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秋篠宮家資料庫3

1 :名無しさま:2010/07/23(金) 21:07:45 ID:XwsokVBU
まあいろいおありになる宮家なので、
とりあえず資料性の高いものを貼って行く場があってもいいのかなと。

前々スレ【復活】秋篠宮家資料庫【歓迎】
     http://yutori.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1268213470/
魚拓   http://megalodon.jp/2010-0714-2124-05/yutori.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1268213470/

前々スレ 秋篠宮家資料庫
     http://yutori.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1248794334
※韓国人の10万人F5アタックのおかげで壊れ、
中身も全滅したdubai鯖にあったために閲覧不可能。

223 :読みやすくしました:2010/11/10(水) 13:23:26 ID:0uVB+nBC
週刊現代 2006.9.23
■ 独占独白 伯母佐藤豊子さん「おめでとう! 私たちの紀子ちゃん」

9月6日、紀子妃(40歳)は秋篠宮家の第3子となる男児を無事出産した。
実に41年ぶりの親王の誕生だ。 

一般家庭で育った紀子妃は、’90年6月に秋篠宮と結婚するまで、多くの親族に温かく
見守られながら育った。 なかでも、もっとも仲が良かったのが、紀子妃が“豊子おばちゃま”と
呼んで親しんだ伯母である、父・川嶋辰彦氏の姉・佐藤豊子さん(74歳)だ。

親王誕生にあたり、佐藤さんは滞在中の長野県茅野市の山荘で、3児の母となった紀子妃への
思いや、懐かしい思い出を本誌だけに明かした。

■ 紀子ちゃんとの山の思い出

紀子ちゃんが宮さまと結婚されてから16年、秋篠宮家に3番目のお子さまがお生まれになり、
本当におめでたいことだと心からお喜び申し上げます。 これで私の孫たちにも、もうひとり
「またいとこ」が増えたことになります。

ご結婚の直前、紀子ちゃんは家族揃って、私がいま滞在しております山小屋に遊びに来ました。
そのときのことが、まるで昨日のことのように思い出されます。

山小屋は、当時と変わりません。山道に降りそそぐ陽光も、しぶきをあげて斜面を下っていく
せせらぎも、あのころと同じです。この暖かな陽射しが、これからも変わらず秋篠宮ご一家に
降りそそぐことを心から願っております。

224 :名無しさま:2010/11/10(水) 13:24:07 ID:0uVB+nBC

辰彦一家が山小屋に着いたのは、’90年4月末の深夜のことでした。
もうすぐ5月とはいえ、標高1500mの山中はとても寒く、気温は氷点下まで下がっていました。

ですから、薄手のワンピース姿だった紀子ちゃんは、「寒いわ。あまり夜空がきれいなので、
車を止めて窓を開けて星を眺めていたら、身体の芯まで冷えきってしまいました」 と震えていましたね。

当時、すでに宮さまとご結婚することが決まっていましたから、優に100人を超える報道陣が
ここまで押し寄せてきました。 警備の方も20人はいらっしゃったと思います。あまりの人に、
息子たちとどうやって外に出て行こうかなどと話し合ったりしたものです。

それでも、報道陣が殺到してはせっかくの紀子ちゃんの最後の家族旅行が台なしになると、
警備の方々が配慮してくださったのでしょう。 翌日の午前中いっぱいは、報道陣は山小屋の
まったく見えない別荘地の入り口で待機となりました。

おかげで、辰彦一家と私の家族10人は、のんびり山の散策を楽しむことができました。
そのとき紀子ちゃんが、小学校3年生になる私の孫娘をおんぶしてくれたのです。

最初、孫娘は「とても重いから」と遠慮していたのですが、紀子ちゃんが笑顔で、「大丈夫よ、
他のお子さまをおんぶしてさしあげたことがあるから」と促すと、孫娘はうれしそうに背中
にへばりついていました。

その後、紀子ちゃんと孫娘が先頭に立って、せせらぎ沿いの急な散歩道を登っていき、
私たちはハーハー息を弾ませ、やっとの思いで後を追いました。

登りきったところで、紀子ちゃんが汗ばんだ孫娘の首筋のセーターを脱がせ、首のまわりに
上手に巻いてくれたことを、今でも鮮明に覚えています。
 

225 :名無しさま:2010/11/10(水) 13:24:51 ID:0uVB+nBC
■ 麦畑を駆ける姿が映える

紀子ちゃんは、小さいころから七つ違いの弟の舟ちゃんの面倒をよく見ていました。
お手伝いというより、自分から積極的に世話をしていました。笑顔で舟ちゃんをおんぶ
している写真もあります。

他のお子さまに対しても同じで、紀子ちゃんは子供が大好きなんです。
「お子さま方と一緒にいると、ホッとするのよ」  と笑っていました。

そんな紀子ちゃんだから、3児の母になっても大丈夫。立派に母親としてお子さまたちを
育てられることでしょう。
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紀子妃は父・辰彦氏の仕事の関係などで、'67〜'73年(紀子妃1歳から小学1年)を
アメリカ・フィラデルフィアで、'77〜'79(小学5年から中学1年)をオーストリア・ウィーンで過ごした。

紀子妃がウィーンにいたころ、豊子さんは毎夏、夫らとともに渡欧して、川嶋一家と交流を重ねた。
それは今もよい思い出となっている。

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226 :名無しさま:2010/11/10(水) 13:25:33 ID:0uVB+nBC
■ '77年には、夫(故・佐藤英一郎元専修大学教授)と一緒にウィーンを訪れました。

辰彦は仮住まいからアパートに移ったばかりだったので、紀子ちゃんと(辰彦氏の妻の)
和代さん、私の3人で競って部屋の雑巾がけをしたことが、懐かしく思い出されます。

次の年は、私の母とともにフランスに行き、辰彦の家族と合流しました。
辰彦は、どこへ行くにもスケッチブックを持ち歩くほどの絵画好きです。その影響からか、
紀子ちゃんも「一番好きなのは美術、次が運動」と話していたほどです。

辰彦の美術好きは、終戦直後の物資の乏しい時代、母が古本屋で買ってくれたゴッホの
画集がきっかけだったと思います。 
私たち4人姉弟はみな、その画集をよく眺めていたものです。

ですから私たちには、ゴッホに対する特別な思い出があり、その年は、ゴッホが晩年に描いた
麦畑や教会を見て回りました。

ゴッホの麦畑を弟の舟ちゃんと一緒に駆ける白いワンピースを着た紀子ちゃんの姿は
今でも目に浮かびます。青空に映えて、まるで絵画のようでした。

'79年には、オランダ・ハーグで再会、オランダの名所が25分の1に縮尺された
ミニチュアタウン・マドローダムを訪れました。
13歳になっていた紀子ちゃんは、1年ですっかり女性らしくなっていました。
 

227 :名無しさま:2010/11/10(水) 13:26:23 ID:0uVB+nBC
■ 祖母が「お妃教育」
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紀子妃の名は、川嶋家の出自である紀州・和歌山と、祖母の名「紀子」からつけられたものだ。
それだけ紀子さんの存在は川嶋家にとって大きく、豊子さんや辰彦氏はもちろん、紀子妃も
大きな影響を受けたという。

だが'02年12月、紀子さんは95歳でこの世を去る。
紀子妃は、葬儀と翌年の一回忌に参列した。

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母(紀子さん)は、会津藩士の家に育ち、礼儀作法や言葉遣いに厳格な人でした。

例えば、疲れて寝転びたいようなときでも、「柱に寄りかかる程度にしなさい」と私たち
子供を教育したものです。

紀子ちゃんに、「敬語を正しく遣いなさい」と注意することもありました。
普段はとても物静かで、優しいのです。でも、いざとなると強くてくじけない。
武士の躾や文化、教養が、そのまましっかりと根づいていました。

紀子ちゃんも「おばあちゃま」と呼んで、慕っていました。

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228 :名無しさま:2010/11/10(水) 13:27:05 ID:0uVB+nBC

宮さまとの結婚が正式に決まった後、紀子ちゃんはさまざまな「お妃教育」を皇居で
受けていました。 でも、そのうちのお習字についてだけは、鎌倉の母の家で習っていたのです。

実は、美智子さまが「お習字はおばあさまから習いなさい」とアドバイスしてくださったというのです。
それで、紀子ちゃんは半年以上、母のもとに毎週通っていました。

その間、紀子ちゃんはいろいろなものを母から学んだと思います。
私のときにもそうでしたが、母はぼそぼそっと大事なことを話すのです。いかにもお説教と
いった感じではなく、つぶやくように言ってくれる。 結果として、それが頭に残るのです。

ですから、母が亡くなったときは、私もそうでしたが、紀子ちゃんも心にぽっかり穴があいたような
思いをしたのではないでしょうか。

母の葬儀と一回忌には、宮さま、眞子さま、佳子さまとご一緒に紀子ちゃんも参列して
くださいました。そのとき、集まった人たちから「眞子さま」と声がかかったのです。
すると眞子さまは、ぴょこんとお辞儀をなさいました。

その姿が本当に自然体で、ご自分で考え、挨拶されるところは、
紀子ちゃん譲りのものがあると感じました。 
時間はわずかでしたが、お子さまはお二人とも良い子に育っていると感じることができました。

229 :名無しさま:2010/11/10(水) 13:27:46 ID:0uVB+nBC

子供のころの話ですが、辰彦は疳の虫をよく起こすことがありました。

そんなとき、母はとくに叱りつけるわけでもなく、気が静まるまで、ずっと弟をただ抱きしめていました。
紀子ちゃんも辰彦からそんな話を聞いているでしょうから、3人目の男のお子さまには
そんなふうに接するのではないでしょうか。

辰彦一家の家訓には、「オールウェイズ・スマイル(いつも笑顔で)」というものがありますが、
笑顔で話すことは、相手の気持ちをほぐす意味があります。
さまざまな人種の暮らす欧米社会で、辰彦は「スマイル」の大切さを、身をもって学んだのでしょう。

紀子ちゃんは家訓どおり笑顔を絶やしませんが、その家訓はお子さまにまで伝わっているのだと
思います。

結婚前、紀子ちゃんが母を訪ねて鎌倉まで遊びにきたことがありました。

湘南海岸沿いの古いホテルで食事をしていたら、葉山の御用邸にいらっしゃっていた宮さまが
お忍びでやってきて、母に「紀子さんをお借りします」とおっしゃったそうです。

そんなこともあり、母は宮さまとのご結婚に際して、「孫娘を差し上げます」という心境だったのだと
思います。 それは私たち親族みな同じ思いで、紀子ちゃんは別の世界に行かれたのだと思って
きましたが、今では少し寂しいと感じるのもまた事実です。

もちろん、たくさんご公務もあってお忙しいとは思いますが、お生まれになったお子さまが
少し大きくなられたら、ご一家そろってこの山小屋に来ていただけたらなと願うのです。

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