奈良市の東大寺で、明治時代に大仏殿内から見つかった金銀荘大刀(きんぎんそうのたち)2本が、約1250年にわたって行方がわからなかった正倉院宝物の大刀「陽寶劔(ようのほうけん)」「陰寶劔(いんのほうけん)」だったことがわかり、同寺と元興寺文化財研究所が25日、発表した。
同研究所のエックス線調査で、大刀2本から「陽劔(ようのけん)」「陰劔(いんのけん)」と象眼された銘が見つかった。
「陽寶劔」「陰寶劔」は聖武天皇の遺愛品で、正倉院宝物の目録「国家珍宝帳」に記載されている。光明皇后が大仏に献納し、正倉院にいったん納められたが、外へ持ち出したことを示す「除物(じょもつ)」となり、その後存在が確認されていなかった。大刀は1907〜08年の大仏殿の修理に伴い、大仏の足元の蓮華(れんげ)座の周囲から出土していた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a
=20101025-00000862-yom-soci
1250年…幻の大刀 聖武天皇ゆかりの品だった 奈良・東大寺出土
奈良市の東大寺大仏の足下から明治40年に出土した国宝・金(こん)堂(どう)鎮(ちん)壇(だん)具(ぐ)の金(きん)銀(ぎん)荘(そうの)大(た)刀(ち)2本が、同寺を創建した聖武天皇没後に妻の光明皇后が大仏に献納し、その後約1250年にわたって行方が分からなくなっていた「陰(いん)寶(ほう)劔(けん)」と「陽(よう)寶(ほう)劔(けん)」だったこと分かり、元興寺文化財研究所(奈良市)と東大寺が25日、発表した。2本は、大仏に献納された聖武天皇の遺品目録「国(こっ)家(か)珍(ちん)宝(ぽう)帳(ちょう)」の大刀の項目の筆頭に記された正倉院宝物。献納後に光明皇后が持ち出し、埋納した可能性が高い。
同研究所によると、陰・陽寶劔の記載欄にはいずれも献納を取り下げる意味の「除(じょ)物(もつ)」の付箋が張られ、大仏殿竣(しゅん)工(こう)翌年で光明皇后の死去前年の759年12月26日に正倉院から出された記録が残っている。除物の付箋がある宝物は7件あるが、所在が判明したのは今回が初めて。
同研究所のX線調査で、大刀のさびついた刀身の内側の根本からそれぞれ「陰劔」「陽劔」という象(ぞう)眼(がん)された銘文を発見。東大寺によると、大刀はいずれも長さは約98センチで鞘は漆で塗られ、金や銀の装飾が施されており、光明皇后が756年に聖武天皇の四十九日法要に合わせて献納した陰・陽寶劔と刀身の長さや装飾の特徴もほぼ一致した。
2本は、明治40年の大仏殿修理の際、本尊・盧(る)舎(しゃ)那(な)仏(ぶつ)坐(ざ)像(ぞう)(国宝)の右ひざの下あたりから出土し、金銀荘大刀として同時期に周辺から出土した銀の壺や水晶合(ごう)子(す)など19件とともに地鎮のための鎮壇具として昭和5年に国宝指定された。
杉本一樹・宮内庁正倉院事務所長の話 「除物とある宝物の用途が判明した初めての例で非常に重要。残りの金堂鎮壇具も除物された宝物の可能性がある」
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/
101025/acd1010251959005-n1.htm
聖武天皇
(しょうむ てんのう、大宝元年(701年) - 天平勝宝8年5月2日(756年6月4日)、在位:神亀元年2月4日(724年3月3日) - 天平勝宝元年7月2日(749年8月19日))は奈良時代の第45代天皇である。即位前の名は首皇子(おびとのみこ)。 尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。
略歴
文武天皇の第一皇子として生まれたが、7歳で父は死没、母の宮子も心的障害に陥り、その後は長く皇子に会うことはなかった(物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった)。このため、文武天皇の母親である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年(714年)には首皇子の元服が行われて正式に立太子されるも病弱であったことと皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。
聖武天皇の治世の初期は皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子の立后を願っていた。しかしながら、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は光明子の立后に反対していた。ところが天平元年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自殺、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は長屋王を取り除き光明子を皇后にするために不比等の息子で光明子の兄弟である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。
しかし、天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが死亡するという惨事に見舞われて、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平16年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した[1]。また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后とは異父兄弟にあたる)が執り仕切っていた。天平16年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平17年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。
天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて退位の手続を執ったともいわれる)。初の男性の太上天皇となる。
天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、東大寺大仏の開眼法要を行う。天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、皇后や天皇とともに会ったが、同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。天平勝宝8年(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。戒名は、勝満。
光明皇后の希望もあり、東大寺に聖武遺愛の品が納められた。その一部は正倉院に伝存している。なお、1907〜8年の東大寺大仏殿改修の際に、蓮華座の近辺で見つかっていた二本の太刀が、納められてまもなく(759年12月)に正倉院から持ち出され、正倉院の目録である国家珍宝帳に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが2010年にエックス線調査で判明した。この一組の太刀は聖武天皇の遺愛品であり、正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。
系譜
* 父:文武天皇
* 母:藤原宮子 - 藤原不比等女
* 皇后:光明皇后(701-760) - 藤原不比等女、母・宮子の異母妹
o 阿倍内親王(孝謙・称徳天皇。718-770)
o 基王(727-728) - 皇太子
* 夫人:県犬養広刀自(?-762)
o 井上内親王(717?-775) - 光仁天皇皇后
+ 酒人内親王(754-829) - 桓武天皇妃
+ 他戸親王(?-775) - 光仁天皇皇太子
o 不破内親王(723?-795?) - 塩焼王(氷上塩焼)妃
+ 氷上志計志麻呂・氷上川継
o 安積親王(728-744)
* 夫人:藤原武智麻呂女(?-748)
* 夫人:橘古那可智(?-759)
* 夫人:藤原房前女(?-760)
在位中の元号
* 神亀 724年2月4日(3月3日) - 729年8月5日(9月6日)
* 天平 729年8月5日(9月6日) - 749年4月14日(5月8日)
* 天平感宝 749年4月14日(5月8日) - 7月2日(8月19日)
陵墓
* 陵墓は奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)。
* 光明皇后を佐保山東陵に葬る。
関連事象
大仏の建造と焼失
大仏および大仏殿を巡って繰り返された建造と焼失の歴史的経緯に関わる主要人物の一覧。
* 聖武天皇 :奈良時代中期、創建。
o 平重衡 :平安時代末期、焼失(cf. 平重衡の兵火による焼失、南都焼討)。
* 俊乗房重源 :平安時代末期、再建。
o 三好三人衆と松永久秀 :室町時代末期、焼失(cf. 松永・三好の兵火による焼失、東大寺大仏殿の戦い)。
* 公慶 :江戸時代前期、再建。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81
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