2000年11月8日「日本赤軍 最高幹部 重信房子が逮捕された日」
重信房子は中東を拠点に、世界規模でのテロ活動をしてきた。
「日本赤軍」は70人以上の死傷者を出したイスラエルの空港乱射事件を始め、ハイジャックや欧米の大使館占拠など、世界各地でテロ事件を繰り返してきた。
日本を飛び出して、およそ30年。
「国際指名手配」として世界の警察から追われていた重信房子は意外にも日本で捕まった。
「日本赤軍のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれた重信は、海外で何のために闘っていたのか...
重信房子は高校を卒業後、OLをしながら教師を目指そうと、大学の夜間部に入学。
「学費値上げ反対運動」への参加から「学生運動」に足を踏み入れた。
だが、当時「学生運動」は東大・安田講堂の陥落を境に急速に勢いを失っていく。
「このままでは日本の社会を変えることはできない」
そう思った学生たちを中心に結成されたのが「赤軍派」だった。
日本赤軍はいくつもの事件を起こした。
実は重信房子はレバノンで母親になっていた。
重信は娘を安全な仲間の場所に残し、世界各地に潜伏しながらテロ活動を指揮していたとみられる。
そのため娘は、母親の顔をめったにみることが出来なかった。
重信はのちに娘への思いをこう振り返っている...
「私がお尋ねもののためにあなたの人生を自由にしてあげられない。わたしは心の中で詫びていました。」
一方、時代が進むにつれて世界情勢は大きく様変わりしていった冷戦が終わり「共産主義革命」の動きは下火となる。
そして「テロリズム」追放の声がたかまり「日本赤軍」は、かつて「英雄」ともてはやされた中東でも居場所を失う
「日本赤軍」の動きは次第に影をひそめ、重信房子の消息も「国際指名手配」のまま分からなくなっていた。
ところが2000年海外にいるとみられていた重信房子の姿が思いもよらない場所で見つかった。
こうして重信房子は10年前の11月8日に大阪・高槻市で逮捕された。
日本を出ておよそ30年の月日が流れていた。
今年7月重信房子は殺人未遂、逮捕監禁の罪に問われ、懲役20年の判決を受けた。
世界各地で多くの犠牲者を出した日本赤軍。
その最高幹部に君臨した重信房子は65歳になった今、獄中で何を思うのか...