片岡君が苛められるなか、僕は引越しをした。母はいつも強かった。しかし女性としての弱さもあった。
「春君にゃ、ちゃんと高校にいかっしゃるけえ、心配せんでええんよ」
母は僕にいつもこう言ってました。
僕と母は、今まで過ごした徳山市から熊毛郡田布施町に引っ越しました。その理由を母の口から聞いた時は涙が止まりませんでした。僕はこのとき、母の強さと弱さの両面を見たのです。
父と母の離婚は信仰上の食い違いから発生したことは薄々感づいていましたが、今はその父もこの世にいないため、その情報は母の一方的な情報に過ぎません。兄も何か知っているのかもしれませんが、聞ける機会がくるまでとっておこうと思います。
母はいつの頃からか、地域の方とうまく折り合いがつかなくなっていました。母が学会に対して疑問を持ちはじめたころからかもしれません。そのころ、母は親戚中と「創価学会と日蓮正宗のどちらが正しいか?」で討論していました。母は大石寺側を信じ、親戚はみんな創価学会側を信じていたのです。母は孤立していきました。母は実の親や兄弟から「お前はキチガイだ!」と罵られ、「勘当してやる」とまで言われていたのです。でも母も信念の人です。たしかにどちらが正しいかは僕には解らないのですが、聖教新聞は正しい報道をする正義の新聞であるし、信仰の上での大石寺は重要なものだということも理解しています。なにより「なぜ日蓮大聖人の教えを実践するモノ同士で争わなければいけないのか?」とあの頃は思いませんでしたが、今でも思う疑問の項目です。
結局、母は学会を脱会しました。でも、その頃から極端に近所付き合いも悪くなっていったのでした。でも母はくじけませんでした。本当に尊敬しました。でも、その頃から、家のポストや壁に「地獄に落ちろ」という張り紙がはられたりしていました。家の窓を石で割られたりしました。そのとき母は言ったのでした。
「春くん、おかあさんね、もう耐えられんのんよ。やっぱり学会やめたんが悪かったんかねぇ。やめんかったら、こんなに不幸にならんかったのにね。ごめんね春君。でも、お母さん限界なんよ。もう、ここには住めんのんよ」
この時僕はよくわからなかったのですが、
「おかあさん、辛ろうても僕はお母さんについていくけぇ、安心してーや」
と言いました。そういった僕はなぜか大粒の涙がこぼれだし止まらなくなりました。
それから、僕と母は田布施町に引っ越したのでした。この時期はいろいろあって、片岡君には悪く思いますが、でも僕も大変だったのです。
しかし、僕は池田先生の教えは信じています。池田先生と僕等に嫌がらせをした(と思われる)学会の方々は関係ありません。池田先生の教えを曲解した学会の方がいるのでは、という疑問をこの頃からもっています。でも、ここで僕が学会を認めると母は孤立してしまいます。ですから、僕は池田先生を尊敬する一人の青年でありたいと決意したのでした。