僕は自分の夢をめざし、松村先輩と共同生活をはじめた。僕等に迷いはない。信じる道を進み勝つために!僕等には成功が約束されているんです。
松村先輩は新幹線に乗ってJR徳山駅に帰ってきます。
僕は山陽本線に乗って田布施駅から徳山駅を目指しました。今まで何も考えずに乗っていた山陽本線ですが、海がこんなに奇麗に見えたのは初めてでした。夢と希望を忘れていたからかもしれません。僕は夕日の沈む笠戸大橋を眺めながら徳山駅に向かいました。松村先輩の為に銘菓「鳩子の海」を買いました。夕方6時を過ぎたころ、僕は徳山駅の北口の券売機売り場の前にたっていました。春なのにまだちょっと寒かったのです。
「春樹!」
懐かしい声が聞こえました。そうです、松村先輩なのです。松村先輩はカッコイイ紫色のダブルのスーツで身を固めていました。さすがは青年実業家なのです。僕等は立ち話もなんなので、テアトル2の喫茶店にいきました。
「なんや、昔にくらべて殺風景になったんちゃうか?」
「Daiichi徳山店が何でブルートになってんねん?」
「ニチイはどないしたんねん?」
募る話も沢山ありいろいろと話しました。松村先輩も新今宮にどっぷりとつかりながら、地元山口県の事を忘れて無かったのです。松村先輩は僕にお土産をくれました。大阪で有名な「551のブタマン」と呼ばれるものでした。冷たかったけど美味しかったです。
僕はいろいろ松村先輩に今までの苦労を告白しました。葬式の事、母の入院の事。すべて告白しました。すると松村先輩はこう言いました。
「春樹も大変やったやろ。お母さんも大変やったんやな。宗門に騙されて不幸になる典型例やな。でも安心しいや。わいも協力したるわ。そやけど、春樹よ。一人やったら、わいと一緒にくらせへんか?共同生活やったら、わいもお前のサポートうまくやれると思うわけやし、合理的やろ!」
僕はこんなに嬉しいことはありませんでした。あの尊敬する松村先輩が僕の為に共同生活までやってくれるのですから。遠慮するにも自分自身一人でどうしようか迷っている時でしたのでお言葉に甘えました。でもとりあえず家賃は半分出す事にしました。
僕は次の日、母にそのことを相談しました。母は上関町の病院に入院しているので、公衆電話で話をしました。母は優しく言ってくれました。
「春君。春君も大人じゃけぇ、自分の思うようにやりんさい。」
でも母との会話はその一言だけでした。母は強い抗鬱剤を服用している為、ちょっと意識が朦朧としていたようです。
そして僕は、今のアパートの大屋さんに事情を説明して、母が入院するまではアパートを開けますと伝えました。大屋さんは母の勤めるスナックのママなので快く、
「春君のええようにしんさいね。頑張るんよ。帰ってくるまで家賃はええからね」
と言ってくれました。僕の周りには良い人ばかりなのです。
4月になり、桜が舞う季節。山口の桜はとっても奇麗なのです。僕は5年間過ごした田布施町を離れ、先輩と一緒に現在の光市虹ヶ丘に引っ越してきたのです。僕等はこれから共同生活を開始しAmwayで頑張り成功を目指すのです。