2010-10-28
■[特撮][再掲][アニメ]父親を殺した鉄郎とルーク、母親を二回も殺したメーテル

日本のエンターテイメントでは父親殺しの物語が激減してしまい、逆に親が子どもを殺す物語(『保健室の死神』、『NARUTO』のサソリを殺したチヨ婆)が生まれつつあります。
さて、そうした親殺しの物語ですが今回は対比の都合で、海外で有名な親殺しの物語を紹介します。
それは『スターウォーズ』です。
これについては『ファンロード』という雑誌で、エピソード5を「地獄、息子の腕をちょん切る鬼親!」、エピソード6では「地獄、父の腕をちょん切る鬼息子」とからかわれたものですが、実際分りやすい父親殺しの物語となっています。実際にはルークはベーダーを殺していませんが、役割的には殺してるのでルークも父親殺しにカウントします。
これに影響をダイレクトに受けた物語として『さよなら銀河鉄道999』がありましたが、江守徹さんの静かな中に凄みを感じさせる演技の力もあって、それほど気にはなりませんでした。なに、『エターナルファンタジー』はどうしたって? そんなものは存在しない!
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『スターウォーズ』だと母性はまるで登場しないのに、『銀河鉄道999』だと、母親そっくりのヒロインの色香にだまされて機械のネジにされる話の違いを考えると色々と怖い考えが広がってきます。
『スターウォーズ』に母性が無いというと「そうでもないぞ」といわれる方もいらっしゃるとは思いますが、エピソード4のルークを育てる義理の両親の死に目に対しても、それほど嘆くことなくあっさりと旅立つ下りを見ていると、そうした湿っぽい物はなさそうです。あの旅立ちの下りは田舎でくすぶっている若者への応援歌でもあることは充分承知はしてますけどね。
さて、その怖い母性のくびきから逃れる為か、『さよなら〜』では、ハーロックやミャウダーといったライフモデルが登場したり、鉄郎の父親のファウストという乗り越えるべき壁がこれでもかと繰り出される為、鉄郎の中に占めるメーテルの影は前作の映画に比べるとそれほど大きくはありません。
むしろメーテルがその存在感を増すのは、女王プロメシュームの後継者であることが鉄郎にわかってしまうシーンと、女王プロメシュームをメーテルが殺そうとするシーンです。
この作品は主役クラスの人間が2人とも親殺しを行うというかなり異質な作品に仕上がっています。
鉄郎は一度しか父親を殺しておらず、母親を殺す役目は機械化男爵がやってくれました。それ故鉄郎は旅立つことが出来たのですが、そこで母親そっくりの女性であるメーテルに出会う下りで、日本の母性文化の引力の恐ろしさを目の当たりに出来ます。
対してメーテルは、前作の映画で母親を殺し、『さよなら』でもまた母親を殺します。
それほど母親という娘や息子の生きかたを縛る女は、何度殺されても甦るほど(前作も殺されてます)、しぶとくて恐ろしい生き物なのでしょうか。
結論から言いますと、メーテルという不死身の存在が「永遠の時の中を旅する女」である以上、母性を殺すことは不可能に近いように思えます。
鉄郎はメーテルの不実をなじり、何度か殺そうとするシーンが登場しましたが、結局殺せはしませんでした。
自分の恋人であることもさることながら、自分の母親の顔をした女を殺すことは出来ないからです。
『ヴァンパイアハンターD』でのDは、幻の中の母親を殺すことに成功しましたが、『杜子春』は、閻魔大王に既に死んだ母親を拷問されるイメージに絶えられなかった杜子春が最後の最後で「お母さん」と叫ぶラストになっています。
芥川龍之介先生が日本人向けに原典を改変したのですが、
原典と比べると日本の文化に於ける「おふくろ」というものが神聖にして不可侵だと気がつきます(注)。
話を親殺しに戻します。
鉄郎やルーク達は物語の中で父親を殺すことに成功しました。そしてその魂や思想を受け継ぐことで彼ら父親の生き様は昇華されました。
対して母親殺しに成功したメーテルは特に母親の思想や事業を受け継ぐことを言明せずに、母親の遺骸(?)を母親の遺言通り抱きしめて、「貴女は素晴らしいお母さんでした」とつぶやいて一体化を図りました。
この違いは何でしょう。
当方のブログにコメントを下さった方々が色々な意見を言って下さいましたが、やはり文化的、思想的に母親を殺しにくいという点で見解が一致しました。
それは恐らく命を生み、子を育てるという他者から非難されにくい役割を背負っているが故に、間違った教育方針でも
それを非難しにくいという点があるのでしょう。
そうすると第三者の手によって、子どもをゆがめる、支配する母親を倒す形しかないのか、という話になりますが、そう考えると、自分の母親を父親の命を犠牲にして星ごと滅ぼしたり、沢山の若者の命を犠牲にしたりと、メーテルの所業と覚悟が恐ろしくなってきます。
そして、またメーテルも母性を持った者として鉄郎達若者を彼らの母親としてたぶらかして生き続けるのを想像すると、背筋が冷たくなってきます。
アビューズといわれる肉体にとどまらない子どもの私物化という精神的虐待は連鎖するという話ですが、メーテルもそうした負の連鎖に引っかかった娘なのかもしれません・・・。
そう考えると、メーテルもまた女王プロメシュームを一度襲名しただけに、同じことを繰り返しそうで怖いです。
あるマザコン男性を嫌う女性がこう独白しました。
「私はマザコン男が嫌い。でも、息子を育てていると息子を自分の思い通りにしたくなる欲望に気がつきます」
彼女はマザコン男を嫌いつつも、その嫌う理由をマザコン男の背後にいる母親を生理的、本能的に見出していたのかもしれません。そしてその母親の影を憎悪していたのかもしれません。
「あなたにとっての母親は私だけでいい!」と
・・・こうした連鎖が地獄へと続く回廊なのかもしれないと段々と思うしだいです。
悟空や手塚マンガのキャラクターのように暴力で女性を押さえつけるのが正しいのか、それとも彼女達と向かい合い続けるのが正しいのか…。
海外はどうだか知りませんが、日本文化の中の母性という代物が本気で化物のように感じられて怖くなってきたしだいです。
何といえばいいのでしょうか、子どもが母親の引力圏内から抜け出そうとして、母星の衛星軌道をグルグル回ってソトに出ようとしたけれども、衛星軌道を回るうちに母親の甘い言葉で引力権につかまって母性(星)に堕ちる、そんな感じがします。
90歳を越えた私の祖母が、末っ子の叔父かわいさのあまり、他の兄弟との仲を険悪にしてまで叔父を異常にかわいがる姿を見ていると、そう思います。祖父の遺産相続の際に、長男に対して末っ子の取り分が少ないと、裁判や刃傷沙汰一歩手前まで踏み込み、兄弟の仲を悪くした挙句に祖母が放った一言。
祖母「どうして、兄弟みんな仲良く出来ないの?」
やっぱり、母性は怖いです・・・。
そう考えると、物語内において「息子」が母親を殺した桂正和先生の『ゼットマン』が大変と輝いて見えます。
その結果、人間を捨て去ることになろうとも…。
私も母性の連鎖から逃げれるのなら、ゼットマンのように人間を捨てても構いません。
しかし、平野耕太先生はそうしたアーカードやアンデルセンなどの、「人間では無いもの」を「人間居続ける事に耐えられなかった弱い者」と切り捨てられました。
答はあるのか。
注
原作の杜子春伝では、母親の本能である母性をも切り離してこそ、初めて人間のかせから解き放たれるという内容のようです。
原作の「杜子春伝」では、杜子春は地獄に落ちた後、女に生まれ変わって誕生するが、やはり全く物を言わず、結婚して子を産んでも喜びの声一つ発しなかったため、怒った夫が赤ん坊を叩き殺し、そこで妻(杜子春)が悲鳴を上げたところで現実に戻り、仙人は声を出さなかったら仙薬ができ仙人になれたのに、と言って突き放す。芥川は、親が地獄の責め苦を受ける場面に変えて、「あの時もし声を出さなかったら、お前を殺していた」と仙人に言わせ、児童向けの内容にすると共により人間味を前面に出した物語にしているが、反面、多少の教訓臭が感じられないでもない。
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少年は非力な存在であって、そのまま「外」と衝突してしまえば旧エヴァのシンジのように潰れてしまいます。それ故にある程度世界観に庇護された「箱庭」を舞台にした物語の中で活躍し、その過程で成長していく(コロコロ系の玩具漫画などが顕著で、少年が世界規模で活躍できるような舞台背景や設定が存在する)。そして成長を果たした少年は箱庭の外へと踏み出していく、というのが健全な少年漫画の在り方なのではないかと思います。
逆説的に、「外」との戦いはもう少年漫画の領分を超えている、と言ってもいいかもしれません。萌え系作品の恋愛観がしばしば歪になるのも、「外(=この場合は異性)」との関わりを前提としていない少年向け作品のフォーマットを引きずっているが故と言えるのかも。
「俺達の戦いはこれからだ! ―完―」
という文句は打ち切り漫画の象徴なのですが、少年漫画そのものを象徴しているとも言えるでしょう。少年たちにとっての本当の戦いは、「少年漫画」としてのエンディングのあと、箱庭を出たあとにこそ待っているのです。
理屈からすれば、その後の物語は青年漫画だとか文芸などが引き継いで描いていければ理想なのでしょうが、現実にはそのあたりが躓いて、少年漫画に大人の鑑賞に耐える内容が求められてしまう現状を生んだ原因にもなっている気がします。
ドラゴンボールの場合は引き伸ばしによって箱庭卒業のタイミングを逃し続けてしまったのが不幸で、マジュニア仲間にしたところで終わっていれば夢と希望に溢れていたと思いますね。むしろ気になるのは「悟飯はなぜ第二の主人公になりそこねたのか?」という点だったり(主人公交代が成功すれば悟空は大人になり得たと考えます)。
少年漫画とは少し違うのですが、最近終了した「けいおん!!」が、徹底して箱庭を描きつつその箱庭をすんなり卒業していく形で終了したのでかなり好印象でした。それと「惑星のさみだれ」、あれはうまく大人になれなかった少年が異能バトル(=箱庭での戦い)を通じて成長する様子を描いた作品で、少年向け作品の問題点への反省を踏まえて語られた素晴らしい内容だったと思います。
そんなに烈海王の悪口を言わないであげてください。
いつも興味深く、記事を拝見させていただいてます。
外国での親殺しと聞くと、ギリシャ神話を思い出します(星矢のネタ元でもありますね)。
そもそも創世神話の中で、ウラノスがクロノスに、クロノスがゼウスにと、命こそ経たれていませんが男根を切除されたり政権を追われ投獄されたりと、実質的に殺されています。
その一方で地母神ガイアが、自分の子どもたちに「皆で仲良くしろ」と不満をぶつけ、それを妨げる者を排除するためにクロノスやゼウスをサポートしています。
最終的にガイアもゼウスを神の王の座から引きずり下ろすことはできませんが、その母性(と言う名の凶気)は中々怖いものだったと思います。
ゼウスの治世下では、アテナなどの処女神が優遇される一方で、本来は神の王の妻であるヘラが不遇の身であったりと、それほど神々の母性が強まっていないように思えます(ちなみにヘラはギリシャ神話が広がる前は、別の神話の地母神だったそうです)。本来、その辺りを担当しても良い女神も物語上では空気だったり、恋愛に忙しかったりしますし。
代わりに、上からの指示で動くだけの人間の英雄たちは基本的にみんな死にますね。母とのつながりがもっとも強いアキレスがいい例です。
ギリシャ神話は欧米では基礎教養としてたしなまれていたりするので、それを読んで育った人は日本人よりは権威の奴隷になりにくいのではないかなぁと思います。まぁ程度の問題ではあるでしょうが。
コメントありがとうございます。子どもという概念は19世紀までは存在せず、子どもという存在は小さな労働者=大人という括りでした。そして学業の期間が長期化するにつれ、子どもである期間が延長される結果となりました。
70年代の少年漫画を見れば分かりますが、少年漫画といいつつも出てくるキャラクターは大抵が大人化それに準じた存在でした。
百鬼帝国の偵察員(実は日本政府の人間)をマグナムで射殺する「高校生」の流竜馬(原作では高校生だったのかは不明ですが、ムサシや隼人が学生だったので、おそらく高校生だと思われます)や、少年院に放り込まれたスケバン刑事の麻宮サキ&ワイルドセブンの飛葉大陸(だいろく)、子どもなのに車を乗り回して大人と闘う少年探偵金田正太郎、高校生なのに結婚して子どもが出来た戸川万吉親分…。
現在の少年漫画は子どものスタイルが変化していったことにより、より子どもであらねばならない呪いがかかっているのかもしれません。
ho_uさんのコメントは面白かったので、いずれそれに付いて色々と書いていきたいですね。
俺に両手ブンブン回しの駄々っ子パンチの海王画像を貼れというのか、あんた鬼だw
Sensさん
初コメントありがとうございます。これからもお気遣い無くどしどしコメントをお願いします。
ギリシャ神話の父殺しの構造はそれが代々続く連鎖と言うのが興味深いですが、あの物語においては母性の恐怖は男性の神に比べてストレートなものではないものの、アテナの嫉妬でクモに姿を変えられたアラクネや、アルテミスの姿を見てしまったことで鹿に姿を変えられて仲間に殺されてしまった猟師など、彼女らの血の営みは枚挙に暇がありません。
ヘラクレスにいたっては、ヘラの嫉妬であの苦難の道を歩むにいたったわけですから。