学会内では「日中国交回復は池田先生の偉大なる功績」と喧伝され、池田氏本人も常々「日中は私の尽力の賜物」と吹聴している。池田創価の理屈によると、1968年9月8日の学生部総会の池田スピーチの中で「日中国交正常化」が提言され、それが発端となって両国国交の道筋が開かれ、やがて公明党が橋渡しとなって国交回復が実現した、という筋書きだ。

 池田氏のこの“提言”について、小説『新・人間革命』では
「伸一の、この講演は、『日中国交正常化提言』として、日中友好の歴史に、燦然とその名を残すことになる。」(第13巻「金の橋」)(*1)
と臆面もなく最上級の自画自賛がなされている。

 しかし、果たしてその“提言”はそんなに自惚れるほど価値のあるものだったのか。今回はそれを検証したい。

“提言”とは、それまで誰も提示したことがないような新たな見解や提案を出すことだ。あの池田スピーチに“提言”と呼ぶに相応しい独創性や先見性があったのだろうか。

池田氏の日中国交回復に関する“提言”は要約すると以下の3点である。
 (1)中国の存在を正式に承認し、国交を正常化すること。
 (2)国連における正当な地位を回復すること。
 (3)経済的・文化的な交流を推進すること。

 しかし、これらは当時としては格別目新しい提案ではない。池田スピーチが行われた1968年から遡ること十数年も前から、多くの友好人士・団体が中国を訪れ、中国側との間で確認し合ってきた原則なのだ。

それらは共同声明として発表され、日本の新聞でも報じられてきた。池田スピーチ以前に発表された共同声明は確認できただけでも10件以上ある。例えば1957年4月に出された日本社会党訪中団と中国人民外交学会の共同コミュニケ(下文)などがそうだ。
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『日本社会党中国訪問親善使節団は日本と中華人民共和国との親善友好を増進し,両国間の国交正常化を促進する目的をもつて中華人民共和国を訪問した。
(中略)日本と中国が政府間で速かに正式かつ全面的な国交を回復すべき段階にきた
(中略)二つの中国の存在を認めず,台湾をめぐる国際緊張は平和的に解決することを望む。
国連での代表権が中国に対して承認されるべきである
(中略)両国の人的,経済的,技術的,文化的協力はこれを妨げている諸困難を克服していよいよ増大されることが必要・・・』
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新人間革命などによる歪められた情報しか得ていない学会員は、国交正常化前は日中の友好往来が皆無であったかのように思っているかも知れないが、新中国誕生後、国交正常化前に中国を訪れた日本人は、周総理が接見しただけでも実にのべ287回、323団体(*3)にも上る。

そうした多くの先人達の努力により、日中国交回復の機運が盛り上がってきたわけであるが、その最終段階で遅れてバスに乗ってきた池田氏が、既存のコンセンサスを受け売りし、我が物顔で発表したのが上掲の3項目の“提言”だったのである。

現在でも池田氏は万人周知、至極当然の共通認識を「新提言」であるかのように発表したがる癖があるが、すでに40年以上前からその傾向は始まっていたということだ。

もっとも、巨大宗教団体のトップが日中友好を表明したことは話題性もあり、公明党の政策転換を示唆するニュースとして新聞でも伝えられたが、"提言“自体は所詮後出しジャンケンであり、すでに盛り上がっていた国交正常化の趨勢に影響するほどの作用はなかったと言える。

 そもそも、池田“提言”は先人たちの知恵の受け売りをしながらも、画竜点睛を欠いていた。中国の承認、国連復帰は主張したものの、日台条約の破棄は求めていないのだ。それまでの日中間の共同声明などでは、中国の承認と国連復帰は日台条約破棄とセットで語られるのが常だった。

日台条約を維持したままでの中国承認は「二つの中国」を容認することになり、中国側が主張していた政治三原則(1.中国敵視政策をとらないこと。2.二つの中国の陰謀に加担しないこと。3.日中両国の国交正常化を妨げないこと)の第2項に抵触するからだ。

 池田氏が日台条約破棄に踏み込めなかったのには訳がある。当時の首相は佐藤栄作であったが、佐藤の兄・岸信介と創価学会は戸田会長時代から密月とも言える関係にあった。

戸田講演で岸を「政界の王者」と讃え、不退転の岸支持を表明していたほどだ。当然公明党も表向きは反自民の顔をしつつ、政策的には岸-佐藤ラインに寄り添っており、公明党の対中国政策も「二つの中国(台湾政権と中共政権の並存)容認」という認識が基底にあった。

公明党が曖昧な池田“提言”と辻褄を合わせるために「日台条約破棄」を明確にしたのは、翌年の1969年1月の党大会のことであった。

 このようにブームに後乗りし、泥縄式に日中友好姿勢に転じてきた池田創価であるが、新人間革命では、以前から日中友好を訴えてきたかのような印象操作がなされている。

1962年ごろ松村謙三氏と高碕達之助氏が周恩来総理に創価学会のことを伝えていた、というくだりだ。それ自体は事実と思われるが、問題は次の箇所だ。
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『山本伸一は、折に触れて、国連は中華人民共和国を認めるべきであることなどを訴えてきたが、二人は、伸一の中国観をよく研究していたようであった。』(第13巻「金の橋」)
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ところが、松村・高碕両氏が創価学会のことを周総理に伝える前、すなわち1962年以前に池田氏が「中華人民共和国を認めるべき」と訴えたスピーチや文献は筆者の調べた限り皆無なのだ。

それどころか、過去のスピーチからは、むしろ「中華人民共和国を認めていない」としか読めぬ言動の方が目立つ。例えば、以下の3つのスピーチである。
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中共などは何年来の大飢饉です。やはり東洋広布の前提でしょう。ラオスやそれからコンゴなどの大動乱も、全部広宣流布の瑞相とみていいのですから。』(1961/4/22中国総支部幹部会 土木殿御返事講義)
『私どもの祖国は日本です。祖国ソ連でもなければ、祖国中共でもなければ、祖国アメリカでもありません。私どもの祖国は日本でしょう。』(1962/6/2 中国総支部地区部長会 一昨日御書講義)
『アメリカは、どんどん北ベトナムを空襲している。そのうちに中共も原爆を持って、どう応酬するかも知れない。』(1965/5/28 倉敷会館入仏式 諸法実相抄講義)
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ここで注目すべきは「中共」という言葉だ。中国共産党の略語ではあるが、国を指して「中共」と呼ぶ場合は蔑称となる。蔑称の意識はなくとも、少なくとも中華人民共和国を正式に認めない陣営が多用していた差別的呼称である。

中国を国として認め国交樹立を願う友好人士であるなら絶対にこのような呼び方はしない。つまり、池田氏は少なくとも1965年までは中国を「中共」と呼び、主権国家として認めていなかったということだ。

そのような池田氏が「(1962年以前)折に触れて、国連は中華人民共和国を認めるべきであることなどを訴えてきた」はずがないのである。とんだ噴飯話である。ましてや隣国の大飢饉に同情することもなく「瑞相」と喜ぶ池田氏の国際センスに至っては何をか況やである。

日中国交正常化をめぐる新・人革の眉唾記述は他にもある。
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 『一九六四年(昭和三十九年)十一月、公明政治連盟が公明党として新出発することになった。
 その結党に際して、伸一は、こう提案した。
「公明党の外交政策をつくるにあたっては、中華人民共和国を正式承認し、中国との国交回復に、真剣に努めてもらいたい。
 これが創立者である私の、唯一のお願いです」』(第13巻「金の橋」)
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前述した通り1965年まで中国を「中共」呼ばわりしていた池田氏が、その前年の公明党誕生時にこのような殊勝な提案をしていたとは考えにくい。

この提案がもし本当なら、公明党は即座に日台条約破棄を主張し、中国嫌いの岸信介の「二つの中国」の策謀に与することなく、親中路線に転じていたはずだ。ところが実際は5年後、つまり池田“提言”の翌年(1969年)になるまで政策転換はなされなかったのである。

おそらく上記人革の記述も後付けされた捏造話であろう。

 新・人革におけるこのような眉唾話は枚挙に暇がないが、紙幅の関係でこれくらいにしておき、“提言”以後の国交正常化の真実史とともに、また追って検証する。

 ところで、中国の南開大学周恩来研究センターが出版した「周恩来と池田大作」や「周恩来、池田大作と日中友好」という書籍がある。(*5)

同書は、創価学会が「日中復交は池田先生の功績であると中国識者も認めている」と喧伝するために好んで利用する本であるが、その書籍自体が創価学会の肝煎りで編まれたものであり、記述の論拠の大半が聖教新聞の記事であったり、創価御用学者の発言である。

著者である中国の学者は無検証にそれらを引き写しているだけだ。独自の取材として中国側関係者へのインタビューなどがあるが、その信頼性も実は怪しい。

例えば、日中友好協会副会長の黄世明氏へのインタビューで「中国の国連での議席回復を訴えたのは池田氏が初めてだった」と答えているが、前述の通り、社会党訪中団初め多くの友好人士・団体がそのことを早くから訴えている。

黄氏がそのことを知らないはずはなく、恐らく社交辞令的にそのように表現したものと思われるが、2冊の創価の息のかかった池田宣揚本は、それを検証することなく載せているのだ。

また、「周恩来と池田大作」では中国要人インタビューの中で竹入氏の名が登場していたが、その書籍を基本的に踏襲して出された「周恩来、池田大作と日中友好」では竹入氏がインタビュー記事もろとも見事に抹殺されている。

ここにも純学術的研究とはほど遠い、創価支配下にある南開大学の周恩来研究センターの限界と胡散臭さがある。

 次回は国交回復の真の功労者であり、現在も中国側から「和製キッシンジャー」として評価されている竹入氏について取り上げたい。

資料出自:
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(*1)小説「新・人間革命「金の橋」~下記に全文がある。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~masajun/lime/sintyaku/sintyaku/200208079.txt
ただし、このページは文章配列が逆になっているので、一番最後から読み始める必要があります。また、一部欠落もあります。

(*2)「社会党訪中団と中国人民外交学会の共同コミュニケ 」
   東京大学東洋文化研究所 田中明彦研究室編
   日本政治・国際関係データベース
   http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPCH/19570422.D1J.html

(*3)『周恩来総理と中日関係』(銭嘉東、王効賢著)
    中国共産党新聞サイトよりhttp://dangshi.people.com.cn/GB/85038/8098639.html

(*4)学会内部向け小冊子「池田会長と中国」より。(←この「中国」は日本の中国地方のこと)1976年の発行と思われる

(*5)「周恩来と池田大作」(王永祥 編 2002年発行、中国語原著は2001年。タイトルとは裏腹に周総理をダシに池田氏を宣揚したプロパガンダ本)
   「周恩来、池田大作と日中友好」(孔繁豊,紀亜光 著 日本語版、中国語版とも2006年8月発行 上記「周恩来と池田大作」と同工異曲。竹入抹殺版)
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