他山の石(8)

他山の石(8)

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月刊 碁ワールド 2010年8月号

勝負の赤壁(レッドクリフ) -中国・囲碁事情- 連載⑧

特別座談会 前編

朴文尭(PU WENYAO)五段 x 常昊(CHANG HAO)九段
中国トップ棋士が本音で討論

 連載中の「勝負の赤壁」の特別企画として、座談会を行いました。参加してくださったのは、中国の常昊[じょう・こう]九段と朴文尭[ぼく・ぶんぎょう]五段です。今月と来月は、この座談会の模様をお伝えしようと思います。「日本はなぜ世界で勝てなくなったのか」「どうしたら勝てるようになるのか」というテーマや中国の若手棋士の育成法、トップ棋士の勉強法、普及についてなど、話題は多岐に渡り、私が普段から詳しく聞きたいと思っていることに、二人はとても真摯に答えてくれました。おかげで、充実した座談会になったと思います。今月は、囲碁界が転換期にあるという現状と、「囲碁は文化なのか勝負なのか」という私にとってのメインテーマについて、それぞれの考えをお届けします。(孔令文六段・構成/高見亮子)

 孔令文六段(以下・孔) 今回は忙しい中、対談の企画に快く応じてくださりありがとうございます。常さん、昔よく遊んでくれましたね。朴さんとは、こうしてじっくり話をするのは初めてです。
 朴文尭五段(以下・朴) 以前一度、食事をご一緒したことがありましたね。
  この対談では、日本と中国の囲碁界のいろいろな問題をみていただきたいと思っています。日本の囲碁界は今苦しい時期で、井山裕太名人のような人材も非常に少なくて、世界戦で苦戦しています。世界の視点から、思ったことを語ってください。
 常昊九段(以下・常) こちらこそよろしくお願いします。
  お願いします。


 囲碁は「文化」か「勝負」か
  さっそくですが、中国は今、世界をリードする立場になってきましたが、中国では囲碁をどうとらえているか、具体的には、礼儀や芸を重んじる「文化」なのか、勝ちにこだわる「勝負」なのか。この点について、どういう考えを持っていますか?
  古くから中国も囲碁は文化だとみなし、礼儀を大事にするという考え方は受け継がれています。でも、1960年代から囲碁という「種目」に対して、文化よりもスポーツという観点で見られるようになってきました。
  第1回の集訓隊ができた頃ですね。(*1/本誌1月号参照)
  そうですね。スポーツとしてとらえていることから、競技性が増し、勝負が厳しくなりました。今の韓国も同じ傾向だと思います。
  日本と中国では、碁に対する考え方が違いますね。競技か文化か。
  どうなのかなあ・・・。
  朴さんはどう考えますが?
  礼儀と勝負は矛盾しないものだと思います。
  私もそう思います。偏りすぎてはいけないけれど、勝負に徹することで、礼儀がなくなるわけではないでしょう?
  僕の記憶では、15年程前、華以剛[か・いごう]先生(*2/華以剛八段。中国棋院元院長)が日本の礼儀作法を中国で教えていましたよね。
  そう。大変重要なことだったと思います。小さいときから勝負だけにこだわっていると、礼儀を疎かにしかねません。
  「芸」ということでいえば、秀行先生(*3/故・藤沢秀行名誉棋聖。日本のみならず中国・韓国の棋士に多大な影響を与えた。)の教えの中に、盤上だけではなくそれ以外のところでも、知らない世界からたくさん学べという言葉があるけれど、二人は、こうした考えを持っていますか?
  秀行先生の考えには賛同、共感しています。盤上の技術は碁にとって重要なことですが、盤外での経験は、棋士としての成長を高めるので、人生にとっても重要であることに間違いありません。盤上でしか生きられないというのは幅が狭くでダメだと思います。
  常さんが共感できるのはよくわかります。秀行先生の教えを受けた時代に育ったのですから。
  そうですね。私が日本の碁を勉強して育ったということもあります。日本の棋士の棋譜からたくさんのことを学びました。「芸」への賛同と理解は中国の棋士の誰よりもあると自負しています。でも、自分より若い世代はどう考えているかわかりません。環境も違いますからね。
  朴さんの意見も聞かせてください。実は、最近僕、朴さんの対局姿を見て感動したんです。集中力のオーラがあり、相手棋士への圧力を感じさせられました。勝手で申し訳ありませんが礼儀もよく、まるで昔の日本の棋士のように映りました。常さんは、日本の碁を並べて勉強したようですが、朴さんは?
  私は違います。私は、韓国の碁の影響を受けています。
  棋譜を並べるときはぜんぶ韓国棋士の碁?
  そうですね。ここ数年の韓国の勢いや強さは目立つものがありましたから。
  秀行先生の考えはどう思う?
  人によって考え方はそれぞれ違うし、全ての考えがつながっているともいえると思います。碁は、すべてを学ばなければいけない。そうつながっているものだから。
  なるほど。でも奥が深すぎて難しいな(笑)。


 囲碁界の変わり目・・・日本から韓国へ
  今の時代は、伝統を含め、碁の質、勉強法も変化し、囲碁界の変わり目でもありますよね。
  私もそう思います。私より少し前の世代までは、何から何まで日本から教わっていました。私が小さい頃も、日本のレベルは高かったので、中国は考え方も勉強法も全て日本の真似をしていました。それが、90年代以降に、韓国が急成長を遂げ、富士通杯でも韓国が優勝するようになった。この頃から中国は韓国からも学ぶようになりました。私はちょうど狭間にいますが、小さい頃から一番影響を受けたのはやはり日本の碁で、簡単に変えられるものではありません。ただ、勝負をすることにおいては、韓国のよさも学ばなければなりません。そういう意味では、自分の碁のとらえ方も、変化したように思えます。朴さんは中国が韓国から学ぶようになった頃に、囲碁を始めたんだよね?
  はい。私は韓国の影響しか受けていないかもしれません(笑)。
  今「勝負」の側面が強くなって、中国ではだいたい一線で活躍できるのが30歳までだと言われています。常さんは33歳だけど一線で活躍している。秘訣は何でしょう?
  本心を言えば、30歳限界説というのはおかしいと思います。早すぎる。日本では考えられないでしょう?
  もちろん。日本ではそういうことはありません。中国の競争が厳しすぎるのが原因ですか?
  たしかに、中国、韓国、日本はそれぞれ国の事情が違いますよね。一つには中国、韓国では若手の伸びが速い。彼らの襲撃を受け止めきれるかが正念場です。それから、持ち時間の問題もあると思います。中国と韓国は早碁棋戦を主流にしているので、勝負勘の鋭さや碁の完成度が必要とされます。一方、日本の棋士は、ゆっくりとした碁を打つ傾向がありますよね。環境の違いも大きな要因です。日本は公式戦が週に1回のペースですが、中国や韓国は連日手合が続き、さらに1日のうちに2局打つことも多々あります。
  年齢的に体力がもたないということですね?
  連戦の体力問題は現実にあります。若手棋士にチャンスがあるといえるでしょう。日本では考えられないですよね。昔なら30歳は若手だったでしょ(笑)。
  そうですね。秀行先生は「50歳が打ち盛り」とおっしゃっていましたし、坂田先生と林先生の名人戦(*4/坂田栄男名人と林海峰九段による第4期旧名人戦七番勝負(1965年))が打たれたときも「20代の名人はあり得ない」と言われました。それが当たり前とされた時代だったものね。
  30歳をすぎてやっと成熟し始めるという感じだったよね。でも昔は、棋戦が少ない上に情報も少なかった。環境のハンディが、そういう原因をつくったのだと思います。やはりトップ棋士になるためには勉強量の蓄積が必要です。昔は、その「量」を、30になるまで蓄積できなかったのです。
  僕は常さんの碁に、日本の昔の芸を求める「求道派」の気質を感じています。プラス、基本ができていて勝負に強いという中国の気質も万全に備えている。それが30をすぎても一線で戦える理由なのではないか、というのが僕の考えです。


 「芸」とは何か?
  常さんが素晴らしいと思うのは、芸を求めているにもかかわらず、勝負も強いというところだと思います。常さんの碁はカッコイイよね?
  はい。カッコイイです。
  令文、言わせてるよ(笑)。
  そんなことないです(笑)。
  日本の最近の傾向は、中盤から逆転される。芸を求めて、「勝負」に甘い。
  それは不思議な話ですよね。芸と勝負はそこまで矛盾しないはず。求道派の人たちは皆、勝負を大事にしないみたいに思われるじゃない?勝負を大事に思っている人だってカッコヨク勝つこともできるし。
  でも僕は、碁ワールドでこの連載を書いていても、どうしても一番ここに矛盾を感じるんです。例えば、若手が強くなるのが遅いという点にも、このことは現れていると思います。
  それはどうしてなの?
  僕は日本の勉強方法が大きな原因だと思います。今でこそ若手は詰碁・ヨセの研究といろんな勉強を工夫するようになりましたが、従来の勉強法は圧倒的に棋譜並べが多く、序盤に偏りすぎて、バランスが悪いのです。
  なぜ序盤にそこまで力を入れるのですか?
  布石などで、個人で”正解のない、わからない局面に挑む””己を追求する”という文化が流れていて、ロマンを求めているような感じですね。
  価値観の違いはあるだろうけれど、普通に考えれば、布石・中盤・終盤(*5/ここでさす序盤、中盤、終盤というのは大きく分けたもの。棋譜並べは碁の打ち方、考え方を学ぶ勉強法。詰碁、ヨセは部分的な読みを鍛える勉強法)すべて含めて囲碁ですよね。総合的に考えないのはなぜだろう?
  おそらく、中盤・終盤の解答の出る分野より、棋理や芸への評価が高いということがあるのだと思います。その方が、棋譜としての評価が高いのかもしれない。
  芸を求めるということは、そもそもどういうことでしょうか?その局面の最善手を求めるということ?それとも、様々な打ち方を模索したいのでしょうか?
  自分の世界をいかに表現できるか、ということじゃないかな。日本の歴史上、勝負を争うことだけが棋士の役割ではない。一生懸命時間を使って死力で碁を打ち、いい棋譜を残すことに棋士の大きな意味があるのです。
  もちろん、いい棋譜を残すということはわかるけど、布石だけではいい棋譜はできないから、中盤や終盤にも力を入れて強くならなければいけないよね?
  昔、武宮先生が大ナダレに5時間の長考をしたことがありました。(*6/武宮正樹本因坊と大竹英雄鶴聖による第43期本因坊戦七番勝負第5局(1988年))梶原先生も考え抜いて「今日の蛤は重い」という名言を残されている。(*7/橋本昌二王座と梶原武雄七段による第8期王座戦1回戦。当時は1回戦でも持ち時間10時間の二日制だった。ちなみにこの対局は初日10手しか進まず、梶原七段は白10を封じ手とした。「今日の蛤は重い」とはその時の発言)つまり、妥協はできないのです。時間がなくなって中盤以降にミスがあって棋譜が汚れる可能性はあるけれど。最善の自分を出したい。これが、日本に受け継がれた精神なんです。
  なるほど。
  たしかに、そうですね。
  だから、芸を求めることと勝負にこだわることには。矛盾点か何かは存在するのだと、僕は思います。新しい時代のリーダー格の朴さんは、どういう考えを持っていますか?
  プロ棋士である以上は、最善の手を見つけたいし、棋士である以上は一局の碁の内容をよくしたいのは当たり前ですが、30手目まで100%で、そのあと落ちていくのがよいのか、80パーセントでいって、最後までいいのがよいのか、どちらがよいかはわかりません。
  何が「本当の芸を求める」ということを指すのかは難しいよね。何が求道派なのか。何を根本的に求めているのか。今の世代の中では、朴さんは、かなりの求道派なんじゃないの?(笑)


  つい最近中国に行ったとき、「囲碁は芸術を実現するものか、勝負を競うものか」という質問をしたら、中国の若手は皆ノータイムで「勝負」と答えました。
 常・朴 そうでしょうね。
  でも日本の棋士に同じ質問をしたら、半分ぐらいは「芸術」と答えるに違いありません。
  日本の囲碁界は何を目指しているのか、ということですよね。芸術的に碁を見せたいのか、勝ちたいのか。どちらでしょう?
  難しい質問で答えにくいのですが、昔だったら7割位の棋士が芸を重視していたかもしれません。しかし、今の若者は勝ちたい気持ちが強い。日本の囲碁界も変わり目にあると考えられています。
  井山さんは、そういう傾向があるように感じます。
  ただ、昔からの習慣や文化は急には変わりません。師匠がどんなふうに教えたかによって囲碁観にも影響しますし。
  もちろん、芸は素晴らしい。ただ、何事も極端になりすぎないようにするのがよいと思います。もし囲碁に芸術しかなかったら、勝負の側面がなかったとしたらどうなるか。囲碁はそういうものではないですよね。その逆も同じです。
  でも、中国では「その逆」の方向にあるのでは?
  たしかにその方向性にあると思う。
  常さんは、両方を上手く融和した方だと思いますが・・・
  芸術の碁しか打たないと決めて、芸だけにとらわれていたら、すでに芸術的なものではないと思います。それは、芸に支配されているということ。支配されれば、幅が狭くなる。
  近年の研究によって局面が狭くなっていき、打ち方もどんどんパターン化されて、皆が同じ知識を共有している状況の中、逆に、自分たちは求道派の「芸」のよさを取り入れるべきなのではないかと私は思います。
  朴さんの碁自体は、技術が高いのは分かっています。ファンを魅了させたいという意識はありますか?
  まだあまり経験はありませんが、もちろん全力で打っていい碁、いい棋譜を見せたいという意識はあります。
  意識の問題も、あまり頑なに決めない方がいい。ファンを魅了させるために打つということも、碁にはよくないと思います。自分の打つ手を狭める可能性があるから。碁の変化を狭める可能性があるでしょ?
  何かを追求することは、逆に狭めることにもつながりかねないんだね。
  私は一つの局面があって、皆がそこに打てばよいと結論づけたときに、「自分はそうは思わない」という個性も必要ではないかと思います。自分の意見をしっかり持つことが大切だし、憧れます。
  武宮先生は、その典型ですよね。最近のプロ棋士は、実利を好む傾向にあります。その方が局面を把握しやすいし勝ちやすいから。でも、武宮先生はそれも理解した上で、碁は外回りで打った方がよいという信念を持っています。あえて、難しい方に挑戦されてますよね。
  武宮先生は本当に素晴らしい棋士ですね。僕も大好きです。ただこんなエピソードもあります。昔、ある局面で「負けてもそこ(おそらく形の悪い手)には打てない」と武宮先生が言ったそうです。でも、その場合は、その打てない手が正解手だったのかもしれません。これを聞いていた李昌鎬さんが「負けても打てないというのはどういうことだろう!?」と驚かれて理解に苦しんだようです。
  どうして棋士たちが愚形を嫌うかといえば、それは効率が悪いからですよね。囲碁は効率を競うゲームだから。常識的に考えて、愚形は石が凝り固まっていて効率が悪い。それはわかるのだが、その先入観にとらわれると、その愚形が一番効率がよくなる可能性を見過ごしてしまう。
  その理屈はわかります。理屈でわかっている人はたくさんいるけれど、いざ打つときに、そこに打てないという棋士はけっこういると思います。手がいかない。気持ちが打てない、という人が。
  形がきれいな人は、形に支配されていて、アキサンカクが一番いい手だということに気がつくのが遅いだけなのではないかな。まさかそれが一番効率がいいとは思わないから。
  さっきの話と似てますね。形にとらわれると最初から考えもしない。それは、狭めているということだね。そうか。この真理を日本の人たちに伝えないといけないですね。
(次号に続く)

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2010年10月17日 コメント(0)

カテゴリ: 我楽多

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