シナを「中国」と呼んではいけない三つの理由 |
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=> ホーム > 日本を護ろう >シナを「中国」と呼んではいけない三つの理由 私達は日頃何気なくシナを「中国」と呼んでいますが、実はこれはとても異常な事です。 どう異常なのか、そしてなぜこんな異常な事が起きてしまったのかをまとめてみました。 1.中国の人達の置かれた困った立場私は中国生まれの中国育ちですが、日本人です。シナ人ではありません。 中国には、中国銀行、中国放送、中国新聞、中国交通、中国ガス、中国電力等、 社名に「中国」を含む多くの企業がありますが、言うまでもなくすべて日本の企業です。 また中国には中国山地があり、中国自動車道が通っています。ところが紛らわしい事に、何故かマスコミはシナのことを「中国」と呼び、 中国のことをわざわざ「中国地方」などと脇に押しやったような言い方をしています。 先日も「中国で『讃岐うどん』商標登録申請、香川県が異議へ」という記事がありましたが、 中身を読んでみると、シナ人がシナの国内で日本の商標を申請したという話でした。 それなら「シナで『讃岐うどん』商標登録申請」と言うべきです。 この見出しでは、まるで瀬戸内海をはさんで中国と四国がもめているみたいです。 正しい地名が恐くて使えない日本では中国という地名をまともに使うことができません。 旅行のパンフレットのタイトルを「中国ツアー」にするとシナ旅行の事と勘違いされます。 食品に「中国産」と付けると、シナ産の事になってしまいます。2007年、中国にある「中国食品※※」という会社が倒産しました。 当時はシナ産の食品の安全性が世界的に問題になった時期で、 社名の「中国」がシナの事と勘違いされ、「シナの食品を専門に扱う会社」と 思われて取り引きが激減したのでした。 安全な食品を求めることは当然のことですが、問題にされていたのはシナ産であって、 中国産ではありません。 シナの「中國銀行」が日本に進出した際、中国の中國銀行との表記の衝突が問題になったこともあります。 この時、何故か本家中国の中國銀行の方が「國」の字を「国」に変え、 支店のぶつかる場所では「本店岡山市」という記述を追加して対応したそうです。これは本当に妙な話です。 シナの銀行の方こそ「支那銀行」とか「バンクオブチャイナ 本店北京」とかに変更するべきでした。 そもそも何故シナの銀行に、日本の地名である「中国」の使用を許したのでしょうか。 こんな異常な出来事が起こるのも、日本のマスコミがシナのことをかたくなに「中国」と呼び続けて いるためです。その為日本人の多くが中国と聞けばシナの事だと思うようになってしまいました。 2.「中国」は由緒ある日本の地名比較にならない程古い中国の歴史日本の山陽・山陰を合わせた地域を中国と呼ぶ歴史は非常に古く、 『類聚三代格』に載っている元慶二年(878年)二月三日の官符の記録に既に見られるということですから、 少なくとも千百年以上の歴史があります。一方、一般に日本人がシナを「中国」と呼び始めたのは戦後の事ですから、 まだ60数年の歴史しかありません。 また「中国」と呼び始めた時点で、中華民国(建国1912年)はまだ三十数年の歴史しかなく、 中華人民共和国(建国1949年)に至っては存在すらしていませんでした。 ということは、千百年以上も在り続け、使われ続けて来た日本国内の由緒正しい地名を脇に押しやって、 海外にある新興国の略称を優先させていることになります。 なぜこんな不自然な事が起きてしまったのでしょうか。 すべては外務省の通達から事の始まりは、昭和21年(1946)の外務省が出した通達です。 当時連合軍の管理下にあった外務省は、 東京都内の主要マスコミに対して「支那」の使用をやめるように通達しました。中華民國の國名として支那といふ文字を使ふことは過去に於ては普通行はれて居たのであるが 其の後之を改められ中國等の語が使はれてゐる處支那といふ文字は中華民國として極度に嫌ふものであり, 現に終戰後同國代表者が公式非公式に此の字の使用をやめて貰ひ度いとの要求があつたので、 今後は理屈を拔きにして先方の嫌がる文字を使はぬ樣にしたいと考え念のため貴意を得る次第です。 要するに支那の文字を使はなければよいのですから用辭例としては「今後は理屈を拔きにして」と書いてある通り、理屈の通らない無茶苦茶な押し付けであることは明らかです。 当時の日本は敗戦によって民主主義を封殺され、連合国軍による野蛮な検閲と洗脳に支配されていた時代でしたが、 それでもこんな暴力団の脅しのような要求に屈した外務官僚には大いに責任があると思います。中華民國、中國、民國。 中華民國人、中國人、民國人、華人。 日華、米華、中蘇、英華などのいづれを用ひるも差支なく唯歴史的地理的又は學術的の敍述などの場合は 必しも右に據り得ない例へば東支那海とか日支事變とか云ふことはやむを得ぬと考へます。 しかしよく読むと、支那と呼ぶべきでないとされているのは中華民国、つまり台湾のことです。 また「中国」の他に「民国」という候補も挙げられていますから、 こちらを使えば無用な混乱は避けられたはずです。わざわざ問題のある「中国」の方を使い、さらには 中華人民共和国にまで「中国」という名称を適用したことは、 マスコミの過剰適応であり、外務官僚と同罪と言えるでしょう。 驚くべきマスコミの力それにしてもマスコミの力は絶大でした。 ありとあらゆるすべてのメディアにおいて「支那」から「中国」への書き換えが行われ、 過去の戦争の名前までもが、 例えば「支那事変」は「日中戦争」にという具合に書き換えられました。 その一方で「中国四千年」「中国文明」などと、あたかも何千年も前から「中国」という国があって、 日本人がそう呼んでいたかのように触れて回りました。 つまり、単に国の呼称が変えられただけではなくて、歴史全体が書き換えられたと言ってよいと思います。このような洗脳により、最近まで日本人がシナをシナと呼んでいた事も歴史から消し去られて しまいました。 それでも個人の中にはいまだにシナと呼ぶ人はいるのですが、 マスコミがこぞってシナの事を強引に「中国」と呼び続けるものだから、 逆にシナと呼んでいる人達の方が、何か特別な意図を持った人のように思われています。 押し付けに従うのはやめようさてこのような理不尽な押し付けによって、日本人とりわけ中国の人達は様々な不利益を被っています。 「中国」は日本の地名です。戦争に負けたからと言って呼び名を強要されるいわれはありません。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 一つ目の理由 です。
3.シナは世界の共通語さてシナの事をシナと呼ぼうと言うと、いつも決まった反論があります。「支那(シナ)は日本人だけが使った差別語である」の嘘「支那(シナ)」は日本人だけの呼び名であり、中国人を侮蔑してこう呼んだのだ」と 主張する人がいます。これはまったくの嘘です。 「シナ」も「支那」も日本だけで使われた言葉ではないし、ましてや差別語ではありません。『広辞苑』には、「支那」とはシナに対する外国人一般の呼称であると書かれています。 支那(しな)インド人の「シナ」という呼称に「支那」の字を当てたのは当のシナ人です。 そしてシナ人自身も自国を「支那」と呼んでいました。 「国父」とされる孫文も、自国を「支那」と言っています。 差別語であればシナ人は使わないはずです。 一方日本人は元々、シナの事を「から」「もろこし」と呼んでいました。 「支那(シナ)」と呼び始めたのは外国人の影響です。 江戸時代の学者・本居宣長(1730-1801)は、『玉がつま』の中で、 日本の一部の学者が外国の真似をして「支那」と呼ぶことを批判しています。 もろこしの國を、もろこしともからともいひ、漢文には、漢とも唐ともかくぞ、皇國のことなるを、 しかいふをばつたなしとして、中華中國などいふを、かしこきことゝ心得たるひがことは、 馭戎慨言にくはしく論ひたれば、今さらにいはず、又中華中國などは、いふまじきことゝ、 物のこゝろをわきまへたるひとはた、猶漢もしは唐などいふをば、つたなしとやおもふらむ、 震旦支那など書くたぐひもあんなるは、中華中國などいふにくらぶれば、よろしけれども、 震旦支那などは、西の方なる國より、つけたる名なれば、そもなほおのが國のことをすてゝ、 人の國のことにしたがふにぞ有ける、 もし漢といひ唐ともいはむを、おかしからずとおもはゞ、 漢文にも、諸越とも、毛虜胡鴟とも書むに、何事かあらむ、このことからも、「支那(シナ)は日本人だけが使った」言葉ではない事が明らかです。 むしろその呼称が世界標準だったために、日本人までが使うようになったというのが真実です。 これは今も同じです。 下記の一覧表は、世界の国々がシナを何と呼んでいるかをまとめたものです。 これを見ると、国毎のなまりはあるものの、多くの国が「シナ」に基づいた呼び方をしている ことが分かります。英語の「チャイナ」もシナが変化したものです。 朝鮮語の「チュングク」とベトナム語の「トゥルンコック」のみが「中国」に基づいた呼称のようです。 ペルシャ語の「シニスタン」は「震旦(しんたん)」と同源で、やはり「秦(しん)」が元になっています。
「China を『中国』と呼ぶ重大な過ち」中嶋嶺雄(WiLL 2006年9月号)より引用 「シナ人はシナと呼ばれることを嫌がっている」のうさん臭さまた「仮に差別語ではないとしても、人が嫌がる呼称をわざと使うのはよくない」などと、 もっともらしいことを言う人もいますが、シナ人が嫌がっているというのも非常に疑わしい話です。上に示した通り、シナは世界中の国々からシナもしくはその変形で呼ばれているのに、 なぜそれらに対して抗議をしないのでしょうか。 そもそも中華人民共和国の英語名は "People's Republic of China" で、 シナ政府自身がつけた呼び名です。 これを日本語に訳すなら、「シナ人民共和国」になる事は言うまでもありません。 2002年、シナの巨大ポータルサイト sina.com に対して、 日本に留学経験のある学者が抗議をしたことがありました。 「sina は日本による差別語だから改名するべきだ」と言うおなじみの主張です。 その時 sina.com の代表者は 「シナは英語のチャイナの過去の発音で、それ自体に侮辱の意味はない」と言って拒否したそうです。 さらに続けて、「シナを世界のブランドにし、シナ人が誇れる呼び名にする」と言ったそうです。 至ってまともな意見です。 大体シナを「差別語」だと主張する人達は、日本にいて日本のマスコミの報道に接した人が多いようです。 もしシナにいるシナ人が sina.com の名称を嫌がっているとしたら、 わざわざ日本に留学した学者に指摘されるまでもなく、最初から大騒ぎになっていたはずですし、 間違っても人気サイトなどにはならなかったでしょう。 「意図的にシナと呼ぶ態度がシナを差別語にしたのだ」のでたらめ他に、「支那という呼び方を変えてくれと要請したにも関わらず、日本人は変えようとせず、 意図的に支那と呼び続けた。だから支那は差別語になったのだ」という主張もありますが、問題外です。本当の差別語や明らかに侮蔑している場合はともかく、相手をどう呼ぶかは呼ぶ側が決めることです。 「このように呼んで欲しい」と要請をするのはいいですが、それが受け入れられるかどうかは相手次第です。 それを相手が命令に従わないからと言って「差別」と決めつけるのは、 やくざの言いがかりに等しい言い分です。 ましてや相手が国際標準の呼び方をしているところに、ごく少数の国しか使わない特殊な呼び方を 押し付けるなどというのは論外です。 さて、彼らが「支那と呼ぶな」という時、必ずその後に「中国と呼べ」が続きます。 これはなぜでしょうか。 これを理解するには、「中国」「支那」の言葉の意味を正確に理解する必要があります。 4.二つの「中国」そもそも「中国」と言う言葉には、「世界の中心の国」という意味の普通名詞の用法があります。 この用法は固有名詞としての「中国」とは違って、非常に長い歴史があります。 その言葉は中華秩序という世界観を前提としています。中華秩序とは何かその世界観は、「中国」を中心として、四方に野蛮な異民族がいるというものです。 四方の異民族は東夷(とうい)、西戎(せいじゅう)、南蛮(なんばん)、北狄(ほくてき) と呼ばれました。 使われている文字を見れば分かる通り、周辺の異民族を侮蔑してこう呼んだのでした。そして「中国」には、天からの命令(天命)を授かって世界を治める、「天子(てんし)」がいるとされました。 天子が政治を行う場が朝廷です。 皇帝は天子の別名で、「皇」の字は天子にのみ許されるとされました。 天子は「中国」を治めるのみならず、四方の野蛮な異民族をも臣下の国として従え、 その国の長に「王」の称号を授けました。 王は皇帝に忠誠を誓い、「中国」に貢ぎ物を納めました。 これがいわゆる「中華秩序」と呼ばれるものです。だから「中国」は尊称でもあります。 シナの皇帝は自国を「中国」と尊称で呼び、臣下の国にも「中国」と呼ばせました。 だからシナの忠実な属国である朝鮮などは、シナのことを「中国」と呼びました。 つまり 他国を「中国」と呼ぶ国は、その国の臣下の国に他ならない という事です。 これに似た働きをする言葉としては、「ご主人様」や「親分」などがあります。 ある人を「ご主人様」と呼ぶ人は、その人の召使いであることは明らかです。 ある人を「親分」と呼ぶ人は、その人の子分に違いないでしょう。 新たな秩序を持ち込んだもう一つの中国ところが7世紀の始め、シナの前にもう一つの大国が現れました。 その国もまた自国を中国と呼びました。 下に示すのは、その国から送られてきた国書の一節です。日出づる処の天子が、日没する処の天子に手紙を送る。無事でお過ごしか天子が二人になっています。 続いて送られて来た二通目の国書は次のようなものでした。 東の天皇が謹んで西の皇帝に申し上げます天子にしか許されないはずの「皇」を名に持つ元首が二人います。 言うまでもなく、これは日本がシナに送った国書です。 共に聖徳太子の手によるものとされていて、 前者はシナの歴史書『隋書』に、後者は日本の歴史書『日本書紀』に記録されています。 上に示した中華秩序の世界観を理解していれば、この二つの国書が提示しているものが共に 「二つの中国」という新しい世界観 であることがお分かりでしょう。これは一つの中国を前提とするシナ人の中華秩序を否定するものでした。 隋の煬帝は不本意ながらもこの国書を受け入れています。 それ以来アジアには二つの中国があり、互いに張り合って来たわけです。 この新しい秩序を受け入れなかったのは、シナよりもむしろシナの忠実な属国である朝鮮でした。 明治時代に日本が朝鮮に修好を申し入れた時も、国書に「皇」の字が使われていると言って拒否しました。 今でも朝鮮人などが、天皇という呼称を嫌って「日王」などと呼ぶのは、 この「二つの中国」という世界観を認めたくないからです。 日本国内にも、執拗に聖徳太子の存在を否定し、 大和朝廷を「ヤマト王権」と言い換えたがる勢力がありますが、 まったく同じ発想です。 「朝廷」は天子が政治を行う場、「王」は皇帝の臣下であることを思い出して下さい。 「大和」を「ヤマト」に置き換えるのは、「大」が敬称だからです。 シナを「中国」と呼ぶことは日本の基本的立場に反するさて今日の私達は当たり前のようにシナの事を「中国」と呼んでいますが、 それは中国が中華人民共和国の略称だと思っているからです。 しかしそう呼ぶことは、聖徳太子が確立した「二つの中国」という日本の基本的立場を危うくするものです。 日本こそが中国なのに、なぜ他国を「中国」などと呼ぶのでしょうか。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 二つ目の理由 です。
(左の写真は「大清国属高麗国旗」)
5.なぜ日本人にシナと呼ばれると都合が悪いのか打ち砕かれた古い中華秩序さて19世紀末、日本は日清戦争(1894-1895)で清国を破り、 清の属国であった朝鮮を独立させました。 中国王朝を名乗る清が、 もう一つの中国・日本に屈伏し、属国を独立させられたことは、 古い中華秩序が打ち砕かれた象徴的な出来事と言えるでしょう。しかし日本と清の関係は悪化しませんでした。 清朝の故国である満州は日清戦争の後ロシアに占領されていましたが、 日本は1904年の日露戦争を戦ってロシアを追い出し、清の手に取り戻しました。 さらに日本は満州の地にインフラを築き、治安を守り、産業を発展させました。 この頃からおびただしい数のシナ人が満州に移住してきました。 一方清は、日本の明治維新を手本にして強力な立憲君主制の国になろうとして、大量の留学生を 日本に送りました。今日のシナで、社会科学分野の語彙の7割が日本起源と言われるのはそのためです。 シナの独立と乗っ取り当時シナ人は清の中で満州人の支配下にありましたが、 日本への留学生らを中心として民族独立運動が起こり、 辛亥革命(1911)によって独立を勝ち取りました。 ところが彼らは中華民国を建国(1912)すると、「五族共和」という事を言い始め、 清朝の支配領域すべてを引き継ぐと宣言しました。下の地図は清朝の支配領域の全体を表したものです。 いわゆるシナとは「漢族」と書かれた領域 の事を指します。 清朝の領土を引き継ぐという事は、シナ人の領土だけではなく、 満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土すべてを自分の支配領域にするということです。 辛亥革命は元々シナ人の民族独立運動だったはずなのに、 いつのまにかシナ人による他民族の支配という別の目的に切り替わっていたのでした。 例えて言うと、強盗団に捕まっていた人質の一人が自由の身になったとたん、 「強盗団の財宝も人質もすべてを自分のものだ」と主張し始めたようなものです。
『「日本と中国」歴史の真実』拳骨拓史著 より引用 「中国」の意味の変更による侵略の正当化その時に戦略的に使われたのが「中国」という言葉です。 元々「中国」とは自国を表す尊称に過ぎなかったのですが、 この頃から支那と同じく、領土や国家を表す固有名詞として使われるようになりました。 しかも清朝の領土を引き継ぐことで、 かつて一度もシナの領土でなかった広大な領域を「中国」と呼んだのでした。 具体的に言うとこうなります。つまり、他民族の領土にまで「中国」という名前の覆いをかけて、すべて自分の国ということにしたわけです。 もちろん他民族の同意を得た訳ではありません。 この頃からシナ人は日本に対して「支那と呼ぶな」と言って来るようになります。 結局第二次大戦後、シナは満州国をまんまと自分のものにし、 日本が多額の投資をした満州の産業をも手に入れました。 しかしそれまで満州は、歴史上ただの一度もシナの支配下になったことはありませんでした。 それなのに満州国の建国を助けた日本は、いつのまにか「中国を侵略した」ということにされています。 その後シナは、モンゴル人(一部は独立)、ウイグル人、チベット人に対する侵略、抑圧、虐殺を繰り返し、 それらの地域に大量のシナ人を流入させて「民族浄化」を行っています。 シナ政府はこれらの地域で起きていることをひた隠しにしてきましたが、 次第に世界の人々も、そこで何が起きているかに気づき始めました。 シナ政府は世界からの批判に対して、「内政干渉だ」と言って反論しています。 本来これらの国々は、清朝が倒れた時に満州国のように独立するべきでした。 ちなみに清朝の時代には、民族の自治が認められていて、民族を混ぜ合わせないための配慮もありました。 シナ人にも大きな自由があったことは孫文も認めています。 ダライラマ14世があえてチベットの独立ではなく「高度な自治」を望んでいるのも、清朝の時代の事が 頭にあるのでしょう。 シナを「中国」と呼ぶことは侵略の手助け私達がシナをシナと呼ぶ時は、シナ人が満州、モンゴル、ウイグル、チベットの各民族の領土を 侵略している実態が浮き彫りになります。 反対にシナを「中国」と呼ぶ時は、シナ人による他民族への支配を正当化し、 侵略を積極的に手助けしていることになります。 これがシナを「中国」と呼んではいけない 三つ目の理由 です。
[2009/9/13]
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