西崎氏を語る上で、創価学会との関わりは避けては通れない。
西崎氏は虫プロ商事や自分の会社を経営するかたわら、学会の事業にも大きく貢献していた。というか、当時の西崎氏の一番の稼ぎ先は、創価学会だったのかもしれない。
彼のマネジメントの才能は、学界の外郭団体、財団法人民主音楽協会(通称民音)で発揮された。
後に西崎氏が民音のマネジメントとして日本各地「1万人以上の町なら行った事がある。」と言ったように、彼は敏腕振りを全国で発揮したのだ。
創価学会には専属的に従事していなかったが、彼の存在は学会に大きく寄与し、彼自身も利益を得ていた。
また彼と創価学会の関係の良さを示す逸話がある。
宇宙戦艦ヤマトは当初TVシリーズが振るわず、このままでは歴史から消え去る運命にあったが、西崎氏は諦め切れず映画化を図った。しかしアニメ界で成功した実績のない人間の、打ち切りになった作品に配給してくれる会社など無く、自身とオフィス・アカデミーで配給するという、自主興行的プランで上映にこぎつけた。
しかし実際には、創価学会の伝手を頼りに、民音を通してかなりの数のチケットを購入してもらっていたのだ。その数一説によると百万枚にのぼる。
この事前購入を条件に、劇場側も映画館にかけるのを承諾したとも言われている。
もう一つ、創価学会との親密な関わりを示すものがある。
西崎氏の元赤坂にあったファンクラブ本部事務所には、とても清楚な、真面目そうな事務員の女性が数名働いていた。実は彼女達は、学会員だったのだ。
話しは宇宙戦艦ヤマト製作以前に戻るが、西崎氏の敏腕ぶりは学会と西崎氏本人に大きな利益を与え、後に西崎氏の批判対象となる銀座や赤坂で笹川陽平氏らと遊びまくり、白のオープンカーを乗り回し、複数の会社のポストに就く「多忙」な行動をとらせた。だがこれは、彼だから出来た行為であり、成功者の一面もあるのだ。
そんな成功者の一面はあったが、西崎氏は自分が本当に求めるもの、やりたい事をまだ実現はしていなかった。
それは、まだ一つの成功作品も出していないアニメの世界だった。
1973年西崎氏39歳の年、彼はアニメ製作会社、瑞鷹エンタープライズの役員となった。
瑞鷹エンタープライズは、ヤマトが視聴率で惨敗した要因とされる裏番組、「アルプスの少女ハイジ」を製作した会社(ズイヨー映像)である。