自国第一。他国第二。どの国でも当たり前のことです。

まだまだ未熟者で浅学非才ながらも日本を本気に憂いています。そして日本が世界にどう影響力を及ぼすべきかを考えています。
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幣原外交から学ぶ(1)

 1920年代、当時の日本が直面していたの最大の国難は「中国問題」でした。中国大陸とどう付き合うか。これは昔から日本にとっての死活問題でした。ところが、その死活問題で、当時の日本は大きく選択を誤っていくのです。なぜ誤ったのでしょうか。背景には、日本のエリートが戦略的なものの見方が全くできず、そこに「歴史の悲劇的なめぐり合わせ」が重なりました。
 
  この時代の日中関係を考える時、絶対に失ってはならない視点はソ連の存在です。日本と中国の衝突が泥沼化してゆくのは、実はソ連の国家戦略によるところが大でした。話は、コミンテルン(1919年結成)指導下の国際革命運動から始まります。1917年ロシア革命より誕生したソ連(正確には1922年からソビエト社会主義共和国連邦)は、革命政権樹立直後から、1国だけでは世界中から包囲され生き延びることができない、と重大な危機感を抱いておりました。そこで、「コミンテルン」という組織をつくり、世界各国で知識人や労働者を組織して共産主義の革命団体を世界中につくり出し、すべてをモスクワからの指令によって動かし、各国の内部を混乱させ共産革命を引き起こそうとしたのです。その手始めとして1920年代前半は、先進国ヨーロッパでの共産革命を目指しました。しかしこれは、ことごとく失敗に終わります。
 
 そこで「先進国革命」は難しいと判断したソ連は、今度は一転して、非ヨーロッパ圏に狙いを定めます。その最初のターゲットはインドでした。「帝国主義」の親玉イギリスをやっつけるにはインド、という目論見があったのでしょう。コミンテルンは莫大なお金と人員を注ぎ込みます。ところが、インド帝国は、植民地とはいえ、ヴィクトリア女王を「インド女帝」に戴くほどの国ですから、守りも堅い。当時、イギリスの情報機関で最も優秀といわれた「インド情報部」が、19世紀のセポイの乱以降、大変きめ細かく植民地支配のための情報収集も行っていたこともあり、コミンテルンの手先はすぐさま察知され追い出されることになります。
 
 そこで、最終的に行き着いた「革命の輸出」先が、中国だったのです。当時の中国には、イギリスの上海、香港を筆頭に、日本もフランスもアメリカも利権を有していました。ここで革命を起こせば、帝国主義諸国―つまりソ連の敵―にまとめて大きな打撃を与えられる、と考えたのです。こうして、コミンテルンは、「ヨーロッパ革命」の路線を捨てて、「中国革命」の路線に大きく転換していきます。「是が非でも中国に革命を起こせ」。これは、1922年に病に倒れ24年に没するレーニンの最後の遺言でもありました。
 一方、中国は、近代国家へ脱皮しようとして果たせず、大変な混乱の中にありました。辛亥革命(1911年)によって、清朝を倒し、中国史上初の共和国「中華民国」を成立させたものの、結局、軍閥混戦に陥ってしまって、どうにもならない。中華民国の正統な継承者として中国統一を志す孫文も、その支配地域は広東にとどまっていて、欧米諸国と通じた北京の軍閥政権の前に全く力がおよばない状況にありました。
 
 そういった中、中国国民党率いる孫文にコミンテルンが接近し、次々と大物工作員を中国に送り込みます。まずは1923年1月にボロジンが、4月にはヨッフェがやってきて孫文と会談を行う。いわゆる「孫文=ヨッフェ」会談です。ここで孫文は、ソ連と「秘密協定」を結ぶわけです。中国革命のために、ソ連が、資金と武器そしてリーダー養成に莫大な援助を与えるという密約です。
 
 その結果、翌1924年1月の国民党第一回大会で「連ソ、容共」路線が正式に採択され、「第一次国共合作」が図られます。国民党と、1921年に結成された中国共産党が手を結ぶわけです。それは、中国にとって大変な不幸をもたらす流れの始まりだったのです。孫文の大きな過ちは、ソ連に依存して国民革命を遂行しようとしてしまったところにあったといえるでしょう。一端、共産党と仲良くすれば(共産党のいう「統一戦線」を組めば)、いずれ共産党が力を持ったところで乗っ取られ粛清されるのは、ロシア革命を見ても明らかでした。この国共合作が、やがて1949年の中華人民共和国成立につながっていくのです。
 
 しかし、国共合作がより危険な意味を持ったのは日本です。コミンテルンの中国革命路線に乗って中国で共産主義が胎動したことの重大さに、日本は気が付かなければなりませんでした。国際共産主義運動が、中国を介して日本の利権にまで手をかけたのですから。さすがに英米は事の重大さに少しは気が付きました。ところが、日本は全く気が付きませんでした。
 
 なぜでしょうか。1923年は大正12年です。そう、9月に関東大震災が起こっているのです。「帝都崩壊」で、中国情勢どころではなかったのでしょう。しかも、大正天皇のご病気は重くなる一方で、しかも当時、皇太子(のちの昭和天皇)暗殺未遂事件が起こり、内閣は崩壊を繰り返すほど国全体がひっくり返っていたのです。こういった歴史の「悲劇的なめぐり合わせ」の中、中国近代史の大きな転換点を、日本は見過ごしてしまうのです。
 
 孫文亡き後(1925年死去)、蒋介石が総司令となって10万の国民革命軍を率い、1926年7月から、北京軍閥政権の打倒を目指した「北伐」を開始します。この北伐軍が強かった。何よりものをいったのは、ソ連の莫大な資金援助です。一回分の送金額が北京の軍閥政権が持っていた軍事予算の数倍だったといわれていますから、これでは各地の軍閥もどうにもなりません。それゆえ国民革命軍は、1年も経たないうちに日本人ビジネスマンが数多く居留する揚子江流域を制圧していきます。
 
 こうして1927年、国民革命軍は、急速にいくつもの軍閥軍を蹴散らして2月に漢口(今の武漢)、3月に南京に達します。ただし、ここで内部に亀裂が生じ、中国共産党を中心とする「国共合作軍」は先に武漢入りしてボロジンを代表に武漢国民政府を樹立(1926年11月)します。一方、ソ連や中国共産党のめざましい進出に警戒心を抱いた蒋介石は、1927年4月に、上海で反共クーデターを起こし(共産党指導の「上海臨時政府」を打倒し)、左派の武漢政権に対抗して南京に右派の国民政府を樹立することになります。しかしその渦中、あの悪名高い「漢口事件」「南京事件」が起こるのです。国民革命軍及び中国人暴徒による外国人居流民への大虐殺な略奪・暴行・虐殺事件です。
 
 まず漢口では、当時、中国革命運動のターゲットとされたイギリスの居流民が虐殺され焼き討ちに遭い、条約によって認められてきた「イギリス租界」が中国軍によって武力接収されてしまいました。暴動は日本人居留民街にもおよび、日本領事館の警察官が最後まで奮戦して日本人居留民を守るために日本刀で斬り合い防ごうとしましたが、領事館に遭難した居留民も含めて多くが難に遭いました。
 
 続く南京では、国民革命軍および暴徒は、漢口を上回る乱暴狼藉の限りを尽くします。英米領事館への襲撃に始まり、租界の商店、企業などをことごとく焼き討ちにし、略奪し、各国居留民に暴行を加えました。憤慨した英米両国が、砲艦から暴徒に向け砲撃を加えたのはいうまでもありません。
 
 実は、この時も英米両国は、日本も一緒に行動しよう、と呼びかけているのですが、日本の砲艦だけは発砲に加わらなかったのです。それは、「中国を刺激してはならない」という日本政府の訓令があったためで、日本の軍艦は、避難しようとする日本居留民を見捨てて揚子江を下流に向けて‘逃げ帰った‘わけです。戦前の日本にも、こうした普通の国としては考えられない「弱腰外交」の時代が長くあったのです。
 
 このことを知っておくことはとても大事なことです。なぜなら、英米などはきちんと国際法の自衛権を発動して正当に軍事力を行使しているのに、日本だけが「日支友好」に反する、と称して本来の国際協調に優先させたため、英米からは孤立し中国から「弱腰日本」と見られてしまい、4年後の満州事変へと日本が追い込まれてゆく最初のきっかけとなったからです。
 
 当時の日本外交を指導していたのは、民政党の幣原喜重郎外務大臣でした。その対支外交の柱は「日支友好」「不干渉主義」です。そのため、国際法的権利を犯す国民革命軍を懲らしめるために共同歩調をとろう、という英米の要求に対して、幣原外相は決して首を縦に振りませんでした。
 
  こうして、日本も同じように大被害を受けていたのにもかかわらず、日本だけは報復せずに、居留民の一方的な引き上げを決めるわけです。これは、中国共産主義運動あるいは過激化する中国ナショナリズムからすれば、ものすごく弱腰に映ります。「ちょっと暴れれば日本人は逃げていく」と。その後、中国革命運動の矛先は、一気に日本へと集中してゆきます。この幣原外相の危険な「軟弱外交」がまかり通ったのも、ちょうどこの頃、後述するように大正天皇の崩御(1926年12月)と昭和天皇の即位で国内で注目は釘付となっており、同時に南京事件と併行して有名な「昭和二年の金融恐慌」が起こり、政治は大混乱をきわめていたからです。後に幣原への非難が起こりますが、時既に遅しで、このことがその後の日本に大きな悲劇をもたらします。
 
 さて、南京国民政府を樹立した蒋介石率いる国民革命軍(国民党)は、直ちに北京制圧を目指して北伐を開始します。北上ルートの山東地方(青島、済南など)には万を超える日本人居留民がいるため、漢口、南京両事件で被害を被っている日本として放っておくわけにはいきません。野党として、幣原のような「軟弱外交」はダメだ、と言って攻撃し政権の座についた政友会の田中義一内閣(外相は田中首相が兼務)は、一方的な居留民引き揚げはせず「現地保護主義」を謳って、第一次山東出兵に踏み切ります。しかし今回は、英米などは山東省以北に自国の権益をほとんど持っておらず、日本一国での出兵とならざるをえません。そして山東、北京とくれば、その先には「日本の生命線」と言われた満洲がやがてターゲットになることはわかり切ったことでした。このことを見通して英米と深く連携しておくべきだったのに、幣原はそれを無視して日本の孤立化へ踏み出していったのです。田中内閣による「日本一国だけの山東出兵」はそのツケを払わされたものでした。
 
  といっても、山東出兵は北京、南京、武漢の三政府(当時の中国は、大きく言って、三つの政府が分立していた)にきちんと理由を通達した上での出兵だったのですが、三政府ともこれに抗議し、このあたりから、中国全土で激しい反日・侮日運動が繰り広げられるようになります。日貨排斥運動(日本製品不買運動)が各地で起こり、「対日経済断交すべし」という声も出てきます。こうして中国の排外運動は日本にそのターゲットが集中していったのです。これらは明らかに組織された戦略的「反日」だったのです。本当は、この1927年、28年頃が日本にとって「歴史の最も重大な曲がり角」だったのです。
 
*誠に申し訳ありませんが、内容は5000字が限度なので、途中で文章を切らせていただきます。
 
 
参考文献
『日本人としてこれだけは知っておきたいこと』 中西輝政著
 
 
 
 

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