1920年代のアジア(第3部 5.)   ホームへ戻る

<1>中国
(1)文学革命:儒教批判、旧道徳批判、「科学と民主主義」
(2)五・四運動
(3)国共合作、五・三〇事件
(4)北伐と国共分離
<2>朝鮮
(1)日本の韓国併合
(2)三・一運動
<3>モンゴル
<4>インド
<5>東南アジア
<6>西アジア
(1)アラブの反乱
(2)トルコ革命
(3)イラン
(4)エジプト
(5)その他
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問題と解答

<1>中国 トップ
(1)文学革命:儒教批判、旧道徳批判、「科学と民主主義」  【参照】(史料)胡適「文学改良芻議」(歴史用語解説)
1915- 啓蒙的革命運動の展開
1915 陳独秀「青年雑誌」(翌年「新青年」と改称)
・儒教道徳や因習を攻撃、「民主と科学」、欧米の新思想を紹介
1917 胡適「文学改良芻議」:典故(典拠となる故事)を用いず、常套語を用いず、対句を使わず、俗字俗語を避けず、文法構造を追求、深刻ぶらない、古人を模倣せず、言葉に中身有り
・形式主義の打破、白話文学(口語文学)の提唱、民衆意識の変革目指す
・魯迅「狂人日記」「阿Q正伝」
・李大サ(マルクス主義の普及)
・北京大学が中心、学長蔡元培が革新的思想家を集める

(2)五・四運動
1917・8 北京政府(段祺瑞)、連合国側に立って参戦
1919・1 パリ講和会議:二十一ヶ条要求撤廃されず
1919・5・4 北京、天安門、抗議集会、デモ行進、外国大使館に抗議文、曹汝霖(売国奴的高官)の屋敷を襲撃、30余名学生逮捕、学生連合会結成、日本製品ボイコット(日貨排斥)、激しい抗議行動
1919・6 労働者・商人のスト
・排日、反帝、反封建、軍閥政府打倒
・政府はヴェルサイユ条約調印拒否、学生釈放、親日派高官罷免

(3)国共合作、五・三〇事件
1919 カラハン宣言:ソ連外務人民委員代理カラハン、帝政ロシアの対中既得権放棄、平等に国交回復
1919・10 孫文は中華革命党を中国国民党とし、国民大衆に立脚する公開政党へと再編
1918 マルクス主義研究会発足:陳独秀、李大サ
1921・7 中国共産党結成:上海、委員長陳独秀、コミンテルンの指導
1923 孫文・ヨッフェ(ソ連)会談:孫文は知識人中心から民族大衆中心へと国民党を改組、中国には共産主義体制は不可能、緊急課題は国家の統一と独立、ソ連はこの課題解決のために援助
1923末 コミンテルン代表ボロディンが孫文の顧問に、すべての革命勢力を国民党の下に結集

1924・1 第一回国民党全国大会(一全大会)
・中国国民党と中国共産党との提携(合作)決定
・共産党員は国民党への入党許可
・国民党員は共産党への入党不可
・「連ソ、容共、扶助工農」(第1次国共合作 1924・1-27・8)
・新三民主義


・黄埔軍官学校(革命軍幹部養成)、農民運動講習所(農民運動活動家育成)
1924・4 建国大綱:民生(平均地権、地主制廃止による公平な土地分配、農業、紡績、住居建設、道路運河修築)、民権(司法・立法・行政・考試・監察の五権憲法、普通選挙権、罷免権、創設権=法律制定権、複決権=法律改廃)、民族(弱小民族の自決自治、満州・モンゴル・ウイグル・チベットなども中国人として連帯、外国侵略への抵抗防御、条約改定、国際的平等と独立)
1925・3・12 孫文、没(「革命いまだ成功せず。同志すべからく継続して目的を貫徹すべし」
1920年代 工業(とくに紡績業)発達、労働者数増加
1925 全国総工会(労組全国組織)
1925 上海・青島の日本人経営の紡績工場でスト(共産党指導下の中華全国総工会の指導により)、排日運動、大規模な抗議活動、ストを支持する労働者や学生に警官が発砲、死者多数、抗議運動過激化(五・三〇事件)、英官憲・各国軍隊出動、反帝運動高まる、北京・武漢・天津・青島・広州・香港にも波及、省港スト(上海・香港の労働者スト)

*軍閥政権
・直隷派(馮国璋、曹こん、呉佩孚):英米支援、安徽派(段祺瑞):日支援、たがいに北京政府争奪戦
・地方には、奉天派=東北軍閥の張作霖、山西派の閻錫山、西南派の唐継尭・陸栄廷
・帝国主義国の支援、その中国市場進出に便宜、大地主と結託して農民を搾取

(4)北伐と国共対立
*北伐
1924 黄埔軍官学校(革命軍幹部養成、蒋介石校長)、国民革命軍を編成
1925・7 国民党、広東国民政府を樹立
1926・7 北伐(北方軍閥政府打倒の軍事行動、国民革命軍総指令官蒋介石)、広州を出発(第1次北伐 1926・7-27・4)
1926・10 武漢三鎮(武昌、漢口、漢陽)占領
1927 南京、上海を支配
・国民党左右両派の対立(右派は国共合作解消を考える反共的民族資本家、左派は国共合作を維持しようとする)、左派・共産党と右派との対立、浙江財閥や帝国主義国が左派・共産党の勢力拡大を警戒
1927・2 左派・共産党は武漢政府を樹立(コミンテルンのボロディンが指導)
・上海での軍閥追放の気運、労働者が共産党の指導下で武装蜂起、北伐軍到着前に軍閥を追放して上海臨時市政府を樹立、浙江財閥や帝国主義国が蒋介石に共産党弾圧を働きかける
1927・3 南京事件:撤退する軍閥が南京の米英日公使館を掠奪し居留民に暴行、蒋介石はこれを共産党の起こした事件として弾圧の口実とする

*国共対立
1927・4・12 上海クーデタ(四・一二事件):蒋介石が共産党員と労働者を虐殺し左派勢力を一掃、南京国民政府を樹立、第一次国共合作解消
・武漢政府は国民党左派と共産党との対立、共産党追放、武漢政府は南京国民政府に合流
1928 北伐再開、日(田中義一内閣)は山東出兵により北伐軍を妨害、東京会議(満蒙=東北地方・モンゴルの権益保持)
・北京政府(奉天派=東北軍閥の張作霖)、敗北、北京放棄、北伐完成
・張作霖爆殺事件、張学良は国民政府側に合流、蒋介石中心の国民政府による全中国の統一完成

*共産党の動き
・上海クーデタ後、委員長陳独秀を解任、新指導部(李立三、王明、博古)はコミンテルンの支持に忠実で都市労働者による暴動を主張
・毛沢東は農村を主体とした革命を主張、農村に共産党の権力を樹立(解放区)、地主の収奪から農民を解放し土地改革により農民に土地を分配、「農村から都市を包囲せよ」、周恩来や朱徳の支持
1927・8・7 共産党中央委員会、紅軍(労働者・農民の軍、周恩来・朱徳による)を育成
1927・8 南昌蜂起:朱徳らの紅軍が南昌で武装蜂起、失敗
1927秋 秋収暴動:湖南・湖北・江西・広東の農民暴動、失敗
1927・11-28・2 広東省の海豊・陸豊両県に最初のソヴィエト政府(解放区)樹立、失敗
1927・12 広州コミューン:都市暴動、国民党・軍閥・帝国主義国に敗北
1927・10-29 井崗山ソヴィエト:毛沢東、湖南・江西両省南部の井崗山にソヴィエト政権樹立、朱徳の紅軍に合流
1928 関税自主権確立、外国商品の輸入抑制
1930 ソヴィエト地区、華中・華南に増加
1931・11 中華ソヴィエト共和国の樹立(江西省瑞金)、毛沢東主席
1932・4 中華ソヴィエト共和国が対日宣戦布告

<2>朝鮮 トップ
(1)日本の韓国併合  【参照】日韓協約(歴史用語解説・英文付き)
1897 大韓帝国:清との宗属関係解消、自立した独立国であることを示す
・日露戦争により、親露派が一掃される
1904 第1次日韓協約:日本政府派遣の顧問が韓国政府の財政・外交に参加、外交上の重要案件は日本政府と協議により処理
1905 第2次日韓協約(日韓保護条約):統監府をソウルに置き、韓国の外交権を奪い、保護国とする、韓国は独立国としての地位を失う
・初代統監伊藤博文、併合に向けての準備
1907 韓国皇帝高宗、ハーグ密使事件(ハーグの万国平和会議に密使派遣)
1907 第3次日韓協約:高宗退陣、韓国内政も統監府の監督下に、韓国軍解散
・解散を拒否した兵士による反日義兵闘争、日の武力弾圧
・新民会を中心とした愛国啓蒙運動、「皇城新聞」の発行により独立を主張
1909・10・26 伊藤博文、安重根に暗殺される(ハルビン)
1910・8・22 韓国併合:日本の植民地
・朝鮮総督府による統治(初代朝鮮総督:寺内正毅)
・「武断政治」(憲兵、警察制度による抑圧、陸海空の現役大将が朝鮮総督となり立法・司法・行政・軍事の権限を集中、民衆の日常生活まで軍事支配、朝鮮人に対して言論・結社・集会の自由を認めず)
・土地調査事業:所有権不明確な土地を朝鮮人農民から没収、日本人土地会社や入植者に安価で払い下げ(土地を失った農民が日本に流入し低賃金労働者となる)
・米の日本向け強制輸出、朝鮮農民の窮乏

(2)三・一運動
1919・3・1 三・一運動(万歳事件)
・33名の民族代表がソウルに集合、独立宣言発表、独立万歳を叫ぶ学生・市民による大規模デモ、全国に広がり約200万人が参加、独立宣言書の配布・集会・デモ・スト・日本の治安当局への武力闘争、3カ月に及ぶ武力衝突、朝鮮民衆約8000名の死者
・「文化政治」(日本と朝鮮の制度格差を縮小することで朝鮮民衆の懐柔を計る)
・大韓民国臨時政府:李承晩、金九、上海で結成、穏健派
・多くの武装独立団体
1924 朝鮮労農総同盟(日の弾圧で解散)
1925 朝鮮共産党(内紛が多く弱体)
1926・6・10 六・一〇運動:李朝最後の皇帝純宗の葬儀、ソウル、官憲と衝突
1927 新韓会:民族主義者から共産主義者までを含む
1929・11 光州学生事件:光州で日本人中学生が朝鮮人女学生を侮辱、朝鮮人学生がデモや同盟休校、植民地奴隷教育反対を主張、日本の弾圧
1934-35 朝鮮人民革命軍:金日成、農民を主体とする抗日ゲリラ戦
1936 祖国光復会:朝鮮人民革命軍を母体として、抗日パルチザン

<3>モンゴル
・清朝時代、モンゴルは内と外に分断
1911 外モンゴルの貴族、活仏ジュブツンダンパをハンにいだいて、独立国家を形成
・中華民国政府はモンゴル自治を正式に宣言
・ロシア革命後の内戦期、外モンゴルは反革命軍の拠点に、白軍は内外モンゴルの独立と引換にモンゴルをソヴィエト打倒のために利用しようとする
1920年代 モンゴル人民党(スヘ・バートル、チョイバルサン)がソ連の援助により勢力拡大、対中武装闘争
1921 モンゴル人民臨時政府:首都クーロン、ラマ教信仰、ラマ教最高指導者活仏(生き仏)を代表とする、活仏の死により共和国を宣言
1924・7 人民共和国成立、首都ウランバートル、近代化、社会主義建設(ソ連に次ぐ二番目の社会主義)

<4>インド トップ   【参照】ローラット法(歴史用語解説・英文付き)
・英側にたって参戦、人的物的協力の代償として自治を要求
1915 インド防衛法:インド総督に公共の安全とインド帝国防衛のための大幅な権限を与える
1916 ラクナウ協定:ムスリム同盟はオスマンと戦う英への反感、会議派と共同歩調をとる、キラーファト運動(カリフ擁護運動)
・民族資本家も英からの独立を願う、民族運動支持
・英は戦争遂行のため土着産業抑制策を改め生産を促す
1917 英は戦後に漸次自治権を与えることを約束、インドは参戦
1919・3 ローラット法施行:インド人政治活動弾圧、インド総督は治安維持のため令状なしで逮捕、裁判抜きで投獄を命ずることができる、インド防衛法の拡大
1919 ガンディーがローラット法に反対してハルタル(罷業)を宣言
1919・4 アムリットサル虐殺事件:パンジャーブ地方アムリットサルで群衆に軍隊が発砲、多数の死者
1919・12 インド統治法(モンタギュー・チェルムズフォード改革)制定:ごく一部のみで自治認める(地方自治を認可、警察・財政は総督・知事)
1920 非暴力不服従運動が会議派とムスリム連盟の提携の下で全国で展開
1920 全インド労働組合会議、労働者農民党
1922 運動の暴力化をおそれたガンディーが非暴力不服従運動を中止
・都市知識人の運動を大衆的運動へと高める
・1922から運動の停滞期
1925 インド共産党の結成(労働者農民党を母胎として):会議派と共闘

<ガンディー>マハートマ「偉大なる魂」
1893-1914 南アフリカでインド人の人権擁護のために運動、反アパルトヘイト
・サティヤーグラハ(「真理の把握」):「非暴力を武器として悪と対決する」
1920-22 第1次非暴力不服従運動
1930-34 第2次非暴力不服従運動
・不当な法令への不服従、納税拒否、公職放棄、英商品不買、国産品愛用を通じて独立目指す
・塩の行進(塩の専売に反対し自分達の手で海水から塩を作るための行進)
1930.3.12 ガンディーは79人の弟子と海辺へ向かって出発。2週間で380kmを歩く。
    4.6 浜辺に着いたガンディーは23gの塩を作る。
・その後、全インドで塩を作る運動が展開され、外国商品ボイコット運動へとつながる。
・ヒンドゥーとイスラームとの融和を主張、分離独立に反対

{ガンディー語録}
1)サティヤーグラハ=真理の把握
「真実(サッティヤ)は愛を包含する。そして堅持(アグラハ)は力を生む。こうしてわたしは、インド人の運動を『サティヤーグラハ』、すなわち、真実と愛、あるいは非暴力から生まれる力、と呼び始めた」
2)アヒンサー=非殺生
「真実のまったき姿を見ることは、非殺生を完全に実現した後にしかあり得ない」
3)ガンディー「すべての日本人へ」(1942)←日中戦争に対する批判
「わたしは、あなたがたが中国に加えた理由のない攻撃、偉大なそして古い中国を無慈悲に荒らしてしまったことを思うたびに、非常に悲しく思う。あなたがたが世界の強国と肩を並べたいというのは、立派な野心である。しかし、中国を侵略したり、ドイツやイタリアと同盟することは、その野心の度を超したもので、正当なものではない」


<会議派>
1927 サイモン委員会問題:インド統治法改正のための調査を目的とした委員会にインド人がいなかったことへの反発、会議派の抗議運動
1929 会議派ラホール大会:左派ジャワハルラール・ネルー議長、プールナ・スワラージ(完全な自治)を決議、独立するまでいかなる妥協も拒否
1928-29 サイモン委員会:インド統治の改善や実態調査、インド人は非協力の態度
1930-34 第2次非暴力不服従運動:ガンディー指導、「塩の行進」
1930-32 英、円卓会議:3回、新インド統治法制定に向けて、インド人代表をロンドンに招いて、1・3回は会議派欠席、2回はガンディー出席、成果なし
1935 新インド統治法制定:藩王国と英領11州でインド連邦を形成、11州に全面的な自治制(州議会、州内閣、軍事・外交は英)、完全な自治には遠く及ばず

<ムスリム>
1922 トルコ革命
1924 カリフ制廃止、ムスリム連盟は目標を失う
1924 ジンナーがムスリム連盟総裁に、勢力拡大、対英強力、反ヒンドゥー
1930-34 第2次非暴力不服従運動に協力せず

<5>東南アジア トップ
*フランス領インドシナ
・仏のインドシナへの投資拡大、経済活況
・南部:米のプランテーション
・北部:鉱業、都市経済、知識人の民族運動
1925 ホー・チ・ミンによりヴェトナム青年革命同志会(広東)
1927 ヴェトナム国民党
1930 ヴェトナム共産党(インドシナ共産党と改称):ヴェトナム青年革命同志会が母体となる

*タイ
1910 ラーマ5世(チュラロンコーン)、没、専制王政への不満

*ビルマ(ミャンマー)
・第1次大戦中、民族運動、スト・暴動
1915 ウ・オッタマ、青年仏教徒協会:反英闘争、弾圧される

*英領マラヤ
・英は旧王族、マレー人、中国人、インド人の民族対立を利用

*オランダ領インド(インドネシア)
1911 サレカト・イスラーム(イスラーム同盟):植民地支配に抵抗、自治を要求
1920 インドネシア共産党結成、植民地政庁の弾圧
1927 インドネシア共産党壊滅
1927 インドネシア国民同盟(1928 インドネシア国民党と改称):スカルノ党首(オランダ留学経験を持つエリート)、独立(ムルデカ)を目指す

*フィリピン
1916 ジョーンズ案(法):2院制議会設置、立法権の一部がフィリピン人の手に渡る、将来におけるフィリピンの独立を約束

<6>西アジア トップ
(1)アラブの反乱
・第1次世界大戦、英仏はオスマン支配下のアラブ人反乱を企図
1915・10 フサイン・マクマホン協定:フサイン(メッカのシャリーフ=ムハンマドの子孫、聖地メッカの管理権を持つ)とマクマホン(英エジプト高等弁務官)の往復書簡(1915・7-16・3 アラブ諸国の独立承認とその戦いへの支援について合意、シリア西部を除く土地にアラブ人の独立国家の建設を認める)
・”アラビアのローレンス”(英軍人ローレンス)に率いられたアラブ人部族がダマスクスを奪還
1916・5 サイクス・ピコ協定:英仏露による秘密協定、英はイラク・仏はシリアを勢力圏に置きパレスチナを国際管理とする
・イェルサレムに移住していたユダヤ人を、英は反トルコ闘争に決起させ、欧米のユダヤ人金融資本から戦費調達、ユダヤ人国家建設の了解を示唆
1916・6 メッカでオスマン守備隊を攻撃し反乱
1916 ヒジャーズ王国建設:フサイン初代国王
1917・10 ファイサル率いるアラブ軍はダマスクスに入る
1917・11 サイクス・ピコ協定がロシア革命政府によって暴露
1917・11 バルフォア宣言:英バルフォア外相がシオニストに対し「パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を設立すること」を賛成、パレスチナにユダヤ人国家建設を認める
・英はアラブとシオニズム(ユダヤ民族国家の樹立により差別解決を目指す、1897年第1回シオニスト会議でパレスチナを目的地とする)との対立の調停者として勢力を保とうとする

<シオニズム>
   【参照】シオニズム(歴史用語解説・英文付き)
・ユダヤ民族国家の樹立により差別解決を目指す
1897 第1回シオニスト会議:ヘルツルの呼びかけ、開催地バーゼル、パレスチナを目的地とする
1918 ヒジャーズ王国独立宣言
1919- ファイサルがパリ講和会議に出席
1920・3 シリア・イラクの独立宣言
1920・4 サンレモ会議:英がイラク・パレスチナ、仏がシリアの委任統治を決定
・仏はシリアへの進駐、ダマスクス占領
・イラクでは委任統治反対の反乱
1921 カイロ会議:ファイサル(フサインの子)をイラク王、アブドゥッラー(フサインの子)をヨルダン王に、シリアがレバノン・シリア・パレスチナ・トランスヨルダンに分割
1924 ヒジャーズ王国(フサイン)がサウード家(ネジド地方ワハーブ派のイブン・サウード)の攻撃により崩壊、ヒジャーズ・ネジド王国成立
1927 ジェッダ条約:英とサウード家、英が独立承認
1932 イエメンを除く全アラビア半島を統一してサウジアラビア王国と改称

(2)トルコ革命
1908 サロニカ革命:ミドハト憲法復活、アブデュルハミト2世退位、青年トルコ(統一進歩委員会)政権掌握
・エンヴェル・パシャらは独オ提携
・第1次世界大戦敗北により青年トルコ指導者亡命、スルタン・メフメト6世政権維持
1918・11 英仏伊米がアナトリア南部を占領
1919・5 ギリシャ・トルコ戦争
・ギリシャ軍がイズミル(スルミナ)占領(小アジアのエーゲ海一体の支配)
・ギリシャ人、アルメニア人、クルド人の独立国家樹立の動き
・ケマル・パシャが民族権利防護団を組織
・シヴァス(北西アナトリア)での諸州代表者会議:議長(軍指令官)ムスタファ・ケマル、トルコ民族の主権・領土保全・国民会議の召集を決議
1920・4 アンカラ大国民会議:オスマン朝スルタンを否定、英仏支援のイスタンブル政府軍との戦闘
・義勇軍(国民軍)はギリシャ軍を破りイズミルから撃退

1920・8 セーヴル条約
(1)イスタンブル政府と連合軍(イスタンブル・ルメリア・小アジア半分に領土限定、英仏委任統治
(2)キプロスは英に割譲
(3)ボスフォラス・ダーダネルス海峡開放、治外法権)

祖国解放闘争激化

1921・8 サカリア川の戦い:アンカラ政府軍、パルチザンや農民兵を統合して、ギリシャ軍を破る
1922 アンカラ政府軍、イズミル奪還
1922・10 ケマル、スルタン制廃止を決議、メフメト6世亡命(オスマン朝滅亡)

1923・7 ローザンヌ条約
(1)セーヴル条約破棄
(2)不平等条約(治外法権など)を撤廃、連合軍の撤退
(3)イズミル・イスタンブル周辺のヨーロッパ領を回復


1923・10・29 共和国樹立:ケマル・パシャ大統領、アンカラ首都
・トルコ国民党(人民党のちの共和人民党)設立
1924・4 トルコ共和国憲法(主権在民、1院制議会制、大統領任期4年)
・近代化、政教分離、対外的地位の向上、自主外交
1924 カリフ制廃止、イスラーム法廷やマドラサの廃止
1925 治安維持法、神秘主義教団の活動禁止、トルコ帽やチャドル(女性のヴェール)の禁止、西暦の採用(ヒジュラ暦の廃止)、一夫一婦制(一夫多妻の禁止)
1928 国教はイスラームとする憲法条項を削除、文学革命(ラテン文字の採用、アラビア文字廃止)
1929 関税自主権回復

(3)イラン
1917 露軍撤退、英侵攻
1919 英、カージャール朝イランを保護下に
1920 ギーラーンとアゼルバイジャン(北西部)で共和国樹立:反英反中央
1921 イラン・コサック軍レザー・ハーンがテヘラン占領、親英政権成立、対英条約破棄、独立回復
・ギーラーン政権や地方部族勢力を武力制圧、独裁権力を握る
1925・12 パフレヴィー朝成立:レザー・ハーンがシャー(国王)と称して
・軍部や官僚が大地主、国王は上からの近代化(鉄道建設など)

(4)エジプト
・ワタン党(ムスタファ・カーミル指導)の反英独立運動
1914・12 英、エジプトを保護国とする
・ワフド(代表、エジプトの民族代表団)をパリ講和会議に送る運動
1919・3 ワフドの指導者サード・ザグルール逮捕、それへの抗議の学生・市民・労働者のデモやストが大衆運動として発展
1922・2 英、エジプト独立を条件付き(スエズ運河地帯の駐兵権、スーダン領有権を英が留保)で宣言:エジプト王国(ファード1世国王)サード・ザグルール首相は無条件独立を主張
1924 ワフド党結成:「エジプト人によるエジプト」、キリスト教徒(コプト教会)など広範な国民の支持、完全独立目指す、民族資本家・地主・軍人の支持
・ムハンマド・ラシード・リダのイスラーム復古主義
1929 ムスリム同胞団(ハサン・(アル)・バンナーらが組織):イスラーム国家樹立を訴え、コーラン(クルアーン)を憲法とするイスラーム国家建設、反英ジハードを主張、民衆の支持

(5)その他 トップ
*シリア
・仏はシリアとレバノンを分割統治
1926 レバノン憲法成立
1926 シリアの武力抵抗止む
1928 シリアで選挙会議

*イラク
1922 イラク王国成立(ファイサル国王)

*アフリカ
1912 アフリカ人民族会議(ANC):南アフリカの黒人が中心、反アパルトヘイト
1919 第1回パン・アフリカ会議:パリ、指導者デュ・ボス、奴隷制反対、アフリカ人の政治参加

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