに痙攣を繰り返し、微笑、含み笑い、感涙と続いて、申し分のない坐禅になった。
それで2時半になったので念のために靖国神社に電話をして確認すると、昇殿参拝の受付は午後4時までだという。計算するとギリギリで間に合わない。私は落胆した。
仕方なく私はいつものように糖尿病治療のためのウォーキング(歩行禅)に出かけた。川沿いの道を30分歩いたのだが、不思議に楽々と無念無想になり、心で唱える七文字の題目の中に自分の体と宇宙が一体に納まっている安楽感・充足感を覚えた。実に爽快な気分で帰宅し、下着を着替えた。
 
この辺りから、どうもおかしな感じになった。
普段は座中の法悦感は組み終えたあと1時間ほどすると日常生活に埋もれて消えるのだが、この日はその法悦感が消えず、むしろドンドン増加していくのだ。
楽で楽で、嬉しくて嬉しくてたまらない。半忘我状態になっていたので詳細までは思い出せないが、なるべく丁寧に説明しよう。一言で言えば、射精直後のように、全てのストレスが消え去り快感に浸りきっている感覚が何時間も続くのである。毛穴から何か空気のようなものが吹き出ていくような、風呂上りに体を扇風機に当てたような感じが続く。もっと正確に言えば、脳みその中はもちろん、体全体にハッカのような揮発成分でも塗ったかのような涼しさを感じる。
地に足が着いていないような、空中に釣り上げられているような、また逆に奈落の底に向かって落下しているような、行方の分からない恐怖感を感じる。具体的に言えば「喜悦感が8割、恐怖感が2割」といった感じである。
妻が帰ってきたので「多分いま見性している。突然笑いだしたり、踊りだしたり、叫び出したりするかもしれないが、気が狂ったわけではないので落ち着いて見ていてくれ」と繰り返し言ったことを記憶している。
自分がどこまで飛んでいくのか、まるで宇宙の果てまで連れ去られるようで怖くなり、思わず釈迦や日蓮の姿をイメージしてその姿の中に逃げ込みたくなった。その瞬間、玄侑宗久さんが送ってくれたメールの文章「禅宗ではどのようなイメージも否定します」という言葉が脳裏をよぎり、「臨済録」の次の文句を思い出した。

仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢(らかん)に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷(しんけん)に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。

そうか、仏を殺すのはこのときだ、と決心して、どんなイメージにも救いを求めず、なるようになれ、と腹をくくった。
その途中経過を前述した「お気に入り」の掲示板に書き込んだ記録があるので以下に紹介する。おかしくなってから3時間ほど経った頃の書き込みである。

私が変です。 ?投稿者:那田尚史 ?投稿日:2008年 1月28日(月)19時42分25秒
さっき自分の掲示板に以下のように書きました。
**********
 まず最初の5呼吸で三昧に入る。脳の中に快感物質がほとばしり、背筋が震える。さらに快感が強くなり、射精の時のように陰茎の根本がピクンピクンと痙攣する。
 ああ、もういつ死んでもいい、と心から思う。坐禅後、現在まで4時間、そういう状態が続いている。もう見性は目の前だろう。もしかしたら今その最中かもしれない。確信が生まれたら「私の見性体験記」を書きます。
 私はこういう風に徐々に快感が深まってきたので、「歓喜の大爆発」が起こる心の準備が出来ているが、もし突然今の状態になったら、「キチガイになったのではないか」と不安に陥るだろう。
 これ以上の歓喜が訪れるとしたら、自分でも少し怖い。
**************

気味が悪いので、これから風呂に入ったら、寝酒を飲んで、逆にシラフになりたいです。

何かの力で天に引き上げられている感じです。こうなったら、史上最高のレベルまで進んでみようと、腹をくくっています。今の実感は「最高に気持ちいいけど、不気味」です。

それで風呂に入って酒を飲むことにした。
酔っぱらうことでこの異常な感覚を逆に正気にしたい、という気持ちだった。それくらい不気味だったのだ。ところが酒を飲んでもその至福感は全く変わらない。飲めば飲むほど頭がカンカンに冴え渡ってくる。
それでふと面白いことを思いついた。私は個人映像・実験映像の研究者兼批評家なので、映像作家に友人が多い。その中の一人に「見性体験の実況中継」をしようと思いついた。
 ちょうど夜10時に電話をかけた。「遅い時間に済みません。5分だけ付き合ってください。どうやら遂に悟ったみたいです。今のうちに何でも質問してください」と最初に言ったことは覚えている。結果的に1時間語り合ったのだが、忘我状態になっていたので詳細は思い出せない。
体全体が射精中のペニスになったようだ、とか、名画や名曲を鑑賞しているときに鳥肌が立って背筋が寒くなる感覚がずっと続く感じ、などと説明したはずだ。
唯一明確に覚えているのは、「もし神通力が備わったとしたら、それを捨てずに世のため人のために使って欲しい」と彼が言い、私も、そうしたい、と答えたことである。

オウム真理教のような密教系の宗教と逆に、禅宗では見性に伴い備わってくる種々の神通力を「魔境」と言って無視する。しかしこの汚れ切り、善良な人々が苦しみ嘆いている娑婆世間では、世のため人のために堂々とその神通力を発揮して、たとえば唯物論者・科学絶対主義者の大槻義彦教授をへこますぐらいのことをやってもいいのではないか、と思う。
ちなみに禅は、ある意味非常に変わっていて、神通力を無視するだけでなく、坐禅による法悦感すら最終的には滅するのである。
あるとき天台大師の『摩訶止観』を読んでいたら、「禅に喜楽あるのは病患である」と書いてあるのを見つけて不思議に思い、調べたことがある。丁寧に説明すると、「色界の四禅」のうち、初禅は「覚・観・喜・楽・一心」から成り、第二禅は「内浄・喜・楽・一心」、第三禅は「捨・念・慧・楽・一心」、第四禅は「不苦不楽・捨・念・一心」と進んで終わる。つまり高度になるに従って、喜悦や安楽といった喜びの感情が消えていき、最終的には無感情に落ち着くのだ。
さらに「無色界等至の四禅」というのがあり、簡略に述べると、対象に対しての想念を動かすことすら止めて、究極には呼吸しているかどうかさえ分からない仮死状態になってしまうのである。そこまで行って初めて解脱と呼ばれる。
しかし私は、もし禅の終着駅がそういうものであるのならキッパリと禅宗を否定する。
一人涅槃の境地に達して仮死状態になっているデクノボウのような人物と、颯爽として喜びに溢れ、時には神通力を発揮して人々を苦しみから救う人物とどちらが魅力的だろう。つまり、究極の解脱を目指すのではなく、その手前に留まって世のため人のために尽くす「菩薩行」こそ大乗仏教の真髄ではないだろうか。私はそう確信している。

話が横道にずれてしまったが、電話を切り夜中の3時近くまで飲んだと思う。缶ビール5本と黒糖焼酎を5合ほど飲んでも頭がカンカンに冴え渡るので、安定剤と睡眠薬を併せ飲んだあげくに気絶してしまった。

翌日、早朝に目が覚めた。さすがに寝不足と二日酔いで気分が悪い。悟ったのなら「気分が悪い」などということは無い筈だから、さては昨夜は一時的に躁病にでも罹ったのか、と落胆して、朝食を取り新聞を読んで、二度寝をするために布団に入った。
体を横たえ、不快感が急速に消えていくに従ってまた大歓喜に襲われ、頭がターボモードに入ったかのように高速回転し始めた。その瞬間にさまざまな公案が頭をよぎり、それを片っ端から透過した。そのとき初めて、あ、本当に悟ったんだ、と確信を得た。
私は曹洞宗だから「只管(しかん)打坐(たざ)」(ただひたすら坐る)の坐禅であり、臨済宗や黄檗宗のように公案を用いることはない。しかし『無門関』をはじめとする古典的な禅語録は一通り読んでいたので主な公案は知っていた。公案の答えは秘密にしておくというルールがあるので書かないが、見性してみればほとんど「当たり前」のことが書いてあるだけである。中に幾つか師弟問答形式の公案があり、普通の論理からすれば師匠の答えは質問に噛み合っておらず理解に苦しむものがあるが、それは質問者の心境が低すぎるので、師匠はそれを相手にせず、一気に仏性を示す言葉を吐く。だから一見論理的整合性が壊れているように見えるだけなのだ。
それで頭が冴えて二度寝できなくなり、また例の掲示板に書き込んだ。朝の11時前である。
文中、藤平光一の「心が体を動かす」という言葉を解説しているが、これはその掲示板で議論中の問題だったので自説を述べたのである。藤平氏は中村天風に「心が体を動かす」という一見当たり前の言葉を聞いたことで一種の悟達を獲得し、それ以来無敵の合気道家になった、と書いている。その解釈を提示しているのだ。以下引用する。

見性しました(多分) ?投稿者:那田尚史 ?投稿日:2008年 1月29日(火)10時47分45秒
昨日は坐禅中に射精感覚に襲われ、寝るまで続きました。
気持ち悪いので、わざと大酒を飲んで、シラフに戻ろうとしたのですが、いくら飲んでも気持ちよくて仕方ない。で、気絶して寝たようです。
 今朝起きてみると、二日酔いと寝不足で、頭がボーッとしています。さては昨日は一時的に躁病状態にでもなったのかな、と思い、先ほど、ノロウィルスで学校を休んでいる娘の横の布団に入り、猫を抱いて眠ろうとしました。
 ところが体を横にしてしばらくすると、二日酔いと寝不足でぼんやした頭が徐々に冴えてきて、また陰茎の根本が痙攣し、脳内に快感物質が溢れ出して寝付けなくなりました。
 どうも本物のようです。あと一週間、この状態が続くようならHPに「見性体験記」を書きます。

 昨日の夜、藤平光一師の「心が体を動かす」という意味が分かりましたので、参考のために書き記しておきます。

 この言葉は、やはり一定の高い境地にならないと理解できないと思います。
また、この言葉は例え話ではなく、実に具体的な、そのままの状態を言っているので、私も理屈でなく具体的に書きます。
 昨夜、晩酌のおつまみなどを買うために、自宅から100メートルほど離れたコンビニに行きました。私は歩くときには歩行禅を心がけていて、自意識を土踏まずの裏に置き、我執を踏みしめて歩く癖がついています。
 とは言え、凡夫ですから、様々な想念が頭をよぎります。いけない、いけない、と反省して、また意識を足の裏に置く、というのがこれまでの歩行禅でした。
 昨夜、コンビニに行くときは全く違っていました。自意識が100%足の裏に行き、心は春風のように爽やかで、頭脳は冴え返り、鳥肌が立つ喜びに包まれ、歩いているというより何かに歩かされているような気分でした。自分の体重がゼロになったかのように足が軽く、地面の少し上の空中を歩いている感じです。
 そのとき訳も無く「心が体を動かす」という言葉を思い出し、あ、これだ、と理解したわけです。

 上の説明に補足しましょう。上の体験は細かに言うと「心が意識を動かす」体験かもしれませんので、別の話に置き換えます。

 私はHPに書いたエッセー「剣道上達のコツ」に、今でも飛んでいるハエを物差しで叩き落せる、と書きました。
 一匹ぐらいを落とせるのは偶然、ということもあるでしょう。しかし、もし3匹のハエが飛んでいて、それぞれを一発で叩き落としたとしたら、それを見ている人は「神技」と思うでしょう。

 つまり、完全に精神が集中して、体が思い通りに100%動くという事実を言っているのです。合気道の場合、8人の相手を片っ端から投げ飛ばすなどというのは、まさに心のままに体が100%動き、しかも苦痛もなく、無理な力も入れず、自由自在に体が使える状態なのでしょう。
 むろん、この状態に到達するには、しっかりとした基礎体力、技を獲得した上で、さらに見性しなければできないものと思います。

 書いているうちに眠くなりましたので、これで失礼します。

補足:さっき布団の中に入っていたとき、禅の公案が頭に浮かびました。知っている限りの公案は全部解けました。正解かどうかはわかりませんが、全部当たり前のことが書いてあるだけです。自分が気持ち悪いです。

藤平師は「力を入れてはいけない。リラックスすれば気が出る」と言っているが、これも私の体験から言えば、嘘ではないにしても「説明不足」である。常人よりも遥かに強い基礎体力と技を獲得した上ではじめて「心が体を動かす」という境地に至るのであり、凡人がいくら心だけ用いても技など決まる筈はない(事実私が剣道に強くなったときも左右の握力は65キロで学年一位だった)。

こうしてまたも半忘我状態になって二日目を迎えた。その日は午後7時に高田馬場で瀬戸弘幸さんと会う予定になっていた。
瀬戸弘幸さんはネット右翼のカリスマであり、維新政党新風の副代表で前回の参院選に立候補された。選挙期間中、朝鮮総連の前で「拉致被害者を返せ。朝鮮人は祖国へ帰れ」と叫び、創価学会本部の前で「池田大作は朝鮮人だ」と叫び、中国マフィアの巣窟である歌舞伎町で「不法滞在している中国人を捕まえろ」と叫んだ日本一度胸のある政治活動家で、その様子はネット画像配信サイトyoutubeで公開され大変な反響があったのでご存知の方も多いだろう。瀬戸さんのブログ「日本よ何処へ」は全国ブログランキングの政治部門で常にベスト2を維持している。
私は彼の活動に共鳴し、自分のホームページに掲載しているエッセーをメールで送ったところ瀬戸さんが、ぜひ会いたい、と連絡してきたのだ。私も彼のように体を張って「菩薩行」を実践している人物にぜひ会いたかった。

それで最寄り駅から中央線に乗って中野まで行ったのだが、50分ほどの車中、いつもの習慣で電車の吊革に掴まったまま丹田呼吸をして瞑想に入ろうとした。いつもは簡単に出来るのに、このときに限って「今の心の状態を解説する声」「これまでの修行を振り返る声」が聞こえ、うるさくて仕方ない。文中強調して書いたように、坐禅の要諦は言葉による思考を遮断して無念無想の状態を保つことであり、私は最初の坐禅からそれが出来たのだが、このときばかりは一呼吸するごとに自分を解説する内言が現れて集中できない。せめて10呼吸は無心になろうと努めたが、3呼吸までの間に内言が聞こえる。また1からやり直して、また3呼吸までに挫折する。それを7〜8回繰り返し、やっとの思いで10呼吸できたときに中野駅に着いた。背中から脂汗が吹き出ていた。

玄侑宗久師が「心の中の三千人の生徒がいっせいに暴れだす」と表現し、藤平光一師が「カニが泡を吹くようにブクブクと妄念が湧き上がる」と譬え、山本玄峰師が「八万四千の妄想が猛然と湧いてくる」と言った煩悩の正体はこのことか、と初めて理解できた。なるほどこんなに妄念が次々と現れてはたまらない。藤平師が、ノイローゼの人間が坐禅を組むのは危険だ、と述べていた理由がやっと分かった。
座禅中雑念に苦しんだことなどただの一度もなかった私が、見性体験をしたことで逆に一般人の瞑想の苦しさが理解できたわけだ。実に皮肉な現象である。
自分では純粋に「この見性体験を誰かに、特に玄侑宗久師に伝えたい」という気持ちがあっただけなのだが、再考、さらに再々考すれば、俺は悟ったんだ、人より優れているんだ、という驕慢な心が無意識のうちに横たわっていたのかもしれない。

東西線に乗り換えて中野から高田馬場までの2駅の間は、座席に座り視点を床に落として丹田呼吸をしながら普段の瞑想が出来た。高田馬場に到着したとき顔を上げると、車中の風景がいつもと違って見える。
あ、これか、と分かった。悟ると風景が変わって見える、というのは昔の人の見性体験談に書いてあるので知っていた。要するに、自意識が変性しているので、まるで他人が見た景色のように不思議な光景が広がるのである。

瀬戸弘幸さんは先に待ち合わせの場所に来ておられた。私は早速見つけて「瀬戸先生、会いたかったです」と声をかけたら「先生はやめて下さい」と言われたので、その後は「瀬戸さん」で通した。
寿司屋で飲みながら政治談議に耽ったが、これほど思想がピッタリ合う人がこの世にいるのかと感動した。この人はヤクザと日本刀での斬り合いになって相手に重症を負わせ、傷害罪の実刑を食らって公務員をクビになった猛者なので、どんな怖い人だろうと思っていたら、見掛けは学校の教員のように真面目で穏やかで、私のほうが遥かに怖そうな面構えをしている。話し方も理知的で、まったく意外の感を受けた。「世直し菩薩様だなぁ」と思いながら実に楽しいひと時を終えた。

私はその日は高田馬場のホテルで一泊した。半忘我状態の見性体験はこの二日間続いたわけである。



{見性体験を振り返る}

現時点で私の見性体験を振り返ってみよう。
妻に当時の様子を聞くと、「躁病になったのかと思った。同じ話を繰り返して一人で盛り上がっているので、聞いているほうは腰が引けてしまった」と答えた。悟ると後光が差すなど傍目から見ても立派に見えるのかと思ったら、全くそういう変化は起きないらしい。妻の目にはむしろ軽薄な人間のように映ったようだ。
一方、見性中に電話をかけて実況中継した映像作家にメールで尋ねたところ、「いつもの那田さんでした。柔らかい調子の知性的な話しぶりに、お酒が入った陽気な気分が加わった様子、といったところです」との返事だった。

妻が語ったように、私もまた「一時的な躁病」になったのではないかと訝った。
私は16年間SSRI(最初はデプロメール、現在はJ・ゾロフト)という抗鬱薬を飲み続けている。それが突然効いて、その副作用で躁状態になったのではないか、と疑ったのだ。 
しかし私はこの薬を飲み始めてハイな気分になったことは一度もなく、本当にこの薬が効くのだろうか、と怪しみながら飲み続けていた。軽い鬱病の場合は投薬後3ヶ月ぐらいで治る、と書いてあるが、私は性格上の特質がもともと鬱なので、薬ぐらいで治るとは思えなかった。まして、SSRI(セロトニンという脳内物質の再吸収を遮断することで脳内のセロトニン量を増やし爽快感をもたらす薬)では全く効果がないので、SNRI(セロトニンとノルアドレナリンを同時に増やす薬)が認可されたとき早速医師に新薬を処方して欲しいと願い出たところ、医師は「処方する側としてもノビシロを残しておきたい」と判断され、新薬の代わりに安定剤の量を増やしたぐらいだから、SSRIごときで(経験はないが)まるで覚醒剤でも打ったかのようなハイテンションになるとは到底思えなかった。
後日医師に確認したところ、躁病には「観念奔逸」「逸脱行動」「多弁」「浪費」といった異常な行為が現れるので、私の場合抗鬱薬による副作用の可能性はないとの診断だった。常識で考えてもセロトニンは精神を安定させ極度な快楽や驚きを逆に制御する薬であり、見性時のあの言いようのない至福感や覚醒感はドーパミンやエンドロフィンなどの放出の結果だと思える。抗鬱薬と見性体験は何の関係もないと考えていいだろう。

見性体験の引き金になったと思われることが二つある。
一つはその日が月曜日だったことだ。というのは私は土曜と日曜は坐禅をサボっている。二人の子供が学校が休みなのでリビングにいて落ち着かないことと、私は学生時代からほぼ30年間競馬を続けているので、土日は競馬を楽しむ日に充てているからだ。本を読むと坐禅は毎日しないといけないと書いてあるが、私の場合はむしろ二日ぐらい間をあけたほうが、坐禅を組みたい、という欲求と渇望が高まり翌日の坐禅が充実する。だから、二日サボった後の月曜の坐禅だったこと、しかも靖国神社に参拝するために短時間で坐禅を終わらせようと集中したことが見性の原因の一つと思われる。
もう一つは糖尿病治療のためにウォーキングを開始したことに関わる。土曜からウォーキングを始めたので、月曜が坐禅とウォーキングの両方を行った最初の日に当たる。私は既述したように歩行禅を実施しているから、その日は言わば「室内の静の坐禅」と「室外の動の坐禅」の両方を続けて行ったことになる。普通の座禅に加えて歩行禅を併用したことが見性体験の大きな要因だろう。

ここで見性前と見性後との心境の違いを説明しよう。
見性前でも座禅中に忘我の法悦感を味わうのは日常的だったが、それはあくまでも座中のことであり、現実生活に戻ると1時間程度で法悦感は静まっていた。しかし見性後は法悦感が連続している感覚がある。むろん人間なので、睡眠不足や体がだるいときなどは気が滅入るが、そういうときでも丹田呼吸を一度行うと心がスカッと晴れ渡る。たとえて言えば、腕っ節は強いが気が弱くて、酒を飲まないと度胸が据わらないヤクザがいたとしよう。彼がある日からシラフでも度胸が据わるようになったとすれば、これは無敵になるだろう。もちろん彼にとっての酒が私にとっての坐禅なのである。

逆に困ったことが一つある。二度寝が出来なくなったのだ。
私は大抵朝5時から6時の間に起き、大学の講義が無い日は9時ごろから1〜2時間二度寝をするのが習慣になっている。ところが見性体験以来、布団に入ると頭がターボモードになって高速回転するために寝付けなくなった。だから現在は二度寝の前に安定剤を飲んでいる。
逆の面から見れば、頭が冴え渡っているぶん非常に行動的になり、毎日仕事を見つけて動き回るようになった。私は職業柄、本を読み原稿を書くのが仕事なのに、以前は慢性的な鬱症状のためにそれらの行為が億劫でしかたなかったのだが、見性後はむしろ無聊なのが辛い。次々とやるべきことを見つけて、スケジュールで一杯になっているぐらいが丁度心地いい。大げさにではなく、一日にぼんやりしている時間は10分もない。それほどに大きく変化した。



{悟りを目指す読者へ}

ここでは読者との質疑応答の形で、悟りを目指す人々のためにアドバイスをしたいと思う。
まずはじめに、私は従来の坐禅のマナーや常識を無視して見性に至ったので、そのルール違反の行為を再度まとめて記しておく。

@「坐禅を組むときは静かで綺麗な場所で」を無視して、騒音の多い、布団が敷きっぱなしの乱雑な場所で坐禅を組んだ。
A服装も寝巻きのままで、顔も洗わずに行った。
B時計を外し靴下も脱ぐのがルールだが、私は頓着せず靴下も脱がなかった。
C短時間でも毎日坐禅をするべきだと言われているが、私は土日はサボった。
D座禅中は絶対に動くな、と言われているが、私は顔が痒ければ掻き、時々姿勢を正すなど、気持の赴くままに体を動かした。

しかし、これらの無頼な坐禅で実際に見性したのである。では以下、質疑応答形式で助言する。
 
★誰でも悟れるか

結論を言えばNOである。
法華経方便品には、釈迦がこれから法華経を説こうとするとき、五千人の傲慢な僧侶と在家が、そんな説法など聞きたくない、と席を立って去っていった記述がある。どうしても成仏できない度し難い存在を仏教では一闡提(いっせんだい)と呼ぶ。現代風に言えば自己愛型の人格障害者やサイコパス(反社会性人格障害)などを指すのだろう。こういう人が悟る可能性は無いと私は思う。たとえば池田大作は、勤行嫌いで有名だが、曲がりなりにも60年間はお題目を唱え続けてきたはずだ。それであのように浅ましい勲章コレクターにしかなれないのだから、腐った根性で何百万遍お題目を唱えてもなんの効果もないことは明々白々である。菩提心のない人間は救いようがない。

★心がけが良ければ悟れるか

菩提心があれば悟れると思う。菩提心というのは「如来の心になりたい」と真剣に願う「気高い志」のことである。
但し資質の差は大きい。私の場合は心と体の特質が坐禅向きだったので早く悟れたが、人によっては長い時間がかかるかもしれない。
しかし、ある師家さんが言ったように「3年ぐらいでは数息観も出来ない」というのが坐禅の常識だとすれば、それほど長い間苦行を続ける意義が私には理解できない。私は最初の坐禅で爽快感を覚え、数息観も随息観も一回で身についた。坐禅ほど楽しい行為はないと思っている。だから、一週間ほど坐禅をしてみて爽快感も得られず数息観も出来ないのであれば、禅宗以外の宗教に打ち込むべきだ、と私は助言する。
戦後生まれた新興宗教などは論外だが、伝統仏教、キリスト教、イスラム教など様々な宗教があるのだから、自分に一番合う修行をすればいい。題目や念仏などは声を出し信仰の対境(本尊)に祈るぶん、遥かに集中しやすく、また易行である。坐禅で悟らなくても別の修行で悟ればいいのだ。どんな宗教でも3年間も真面目に修行すればおのずと一定の心境に達するに違いない。

★悟ると何かいいことがあるのか。

別に大金が入るわけでもなく、酒とタバコが止められるわけでもなく、私は相変わらず経済苦と病苦の中で生きている。ただ、それが少しも辛くない。その程度のものだ。
但し、確かに頭はシャープになる。いわゆる般若波(はんにゃは)羅(ら)蜜(み)多(た)(如来の知恵)が備わるからだ。悶々と悩むことが無くなり最良の答えが一発で見つかるようになる。

★どんな人が悟り易いか

先ず激しいスポーツに打ち込んだ経験のある人。
私は剣道とバスケットボールに打ち込んだ。こういうスピードを求められる運動は、練習中でも試合中でもボンヤリして物思いに耽っている暇がない。フト気付くと2時間ぐらい経っている。それが「三昧」というものだ。三昧の習慣がついている人は坐禅に向いている。
それから堤防釣りの好きな人。
前の日から仕掛けを何種類も作り、当日は潮を読み、タナを探り、エサの付け方を工夫し、竿のアクションを工夫し、ひたすら電気ウキを見て当たりを待ち、今か今かと思いつつあっという間に夜明けを迎える。その工夫と三昧の力は坐禅に共通する。
ボンヤリ座っていてはいけない。あれこれと工夫を重ね様々に試してみて、あるときコツが分かる。堤防釣りの名人は坐禅においても名人になれると思う。

★我流の坐禅で悟れるか

最初は禅寺の参禅会に参加したり、師家さんに指導を受けるなどして、姿勢や数息観・随息観の基礎を習うべきだと思う。吉本新喜劇でよく使われる「ワシは空手3段やで。通信教育の」というギャクがあるが、坐禅入門書を読んだだけでは肝心なところは伝わらない。
何事においても基本は最も大切であり、出だしを誤るととんでもない野狐禅になる可能性がある。天体観察をした経験がある人はすぐお分かりだろうが、望遠鏡の角度を360分の1度ズラしただけでそれまで見えていた星が見えなくなる。それと同じ理屈である。

★途中で体を動かしてもいいか

本を読むと絶対に動いてはいけない、蚊が刺しても動くな、と書いてある。しかし私は、たとえば顔が痒いのにそれを我慢している時間のほうがもったいないと感じる。私は顔が痒ければ直ぐに掻く。そうしてさっさと無念無想の状態になることを心がける。三昧境に入れば顔が痒いなどということはまずないのだから、それ以前のウォーミングアップの時間帯には自由に動いていいと思う。
また私は頚椎ヘルニアの持病があるので、ともすれば猫背がちになる。そういうときはグッと姿勢を正し直す。さらに法悦状態に至ると爆笑しそうになり臍下の筋肉が始終震えてしまう。だから私の坐禅は結構体が動いている。それで全く問題ない。

★坐禅をするのにどんな道具が必要か

真面目な人は羽織袴(坐禅着)に着替えたり、作務衣(さむえ)に身を包んだりするが、家で行うぶんには私のようにパジャマのままだって構わない。座蒲(尻の下に敷く特有の座布団)についても厚めの座布団を二つに折ったり、またパンヤを買ってきて自分で作ったりしてもいいと思うが、私は仏具屋で正式な座蒲を買った。書道における筆、剣道における竹刀、釣りにおける竿、またギターに凝ったときの経験などから、道具はある程度いいものを揃えたほうが上達が早いのは確かである。私の座蒲はビロード製で見ても触っても気持ちいいし、寝るときは抱き枕の代わりにして抱きしめて寝ている。5千円前後だから買うことをお薦めする。

★どんな本を読むべきか

私は80冊以上の禅関係の書籍を買って読んだ。本質論的にはどんな下らない本を読んでも、それが開花のための土となり肥やしとなり水となり太陽の光となる、とは言える。ちょうど画家がピカソの絵を見ても幼稚園児の絵を見ても勉強になるのと同じである。
しかし一生の時間は限られている。効率論的に言えば下らぬ本を読むことで費やす時間はもったいない。
私が読んだ本の中で、本当に役に立ったものは10冊程度ではないかと思う。学者の書いたものは全部無駄だと思えばいい。大家・鈴木大拙の本ですら私は全く感動を受けなかった。やはりきちんと見性した僧侶による、しかも「語録もの」が面白くためになる。お薦めの本が数冊あるので紹介しよう。
入門書としては安谷白雲の『誰にもわかる座禅の手引き―総参の話―』が懇切丁寧で、実体験をもとに語っているので最適だろう。但しこの本は入手し難いので、発行所の住所を記しておく(熊本県菊池郡西合志町須屋字袖山2723−25 九州白雲会)。
あとは私が坐禅を始めるきっかけを作ってくれた山本玄峰の『無門関提唱』。それから澤木興道の『禅談』と『禅に聞け 澤木興道老師の言葉』(櫛谷宗則編)が大いに役に立つ。山本師は臨済宗らしく見性の素晴らしさを強調して「悟れ、悟れ」と元気良く励ますが、その一方、澤木師は曹洞宗らしく、本当は自分は悟っているのにその事実を黙して語らず、「悟ろうとするその根性が間違っている」とハスに構えて諧謔と逆説を連発する。このあたり「臨済将軍、曹洞土民」の宗風の違いがよく現れていて、とても面白い。この3冊は何度読んでも飽きない。見性前も面白かったが、見性後はなおさら面白い。

ついでに研究的な本も2冊挙げておく。
公案禅(看話禅)に興味のある人にとっては秋月龍aの『公案 実戦的禅入門』は必読の書だろう(ただし、鈴木大拙に師事した人物だけあって学者臭さというか学僧の習(じっ)気(け)がプンプンするので私は一度読んだきり開いていない)。
また秋山さと子の『悟りの分析 仏教とユング心理学の接点』も一度は目を通すべきだろう。洋の東西の宗教や思想に言及するあまり網羅的になって思索の深みに欠ける点や、何もかもユングの元型論に還元してしまうきらいはあるが、禅寺で生まれスイスのユング研究所に学び、本人にも多少の見性体験がある人物が書いた本だけに貴重な本ではある。私も学生時代からユングが好きで、座禅を始めた当初から仏性というのはユング流に言えば自己(セルフ)のことではないかと想像していたが、この本を読んで全くその通りだったと分かり驚いた。
研究本は「語録もの」と比べるとどうしても書き手(語り手)の言葉の背後に漂う人間的魅力に欠け、「二乗」特有のいやらしさがあるものの、理入型の人間にとってこの2冊は読んで損はない。

★禅宗と日蓮宗の二股を掛けるのは矛盾ではないか

私の場合は全く矛盾を感じない。その理由を簡潔に言えば、禅宗は祈祷・祈願をしないからその分を私は日蓮宗で補っているのである。
祈祷・祈願をしないというのは一面からみれば、実に素晴らしい宗教観である。良寛さんが地震にあったとき、知り合いから見舞いの手紙をもらい、それに返答した文章は余りに有名なので引用しよう。

災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。

ここまでの心境になるのは大したものである。さすがは良寛さんだ。私も見性後はいつ死んでも構わない心境になっている。しかし、良寛さんのように仕事もせずにお布施で暮らし、弟子の尼さんと愛欲に浸って人生を楽しむような生き方は、私個人は憧れるが、現実には許されない。私には妻子もいれば老母もいる。私が世捨て人になってしまえば一家は路頭に迷うだろう。そういう過酷な現実の中で生きている人間は、往々にして自分の努力ではどうしても解決できない困難にぶち当たる。そのときに自然の感情として祈りや願いの心が芽生える。禅はそういうとき良寛さんのように諦観するが、日蓮は「祈り」によって困難を突破しようとする。
参考までに日蓮の『祈祷抄』から有名な一節を引用しよう。

大地はささばはづるるとも虚空をつなぐ者はありとも潮のみちひぬ事はありとも日は西より出づるとも法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず

だから私は現実社会に生きる一人の人間として必然的に法華経曼荼羅に祈祷・祈願するわけである。
難解な教学の話は省略するが、禅宗が強調する「縁起説」と日蓮が理論的支柱にした「一念三千論」とは双子の兄弟ようなもので、ちょっとだけ力点の置き方が違うだけだ。だから教義の上でも何の矛盾も感じない。
日蓮自身も『一念三千法門』の中で「智者は読誦に観念をも並ぶべし。愚者は題目計りを唱ふとも此の理に会ふべし」と記している(観念とは座禅のこと。理とは一念三千のこと)。もっとも日蓮は「禅天魔」と言って最終的には禅宗を否定するのだが。

★やはり坐禅は毎日やるべきではないか

様々な書物に「一日に5分でも10分でもいいから坐禅しなさい」と書いてあるが、私は別の考えを持っている。
今の私は最初の5呼吸ぐらいで三昧に入れるが、普通の人は20分を過ぎたあたりから心が落ち着き三昧の喜びを味わえるようになる筈である。だから、未だ法悦感に至らないままの状態で座を解いても意味がない。
一座(一柱)が大体40分前後に決められているのには理由があり、ちょうどそれぐらいの時間が法悦感の絶頂になり、もう少しこのままでいたい、というところで終わるのである。それ以上組むと集中力が途切れるだろう。私は寺の行事で二座続けて座ったことがあるが、二度目は足が痺れて集中できなかった。
だから初心者はやるからには40分前後はきちっと組むべきだ。
また最初に書いたように、私は土日は基本的に坐禅をサボっているが、それでも見性を得ることができた。ああ坐禅がしたい、と欣求渇望する気持ちで月曜を迎えると、組む前から嬉しくてしかたなくなる。恋人と会うのだって、少し間を空けたほうがワクワクするように、坐禅も少しは間を置いたほうが効果的だと私は思う。
但し、歩行禅は常に行ったほうがいい。
サラリーマンのように毎日40分坐禅を組む時間が取れない人でも歩行禅は出来るし、電車やバスの中で丹田呼吸をしながら瞑想することも出来る。

★歩行禅の極意を教えてほしい

禅寺では坐禅の途中、一つは眠気を覚まし足の痺れをとる目的で、一つには禅定を動きの中でも保つ訓練のために室内を歩く(行(きん)経(ひん)という)。曹洞宗では一足半歩といってゆっくりと、臨済宗では元気よくズンズンと歩くのだが、私はその行(きん)経(ひん)をさらに発展させ日常生活の歩行にまで広げようと考えた。いわば思いきりハードルを高くして騒音の中で禅定を保つ訓練だ。それが歩行禅である。
まず土踏まずの下に我執(自意識、自分へのこだわり、エゴイズム、自己愛)を置き、心はカラッポにして春風のように颯爽とした気持ちを抱き、一歩ずつ我執を踏みつけて歩く。一歩進めるたびに「無」「無」「無」と心で呟いたり、「南無」「妙」「法」「蓮」「華」「経」の6音節に合わせるとやり易い。
難しい順番にいえば「無念無想の歩行」>「心で無の字を唱える歩行」>「心で題目を唱える歩行」>「口に出して無の字を唱える歩行」>「口に出して題目を唱える歩行」となる。(なお日蓮宗の人はあえて題目を心で唱える必要はない。法華経も、また日蓮自身も題目を「声に出す」ことの尊さを力説している。適度な大きさで声を出し唱題しながら歩くのが理に適っている)
基本的に人間は声を出しながら他のことを考えることは出来ない。試しに「アー」と言いながら朝食の献立を思い出してみればいい。相当苦労する筈だ。だから声を出すほうがずっと易行なのである。
ところで、初心者のために一番楽な方法がある。鼻歌を歌いながら歩行禅をするのだ。要するに、我に対するこだわりを捨て、言葉で概念を組み立てず、物思いに耽らないための訓練なのだから、これが一番楽しくて易しい方法なのである。
私も無念無想の歩行禅の途中から鼻歌に変化して、実にいい気持で帰宅したことがある。面白いもので私の場合は「お吉物語」「人生劇場」「網走番外地」などアウトローの歌が自然に口に出てくる。もし三波春夫の大傑作「俵星玄蕃」にでも合わせて歩行禅を続ければ相当の境地になれるだろう。
もっとも鼻歌の歩行禅といっても、酔っ払いではなのだから、胸を張って肩を下げ、辺りを睥睨して、虎が街中を歩いているように堂々とした歩行を心がけることである。
次いで鼻歌から歌詞を抜いてメロディーだけを口ずさむようにする。その次は声を出さずに心の中に曲を流してやる。
 
ここまでくればあと一歩だ。坐禅でも歩行禅でも一番悪いのは「物思いに耽ること」である。普段ぼんやりしているときに人間は何を考えているかというと、大抵は過去を悔み未来を心配しているものだ。そんなことに頭を使うのは百害あって一利なしである。頭をカラッポにして気高い気持ちを抱いて無念無想になって、そして大好きな曲を心の中に流して闊歩できるようになれば悟りはもう目の前にあると思っていい。
歩行禅のもう一つのコツは視線を遠くに向けることである。具体的にいえば、街中を歩くときには100メートル先の信号機の色を見つめるぐらいにすればちょうどいい。これは視点を動かさず視界を変化させないための工夫で、人間は視点と視界が変化するとどうしても心も動いてしまう。だから歩行禅の場合は視線を地面に水平にしてなるべく遠くを見つめて歩くわけである。
鼻歌の歩行禅から始めてもし無念無想の歩行禅が出来るようになれば、室内でおこなう坐禅など朝飯前でマスター出来るだろう。室内の座禅より屋外の歩行禅のほうが10倍も20倍も難しい。

実際私は現在合計6度の見性体験を繰り返してきたが、それは全て歩行禅の途中か直後に起きている。4月5日に訪れた5度目の見性体験など、座禅も組まず、半日競馬を楽しみ、夜はバーで美人ホステスと談笑した帰り道、突然として忘我の歓喜に包まれた(もっともその日の午前中、中村天風の『運命を拓く』という文庫本を心読し、天風の心と同化して覚醒感を一日中抱いていた)。
歩行禅は悟るための「大リーグ養成ギブス」(「巨人の星」の主人公が体を鍛えるために使った加圧トレーニング器具)である。これが出来るようになれば徐々に「日常生活の全てが禅である」ことに気づくだろう。寺院で静かに座っているのが坐禅だ、と思っているうちは見性体験など得られるはずもない。

★悟ったかどうかは明確に自覚できるか

もちろんである。
前述したとおり私の場合は必ず歩行に供なって見性体験をするが、その時は言葉にできないほどの至福感で鳥肌立つと同時に、足にかかる体重の感覚がゼロになり、まるで空中を歩いているかのように体が軽くなるため歩行スピードが異様に速くなる。
 だから、「もしかしたらこれが見性だろうか?」などと自問自答したり、師家さんに判断してもらうような種類のものでは決してない。大地を指で差すぐらい明確に分かる。
 とにかく一度悟ってごらんなさい。気持ちよくて気持ちよくて、これが如来の心かと否応なく分かります。
 
 ★悟ったら鬱病は治るのか

 一発で治ります。
私は52年の人生を振り返ると、常に「俺は自分の能力の5%も使っていない」と自覚していたが、見性体験以後、仕事をするのが楽しくてたまらず、大袈裟にではなく一日に10分もボンヤリしている時間がなくなった。おかげでやっと自分の能力の50%以上が使えるようになった。
 但し抗鬱薬は飲み続けている。というのも、鬱病はどんなに症状が回復しても突然薬をやめるのは非常に危険なので、数年をかけて薬を減らしていくのが正しい医療法なのだ。私の場合はドグマチールとJ・ゾロフトを一日にそれぞれ3錠飲んでいたが、現在はドグマチールを一日2錠に減らしている。それぐらい徐々に減らしていくのが鬱病治療の原則なのである。

★私はあなたのように特別な資質のない凡人である。凡人でも悟れるか。

悟れる。
凡人凡夫の心の中に仏性があることを証明したのが如来蔵思想であり、十界互具や一念三千といった理論である。大乗仏教運動の眼目はまさに凡夫即仏を主張したことにある。日蓮などは、凡夫こそ仏の親である、と言っている。凡夫が悟ってこそ意義がある。

★難しい理屈は分からないが、どうしても悟ってみたい。そのコツの肝心(かんじん)要(かなめ)の部分だけを、なるべく易しい言葉で教えてほしい。

私が『無門関提唱』を初めて手にしたとき、山本玄峰師が「命が惜しいとか、金が欲しいとか、名誉が欲しいとか、そういう奴は禅坊主にはなれんぞ。絶対になれんぞ」と述べているのを、「それぐらいの心がけを持て、というたとえ話なのだろう」と解釈していたが、やがて、それが「本気」の言葉だと分かるようになってきた。
私はそれ以来坐禅中に、自分の首がその場で切り落とされ、ゴロリと転がった首の目が鮮血が噴き出ている私の「首無し胴体」を見ている、というイメージを繰り返し抱く訓練をして、死の覚悟を培った。
悟りのコツを一言で言えば「自分の命を捨てて、金も名誉も欲しがらず、ひたすら世のため人のために行動する」という決意を「本気」で抱けるかどうかである。
その決意が無いまま何十年坐禅を組んでも、その人は「坐禅の上手な俗人」に留まるだけで、見性など思いも及ばない。世のため人のために命を捨てよ、それがコツである。それが本当に出来れば「我執」などとっくに吹き飛んでいる。
日本に何千人の禅僧がいるか私は知らないが、戦後生まれで「俺は悟った」と堂々と言える人物が一人も出てこないのは、一年ほど本山に籠って即席で僧籍を頂き、親の寺を継いで坊さんを職業にして生きよう、というナマクラ根性の人間ばかりだからである。
日本中の禅僧たちよ、こう言われて腹が立つなら世のため人のため日本のために命を捨てて行動せよ、と私は言いたい。

★努力してみたがどうしても悟れません

悟る必要は全くない。
今の日本を見れば、地方の何千という町が廃れ、商店街はシャッター街となり、過疎地神経症で独身男たちが亡霊のような顔になり、全く必要のない河川改修工事で川が死に果ててしまった。特に小泉=竹中内閣が構造改革(新自由主義経済)路線を進めるようになってから、都市と地方、富裕層と貧困層の格差が決定的になり、日本はごく一部のエスタブリッシュメントが庶民の上に胡坐をかく身分制社会に変質した。そのうえ外交権はアメリカに牛耳られ日本はアメリカの属国化の道をひたすらに歩んでいる。小泉元首相は「ブッシュのポチ」と言われたが、日本国の首相が犬ころ扱いされるなど、日本の輝かしい歴史と伝統に照せば、屈辱、無残この上もない。
これらの愚政悪政を糺すほうが見性などより遥かに大切なことだ。悟ったデクノボウになるより瀬戸弘幸さんの活動に協力してビラ撒きでもしたほうがずっと立派な菩薩行である。
私も悟るまでは、悟ることで全てが解決する、と思いこんでいたが、いざ悟ってみると最も大事なのは「行動」だと分かった。たとえ煩悩だらけの田夫(でんぷ)野人(やじん)であっても、世直しのために命を捨てて行動すれば、すでにその人は菩薩であり、一人で家に篭っているだけの覚者より遥かに尊い存在である。
 


{「無位の真人」と「父母未生以前の本来の面目」}

2003年の夏、初めて禅寺の門を叩いて4年半、途中2年以上の中断があったので実質2年と少し、接心会にも一度も参加せず、土日は坐禅をサボって競馬に熱中するという無頼の修行法にもかかわらず、まさか見性に至るとは思いも寄らなかった。冒頭に書いたように、これは私と関わった全ての有縁の方々のお陰である。改めて感謝いたします。
実はこの体験記を書き始めた当初、最後の部分には以下のような文章を置こうと構想していた。その草案を以下に記す。

「私の見性体験には神通力が伴っていないので、本当の大悟徹底ではない。また文中、知っている限りの公案は全て透過した、と書いたが、改めて公案集を読んでみると、「父母未生以前の本来の面目」という公案だけが通過しない。この公案は『無門関』の第二十三則「不思善悪」から派生して生まれたもので、夏目漱石の『門』の主人公がこの公案で挫折することでも知られている。現代語に訳せば「お前の両親が生まれる前のお前さんの面構えを見せてみよ」というような意味だろう。これがどうしても透過できない。山本玄峰師は「こんなものは屁のカッパだ」と言っているが、所謂「難透」と言われる公案より、私にとってはこれのほうが遥かに難しいのである。
理屈では分かる。たとえば、善悪、好悪、美醜といった価値判断は両親の教えが無意識に沈殿して超自我を形成して生まれる。だからそれら後天的判断力から完全に自由になった私・・・ダダイストなどが主張した「タブラ・ラサ(白紙)」の私に戻るのだ、という返答は可能である。多分、この回答は当たらずとも遠からずで、ヒットではなくてもファール・チップぐらいはしていると思う。しかし、本当に悟ったときにはこういう理屈ではなく、体全体で一気に答えが分かるのだ。頭をめぐらせているようではダメである。
この公案が透過したときにおそらく神通力も備わり大悟徹底するものと思われる。だから私は次の見性を待っている。おそらく『正法眼蔵』を自分の掌(たなごころ)を見るのと同じぐらい明らかに理解できたときに、最後の関所を通過できるだろう」

と、書こうと予定していた。

ところがこの体験記を書いている途中、一度目の見性体験から約20日後に二度目の法悦感に襲われて再度見性し、その後次々と見性体験に襲われ現在合計6度の見性を繰り返している。
特に6度目の見性体験は私にとって決定的に意義深いものだった。というのはこの時に「無位の真人」の境地をまざまざと味わうと同時に「父母未生以前の本来の面目」をはっきり実感したからである。少し回り道をすることになるがその経緯を詳しく書こう。

私の父方の先祖は南北朝時代から紀州和歌山の現・海南市の有力な地侍(地頭もしくは守護大名)で後村上天皇に仕え、小牧の戦いの36人衆に加わり、徳川幕府になってからは代官を務めた森家である。本能寺の変の直後、明智光秀が雑賀衆(紀州の無敵の鉄砲隊)に協力の要請をした手紙を本家が所蔵していることからも、森家は雑賀衆と深い関係にあったことが推察できる。幕末に森家から有馬家に用紙に出され、軍略の対立で命を狙われ戊辰戦争のおり愛媛に脱出したのが父の祖父(有馬福三郎)で、父は刻苦勉励の末に立志伝中の人物になり、私が21歳の時に83歳で他界した。
ところで、私は生前の父が胡坐を組んで座っている姿を一度も見たことがなかった。それどころか私の母すら一度も見たことがないと言う。父は常に毅然と正坐して決して膝を崩さなかった。約50年の結婚生活の中で、自分の妻の前ですら一度も胡坐をかかなかった、というのは相当に異常なことだ。おそらく武士の孫としての誇りがそういう何気ない所作にまで染みついていたのだろう。
そういう父親のもとで育った上に、巻末のエッセーに書いているとおり私は熱心な剣道少年で、現在も自宅に日本刀や木刀を所持している。しかも赤穂義士を顕彰する中央義士会会員であり、どんなつまらない出来でも忠臣蔵関係の映画やドラマは見逃さない。そんな私にとって「命惜しむな、名をこそ惜しめ」という武士道の精神は、私の矜持心の拠り所だった。

ところで本書に書いてきたように、私は歩くときは歩行禅を行う習慣が付いている。我執を足の下に踏みつけて歩くのだが、我執は捨てたつもりでも「那田尚史」という自分の名前を踏みつけることは武士の末裔としての誇りが許さなかった。 
しかし最初の見性体験から3カ月後の4月29日、それこそ清水の舞台から飛び降りるつもりになって、思い切って自分の名前を足の裏に踏みつけて歩いてみた。その瞬間、頭のてっぺんからドーンと何かが抜けていき、体中に鳥肌が立って何とも言えぬ大歓喜に包まれた。禅者が言う「無位の真人」とはまさにこれだ、と、私は体全体でその完全な解放感を味わった。
 無位の真人とは要するに私に関わる全ての属性を捨てた状態のことだ。地位も肩書きも、名前も、国籍も、男女の差さえも、何もかも捨て、捨て去った末に、天地と一体になった「本来の面目」のことである。無位の真人になったと同時に私は「父母未生以前の本来の面目」という公案を一気に透過した。
私はこの六度目の見性体験で究極の心境を得た。
 
見性体験を繰り返す中で、もう一つ大きな変化があったのでそれも記しておく。
本書を書き始めた時点では坐禅中の私の一呼吸はせいぜい30秒前後だったが、現在は何十分でも呼吸を止められるようになった。
これは「密(みっ)息(そく)」といって虚無僧が尺八を吹くために獲得する呼吸法らしい。私の場合はなるべく呼気を細く長くする練習を積んでいたところ、いつの間にか息をしているのかしていないのか分からない状態になった。普段の座禅では面倒なので一呼吸5分まで数えてやめているが、多分一時間でも二時間でも続けることができるだろう。
山本玄峰師が「一呼吸30分になる」と『無門関提唱』の中で述べている部分を読むたびに、私は「3分の誤植ではないか」と思っていたが、実際密息が出来るようになるといくらでも息を止めることが出来る(まるで皮膚呼吸をしているような感覚である)。

以上、最初の見性体験以来3、4か月の間に到達した境地である。青年は3日合わぬ間に別人のように成長しなくてはならない、という。私もまた日々成長し続けている。


{神通力}

なお「神通力」についてだが、言うまでもなく私は過去世も来世も見えず、もちろん空を飛ぶこともできない。ただこの間に不思議な出来事が2つ起きた。神通力の一種か、ただの偶然か、その判断は読者にお任せしよう。以下私のホームページに記したエッセーから引用する。

猫FIPが治った話
 今年の春、我が家で飼っている二匹のネコのうち、一匹が徐々に弱っていった。
食事を受けつけなくなり、頭がカクンカクンと痙攣し、足が麻痺して動けなくなった。
 動物病院に連れて行ったところ、腎臓が腫れ、エコーで映すと肝臓に腫瘍が数多くある。そのほか血液検査などをして、医者は「FIP(猫伝染性腹膜炎)のドライタイプですね。余命4か月と覚悟してください」と言った。

 以下、「コーンのごまページ」(http://cgoma.com/index.html)というサイトから引用したFIPドライタイプの解説である。実際、まず助からないと書いてある。

猫伝染性腹膜炎(FIP) 〜感染・発症・症状・診断・検査・治療・予防〜
猫科の動物が感染するウィルスのひとつに、+鎖のRNAを持つ、Feline Enteric Coronavirus (FECVもしくはECoV: ネコ腸コロナウィルス)というものがある。感染は、糞に含まれるウィルスが口から入り、腸まで進み、腸の上皮組織に侵入することにより起こるが、感染が目立った症状を引き起こすことは稀である(子猫で軽い下痢程度)。ただ、このウィルスは増殖する際、突然変異により、マクロファージ内で増殖できる能力を獲得した Feline Infectious Peritonitis Virus(FIPV: ネコ伝染性腹膜炎ウィルス)へと変化してしまうことがあり、FIPV はマクロファージと共に、腸の上皮細胞から全身へと広がって行き、腹膜炎を含む様々な症状を引き起こす。これが、猫伝染性腹膜炎(Feline Infectious Peritonitis: FIP)である。現在有効な治療法はなく、発症すればほぼ死に至る
症状
FIPは、ウェットタイプとドライタイプと2種類に分けられるが、症状は猫によって様々のようで、一概にこれ、とは言えないようである(両方のタイプの症状がみられる猫もいる)。ただ、マクロファージが集まってできるかたまりである肉芽腫による腹部の炎症は、両タイプに起こるようだ(このあたりから病名がついたのだろう)。ウェットタイプは、発熱、食欲不振、活発でなくなる、脱水症状、貧血、黄疸、タンパク質を多く含む腹水・胸水(血管の炎症による)などの症状が見られ、発症から数週間で死亡する。ドライタイプは、発熱、食欲不振、活発でなくなる、脱水症状、貧血、黄疸、肉芽腫に起因する炎症による腎臓・肝臓・膵臓の機能障害、中枢神経障害、目の病気などが見られ(肉芽腫ができる場所によって、症状は実に様々)、数ヶ月で死亡する。

家に帰ってそのことを妻に報告すると、妻は泣き出した。
それで私は妻に「切れた手足が生えるような奇跡はないが、免疫系の病気なら治ることがある。今日から信心しろ」と言った。
 私は座禅を組み題目を唱えることを日課にしているが、妻は信仰心が全くない。しかし、猫を一番可愛がっているのは妻である。さすがに私の言うことに従い、毎朝仏壇の水を取り換える役目を引き受け、朝晩3唱だけでも題目を唱える、と約束した。ついでに大好きな「甘いもの断ち」をする、と言い出した。

 私はその時点で既に見性していたので、死ぬときは死ぬから仕方ない、しかしせっかく捨て猫だったのを引き取って我が家で可愛がり、家族みんなに幸せを与えてくれたのだから、出来るものなら助けてやろう、と思い、猫の腹を撫ぜながら「治る、治る」と声をかけ続けた。

 二カ月後、なんと腎臓の腫れが治まり、エコーに移っていた肝臓の腫瘍の影がきれいに消え、血液検査も正常になったのである。医者も驚いていた。そのことを報告すると妻は嬉し涙を流した。

 不思議なことに、それ以来私が仏壇の前に座って坐禅を組んでいると、その猫が決まってやってくるようになった。ゴロゴロと喉を鳴らし、私の太ももにくっついている。あまりに健気なので、私は猫の手を取って合掌させ、感謝の題目を一緒に唱える。

 犬猫など畜生だ、などと思ってはいけない。人間以外の動物はすべて仏性丸出しである。

 不思議な話のついでに書いておこう。
我が家に豆仏壇を置き、その中に本尊を安置したのは去年(2007年)の9月である。その豆仏壇は箪笥の横の鏡台の上に置いた。
 ところで、箪笥と鏡台はそれまで猫の遊び場になっていて、鏡台から箪笥に飛び上がったり、箪笥から鏡台に飛び降りたりして、完全に猫の縄張りになっていた。
 だから突然そこに仏壇を置いたら猫が仏壇の上に乗るだろう、と私は覚悟していた。しかし、猫は一度も仏壇の上に乗らなかった。ただの一度も、である。
 私が仏壇の前に座って祈ったり瞑想したりしていると、一緒に横に座ってかしこまっている。不思議なものだ、とつくづく思う。

 切れた手足が生えてくる、などという奇跡は起こらないが、癌などの免疫系統の病気は信仰で治る。戦後生まれた怪しげな新興宗教でさえ機関誌を読むとそういう奇跡談のオンパレードだ。おそらく心の持ちようによってNK細胞などが活発化してくるのだろう。医師で西洋医学と東洋医学に精通し、現在春日大社の宮司となっている葉室頼昭の『神道の心』を読むと、神の道に従えば癌など治って当たり前、と書かれている。

 いずれにしても死を宣告された我が家のネコは今でも元気で生きている。現代科学では説明のつかない奇跡は間違いなく存在する。(2008年6月9日)

他心通そなわる

昨日の夜、晩酌をしながら妻とお喋りをしているときに、実に不思議なことが起こったので報告する。

 私のリビングの壁には維新の志士など、日本のために命を捨てて行動した英雄たちの写真を額に入れて飾ってある。
 それで、妻に、「この中で誰が一番偉いと思う? 圧倒的に凄いのは坂本龍馬だ。西郷さんも勝海舟も高杉晋作も、今で言えば大臣レベルの人物だから、資金も軍事力もいくらでも自由に使うことが出来た。しかし龍馬は一介の脱藩浪人にすぎず、ただ知恵と度胸と行動力だけで、薩長同盟を実現し、大政奉還を実現し、「船中八策」を書いて明治新政府の基本方針まで作った。これはもう圧倒的で、天才と言うか、神そのものだ」

 と、様々なエピソードを話していた。
妻は歴史が大好きなので、他の難しい話をすると上の空で聞いているが、この話には興味を持ち、目を輝かせて聞いていた。本来歴史好きなので龍馬のことも大抵は知っている。だから私はより詳細なエピソードを語ることにした。
 話が進み、大政奉還のところに来たときだ。およそ次のような話をした。

「龍馬は薩長同盟を実現して幕府を倒す準備を整えた一方、もし日本で内戦がおこれば、イギリスやフランスなどの欧米列強がその隙を突いて日本を軍事制圧し植民地にしようと企んでいることが分かっていたので、内戦は絶対に避けたいと思っていた。
 それで、これが龍馬の天才的なところだが、260年続いた徳川政権を断絶させ、全ての権力を天皇にお返しさせる、という驚天動地のアイデアを抱き、土佐藩の要人・後藤象二郎を仲介人として時の将軍徳川慶喜にそのアイデアを進言させた。これが実現すれば倒幕の名目がなくなり、内戦を避けることができる。
 ここまでは誰でも知っているが、その裏にはこんな事実がある。手紙が残っているのでこれは本当の話だ。
 一介の浪人ながら、龍馬は後藤象二郎の親分のような立場にあり、“もしこの案が実現しない時は、象二郎よ、江戸城から生きて帰るな。その場で切腹しろ”と手紙で脅しつけ、“万一徳川慶喜がこの案を受け入れない時は、俺が慶喜を切る”と述べている。
 その覚悟を秘めて龍馬は後藤象二郎からの連絡を今か今かと待っていた。象二郎は死ぬ気で諸大名を説得し、ついに徳川慶喜もこの大政奉還を受け入れた。象二郎はその結果を直ちに手紙にしたためて使者を走らせて龍馬に伝えた。その手紙を読んだ時に龍馬は・・・・・」

 とここまで話しかけたとき、実に不思議なことが起こった。

突然として息がつまり、涙がボロボロとこぼれ出し、とても椅子に座って居れず立ち上がり、大声を出して男泣きに泣き続け、体中の震えが止まらなくなった。その状態が5分から10分も続いたのである。

 断っておくが私は「泣き上戸」のような癖は全くない。それどころか15歳から現在までの40年近く涙をこぼしたことは一度もない(優れた芸術作品、映画などを見て感動のあまり背筋に電気が走って涙ぐむことはまれにある)。
 私がどれぐらい涙と縁遠い人間かを示す、あるエピソードを紹介する。
私が大学生の時に父は83歳で老衰死した。私は一人っ子で、父が63歳の時に生まれたので父には溺愛され、驚くなかれ、私は高校2年生まで父の布団で一緒に寝ていたほど父が大好きだった(巻末エッセー「父の面影」参照のこと)。
 その父が死んだ時も、涙一つこぼれなかった。それだけでない。父の遺体を火葬場に搬送し、いざこれから遺体を焼く、というとき、これは恐らく日本中同じ決まりだと思うが、遺族の一人が点火スイッチを押す、というルールがある。私は平然とスイッチを押した。全く平常心のままだった。
 その姿を見たオンボヤキ(火葬場職員)が次のように言った。「あなたは凄い。どんなに気が強い人でもこのスイッチを押す時は取り乱れ、泣き崩れて、いつまでもスイッチが押せないものです」。
 またその様子を見ていた私の叔母が「お前は嫌味なぐらい冷静すぎる」と言った。

 それほどの私が大声を立て、肩を上下させて泣き続けたのである。

 やっと興奮状態が治まり、私はタオルで涙を拭きながら妻の顔を見た。妻はビックリして目をまん丸くしている。言うまでもなく、結婚して約20年、私が泣いている姿を妻は初めて見たわけだ。

 なぜそういう状態になったのか、説明する。要するに「他心通」が備わったのだ。
禅の修行をして見性すると様々な神通力が備わるが、その一つが他心通であり、他人の心が一発で分かる、という能力である。
 今年の1月28日に最初の悟りを得て以来、相手の心境が敏感に分かるようになった。直観力が高度に鋭敏になっているためだが、こんなのは誰でも持っている力なので、私は神通力というほどのものではないと思ってきた。
 しかし昨夜の現象は全く違う。つまり「後藤象二郎の手紙を読んだ瞬間の龍馬の心がそのまま私に乗り移った」のだ。まさにその10分ほどの間、私自身が坂本龍馬になっていたのである。

 その理屈を説明する。
見性すると我執が消えるので心がまっさらになる。そうすると唯識論では「大円境地」と言ったり「円成実性」と言うのだが、例えて言えば「ピカピカに磨き切った鏡のような心境になって真理がそのまま、全く偏見や予断なく、心にクッキリと映る」と同時に、すでに自他の区別(差別観)を超えているので、他人のことも犬や猫やミミズのことも皆全て私と一体になる。天地と我と一体、万物と我と同根、である。この心境を顕すために禅では色紙に「○」(円相図)を書いたり、「一」の字を書いたりする。
 唯識論で説明すると以上の通りで、実に明快に理由が分かる。

 遂に本物の「他心通」が備わったのだ。

 ちなみにその手紙を読んだ直後に龍馬がどのような言動をしたのか、続きを述べよう。

大政奉還を受け入れなければ「私が殺す」とまで言った徳川慶喜がその案を受け入れたと知った瞬間、龍馬は男泣きに泣きながら、江戸城に向かって頭を畳にこすりつけ、「よくも決心し給えるかな、よくも決心し給えるかな、この龍馬、これからは命をかけて徳川慶喜殿をお守りいたします」と述べたのである。
 無駄な解説は止めよう。分かる人には分かるが、天下の英雄とはただ度胸が据わっているだけではない。この境地に達していたからこそ、龍馬は一介の浪人の身分で日本を変えたのである。

 最後に西郷隆盛の龍馬評を引用して、このエッセーを締めくくる。
天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、
龍馬に如(し)くもの、未だかつて之を見ず。
龍馬の度量や到底測るべからず。
               ******************


 その他の神通力について私は、もしそれが身につくことで世のため人のために役立つのであれば、どうぞ力を与えてください、と祈っている。

{終りに}

現在の私は大悟徹底したのか、さらに見性を繰り返しさらに高次の心境に至るのか、何とも分からない。ただ私は、究極の悟りに至ることを全く焦っていない。これは多分、一定の体験をした人にしか分からない気分だろう。それを説明するために以下に賛美歌・「山路越えて」の歌詞を引用する。

1.山路越えて 一人行けど 主の手にすがれる 身は安けし
2.松の嵐 谷の流れ み使いの歌も かくやありなん
3.峰の雪と 心清く 雲なきみ空と 胸は澄みぬ
4.道険しく 行く手遠し こころざす方に いつか着くらん
5.されども主よ 我祈らじ 旅路の終わりの 近かれとは
6.日も暮れなば 石の枕 仮寝の夢にも み国偲ばん

(賛美歌 404番 詩:西村清雄 1903年)

この賛美歌は私の故郷(愛媛県西予市)で生まれたもので、西村清雄氏が法華津峠という険しい山路を越えて隣町に布教し、帰り道にその山中で一夜を過ごした体験をもとに作られたものであり、日本語の賛美歌としては最初の作品であると共に、名曲として広く知られている。
この4番と5番が素晴らしい。

4.道険しく 行く手遠し こころざす方に いつか着くらん
5.されども主よ 我祈らじ 旅路の終わりの 近かれとは

なんという澄み渡った心境だろう。私はこの歌詞を思い出すたびに鳥肌が立つ。禅用語「修証一如」(修行と悟りは一体である)の意味を本当に分かっている人だけが口に出来る言葉だと思う。

現在の心境をまた別の歌を引用して示せば、大石内蔵助の有名な辞世の歌

あら楽や 思いは晴るる身は捨つる うき世の月にかかる雲なし

と全く同様である。(一般にこの歌の初句は「あら楽し」と書かれているが、最新の研究では江戸時代の版木印刷のミスであり、「あら楽や(あらラクや)」が正しいらしい。たしかに「あら楽し」のほうが華やかで大向こう受けする言葉だが、「あら楽や」は口語的でより実感が篭る)。
切腹を前にこのような晴れ晴れとした歌が詠めるからには内蔵助も見性していたに違いない。(言うまでもなく、「かかる雲なし」は「苦も無し」の掛け言葉である)


さてここで悟りの秘訣を別の角度から整理してみよう。
言葉のうえだけなら悟るのは実に簡単なことである。我執、つまりエゴイズムと自己愛を消せばいいのだ。禅僧が、無我になれ、というのはこれを指している。ところが実践の上でこれほど難しい業はない。
どんなに社会的地位があり、人格者と思われている人でも、その内面は歪みヒビ割れた鏡のようになっており、99.999%の人間が自分を中心に世界像を歪曲して組み立てている。仏教用語では「無明が薫習している」と言い、本書でも唯識論に言及して煩悩を悟りに転化させる方法を述べたが、ここでは精神分析でいう「防衛機制」の面から少し説明しよう。
 人間は自我の安定を図るために「無意識」のうちに現実を歪めて捉える、というのが防衛機制の働きである。自我の安定とは、「自分は優れている」「世界は自分中心に動いている」という自己愛に守られた状態を指す。その暖かくて柔らかなユリカゴの中で暮らすためには、自分に都合よく現実を変えねばならない。
たとえば知り合いが出世して金持ちになったとしよう。そのとき「良かったね、おめでとう」と腹の底から言える人間は百人に一人もいない。人間はそういうときに僻みと嫉妬の塊になるように作られているのだ。
だからまず出世した友人のことを意識しないようにする。これが「抑圧」である。次に友人の出世を認めたくないので、そんな噂は嘘だ、と思い込む。これが「否認」である。あるいは、あいつの出世は親の七光のおかげだ、とか、裏金を渡して買った出世だ、などと自分に都合のいい理屈をつけようとする。これが「合理化」である。そして本当は自分がその友人を憎んでいるのに、あいつが俺を憎んでいる、と思い込んでますます相手を毛嫌いするようになる。これが「投影(投射)」である。
防衛機制とはこのように身勝手な認識を「無意識」のうちに行う自我安定装置である。無意識の働きだから当然本人はその歪曲の事実を意識してない。牛が尻尾を振ってハエを追い払うように、知らないうちにこうして世界像を歪めているのが無意識の怖さだ。多分精神科医は、無意識の作業を意思の力によって止めることはできない、と言うだろうが、まさに禅の極意とは、その無意識の行為を切断し、自他の差別観を消し去る訓練なのだ。

防衛機制だけではない。人間は五感と意識が受け取る全情報量のうち、ごく一部の情報だけを取捨選択して把握しているにすぎない。
私自身のエピソードを紹介しよう。私は学生時代、梅毒に罹ったのではないか、という不安に囚われた時期があった。すると、通学の電車が駅に止まるたびにいたるところに「性病科」と書いてある看板が立っているのに気づいた。何年も同じ電車に乗りながら、それまでは一度も気づかなかったのに、突然目に飛び込んでくるようになったのである。
要するに人間は「自分の見たいものしか見えず、聞きたいものしか聞こえない」壊れた存在なのだ。
 
少し話題が飛ぶが、私は前衛映像、実験映像という最も難解な映像作品の研究・批評の専門家である。だから才能のない批評者や研究者がとんでもなく出鱈目な批評を書いている場面にしばしば出くわすことがある。批評のコツは座禅と同じで我執を捨て去り、おのれの感性をまっさらにして謙虚な心で作品に対峙することだが、たいていの評者は作品の上に自分を置き、自分に都合のいい解釈を作品に無理やり強制する。私はそういう批評を「トコロテン批評」と呼んでいる。自分が理解できない部分は全て無視し否定する類の批評である。いずれにせよ人間は自分自身が大好きで大好きでたまらないのである。
 
そういう人間の本質的な我執・煩悩・無明を快刀乱麻のごとく切り捨て、心をピカピカに磨いた鏡のように澄みわたらせ、あるがままの事実を一点の曇りもなく受け止めるための最もシステマティックな修行が坐禅であり、私の提唱する「微笑禅」である。
本当に悟りたい人は、本書を繰り返し読んで欲しい。本書は「悟りの秘訣」が書かれた史上唯一の本である。

悟りに限らず何においてもその道を極める秘訣は「徹底的に凝り、コツを掴むこと」に尽きる。
面白いもので普通の人間でも、趣味や道楽にはいくらでもお金をかけて凝る、という能力は持っている。ゴルフに凝り、カラオケに凝り、車に凝り、パチンコに凝り、あるいはパソコンやゲームに凝る人は掃いて捨てるほどいるが、どういうわけか心を練り上げることに凝る人間は滅多にいない。
しかし、一円のお金も使わず、自分で自分の心をコントロールして最終的に如来の境地にまで登りつめる、という実に楽しい趣味道楽もあるのだよ、ということを読者にぜひ知ってもらいたい。私は坐禅が楽しくて仕方ないので修行・苦行だと思ったことはない。私にとっては坐禅も歩行禅も趣味道楽の一つである。

最後に、私は初心の頃、悟れば全てが解決する、と思い込んでいた。しかし、いざ見性してみると大切なのは「行動」だと分かった。今の私は、せっかく心が如来になったのだから体も如来になりたい、行動も如来になりたい、と思い、三つの病院に通って体を治しながら、私なりの世直し運動を行っている。30歳から20余年、私は映像研究と批評を生きがいにしてきたが、52歳からの後半生は「微笑禅の普及」と「世直し運動」に全身全霊を捧げる覚悟である。

本書は禅の歴史上、様々な意味で前代未聞の書である。坐禅のプロである師家さんたちの間では当然賛否両論が起こるだろう。むしろ私は、私の見性体験に難癖をつけてくる禅僧達がなるべく多く現れて来るのを楽しみに待っている。
本書の元原稿になった『私の見性(悟り)体験記』を私のホームページに書いたのが今年の2月末なのでほぼ半年の間掲載し続けたことになる。ファイルマネージャーを見るとこれまでにこの体験記にアクセスしたは(2008年10月15日現在)1630人、その中で私の見性を本物だと認めてくれたのは、草壁焔太氏(五行歌の創始者・詩人)などごく一部の人物ばかりである。考えてみればこれは当然のことなのだ。
法華経方便品には「仏所成就、第一希有、難解之法、唯仏与仏、及能究尽、諸法実相」(仏の成就したまえる所は、第一希有難解の法なり。ただ仏と仏といまし能く諸法の実相を究尽したまえり)とあり、この後に有名な十如是が続く。
要するに、究極の真実は仏にしか分からないということだ。私は前衛芸術の研究家なので嫌というほど知悉しているが、極端に優れた芸術家は生きているうちには世間に認められない。ゴッホもモジリアーニも生きているときは唯の1枚も作品は売れなかった。驕慢と思われるだろうが、ただ如来と如来のみにしか分からぬ境地があるのは動かし難い事実である。私が如来だと言っているのではない、如来の心で行動したい、と常に念じているのである。

私は見性したからといって少しも自分が偉いとは思っていない。確かに最初の見性のときは嬉しくて嬉しくて誰かに伝えたくてしょうがなかった。しかし二度目に見性したあとは、むしろ人にこの体験を話すのが嫌になった。私より立派な人は腐るほどいる。悟ったからといって家に篭って一人で楽しんでいても、それは何の役にも立たないデクノボウである。世界を平和に、とまで言わなくとも、せめてこの国をより良くするために一身を投げ打って、先ずドブ浚いから始めたい。我執はとっくに捨ててある。今後は世のため人のために尽くしたい、と本心から思う。
今の私のモットーは坐禅のみに捉われることなく、「過去を悔いず未来を恐れず、今ここにおいて如来となる」である。日常の一つ一つの行為が仏性の実現なのだ。
私は本書において唯の一言も嘘をつかなかった。読者各位におかれては本書を参考にしてぜひ禅という「趣味道楽」に没頭され、一人でも多くの人が見性を体験し、同時に世直しという菩薩道に打ち込み、共にこの国を正していかれることを祈ります。

渋柿の 甘柿になる 寒さかな  (山本玄峰)

渋柿が 甘柿になる 面白や   (那田尚史)



衆生無辺誓願度(衆生は無辺なれども 誓って度せんことを願う)
     煩悩無尽誓願断(煩悩は尽きること無けれども 誓って断ぜんことを願う)
 法門無量誓願学(法門は無量なれども 誓って学ばんことを願う)
 仏道無上誓願成(仏道は無上なれども 誓って成ぜんことを願う)




平成20年(2008年)8月吉日  那田尚史(52歳)これを記し終える。



{巻末エッセー}

あなたは超常現象を信じますか
私は超常現象を信じている。信じているには理由があって、私自身が何度か体験しているからだ。

 一度目は小学校4年生のころ。父親が横幅が3間もある大きな箪笥を家に設置した。父が若いころ養子に入っていた池田家にあったもので、池田家はその地域の大地主だった。その箪笥は黒檀仕上げで、引き出しを出し入れするたびに音が鳴る「オルガン箪笥」と言われる逸品であった。
 私は、その到着したばかりの箪笥の真横で昼寝をしていた。その夢の中で私がその箪笥を開くと、日本刀がズラズラと出てきた光景を見た。
 目覚めて箪笥を開いたところ、夢と異なり、日本刀は一本もなかった。が、私には妙な確信があって、念入りにその箪笥のあちこちを調べてみた。
 すると、一番下の引き出しと畳との間が通常より幅があることに気付いた。その部分に長方形の切れ目がある。不思議なことだが、私はその切れ目を見た瞬間、それが「隠し戸」だと確信した。取っ手もなにもついていない以上、その引き出しは半円形になっていて、端を押すともう一方の端がクルリと飛び出る構造になっているに違いない、と瞬時に思った。
 そのとおりだった。隠し戸の片側を押すとクルリと引き出しが飛び出てきた。その中に一本の脇差が入っていたのである。
 この脇差は江戸後期のもので、美術品登録をした上で研ぎに出し、現在も私の手元にある。
こういうのは、正夢というのだろうか。あるいは「物体直感」というのであろうか。夢を見なければ、その刀は誰にも見つけられずに今でも隠し戸の中で眠っていることだろう。

 二度目は小学校6年のころ。そのときも昼寝をしていた。その夢の中に、死んだ祖母が現れて、美味しそうに餅を食べ、「この餅は美味しかったよ」と言った。
 私は寝ぼけて祖母が死んだことも忘れ、台所にいる母の元に行って、「今お婆ちゃんが来て、御餅を食べて帰った?」と尋ねた。
 母の顔色が変わった。その日はちょうどお彼岸で、仏壇の祖母に供えるために、母は餅屋に木箱一皿分の餅をついてもらっていたが、それを台所に置いたまま、仏壇に供えるのを忘れていたのである。
 母は慌てて仏壇に餅を供えた。「おばあちゃんが、早く備えてくれと催促したんじゃろ」と母は言った。
 もちろん子供の私は、その日がお彼岸であることも、母が台所に餅を置いていたことも知らない。死んだ祖母の霊が夢に現れたとしか思えない現象である。あるいはそれとも、仏壇に餅を供えなければならない、という母の気がかりを、眠っている私がテレパシーのように読み取ったのだろうか?
 私は、死後の霊魂の存在を期待しているので(もしそうであれば、死は怖くなくなる)、祖母の霊の仕業と思いたいのだが、真相は果たしてどちらなのだろう。

 三度目は、大学時代の話で、これも夢にまつわる。このエピソードはある競馬攻略本に活字となって詳しく載せたことがあるが、ここで簡単に繰り返す。
 日曜の昼頃夢を見た。私は夢の中で2−5という万馬券を取った。大喜びで払い戻し所にいくと、持っていたはずの2−5の馬券が他の数字に化けていて、結局配当金を手に出来ず、がっくりしたという夢である。
 当時は馬連はなく、枠連だけの時代だったので、万馬券は月に一度出るか出ないか、というぐらい珍しかった。私は、自分が時々正夢を見ることを知っていたので、友人の吉田という男にすぐに電話をかけて「正夢かもしれないから今日は2−5の馬券を買おう」と誘って、二人で水道橋の場外馬券売り場に行った。売り場にたどり着いて私はヘナヘナと床に膝を着いた。ちょうど終わったばかりの第8レースが何と2−5で万馬券だったのである。来るのが遅すぎた、と後悔した。私はヤケになって9,10,11レースを買い続けて外した。そして最終レースがまたも2−5で万馬券だったのだ。私はもちろん買っていなかった。
 2−5の万馬券が出る、しかもそれが取れない・・・・・・・私の夢は見事に正夢だった。
この経験は非常に強烈だった。一日に二度万馬券が出ること自体、非常に珍しかったし、まして同じ番号である。それを予知していたのだ。
 この経験で、私は完全に予知夢を信じるようになった。
(この話を文化人類学者で言語学の天才・西江雅之先生に話したところ、「それは逆転した認識だ」、と答えられた。どういう意味か悩んだが、どうやら2−5という万馬券が出た後から、実は予知していたという風に理屈付けした、という意味らしい。とんでもない。それこそ逆転の認識である。第一、私は競馬の夢は人生で2度しか見ていない。ちなみにもう一つの夢も正夢で私はその時は当たり馬券を手にした。結果から原因を探したのではない。明らかに夢を見て、しかも友人にそのことを報告して一緒に馬券売り場まで行って、予知した数字が二度出て、しかも両方万馬券だったのである。確率論的には絶対に偶然といえない現象である。頭の柔らかい西江先生ですらこういう現象を認めないのだから、学者とは頑固なものである)
また遠く離れた二人が思いあっていれば、テレパシーが通じる、というのは私には再々経験がある。
 大学生のころ、とても大事にしていた恋人がいた。が、その恋人は妻子ある芸能人を追っかけて、一週間近く彼と旅行に出かけてしまった。当時の私は純情な側面が残っていたので、その間、ものすごい胸の痛みに耐えかねて、朝から酒を飲んで苦痛に耐えた。本当に死にそうなぐらいにつらかった。すると、ある時にスッと胸の痛みが消えうせ、心が楽になり、意味もなく幸せな感情が湧いてきた。その瞬間に電話が鳴った。恋人が「ごめんね」と泣きながら電話をかけてきたのである。
 このレベルの出来事ならいくらでも経験がある。

 次にこれは私の体験ではないが、私の鬱病治療でカウセリングを担当してくれていた植田先生という臨床心理士から聞いたことである。
 その先生はある中学生の女の子のカウセリングも受け持っていた。その女子は毎日のように予知夢をみるというのである。実際に夢日記をつけているのだが、非常に高い確率でそれが的中する。とくに悪いことが的中するらしい。そのためにその中学生は夢を見るのが怖くなり、不眠症にかかってその心療内科に通いだしたという。
 カウンセラーの植田氏によれば、ユング派の臨床心理士の学会に出席すると、このような正夢を含む超常現象の例は数多く報告され、我々が超常現象と呼ぶ現象は、「当然あるもの」として認識されているという。
 ただ、世の中には早稲田の大槻義彦教授のような頭の頑固な口うるさい人がいるので、世間一般には公にしないらしい。
 そういえば、ユングはシンクロニシティ(共時性・同時性)という言葉で、物体と精神との統一現象を言い表し、膨大な数の事実を収集した。
 彼はこんなことを言っている。「くしゃみをしたときに頭の上を飛行機が飛んだら、それはただの偶然の一致だが、青い服を仕立て屋に注文して、間違えて黒い服が届いたときに身内が死んだとしたら、それは意味のある一致である」と。

 私は自分の経験を通して、時間の流れは右から左に直線的に伸びているような形ではなく、ちょうどストーブの上の空気が対流して、上に昇ったものがまた下に戻ってくるように、未来の時間が現在に対流するのではないか、というようなイメージを持っている。現在の一点のなかに未来が繰り込まれている、という印象がある。
 また「物質には記憶がある」という気がしてならない。物を手にとってその物の記憶(残留思念)を読み取る「物体直感」も、私は信じている。

 私の長女(現在高校3年生)は、小さいときは非常に勘の鋭い子供だった。幽霊らしきものを始終見ていた。私はある石ころを娘に渡して、何が見えるか試したことがある。すると娘はこう言った。「険しい山の中に何かが立っている。パパが金槌でそれを削っている」
まさにそのとおりだった。その石ころは、非常に険しい山の斜面に立つ先祖の墓石の一部を削りとったものだったのである。(その墓は武士だった曽祖父のもので、彼はサイコロ博打の名人だったために、その墓石は博打のお守りとして多くの人によって蓮華型の台座部分が削り取られ、角が丸くなっていた。私もお守りのためにそのカケラを持っていたのである)
 またこういうことがあった。私が東京に買った中古マンションビルの元のオーナーは心筋梗塞で社長室で急死した。私がそのビルに引っ越したとき、オーナーが使っていた社長室に灰皿が残っていた。私はその遺品を、捨てずに愛用することが供養につながるような気がして、自分のパソコンの横に置いていた。
 あるとき、娘にその灰皿を持たせて何が見えるか尋ねた。娘は「中年のおじさんがいる」といった。私は、そのおじさんはどんな仕事をしている人か聞いた。娘はしばらく灰皿をいじった後「このビル全体の風景が見える」と答えた。私は背筋がヒヤリとした。
 娘に特殊な能力があるのなら、その才能を伸ばして一儲けしてやろう、という俗悪な思いもよぎったのだが、娘は中学を卒業するころから霊的なことは口にしなくなり、そういう超能力ゲームを試すことを嫌がるようになった。どうも娘を使って一儲けするという計画は中止になりそうだ。残念である。

 以上が私の体験した超常現象の事実である。
なるほど、こういう現象を偶然だ、と決め付けるのは簡単だろう。しかし、本当の科学的精神とは、偶然と思われる現象の中に潜むシステムを発見することではないだろうか。
 テレビでよく超能力者が現れて、大槻義彦教授や松尾貴史が躍起になってアラを捜し出して、この世に超常現象などないことを、口角泡を飛ばして力説する。
 私は、そういう超常現象否定派が大嫌いである。まず人相が卑しい。なぜか超常現象肯定派のほうが霊性の高い顔をしている。否定派のほうはいかにも人望のなさそうな下品な顔をしているのだ。それから彼らは現在までの物理学の体系というイデオロギーを絶対のものと信じて、そこから現象を演繹して否定する。しかし、科学は演繹と同時に現象を帰納し、そこにルールを見つけるという「現象に対する謙虚さの精神」が必要だ。現象を否定することは馬鹿にでも出来るが、その現象にシステムを見つけることは天才にしか出来ないことなのだ。事実は事実として素直に受け入れなければならない。それこそが科学的態度である。

浪人時代・学生時代
一般に浪人時代というのは暗い、辛い記憶に満ちたものだが、私の場合は実に充実した楽しい思い出の時期でもあった。もちろん、浪人という宙ぶらりんの社会的地位は常に心痛と隣り合わせである。しかし、それだけではなかった。

 私は、浪人時代、ほとんど受験勉強をしなかった。
もともと国語に関しては学年トップを続けていたので問題なかったし、英語も文法が大好きだったから、単語力の強化と発音の確認程度で充分だった。唯一のネックは世界史で、第一志望の早稲田大学第一文学部の世界史の問題は教科書を丸暗記しても絶対に合格できないようになっており、例えば「フェリペ2世の在位年代」が正確に頭に入っていないと解けない、といった、実にトリビアルな問題が出るのだった。

 私は、中学高校の頃から、将来は詩人か小説家になるのが夢で、太宰治や中原中也、ボードレールなどの作品は全部読破していたし、浪人時代は稲垣足穂にのめりこみ、難解な哲学書なども片っ端から手を出していた。
 だから、受験勉強はさっぱりやらなかったが、自分の中ではいっぱしの文学者気取りだった。端的に言えば、「なぜこの俺が、どうでもいい歴史の年代暗記のためにこのシャープな頭脳を使うなどという愚劣なまねをしなければならないのか」という傲慢な精神を抱いていた。

 一浪目の下宿は、隣がパチンコ屋とビリヤード場、雀荘と、三拍子揃った立地条件だったせいもあって、下宿の浪人仲間と毎日、それら三道楽に熱中した。マージャンを本格的に覚えたのも浪人時代で、夢の中でもマージャンをやっているぐらいのめり込んだし、ビリヤードも腕を上げて、引き玉、押し玉、自由自在に出来た(当時はポケットではなく4つ玉が主流だった)。パチンコにいたっては毎月15万はつぎ込んでいた。
 こうして昼は三つの道楽に打ち込み、夜は酒を飲み、気が向けば詩を書く、実に充実した時間が、私の浪人時代だった。

 その浪人下宿には福岡や宮崎など、九州出身の男たちが多くいた。私から見れば、彼らは相当に野蛮な風習に染まっていて、何かあるとすぐ殴り合いの喧嘩になったものだが、その一面、非常に純情なところがあって、腹をさらけ出してものをいうので好感が持てた。

 そもそも浪人には2つのタイプがある。私のように、受験勉強に反抗して無頼派的に遊びまくっているタイプと、素直に勉強をするタイプである。前者は後者に比べると相当に早熟なグループだった。某友人は、浪人時代に役者になることを夢見て、人脈を求めて歩き回っていたし、私は文学者きどりで飲んでは芸術論を戦わせていた。

 そういえば、私に女遊びを教えたのも役者志願の浪人生だった。千葉の栄町に私を連れて行き、初めてのときはアッという間に終わるからといって、ソープランド(当時はトルコ風呂、といった)に入る前に、二人で日本酒を二合ずつ飲んで、ことに挑んだものだった。

 私は、「自分の文学的才能を開花させるには早稲田大学第一文学部に入るほか無い」という確信と同時に、「受験勉強などという愚劣なものに手を染めることの不快さ」という二律背反に陥っていた。
 そんな私が真剣に受験勉強に取り組み始めたのは「怒りのエネルギー」だった。

 二浪の後、親の勧めで受験した甲南大学に合格し入学した。その大学は西の学習院といわれるような非常に優雅な、ある意味理想的な大学だったが、私は体育と音楽以外の授業には出席せず、昼間から酒を飲んで詩作に打ち込む生活をしていた。そして夏休みに郷里に帰ったときのことである。
 人望に欠けた、カンナ屑のように薄っぺらなある同級生と出合った。キツネのような目をして、何かにつけて私に因縁をつけるストーカーのような人間だった。彼は一浪して明治大学に入ったことを大いに鼻にかけていた。そして、「昔から俺のほうがお前より成績がよかったからな」と口走ったのである。これには私は怒りよりも驚きが先に来た。私の眼中に彼などなかったし、あらゆる学科、あらゆる成績の面で、彼は私より格段に劣っていたのである。
 なるほど、人間は「結果」で自己と他者を判断するのだ、と私は初めて了解した。彼が明治大学生になり、私が甲南大学生になったとたん、過去の事実を捏造し、私よりも秀才だったというデタラメな事実を作り上げ、私本人に宣言したのである。なんという単純な妄想、なんという単純なナルシシズムだろう。

 この男の侮辱が私の休火山に火をつけた。あんな下等な人間に学歴で一生バカにされる人生というのは死んでも我慢できない。私は「3ヶ月だけ受験勉強をする」と決意した。国語と英語はもともと得意だったので、問題は世界史だけである。
 そこで、私は二冊の世界史の参考書を買ってきた。一冊は受験用のものの中で最も高度なレベルの参考書。もう一冊は、受験用ではなく研究者用のもので、受験にはほとんど役に立たない研究本だった。その二冊を平行して読みながら、私は「決して受験に出ない世界史」と題したノートを作った。
自分の能力を受験勉強という愚劣な行為に落とす、ということは、彼のようなバカな人間と同じ立場に立つことになるわけで、それは私のプライドが許さなかった。だから、私は、受験に出るはずの無い、よりトリビアルな、より研究的なノートを作ることで、世界史を「受験用」として暗記するのではなく「研究用」として学問したわけである。

 面白いものだ。よりトリビアルでより研究的なノートを作っていくと、受験に出る程度の史実はいつしか頭の中に入っているのである。ノートは受験の一週間前に完成したが、その最後の項目は「朝鮮半島史」で、これは過去10年間の早稲大学第一文学部の問題にも、またほかの大学の受験問題にも出たためしのない範疇だった。私は朝鮮半島の歴史を頭に入れながら、これで受かった、と思った。

 早稲田大学第一文学部、同教育学部、学習院大学史学部、と3つの学部を受験して、全てに合格した。どういうシステムになっているのか未だに不思議なのだが、受験をして外に出ると予備校が今出たばかりの問題の模範解答を配っているのである。私はそれを手にして、3教科ともほぼ満点であることを確認し、とくに世界史に関しては3学部とも完璧な解答だったことを知り、合格を確信した。
 人品骨柄の卑しい男が傲慢なことを言わなければ、私は甲南大学を中退してフリーターにでもなっていたに違いない。仏教者はよく魔を味方にせよ(変毒(へんどく)為(い)薬(やく))というが、振り返れば、まさに私にとって彼は魔が変じた善神だった。

 さて晴れて念願の早稲田大学第一文学部に入り、しかも当時芥川賞作家を輩出して最も人気の高かった文芸部を専攻した私は、意気揚々と文学部のスロープを闊歩していた。

 ところで、当時詩壇は大学教授兼詩人が支配していて、詩心を全く持たない、観念的で引用の羅列だらけの作品が幅を利かせていた。私は、詩というものは作品のインスピレーションとなる詩的感動の体験と、読んで心に残るリズムがなければその作品に価値は無い、と信じていたので、「現代詩手帖」などの雑誌に載る彼らの作品には失望していた。
 とはいえ、確か清水某というフランス語教授兼詩人の授業を受けて、作品を提出させられたことがあった。私は、東京の片隅のアパートで、一個のリンゴをかじりあいながら、そのリンゴを食べ終わったら死のうと決意している男女の心境や、都会の雑踏の様子を詩にして提出した。すると感想に「君の作品を読んでアポリネールの詩集『地帯』を連想しました。抽象化が強すぎる面があるので、もっと一般に分かりやすく具体的に書くようにするといいと思います」と感想が書いてあった。私は前衛詩の父親ともいえるアポリネールの作品を真面目に読んだことは無かったが、この批評には大いに満足した。

 しかし一方で、私を心の底から落胆させる出来事が起こった。
当時の早稲田の文学部を牛耳っていたのは三島由紀夫の親戚に当たる平岡某という教授で、私は彼の授業を受けていた。最初の授業で、梶井基次郎の『檸檬』について批評を書け、という問題が出た。『檸檬』と言えば純文学を志すものにとっては聖典の一つであり、一度ぐらいは臨書すべき名作である。私の大好きな作品でもあり、私は気合を込めて批評を書いた。
 ところが平岡教授が、学生の書いた批評の中から一番おもしろい、と判断して読み上げられたのは以下のような文章だった。

 「私は、ある漫画で『檸檬』を茶化したものを読んだことがあります。男が画集を山積みにしてその上にレモンを置いて本屋から出ようとすると、店員さんが「お客さん、元に戻してください。迷惑です」という内容の漫画でした。わたしも同じように思います。勝手に本を棚から出して山積みにされては困ると思います」

 この小学生の作文のような文章を書いたのは、いかにも頭の悪そうな女性で、平岡がこの批評を面白いと褒めると、小鼻を膨らませて、自慢げな顔をした。私は心の底から失望した。その女子大生と平岡の首を絞めてやりたい衝動に駆られた。こいつらは『檸檬』の凄さというものを全く理解していないのである。
 早稲田の文学部でさえ、この程度の学生にこの程度の教授なのだ。そういえば、当時早稲田の現役女子大生・見延典子が『もう頬づえはつかない』で芥川賞を獲ったが、若い女が中年男を手玉に取る、という「当て込み小説」だった。要するに、中年の男性審査員に媚を売った受け狙いの三流小説である。この当時、早稲田の文芸部に人気が集まったといっても、内容的には商業主義に接近したポップな小説が主流であり、すでにこの時代の早稲田文芸はジャンク化していた(「J文学」のJは、ジャパニーズではなくジャンクのJである)。稲垣足穂や梶井基次郎や太宰治を信奉する私のような人間は、早稲田では居場所がなくなっていたのである。

 これを機に、私の早稲田大学に対する憧れはきれいに消えた。あとは、女を抱き、酒を飲む日々に溺れていった。当時私は女性に好かれる素質があり、実際複数の占い師に「あなたには女難の相があります」と言われ、その女難という言葉を私は好意的に解釈していたが、実際、抱く女には苦労しなかったものの、相手の女性は美人だが人格障害や神経症患者が多く、性的快楽の変わりに、山ほどの苦痛を体験した。酒と女の日々は、私が大学院に合格するまで続いた。

父の面影

 明治元年、紀州和歌山から有馬福三郎(もとは八三郎との説あり。森家から有馬家へ養子に入った人物)という武士が愛媛県と高知県の県境に妻子を連れて逃げてきた。戊辰戦争において戦略上の諍いから命を狙われ、四国の寺寺を転々と飛び石伝いに渡り、現在の愛媛県東宇和郡野村町惣川小松、という地に居を構えた。寺寺を伝わってやってきたということは、そこは寺社奉行の管轄だから役人が手が出せないことを意味する。明治維新の激動の時代にはそういう危急の事態があちこちでおこったのだろう。
 男は妻と娘を連れていた。娘の名前をお梅という。

 福三郎は学問も才覚もあったために地元の有力者に気に入られ、今で言う行政書士のような仕事に就いた。平民に苗字がついたのが明治3年だから、当時有馬という姓を名乗るだけで珍しい存在だった。地元の郷土史を読むと、当時姓を持っていたのは庄屋と神官ら5名のみで、有馬福三郎の記述は漏れている。
 また、それが紀州武士(旗本)の癖というものだろう、夜になると自宅を博打場にして地元の人間相手にさいころ賭博をしていたらしい。役人に見つからないように、福三郎の妻は庭の生垣に糸を張り巡らせて、その端を片手でつまんで、糸がピンと張られると、役人が来た、と告げるのである。すると、福三郎はさいころと壷を家の前の川に放り投げ、突然演説をし始める。まるで地元民を前に学問の講義している振りをしてごまかした、という逸話が残っている。不思議な話ではない。江戸時代の公家たちも賭場を開いてそれを副業としていたものだ。それに加えて、旧幕臣にとって明治の役人は敵である。新参の役人が、何を生意気に、という反発もあったのだろう。勘の鋭い人だったので、博打がばれたことは一度もなく、昼間は名士として村で尊敬されていた。
 福三郎は非常に博打が強く、ある意味伝説的な人物となった。彼の墓石は博打好きの人々によって削り取られ縁が丸くなっているのを私は実際に見ている。

 娘お梅は長じて、山本覚治という男と結婚した。不思議なことに、有馬と山本とが結婚して「那田」という姓を名乗ることになった。その理由について私はかなり調べたが未だに謎である。

 お梅は4人の男の子を産んだ。その3番目が私の父親、那田和三郎である。父は兄弟の中で飛びぬけて頭が良かったらしい。当時、「人買い」という者が存在しており、その人買いがやってきて、この子は神童だ、ぜひ売って欲しいとせがんだという。

 夫は何でも妻に従う鷹揚な人柄で金には無頓着の人だったらしいが、お梅は一頭の牛を飼い、それを徐々に増やして財を成し、4人の子供全てに家と山を与えて仕据えた。他の兄弟は主に農民になったが、父親は教員になることを目指して、高知の旧制中学に進んだ。当時、校長になるには師範学校出身者でなければいけなかったが、もう一つの稀な方法として、検定試験制度というのがあった。学費が足りなかった父は後者を選び、八度連続して合格した。最後まで合格して残ったのは愛媛県で3人だけだったという。

 父はおそらく20代で小学校校長となった。
初めて校長として赴任するとき、学校への行き道を通りすがりの老人に尋ねた。学校にたどり着くと、その老人がいて「さっきの坊よ、何しにきた」と声をかけた。老人は学校の用務員であった。それほど若くして校長になった。
 父は毎朝決まった時間に起きて、決まった時間に登校するので、村人は父が家の前を通る時間に合わせて時計の針を合わせたらしい。これと同じ話はカントの伝記にでてくるが、私はある農婦から直接聞いたので嘘ではない。
 また、こんな逸話も残っている。父が登校したとき、背広の襟元から値段の付いたタグが飛び出ていた。そこで女教師がそのことを告げて切り取ろうとすると、「わざと出しているんだから、切らずにいてくれ」と言った。実は、その背広は非常な安物で、ひらの教師たちは大概父より10倍も高い背広を着ていた。そこで父が安物をこれ見よがしに着て見せるものだから、校長より高い背広は着れない、ということで校内の華美な風潮が治まった、という。
 また、あるとき大きな地震があった。父以外の家中の者は驚いて家の外に飛び出し、地震が収まったのを見て戻ってくると、父は笑いながら「外に出たら揺れない場所があったか?」と尋ねたという。父は胆力の座ったユーモリストであった。

 父は大病に何度もかかった。一度は胃潰瘍で、洗面器一杯の血を吐いた。しかし医者にいかず、というよりも非常な山岳地帯であったため、近くに医者がなかったのだが、絶食療法を選んで自力で潰瘍を治した。
 また肺水腫にも罹った。これは自然呼吸が出来なくなる難病だが、これも何日も眠らず自力呼吸することで医者にかからず治した。
 父は、のちに私に「多少の病気は腹式呼吸をすれば治る」と教えた。

 このころ、一人の乞食坊主が家を訪ねてきた。家人が嫌がるにもかかわらず、父は家に上げ、風呂に入れて食事をもてなし、一晩泊まらせている。これは父の最初の妻の日記に書かれている事実である。父は、このお坊さんは立派な人だから丁寧に扱うように、と妻に告げた。私の推測ではその乞食坊主は、四国を旅していた山頭火ではないか、と思うのだが、確証はない。

 父は小学校校長を務めた後、農協長、収入役、助役、村会議長など、町の要職は全て勤めた。村議立候補は自ら望んだことでなく、村民の要請に答えたものだった。父は一円も使わず、全て村民が手弁当でトップ当選した。現在は対抗馬がなくても飲み食いのために、町議レベルで2000万はかかるらしい。父の理想的な選挙の様子は神代の昔の物語のようで、なるほど明治の人はそういう気風であったから、世界中から日本人は尊敬されていたのだろう。

 第二次大戦のときは「大尉相当官」として村民に軍事訓話をし、敗戦後も父親はしばらく陸軍の軍服を着ることを好んだ。明治生まれの人間らしく父は天皇を敬愛していた。「小豆色の車に乗った陛下の姿が見えると、思わず涙がこぼれるのが日本人だ」と言っていた。が、私は面白い父の文章を読んだことがある。父が70代に退職公務員用の文集に書いた文章だ。父が天皇を当地にお迎えしたときの思い出話をしているのだが、夏目漱石のような簡潔な文体で、父の目の前を天皇が通り過ぎるとき、一発放屁された、と書いているのである。この辺り、父はやはりユーモリストであって、盲目的なロイヤリストとは一線を画している。

 戦後は楽隠居の身分で、同じく再婚の母と結ばれ、私が生まれた。このとき父親は63歳である。私が生まれる前後に二人流産している。私と違って精は強かったようだ。

 母は事業家肌で、戦後は料亭と芸者置屋を経営し相当に儲けていたが、私の将来の教育のためにならないと父親が意見して、一時期質屋を営んだのちに、衣料店に落ち着いた。
 父は資金を出しただけで経営には一切タッチしなかったが、母が不在のときに留守番ぐらいはした。たまたまそのときに客が来た。客の女性は上着を欲しがった。ところが父親は「その上着はまだまだ着られます。着られなくなってから買えばいいのでは」と言って、その女を追い返してしまった。嘘ではない。母はその客から事実を聞かされて、ものすごい剣幕で父親をなじった。全く商売には向かない人間であった。

 私は完全な父親っ子で、子供のころから、なんと、高校2年生まで父の布団に一緒に寝ていた。小学生のころ、私は寝物語に、俳句や短歌の作り方を父から習ったものである。
 小学4年のとき盲腸で一週間余り学校を休んだとき、学習の遅れたぶんを父親が教えてくれた。その指導法は独特のもので、学校で習っていた方法と全く違っていた。数字で計算するところを図形を使って理解するやりかたで、父に習うと難しい内容がゲームのように楽しくなるのである。久々に学校に行くとちょうどテストだったが私一人だけが満点を取ることが出来た。教師が、「習ってないところなのによく解けたね」と褒めてくれた。私は誇らしく、父が教えてくれたことを告げた。
 高校1、2年のころ喫煙が父にばれたとき、「そういえばどうも最近一緒に寝ているとタバコ臭いと思っていた」と言われた記憶がある。そんな不良高校生になってまで父親と寝ていたのである。それほど父が好きだった。
 高校時代の私は勉強は出来るが問題児童であり、教師をつるし上げてその教師を登校拒否にしたことがあるぐらいの、教員にとっては実に扱いにくいワルだった。当時、私の通っていた高校では、男子生徒は後ろの髪の毛を制服のカラー以上に伸ばしてはいけない、という規則があった。私は教員たちに「生徒は自分の肉体まで教員に預けているのではない。他人の髪の毛を切る権利など教員にはない。お前らは勉強だけ教えておけばいい」と言い放って問題になった。担任が困り果て、自宅に訪れて父親に私の言動を伝えたところ、父は「それは息子の言い分が正しい」と答えた。教員は二の句が継げなかったという。この逸話は、父が死んでから母から聞いた。そんな父親だったから、私は高校二年まで父の布団で寝たのである。

 私は文学者になりたかったが、人間の資質を見抜くスペシャリストである父は、しばしば「お前は弁護士に向いているから、法学部を受けなさい」とアドバイスした。当時は馬耳東風で気にも留めなかったものの、さすがに父は良く見ていたものだと、後々分かった。私は普段理屈を言うのはキライだが、言い出すと鬼のようなところがあり、ギリギリと錐で揉みこむような議論が好きだ。もしそちらのほうへ進んでいたら名弁護士になっていたに違いない。

 私が早稲田大学一年生の夏、父は83歳で大往生を遂げた。日蓮の遺文に成仏の相として「色白く、身は鳥の羽毛のように軽く、柔らかになる」とあるが、まさに父は成仏の相だった。顔は上品に白く、死後2日立っても手足は柔らかく動き、大柄の人間だったにもかかわらず、四人で遺体の入った棺桶を持ち上げるとふわっと頭の上まで持ち上がった。まるで超常現象のようだった。
 火葬場で骨を拾うときに、喉仏が綺麗に残り、その姿がまるで僧が合掌している姿に見え(だから喉仏というのだが)、参列者全員も思わず合掌した。オンボヤキ(火葬場職員)も、こんな綺麗な骨は見たことがありません、と褒めてくれた。もっともオンボヤキというものは誰に対してでも骨を褒めるのが仕事である。それにしても美しい喉仏だった。

 どう思い出しても、私は父親が胡坐をかいているのを見たことがなかった。常に古武士らしいたたずまいで正座していた。80を過ぎて膝を悪くした後も、一人椅子に座って背筋をまっすぐに伸ばしている姿しか記憶にない。母に聞いたところ、母も父が胡坐をかいている姿は見たことがないという。20年の結婚生活の間に一度も胡坐をかかなかったというのは、かなり異常なことである。武士の娘に育てられた明治男の、それが美学というものなのだろうか。この逸話ひとつだけでも父の異様な、しかし自然体の気迫というものが伺われる。
 私は物心付いた頃から父に「先祖を聞かれたときは、紀州和歌山黒江の城主・森丹治五郎兵衛、と答えよ」繰り返し私に教えた。先祖の森家が南北朝の時代から紀州の黒江(現・海南市)辺りを治めていたことは調べて分かっているが、この人物については分からない(和歌山県の郷土史家などで情報をお持ちの方は教えてください)。
 ともかく父が「先祖は武士である」という誇りを持ち、それを心の支えとして人一倍の刻苦勉励したことは確かだろう。

 時々母と死んだ父の話をする。私は幽霊でもいいから父と再会したいと思うのだが、夢にさえ出てこない。母の夢にも出ないという。一生を自分の意思のままに生きた父のような人間は、もうこの世に未練はないのであろう。
 もし霊というものがあるとすれば、父は今の私をどう思っているだろう。不甲斐ない息子と思って心配していないだろうか。それがいつも気にかかる。仏教では輪廻転生を説く。私がもう一度生まれ変わるとしたら、私は同じ父母の元に生まれたい。そして今度は高校2年生でやめず、父が亡くなるまで一生父の布団で一緒に眠りたいと思う。

牧野さんの家のほうへ
以下のエッセーは、牧野守という日本映画史の研究者で、映画に関しては日本一の量を誇る牧野コレクションの所有者が発行した文集に書いたものである。
一般にコレクターというものは非常にガンコで、自分の資料を他人に簡単には見せない。しかし、牧野氏は惜しげもなく自分のコレクションを提供し、助言を与え、そのお陰で日本映画史の研究は大いに前進した。特に海外から来日中の外国人映画研究者にとって、牧野家は私塾のようなかたちで利用され、牧野門下生と呼べる研究者が育っていった。
2007年に牧野コレクションがコロンビア大学に引き取られることが決定した。牧野氏の喜寿の祝いを兼ねて記念パーティが開かれ、多くの研究者が集まった。文集はこの参加者の発言を活字に残すために作られたものである。私は牧野氏とは昵懇の仲なので、このパーティには欠席したが、文集には投稿することになった。
 映画研究の話だけでなく、私の運命について書いてある。しかも原稿の締め切りが2007年の12月中だったので、ちょうど私の最初の見性体験直前の時期に当たる。悟りを目指すに人にとって、このエッセーはきっと参考になるだろうと思い、巻末に付け加えた次第である。ぜひ心読してほしい。

  私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして、「私の家に小型映画雑誌があるから来なさい」と誘っていただいた。思えば、これが不運の始まりだった。ピーター・B・ハーイ氏が「牧野コレクションに出会っていたら『帝国の銀幕』は書けなかった」と述べているが、私の場合、その膨大な資料という悪魔に出会ってしまったのである。
 高田馬場のアパートから国分寺の牧野家まで毎週通った。なぜか私が出かける日に限って雷雨になったり大雪が降ったりした。あれは神様が、牧野コレクションに手を出してはいけない、と警告を発していたのに違いない。
 行くたびに膨大な雑誌を近所のコンビニでコピーした。毎回五千円から八千円ほどコピー代に使った。その作業で膝が悪くなるほど立ち続けた。そして大抵夕食をごちそうになった。
 その作業がなんと修論締め切りの一週間まで続いたのである。もちろん学内にある全ての資料はコピーし終えていた。
 そのコピー資料の山を見て、これはヤバイ、と気づいた。いわゆる「資料倒れ」である。私は異常に神経質で完全主義の欠点があり、手元の資料で完成させようという割り切りが出来ず、まだまだある牧野コレクションの未コピーの部分ばかりが気になるような性格なので、頭が真っ白になってしまった。
 そもそも修論締め切りの二ヶ月ほど前から頭が空回りし始めた。新しいコピーの束を抱え込むたびに論文の構想が無限に広がり収集がつかなくなるのである。 
 結果として私は未完成の論文を提出するほかなくなり、指導教授の御慈悲によりやっと修了できたのだった。そういう訳で、私が修士論文を完成できなかったのは牧野さんのせいであり、私は牧野さんを怨んでいる・・・・・というのはもちろん冗談である。
 実は私は指導教授から、君にはぜひ博士課程に進んで欲しいから良い論文を書くように、と耳打ちされていた。当時早稲田の博士課程は過去五年の間一人の合格者もいなかったので、これは大変な名誉であり、私は感激に打ち震えた。普通の人間ならこの厚意を奮発の材料として論文執筆に打ち込むだろう。ところが私は普通の人間ではなかった。
 私は一人っ子で、当時70歳前後の母に仕送りをしてもらって生活していた。父は学生時代に他界していたので、一人暮らしの母が商売(ブティック)をしながら月々三十万もの大金を送ってくれていたのである。しかも親族の詐欺により貯金は底を突いていた。もし私が博士課程に進めば、母からの仕送りに甘え続けねばならなくなる。「博士万年」と言って、一定の学問を完成させて収入を得る、というところまで行くにはゴールが見えない、というのが博士課程に在籍する人間の運命なのだ(私は肝臓が悪かったのでアルバイトをする体力はなかった)。「ああ、俺は一生母親の仕送りで生きて、そして母は田舎(愛媛)で孤独死するのだろう」という思いが、強迫観念のように心を占め続けた。
 さらに私は文学青年だったので、ある意味で日本最高の名文といえる次のような手紙を知っていた。以下引用する。
野口英世の母「野口シカの手紙」

おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。
この野口シカの手紙の文句が頭を駆け巡り始めたのである。一人の学者が生まれるには一家が犠牲になる、と言われるが、まさに私の場合も郷里の母に一生仕送りをさせ続け、自分一人が学者になって母を孤独死させる・・・・・というイメージが頭を駆け巡った。つまり私の修士論文の作業は、博士課程に入れるという高揚感と、母を不幸にするだろうという非痛感が共存し、完全にアンビバレントな心境になって自我が崩壊しかけていたのである。
 それで不思議なことが起こった。締め切りの三日前、もうその頃は徹夜続きでロクに頭が回っていなかったが、とりあえずいいところまでは書けていた。締め切りぎりぎりで完成できそうな気配だった。その論文の出だしは、英語文献を引用して「前衛映画とは何か」という定義をした部分だった。原稿用紙にして30枚以上あったと思う。夜中にその部分を添削していて、一行削除しようと思った。一行削除をするには、私のワープロでは「機能1」ボタンを押して「実行」を押す。ところが何気なく「機能2」ボタンを押して「実行」を押してしまったのだ。瞬間「全文削除していいですか」という警告文が出た(はずだが)、私は「実行」ボタンをいつものように無意識に二度打ちしていた。
 嘘だろうと思った。翌日になればどうにか救済方法が見つかるだろうと思い、その夜は酒を飲んで寝た。
 翌朝起きて、昨日の出来事は夢だったに違いない、と念じながらワープロを開いたが、やはり論文の中心になる文書が消えている。メーカーに電話したが救済策は無かった。私は完全にパニックに陥った。残り一日しかない。もう翻訳している時間は無い。それでもどうにかして辻褄をつけようとして出来る限りのことはやった。が、論文締め切りの早朝、無駄な努力であることを悟った。それで一番仲のいい先輩・奥村賢氏に電話を入れて、大学院を中退します、と報告した。奥村氏は「馬鹿野郎、これから行くからそこにいろ」と言ってタクシーで駆けつけてくれ、茫然自失としている私に代わって、ワープロに残っている諸文書を印刷してくれた。
 そういうわけで奥村氏と指導教授の慈悲のお陰で、未完成ながらどうにか中退せずに済んだわけだが、このボタン一つの操作ミスが人生を変えたのである。(しかし、それは私の無意識が望んでいたことなのかもしれない)
 その後、批評や論文の要請があり2年ほど東京に残っていたが、ついに仕送りも不可能になり、妻子をつれて(私は大学院時代に結婚していた)郷里・愛媛の片田舎に帰ることとなった。都落ちである。
 最初の三年間は健康を取り戻すために完全休養していた。この間に車の免許を取って毎晩宇和海の堤防に行って釣りをし、太刀魚とアオリイカに関しては名人と呼ばれるようになるなどいろんな楽しいこともあったが省略しよう。要するに3年の間、70歳を過ぎた母親の収入で私と妻子は食わせてもらっていたのである。
 幸い、というか、知人の水由章氏が年刊の実験映像誌「Fs」を発行し、私はそれに「戦前日本の個人映画史」という連載を引き受けたので、田舎にいながら修士論文で書きたかったことにじっくりと取り組むことが出来た。戦前の実験映画といえば中井正一ぐらいしか知られていなかったときに、この雑誌で紹介した実験映画作家の活動は日本映画史の処女地を開拓した重要な研究だったと自負している。
 帰郷して4年目に入ったとき、突然一人の中学生が現れて、家庭教師をして欲しいと言ってきた。聞けば150人中100番前後の成績だという。それで、私の勉強部屋に相手が来る、という条件で引き受けた。たった二ヶ月英語と数学を教えただけで彼は次の定期試験でトップ10に入った。90人を追い抜いたのである。追い抜かれた友人たちが焦って次々と集まり、いつの間にか「那田塾」になった。あの塾へ行くと誰でも30番ぐらいは成績が上がる、と評判になり(実際にそうだった)、中高生合わせて80人ほど詰めかけて、街で一番人気のある学習塾になった。
 当然八畳の勉強部屋では手狭になり、母の営業するブティックを半分に仕切って塾にした。私は凝り性なので改築は全て自分で行った。柱を立て、ドアを付け、壁を仕切り、そして机も椅子も全部一人で作り上げた。
 やっと母のスネカジリから巣立って貯金が出来るようになった。丁度そんな折に牧野氏が「私のコレクションは部分売りしないのが原則だが、君の情熱に免じて小型映画関係の書籍を譲ってもいい」という連絡を頂いた。125万ぶんの書籍を送っていただき、その上に分割払いにしてもらった。これで小型映画研究に関しては日本一のコレクションが手元に揃ったわけである。
 「那田塾」が7年ほど経ったときに、大学院時代の恩師から「早稲田の非常勤講師にならないか」という話があった。丁寧に言えば、そういう打診はかなり前からあったのだが、非常勤講師の低賃金で、借家で妻子を食わせていける筈もなく、そのことは忘れていた。しかし、学習塾の成功により家を買う頭金ぐらいは貯金があったので、上京を決意したのである。
 月に百万近い収入を捨てて、月収三万前後の非常勤講師になるのだから、それ相応に智恵を絞った。民家ではなくマンションビルを買って、そこに住みながら同時に家賃収入も得る、という方法を編み出して実行したのだった。
 そういうわけで八王子のマンションに移り住んでからもう8年目になる。生活は苦しいが、(小泉構造改革の悪政により)ゴーストタウン化した郷里で小金を稼いで生きるよりも、貧乏でも知的刺激の豊富な都会で生きていくほうが、私には遥かに心地いい。幸い牧野氏の住む国分寺まで近いので、時々お会いして日本映画史の薀蓄を伺い、大いに耳学問も発展した。私は放っておくと「アヴァンギャルドおたく」に陥るので、牧野氏の大局に立った日本映画史観を聞くと上手い具合にバランスが取れるのである。
 幸い恩師の口利きで、戦前の小型映画運動に関する単著を出せるかもしれない可能性が生まれてきた。原稿は「Fs」や「映像学」に書き溜めたものがあるので実質的には8割がたは出来上がっている。恐らく来年には出版出来るだろう。これはもちろん牧野さんから譲ってもらった資料が元になっており、この出版で牧野さんに恩返しをしたいものだと願っている。思えば牧野コレクションを初めてコピーしたときから15年もの歳月が流れている。このスローペースでは私の書きたいものを書き切るには百歳ぐらいまで生きていなければならない。困ったものである。
 もし私があの修士六年の夏、牧野氏と出会わず牧野さんの家のほうへ歩みを進めなかったとしたら、間違いなく私は六年ぶりの博士課程合格者としての名誉を得て、今頃はどこかの教授になっていたことだろう。しかし、私は牧野さんに出会ったことを後悔していない。逆に感謝している。この15年の人生経験は、私に映画研究という限られた分野を超え、人間はいかに生きるべきか、という本質を教えてくれた。「晴れて良し雲りても良し富士の山」というが、たとえ嵐であろうと霊峰富士は天下一の荘厳な姿で立ち続けている。逆境が人間を磨くのである。
 この雑文のタイトルを「牧野さんの家のほうへ」としたのは土方巽のダンスの副題「澁澤さんの家のほうへ」のパクリである。おそらくそれもプルーストの『失われた時を求めて』の有名な一章「スワン家の方へ」のパクリだろう。澁澤龍彦の家には三島由紀夫や四谷シモン、土方巽らが集い、さながらサロンのようであったと言われているが、いうまでもなく牧野家は日本映画研究者たちのための学習塾でありサロンであった。もうコレクションは無くなったが牧野氏には在野の映画研究の泰斗として今後も後進の指導に当たっていただきたい。くれぐれも健康には気をつけて。
 『牧野守喜寿 マキノコレクション記念会 ドキュメンタリーノート』に所収(2008年6月21日、文生書院発行)

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