〜外国への恐れとあこがれ(商館時代)〜

明治のはじめ、外国貿易は、外国人居留地を中心に行われた1898年当時で、日本の輸出額の74%,輸入額の66%は外国商人の取扱い。)。日本の懐中時計は、不平等条約と居留地が廃止され1899年:明治32年)、国産時計が軌道にのるまで、外国商館がまさに支配した。その結果、西洋人の思惑と、日本人の好みとのはざまにあって、懐中時計も和洋折衷の独特なかたちのものとな った。所謂「商館時計」と言われるこの時計を手にとって見つめていると、明治初めの、日本人の不安や希望、恐れやあこがれが、手に伝わってくるように感じる・・・

 

 

 

 

(上のはがき「居留地 横浜名所」〜居留地52番〜1910年)(右のはがき「神戸三ノ宮通り」&「神戸元町一丁目」&「神戸元町五丁目」&「神戸相生町」)いずれにも時計屋さんの大きな懐中時計の看板が見える・・「相生町」は、1903年7月13日の消印。明治36年以前の風景であることがわかる。)

 

 

商館時計(スイス商館)(コロン商会1873年 明治6年〜大正2年)日本発注スイス製 15石(1873年 明治6年〜)71866 明治20年代?

商館時計とは、明治時代に日本に数多く存在していた商社(商館)が日本人向の仕様で主にスイスのメ−カ−に注文し販売していた懐中時計。日本製の時計の先駆けとなったのが、この商館時計である。機械はスイス(ごく一部イギリス)であるが、スイスアメリカドイツフランスイギリス(ロールスロイスのコーンズ商会など。ただし、商標がなく、確認が難しい。)の商館が扱った事が確認されている(大川氏によれば50社程・・ただし見分けられるのはその半分以下だという。)。日本人の好みに合わせて造ったと思われるその主な特徴は(明治の初めの鍵巻きや、明治後期から大正にかけて魚子模様がなくなる時期も商館時計ではあるが、明治の中期から後期にかけての特徴を示すと)、@ケースの裏ブタが、魚の鱗のような模様(魚子模様:ななこ模様)で、これは、湿気の多い日本で、とりわけ潔癖な日本人が手の跡がつくことを嫌がったからと言われる。A後期には、文字盤に、14まで刻まれた表示がある。すべて手書きのものは、明治15年前後の特徴である。B裏ブタを開けた中ブタがスケルトンで、ガラスが使われていること。これは、懐中が貴重で、ステータスを示すものであり、人に自慢して見せるためであったか・・なお、この時代(1900年前後)の特徴として、タボ押し時間合わせ(左肩のボッチを押しながら時間を合わせる)である。どの商社のものであるかは、裏ブタに商社のマークなどが書いてある。

特にこのコロン商会がもっとも有名なもののひとつ(服部時計店屋上の大時計は同社が輸入したと伝えられている)で高級な機械をつかったものである。コロンは、スイスの時計行組合長で遣日使節団長となったアンベールの甥と伝えられている。この時計であるが、当時としては最高度の石数の15石を使っている。また、ケースは0.800の銀製である。タボ押、裏ブタ機械側スケルトンの典型的な商館時計である。これこそ、本当に日本の時計のルーツを指し示すものである。(精工舎の創業者、服部金太郎は、1881年、東京京橋区采女町に「服部時計店」を創業し、当時横浜居留地の「ブルウル兄弟商会」「ファーブルブラント(スイス政府から1862年に派遣された特派使節団の6人の中の一人。18411923ル・ロックル出身。最初期の代表的な時計を扱ったスイス商社。)」「コロン商会」などのスイス人商館から懐中時計などを仕入れ巨万の富を得て「日本の時計王」と呼ばれた。当時「盆暮れ決済」が普通のところ常に現金決済で外国商館の信用を得た氏には外国商館は競って良い商品を提供した。)裏ブタには、カタカナのコロンのマークの上にスイスの製造会社のマーク、右に横向きのライオン(イギリスの純銀表示“Complete Price Guide to Watches”)、左に正面を向いたライオン(銀検定所の検印)上に鳥(スイスの純銀表示)、下に、74656の数字(その下に3)がある。(右→:他にコロン商会のものとして例えば、ライオン、星印の商標もある。他に下記の鶴、また盾、折り鶴などがある。)(右上:今の横浜海岸通りあたりの横浜居留地10番にあった、コロン商会の建物 『日本繪入商人録』1886年 横浜開港資料館蔵:許可済)

 

のものもコロン商会であるが、文字盤とムーブメントに、通しナンバーが打たれており、初期の形を示すものである(72488 0800。ちなみに、これは、非常に大きく、60o近い大きさがある。(『滋賀県警察本部明治211122日』の盗難届の中に、「コロン鶴印竜頭巻銀時計58055」とあり、明治20年前後と想像される。)

 

のコロンをみていただきたい。

“57972文字盤  C.H.Horumann&Co Neuchatel 57972 J.A.ケース内側 No 57972 Yasouda ムーブメント

これは、コロン商会の鍵巻きである。やはり、文字盤に数字がある古いタイプのコロンである。このコロンは、色々面白い情報を与えてくれる。Horumannは、ムーブメント製造会社の銘で、コロン商会が輸入した製造会社の中では、秀逸であった。しかし、明治30年頃からおそらく価格競争の関係でもっとリーズナブルなものに変えていったと思われる。(大川氏)また、Yasoudaの刻印は発見である!商館時計には、実は、商館と取引した時計商の刻印などが、まれに、文字盤やムーブメントにみられる事があるが、これもその例である。Yasoudaは、大阪伏見町の安田源三郎商店向けの刻印である。他にも、ムーブメントに日本の時計商の銘が入ったものとしては、東京日本橋の高木大五郎商店(Takagni)、銀座4丁目の玉屋「宮田藤左衛門」商店(Tamaya)、服部時計店(これは、兜印など)などのものがある。(上記『明治211122日滋賀県警察本部盗難届』の中に、「コロン鶴印左向鍵巻時計67096」とあり、それよりも番号が若いことから明治10年代であることがわかる。)

 

 

)のコロンは、文字盤や針が古い時代の特徴を示している。また、これは、ムーブメントのナンバーと箱のナンバーが一致していて、あまりみかけることのない「共箱」のものである。

 

 

 

 

 

 

商館時計(スイス商館) ファブル・ブラント商会“C.&J. FAVRE-BRANDT”鍵巻1461-39990 商標は左のもの

時計の商館として最初期のもっとも代表的な商館は、ファブル・ブラント商館である。ファブル・ブラント1841ル・ロックル生まれ)は、日端和親条約締結の随員として来日し、日本人と結婚し、妻子共に横浜外人墓地(9区)に葬られた親日家で、西郷隆盛などとも親交があった。明治初期には横浜の町会所や郵便局はじめ、日本各地に時計塔を設置したり、啓蒙書(「時計心得帳」)を出したり、日本人時計師をスイスへ留学させるなど、日本の時計産業育成に貢献した(1864年横浜居留地84番→1867175番)。商館時計のルーツとも言うべき、ファブル・ブラント商会である。

さて、このファブル・ブラントの懐中であるが、裏ブタケース内側の獅子印は、明治20年頃の獅子印である。明治10年頃は、ライオンの前足の下のFBが、飾り文字である。また、同じ獅子印でも、カタカナがない英語のみのタイプのものの方が古い。また、さらに最初期のものは、英語のみでしかも、獅子印などの商標もない。日本人にもファブル・ブラントのブランドを判別しやすいように、このように、のちに、カタカナが刻印されるようになった。なお、文字盤の形状としては、ブレゲ針等、明治20年よりもう少し古い特徴を示しているように思える。(by 大川氏『商館時計蒐集奇談』)ナンバーから大川氏所有ファブルと比較(左No 59646で、明20年頃)すると、明治10年代と思われる(右側の商標のものは、カタカナの刻印が、フ・ブラントとなっている。FBrandtと約すことがあるから、その訳の意味で付けたのだろうか・・笑)。また『明治211122日滋賀県警察本部盗難届』の中に、「ファブル獅印左向鍵巻銀時計」の番号が41440とあり、これは、ほぼ間違いなく明治10年代であることがわかる。時価「13圓」とある。ちなみに、レッツ竜頭巻きが11円。コロン竜頭巻きが127銭、コロン鍵巻きが145銭。18金製レッツが4560銭。丸形大時計(柱時計?)10円。なお当時、刀(25寸)時価2円。紋付男用羽織5円。(右上:横浜居留地175番ファブル・ブラント「時計屋」と看板が出ている。『日本繪入商人録』横浜開港資料館蔵

なお、ファブル・ブラントの印は、獅子印以外にも、蝶、小鳥、猟鳥、野羊など様々ある。例えば、→右のような、洋兜?印(ケースNo 661)である。ファブル・ブラントの場合、印によって等級がわかる。盾獅子:高級品→星獅子:準高級品→野羊・猟鳥:大衆向け中級品という具合である。なお、←左のものは、星獅子印のもので、カタカナ名が入るのは、同じ星獅子印でも後期のものである。

 

→右は大衆向けの、野羊印。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商館時計(スイス商館)RSCHMID(ア−ル・シュミット時計R. Schmid Co.(Cassardes Watch Co)0800銀製 9003S

ファブルブラントとコロンと肩を並べて有名なのがシュミット商会。後に、シチズン前身の尚工舎設立を助けた事でも有名。これは15石。アンクル脱進機の完動品で状態も良い。

このシュミットは、元来スイスの製造会社であって、明治27年までは、シュミットの時計(R. Schmid Co (Cassardes Watch Co), Fabrique d'horlogerie.(R.S.&Co.) 1903 – 1923 Neuchatel)をワーゲン商会1878年創業で、ボジョレーワインなどを扱う)とへロブ商会が扱い、明治28年からシュミッド直営商館となり、明治42年からは、ナブホルツ&ヲッセンブルゲン商会が扱った(シュミットの時計には、商館に関係なく、当初は、多くがムーブメントにR.SCHMIDの文字が刻まれている。)。またシュミッド工場製のものは、実に様々な商標のついたものが輸入されているが、特に明治40年頃以降(竜頭巻き小型)ナブホルツ商会以降のものは、非常に多い(SwordNabsy, Pigeon, Shmid Watch, Sway, など)。ちなみに、ワーゲン商会(原文を確認してないが、大川氏によれば、明治24年杉浦昭典著『大帆船時代』には、この商館が日本の業者と契約も取り付けずに丼勘定で輸入した結果、安値で販売して価格破壊を招き、本社に追求されたことが記されているそうで、そういう経緯もあり、代理店契約が取り消されてヘロブ商会に移ったのではないかと想像される。)の刻印は、W.F(明治10年〜)。へロブ商会の刻印は、H.Co.である(明治23年〜27年:シュミッド商会に経営権が移るのは、上記ワーゲン商会と違って、館主の帰国か病死によると考えられている。)。また、シュミッドの販売責任者となったのは、中島与三郎であり、後に彼は、東京西巣鴨に出来たシュミット時計工場(ナボホルツ商会時計部工場が1922年に改名)から雇い入れた技術者の手を借りて、シチズン時計を設立した(1930年)。

なお、この時計については、大川氏から、この時計は、「アール・シュミッド商社のものですよ」とコメントをいただきました。これは石受けも凝っていて、宝石も大きく、非常に美しい機械だと思う。

→ハガキ:R・シュミッドの本社があった、ニューシャテルの1920年頃の風景

 

以下は、同じくRSCHMIDル・シュミッド 0900銀製 452138 A (内ブタ: ”NIEL:象眼 RSC:アール・シュミッド・Co” ”PLAGUE OR SURARGENT”)Niello(象眼細工)側である。象眼細工は、当時、江戸期の刀装束などにも見られるものではあるが、スイス、ドイツでもこの技法は流行した。銀側に文様を施し、低い部分に硫黄や銀を混ぜた黒金を象眼し、金や赤銅などで色仕上げした。

 

 

 

 

(左)RSCHMID商館時計懐中用ケース(木製)アール・シュミッド商会(明治30年頃)R・SCHMID 瑞西(スイス) YOKOHAMA 横濱九拾五番 アール・シミツ商会とある。シュミッド商会懐中時計の箱である。これは、明治30年頃のもので、シュミッド直営の時期のもの。これ以前は、ワーゲン商会、へロブ商会(へロブ商会の箱には、RSchmidの部分が、FHERBCo等となっている。)がこのブランドを扱っていた。箱は、他にも、コロン、シュオーブなどの商館のものが存在する。

 

右は同じくRSCHMID特殊緩急針ハンター側→

 

 

 

 (右上『横浜弁天通』明治の終わり頃の絵葉書であるが、横浜市弁天通三丁目60番にあった河北時計店の時計台である。大正大震火災によって焼失した。なお、河北時計店は、ワーゲン商会と契約し、明治28年からシュミット商会が独占販売する「騎馬印」R・シュミット懐中の販売権を獲得している。

 

 

商館時計(スイス商館)(シュオーブ・フレール社 Jウィストコウスキ商館1897年明治30前後?&クーン商会10 0.800 264737(タバンTavannes Watch co.

保存状態の良いオリジナル七宝文字盤が非常に綺麗。印刷で、明治30年以降のもの。裏蓋に「TRUSTY」の刻印は、製造会社がタバン製造会社であることを示している。タバンと言えば、「ウォルサムやタバンのような名稱(めいしょう)」(高橋邦太郎著『時計の回想』昭和25年)と評されて高級品と評価されていた。ただし、タバンは、外見のタバンと言われ、ケースや文字盤などはいいが、機械は平凡という評価である。脱進機は、シリンダー、ヒゲゼンマイも平ヒゲ、チラネジ無テンプ。シリンダー脱進機は無理な大きな力が加わるので、一度壊れると直せる技術者はほぼいない。また、精度も悪い(ちなみに精工舎のタイムキーパーは、シリンダー脱進機である。)。この時計であるが、シュオーブ・フレール社(Schwob Freres&co.)が、スイス本社の販売元で、日本での商社は、J・ウィストコウスキ商会(J.Witkowski&Co.)とクーン商会(右:横浜居留地79番『日本繪入商人録』横浜開港資料館蔵)である(クーン商会は、オーストラリア・ハンガリー系商社)。シュオーブ社は、タバン以外にも様々な製造工場を使って世界中に出荷した(右下は、アメリカで発見されたもの。日本から渡ったのか、直接輸出されたのか・・・中ガラスの存在、針の特徴は同じ。中ガラスがスモークで縁取りされてはいるが・・)が、安価なものを日本に輸出して、庶民層にアピールし、特に日露戦争後の好景気の中、懐中を日本で広めた功績がある。そのシュオーブ社の懐中は、何十種類もマークがあるが、この犬が座ったマークのものが一番流通した有名なもので、当時、犬印タバンと言われて親しまれた。(番号の下にL 左に0.800。右に銀製であることの、スイスホールマーク鳥。) 右上と左下はシュオーブのケース「Schwob Freres&co. Chaux -De-Fonds(ラ・ショードフォン:製造地)」とある。

スイスにおける時計事情であるが、19世紀を前後して、スイス時計は世界の時計の90%を占めるようになった。このスイスの時計ブームは少なくとも1914年まで続いた。またその内で、第1次大戦までは、世界のマーケットの半分以上をラ・ショード・フォンの富豪達がコントロールしたと言える時代であった(時計産業に限らず、1900年前後という時代は、ラショードフォンは、時計産業の勢いゆえに世界産業の首都のような役割を果たしたのである。)。ラショードフォンは、“The Collectivite’ des fabricants d’horlogerie de La Chaux-de-Fonds”によれば、スイスの時計輸出の3/5をコントロールしたのである(この事実は、世界の時計産業の55%を支配した計算になる。)。そして、このラショードフォンの時計富豪一族のほとんどが、そのルーツを探ると、フランスのアルザスから来た人々であって、まさに、DitisheimLevaillant Schwob(シュオーブ)王朝と呼ばれる家系の人々であったのである。またこのことにも触れないければならないが、このラショードフォンの人々の多くは、そのルーツをユダヤにもつユダヤ人であったのだ。当時のシュオーブ邸が現在もショードフォンに残っている:Thank you T氏へ

http://www.objectifreussir.ch/fr/cadre_repertoire/tourisme/La_Chaux-de-Fonds/Villa_Turque/villa_turque.html

 

 

商館時計(スイス商館)(イージャコット商会)“B&C”ボーレル・クルボアジェ(Borel&Corvoisier0800銀 AR99841 

ケースのB&C(盾)マークは、スイス、ニューテシャルのボーレル・クルボアジェ(Borel Corvoisierという会社(Jules Borel & Paul Corvoisier創立)で、1859年創立。欧米各地のコンテストで優秀な成績をおさめ、欧米アジアに広く輸出した。日本で扱ったのは、当初、イー・ジャコット商会(E.Jacot 1878~1883:明治の終わりまで語り継がれるほど評判のいい商館であった。)で、次に引き継いだのは、シーベル商会である。(BCマークの&が抜けているものは、Borel-Corvoisierに社名変更された時期のもので1895明治28年以降のもの。よってこの時計は、少なくとも明治28年以前。)シーベルであるが、シーベル・ブレンワルド(:横浜居留地新90『日本繪入商人録』横浜開港資料館蔵。右下:シーベル・ブレンワルドの商標シール)の創始者の一人カスパー・ブレンワルドは、日瑞和親通商条約締結の使節団の一人で、日本の国内事情を視察し、日本は貧しく、まだ時計は必要ないと報告している。シーベル創業は1866年であるが(創業者:ヘルマン・シーベル&カスパー・ブレンワルド:1863年にスイス遣日使節団として来日したブレンワルトがロンドンにいたシーベルと組んで1965年にロンドンで設立、横浜に社屋を構えた)当初は、時計を扱わなかったと思われる。また、当初、シーベル商館内にスイス総領事館が置かれ、横浜居留地屈指の商社に成長した(また、有能な日本人番頭が多かったことでも知られている『図説 横浜外国人居留地』:有隣堂)。シーベル商館が時計に力を入れ始めたのは明治17年以降と思われ、品質はイージャコットに比べ、徐々に安価なものへと移っていった。この時計は、紐止め管もなく(明治20年以降の特徴)、文字盤が、秒分メモリすべてが手書きで、針なども含めて明治15年〜20頃の特徴を示す。イージャコットだろう。大川氏から「雰囲気がイージャコットでは?長年の感です」とコメントをいただいた。なお、イージャコットから引き継いだシーベルだが、1899年から、ブレンワルドの死去により、シーベル・ウォルフ(鳳凰2匹とSWマーク)合弁会社となり、ウォルフが死去する1909(明治42)まで続き、その後、シーベル&カンパニー(ヘルマン・シーベル&甥ロバート・ヘグナー・ユバルタ)となり、実に、こんにちまで面々と引き継がれた130年にわたる外国商社である。(シーベル社の扱った時計の刻印は、他に正装馬印、シーベル・ウォルフのSWマーク、フクロウ、楓?マークなどがある。)

 

左は、そのシーベル・ウォルフの時代(18991909)の懐中である(“0800 69186 1”アンクル40o)。文字盤に“Borel Courvoisier”とある。先にも触れたように、イージャコットやシーベルの扱った、ボーレル・クルボアジェ製造会社は、明治28年に、BorelCourvoisierからBorel Courvoisierに社名変更し、この文字盤の表記から、この時計が明治28年以降という事がわかる。ケースの形状がハッピータイムの精工舎ケースとほぼ同じものである。結局、精工舎の商標をつけたあのケースもスイス製ということか?

 

Borel Courvoisier社は、日本だけでなく中国などにもさかんに輸出した。左は、Borrel Courvoisier社から、中国に輸出された懐中の裏ブタに刻印された商標である。「高華士」とある(他にもこのネームの懐中を世界中で時々見ることが出来、中国の有名な商社だったのではないかと推察される)。右のムーブメントの馬のマークは、Borrel Courvoisier社の特徴的な商標として、日本の商館時計に多く見いだせる。裏ブタの刻印の打ち方など、商館時代の、中国と日本の好みの差が表れていて面白い。

 

 

は、ボーレル・クルボアジェ製造会社の、スプリットセコンド(Split Secondで、30分計までついたものである。大変にめずらしい。下の「天賞堂」の広告は、明治29924日付「東京朝日新聞」である。「競争時計」「尚武(武道の精神)国民は最も必要な時計なり。競馬用としては馬上疾馳の間に、其の馳驅の長短を知り、競走用としても亦同様なり。其の短きは数尺敷間、その長きは一里数里、其の経過の時間を容易に表示して毫も差謬あるを無く、且つ大小砲着弾の距離を知るに供し、測量の時分を計るに供し、脈拍を細微に験ずるに供し、汽車汽船の遅速を見るに供して最も確実なる効用を見る時計なり。特に競馬用に適する程なれば、其の制作の非常に堅牢なるは言を俣たずして知るべきなり。所望の諸君は本堂に御来議あらんをと冀ふ」競馬や戦地における砲撃の着弾の計算等に使えると宣伝している。同年のファーブルブラントのニッケル側が14円とあるから、相当に高かったことがわかる。

 

(「商館時計U」へ続く)

 

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