先日の記事では、日本の高度成長は「まぐれ当たり」で、二度と再現できないという説を紹介したので、今日はその逆の説を紹介しよう。本書(2004)はキワモノ的な題名で損しているが、内容は実証的で、同様の議論は八田達夫氏など経済学者も主張している。
本書の主張は、次の図に集約される。実質GDP成長率は農村から都市への人口移動率と強い相関があり、高度成長は労働人口の移動によってほとんど説明できる。ところが70年代に、石油危機で成長率が大幅にダウンするとともに、田中角栄の『日本列島改造論』が出てきて地方に公共事業を増やした。彼の「国土の均衡ある発展」という考え方がその後も続いたため、これによって人口の都市集中が抑制され、成長率が落ちたというものだ。
実質GDP成長率と農村から都市への人口移動率(1955年=100)
本書の主張は、次の図に集約される。実質GDP成長率は農村から都市への人口移動率と強い相関があり、高度成長は労働人口の移動によってほとんど説明できる。ところが70年代に、石油危機で成長率が大幅にダウンするとともに、田中角栄の『日本列島改造論』が出てきて地方に公共事業を増やした。彼の「国土の均衡ある発展」という考え方がその後も続いたため、これによって人口の都市集中が抑制され、成長率が落ちたというものだ。
実質GDP成長率と農村から都市への人口移動率(1955年=100)
これは標準的な成長理論とも符合する。成長率は資本蓄積と労働投入で説明できるので、資本蓄積を一定率とすると、労働人口が生産性の高い都市に移動することによって成長率は上がる。労働生産性の大部分は、こうした労働配分の効率化で説明できるので、人口を地方に分散すると成長率が下がるのは当然である。この事実をもとにして著者は、人口の都市集中を促進すれば成長率は上がると主張する。
この場合、問題は都市のインフラが大丈夫かということだ。これまで政府は都市機能を都心から郊外に分散させようとしてきたが、本書はむしろ都市再開発を進めて都心の高度利用を進めるべきだと主張する。容積率を緩和し、土地への固定資産税を増税すると同時に建物への課税をやめれば、低利用の機会費用が大きくなって高度利用のコストが下がり、高層ビルが建てやすくなる。
同時に、インフラ投資を都市に集中する必要がある。民主党は「コンクリートから人へ」といっているが、もはや公共事業は一般会計の6%しかない。公共投資を一律にやめると、都心部ではインフラの不足によって交通渋滞や通勤地獄がひどくなり、生産性が落ちる。特に東京の道路は貧弱で、環状道路が少ないため、関西から東北へ行く車が首都高を通り、渋滞がひどくなっている。
ところが都市整備をやろうとすると、「住民運動」が起こって工事が進まない。行政が強制執行しようとしても裁判所が認めないため、環状7号線は計画決定から完成まで58年、環8は60年かかった。このように司法的な問題解決が困難な部分を地上げ屋などが補完してきたが、バブル崩壊後は彼らも姿を消し、不動産投資も冷え込んで、都市再開発は止まってしまった。
票の重みを考えれば、政治家が地方に公共事業を重点配分するのは合理的だ。司法が既得権を守ることも、個別の事件ではやむをえない面があろう。しかし、このような「格差是正」や「弱者保護」で都市機能が麻痺すると、東京は上海やシンガポールなどとの都市間競争に敗れ、結果的には国民全体が貧しくなる。
高度成長が復活するとは思えないが、日本経済の衰退を止めるためにもコンパクトシティにインフラ投資を集中し、サービス業の生産性を高める必要がある。人口は減少しているのだから、山間部や離島にすべての人が住み続けるのは無理だ。まして現在の人口配置を前提に津々浦々まで「光の道」を引くなんてもっての外である。
この場合、問題は都市のインフラが大丈夫かということだ。これまで政府は都市機能を都心から郊外に分散させようとしてきたが、本書はむしろ都市再開発を進めて都心の高度利用を進めるべきだと主張する。容積率を緩和し、土地への固定資産税を増税すると同時に建物への課税をやめれば、低利用の機会費用が大きくなって高度利用のコストが下がり、高層ビルが建てやすくなる。
同時に、インフラ投資を都市に集中する必要がある。民主党は「コンクリートから人へ」といっているが、もはや公共事業は一般会計の6%しかない。公共投資を一律にやめると、都心部ではインフラの不足によって交通渋滞や通勤地獄がひどくなり、生産性が落ちる。特に東京の道路は貧弱で、環状道路が少ないため、関西から東北へ行く車が首都高を通り、渋滞がひどくなっている。
ところが都市整備をやろうとすると、「住民運動」が起こって工事が進まない。行政が強制執行しようとしても裁判所が認めないため、環状7号線は計画決定から完成まで58年、環8は60年かかった。このように司法的な問題解決が困難な部分を地上げ屋などが補完してきたが、バブル崩壊後は彼らも姿を消し、不動産投資も冷え込んで、都市再開発は止まってしまった。
票の重みを考えれば、政治家が地方に公共事業を重点配分するのは合理的だ。司法が既得権を守ることも、個別の事件ではやむをえない面があろう。しかし、このような「格差是正」や「弱者保護」で都市機能が麻痺すると、東京は上海やシンガポールなどとの都市間競争に敗れ、結果的には国民全体が貧しくなる。
高度成長が復活するとは思えないが、日本経済の衰退を止めるためにもコンパクトシティにインフラ投資を集中し、サービス業の生産性を高める必要がある。人口は減少しているのだから、山間部や離島にすべての人が住み続けるのは無理だ。まして現在の人口配置を前提に津々浦々まで「光の道」を引くなんてもっての外である。
コメント一覧
人口減少の中、日本全国の均衡した発展などもうあり得なく、都市部集約するしかない。これは残念ながら現実です。
一方、田舎の過疎化に対する若年人口の流出を止めるのは、個々の事例では合理的な場面もあるが、全体でみれば不合理で、いっそのこと老人に引退後は都市部に移動して貰う方が良いはずです。
均衡ある発展が前提の様に話すのは政治家の迷言で、道州制で大きなブロックとして各地域の大都市の都市化をより促進するべきでしょう。均衡ある発展を謳い、高齢化問題を語るのは、自分で問題を作ってそこから出る副次的な問題を問題視する、自作自演的な態度に思います。
同様に、やや話は飛びますが、TPP問題で農家を保護する話があります。官僚や政治家は、「食料自給率の上昇」、「農業は国の基本」などを前提の様に謳い、「その改善のためには@@な問題がある」と言い、個別保証制度の様な愚案を通しました。これも不合理な前提を自分で立てて、問題をより深くしてゆく自作自演に思います。農業自由化で大規模農業化して農業を合理化すべきです。またなによりTPPでは、低所得者の生活費を下げる事ができます。なぜその事は誰も言わないのか??不思議でなりません。
非常に分かりやすいグラフですね。
効率のいいところ(地域、セクター)にリソースを集中させるのが、もっとも効果的な戦略だという当たり前の結果でしょうか。
雇用の問題も構造は同じで、税金で無駄な仕事を増やす姑息な手段は止めて、生産性の高いセクターへ人材を回せるよう、まずは流動性を高めることが重要ですね。
結局、効率のいいところを見付けるためには、市場メカニズムに頼るしかないと思います。
「実質GDP成長率は農村から都市への人口移動率と強い相関があり・・・」とのことですが、因果関係としては、成長率が原因であり、人口移動が結果なのでは?
また農業が成長産業でない以上、この相関は「確かに思った通り」としかいいようがないです。
農業が非常に高い収益をもたらすということになれば、都市から農村への人口移動率と実質GDP成長率は強い相関をもつことになると思いますが、それだって、因果関係としては農業という産業の進化や農業での求人アップが先でしょう。
単に、衰退している産業から盛んな産業に人口が移動し、農村には農業しかないというだけでは?
光の道は、実現方法の妥当性については分かりませんが、達成目標自体には大いに賛同します。
誰でも光回線を使っているという前提と、そうでない前提ではやれることが異なりますから。
光回線と無線がどちらがいいといった技術的な部分はわかりませんが、なるべく早く実現できる方法で他国に先駆け、「全国民が高速ネットワークで結ばれている社会」上に成立する様々な新しい価値を創出するべきだと考えます。
ADSLで十分という声もあるのかもしれませんが、パソコンなんて・・・、インターネットなんて・・・といっていた声と同じに聞こえます。今やっていることをやり続けるだけならそれで十分でしょうが。
GDP成長率と農村から都市への人口移動率のグラフは、 これらの間に
相関関係があることを示していても、 後者が前者の原因とはいえないとおもいます。 GDP成長率が急落した1973-1975年は第一次石油ショックによる不況時です。 私の勤めていた会社では、 新規採用を大幅に減らし、 仕事のない従業員には構内の草引きとか廃品の仕分けなどをさせていました。 第一次石油ショック以後、 日本の産業構造は重厚長大型から軽薄短小型に移っていきました。
高度成長期の従業員寮は大会社でも一部屋2-4人で、 一人あたりのスペースは、 布団と机一個の分だけでした。 こういう状況を再現すれば、中国には対抗できますが、 知識集約的な産業に対処できるわけではありません。 また、 シリコン・バレーが始まったころは本当の田舎でした。 インテルも果樹園のなかに小さい建物がポツンとあっただけです。
いや、今すぐにでも地方交付金の廃止と地方自治体税(防衛などの費用)を導入すれば東京はお金を自分達のためだけに使え奇跡の大回復を遂げるでしょう。都市計画も確かに重要ですが、まだまだ東京には土地が余ってます。お台場や立川駅前の広大な土地がありますし、官公庁施設の集約を推し進めて霞ヶ関にショッピングモールとか作れたりすると思います。そして皇居ももはや丸の内のビル群から見下ろせるなど、皇室の権威をないがしろにするような事態になっているので、早く京都(建築制限がある)を首都にして文化の首都と経済の首都を分けた方がいい。
農村から都市への人口移動と経済成長の相関は確かにそのとおりですが、それは当時の状況だからそうなったのであって、今日の状況には当てはまらないように思います。
公共事業が農村に人を引き留めたことは、確かにそういう側面もあるでしょう。
しかし、問題の本質は、新興国の発展に伴って、例えばプログラミングといった労働集約型の産業は成り立たなくなり、より高付加価値の労働以外は、非常に低い賃金しか競争力の維持のために払えなくなっているということだと思います。
問題なのは高付加価値の仕事ができる人間ばかりではなく、低賃金で働かなくてはならない人たちが大量に生まれていることではないでしょうか。
ですから今日、農村から都市へ人が移動する状況が生まれても、今日の状況の改善にはならないと思います。
なおTPPについて、農業の生産性を高めると言われる方も居られますが、農地の少々の集約ではアメリカやオーストラリアに対抗することはできないことを考慮に入れるべきだと思います。
もちろん本書は、逆の因果関係も検証してますよ。たとえば80年代以降は低成長で都市のキャパシティがなくなったから人口流入が減った、といった説明も棄却はできないが、70年代以降に地方で公共事業が増えた要因のほうが大きい。両方のpositive feedbackがあったと考えてもよい。
見逃しがちかもしれませんが、恣意的な道路政策は自動車産業への悪影響も小さくありません。
道路特定財源を恣意的に運用し、都市部の数倍の投資を地方に回すことで都市部の道路はプアなままになります。道路が低性能であればクルマの本来的な性能は不要ですから、最も差別化製品の販売可能な都市部で、基本性能の高いクルマがますます価値が無いという状態になります。
速度規制も半世紀もの間変わりがありませんので、日本市場には基本性能で差別化製品を開発する誘因が薄く、俗に家電化と言われる状況が発生しています。
技術的ポテンシャルとしては140km/h規格道路をセダンで180km/hで安全に巡航する程度はまったく問題ありませんから、例えば第二東名に容易にアクセス、東京〜京都なら新幹線と大差ないというくらいの利便性があっても本来はまったく不思議ではありません。もちろん現状は反対で、都内近郊の平均移動速度は自転車と同程度であり各方面の高速道路へのアクセスもよくありません。
年間に日本の総延長ほどの高速道路が建設されてしまう中国などは、いずれ明確にグランドツアリングに向いた高性能車を指向するようになります。今年はカナダでトヨタが起亜自動車に敗れるニュースなどありましたが、高コストでささやかな環境性能しかアピールできなければ、上は欧州車下は韓国車等に淘汰されるという可能性はそう低くはありません。
昭和20年代の都道府県別GDPのトップは新潟県だったという話を聞かされたことがあります。私は、60年代の高成長は地方に残っていた戦前パワーを都市に引き込んだ結果ではないかと思う。もちろん。韓半島や台湾、中国大陸から帰国された方々の功績も大きいでしょう。
ジェット旅客機の離発着が可能な空港が約100、コンテナの積み出し積み降ろしが可能な港湾が約40あり、それら既存公共インフラを十分活用していないが今の日本です。新しい公共事業をやるよりそれら既存公共インフラを活用する方向で国内経済体制をリニューアルするほうがよいでしょう。財政を健全化しつつ景気を回復させるには、国家体制をモザイク化するほうがよいと考えます。しかし、道州制だの基礎自治体だのと言い出したら何十年も先の話になってしまう。そのような地方分権政策は非現実的です。
法人事業税を廃止して法人税を各都道府県に譲渡したほうがいい。法人税率は徴税する各都道府県が決めればいい。そのような抜本的税制改革をしないで、法人税減税するといい、一方で消費税増税するなどとバカなことを言っているのが民主党政権です。
現状では、都市での公共事業を優先させるべきというのは、全くその通りです。
ただ、90年代半ばからも農村から都市への人口流入は続いていますが、成長には繋がっているように見えません。 これは経済のスイートスポットがより高度化して、流入した人口が上手く使われていないことを示しているのではないでしょうか。
アメリカの金融バブルは、イノヴェーションの停滞を金融工学で胡麻化したために起きたのではないかと考えます。先進国のイノヴェーションの停滞は、先に行くほど技術革新が難しくなるという事情と関係があると思いますが、新しいビジネスモデルの開拓の余地は、まだ沢山あるのではないでしょうか。
池田先生に質問です。この夏にアメリカ合衆国を車で横断する機会があったのですが、その時大変驚いたのはアメリカでは大変な田舎の町でも、若者が結構いる上、日本のように激しいシャッター通りがないということです。
一方、アメリカの大都市の郊外には荒廃した住宅街が場所によっては広がっています。都市の清潔さや安全さ、見た目に関しては日本の政令指定都市クラスの方が遙かに良い発展、逆に言えば「良い集中」の仕方をしていると思います。
直感的にはアメリカの方が、都市への集中は日本ほど進んでいないように思うのですが、都市への集中度合いはどのような指標で表され、日米の比較はどのようなものになるのでしょうか。また、経済学的に集中するのがよいとして、米国のように荒廃した縁辺域を見ずに良い形で集中するにはどうすればよいのでしょうか。
簡単な話、土地が安く人のいないところに首都移転すれば、民間の人も物も移動し、経済成長するということができますね。
「こうすればできる!」みたいな話にはもう辟易としますね。
どういうプロセスを経れば、人は土着している「地方」を捨てることができるのか、教えてもらいたいですね。
毎日の生活によって立つ人間の精神はもっと非科学的で、感情的だと思いますね。
東京なんてもはやどうやってもつぎはぎ都市にしかならんでしょう。あんなところに集まるのは蟻地獄にダイブするようなもんですよ。
より現実的なのはやはり「新都市建設」だと思いますね。
現状考えられる最も機能的な都市を中核都市としてつくっていくべきでしょう。
どうせ首都機能移転にしたって、官庁が霞ヶ関を動くわけないんですから。
孵化しそこねたような、半端な都市を廃棄して、新しい「都市」に人と物を集約していくべきでしょう。
ある外国人が次のサイトで日本の各地域の居住性の比較をしています:
http://www.quirkyjapan.or.tv/regions.htm
東京は仕事にはよいが、住むのは大変だということです。
東京に人口が集中しすぎると、 出生率が下がり、 狭い住居では内需も拡大しないということはないですか? 米国みたいに、 みんながでかい家を建てて住宅バブルになってもこまりますが。
コンパクトシティは青森市が実施してると聞きますが合理的ですね。
「経済大国日本」は納税者の一人あたり平均所得額が1000万円の東京港区にコンパクトシティ化してしまったのか?
と思うときがあります。
港区は様々な商店やサービスが集積し、その集積がさらに多くの人を呼び込んでいます。
すでに国土を均衡的に発展させることは不可能だと皆気付いている。
建築家の間では、郊外に広がった都市をいかに撤退させるかが話題になっていると聞いてます。
東京は世界からの集積を、地方都市は地域からの集積を目指すべきなんでしょうが、
それを計画・実施するリーダーが日本にはいないですね。
とりあえず私は町内会に参加することから始めようかと思います。
IT技術が進歩しているから大都市に集中しなくてもイイ、なんて話聞いたことがあるような気がするのですが・・・
> どういうプロセスを経れば、人は土着している「地方」を捨てることができるのか、教えてもらいたいですね。
あるとき、 ユーゴスラビアからの学生が私が日本人だとしると、 いきなり、 阿部公房を知っているかとききました。 「よくしらないけれども、 『砂の女』は読んだことがある」と答えますと。 「俺たちは、 その話を教科書でならったんだ、あの話はユーゴスラビアの状況であった」といいました。 それから、 スターリンがユーゴスラビアに侵攻する脅しとして、国境に戦車をならべた話(http://en.wikipedia.org/wiki/Tito%E2%80%93Stalin_split)をしました。 「砂の女」の主人公は、 蟻地獄のような境遇からなんとか逃れようとしますが、 いざ逃れることができるとなると、そこにとどまることにします。
私の人生は、 この逆です。 「月と6ペンス」の話を高校の英語の教科書で習ったのが運のつき。 それからあちこちと移動しました。 西行・芭蕉とそれから寅さん、 これも日本の伝統文化のひとつです。 いまは、「願わくは花の下にて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」とおもっています。
しかし、私の精神構造は土着です。 東京には12年間すみました。 それから、都落ちを2度ほどしました。 だから、 東京一辺倒の意見を読むとけなしたくなる。