〜世界は、懐中時計から腕時計へ(日本は、精度の頂点へ)〜

日本最初の腕時計プロローグ〜精工舎は、大正に入って日本最初の腕時計を開発した〜

@  SEIKO LAUREL  1913年(大正2年)腕時計(黒文字)127石 精工舎

セイコーローレル(後に出るマーベルの廉価版のローレルとは違う)は、日本で最初の腕時計である。中身の機械をそのままにリューズの位置を改造して懐中時計としても製造。通常の大きさの懐中と比べて小さくて、製造が難しく、当時一日30個作るのが限界(歩留まりが悪く、実際に出荷できたのは、一日15程度と言われている)であった(懐中時計一日200個製造の時代)。カルティエ(ロンジンとも言われる)が世界最初の腕時計を量産したのが1904年(一般に腕時計のルーツは、1812年にブレゲが作ったものといわれる。)。遅れること9年、1913年(大正2年)にセイコーが、腕時計の完全自社製造に成功。国産腕時計の一号機としてローレルを発売。

 

 

 

 

A SEIKO LAUREL 1913大正2腕時計(赤文字)127石 精工舎

12時のところが赤文字の物は世界的に19101920年代に流行していることからその頃の物か流行より少し後の物と考えられる。(よって、上の黒文字が初期で、この赤文字が後期か?)

(→絵葉書『銀座通』:関東大震災前の大正期までの服部時計店この最初の時計塔は、1894年(明治27年)に建てられた初代時計塔である。現在の時計塔は、大正10年着工し、12年の関東大震災で中断され昭和5年に完成し、大戦中一部破損するも、70年の歴史を経て今に至っている。

 

 

 

B SEIKO LAUREL 懐中時計 1913大正2)(婦人用)(ケース37585

LAURELは国産初の腕時計として発売されたが当時は腕時計の人気はまだまだ主流ではなかったため婦人用の懐中時計としても販売された。(赤銅側、18K側やご婦人好みに花や蝶の象眼入りケースのものなどあり。)12型の専売ケースは状態の良いものが少なく現存しているものの中には、バンド取り付けのラグが取り替えられているものも見かける。LAURELMERCY(翌年から出した13型)のラグはサイズ形状が全く同じ物が使用されている。代用社外ケースも12型サイズは数が少なくほとんどが10型か11型の物が多いようです。上記、30個/一日と書いたが、実際には、もっと少ない生産量であったと思われる。当時の懐中時計一日の生産能力は職人一人当たり3個/日が平均で、様々な文献によればローレルは30個/日と書かれたものが多いのだが、実績ではなく、あくまで(目標値)で懐中の生産実績からして職人一人当たり目標値(定数)1個×30人=30個、実績は大正初期頃、達成率2分一の15個がぜいぜいで、もっと少ないかもしれない(倍の目標設定であったわけである)。だから年間でも、数千個という流通量である。

 

 

 

SEIKO Mercy (ケース:0,900 SKS 59312

ローレルに継ぐ精工舎の腕時計がマーシー。ローレルの普及版という位置づけで、ローレルより一回り大きく、懐中では、ワールドやルーラーに類するものである。この後、グローリーが開発され、本格的量産腕時計のモリス型に受け継がれていくことになる。懐中側は、銀の純正のケースで、当時のものである。製造順に通し番号がつけてあるとすれば、内田星美『時計工業の発達』によれば、「マアシ」は、日産3050台(実際は、歩留まりが悪く、その半分以下とされる)として、日産20個/1日(330日)として、年産約7000個ほど。とすれば、このNo50000代のものは、大正3年から製造が始まったとして大正10年前後くらいとなる。なお、ローレルやマーシーについて純正ケースを見つけるのは至難であるとされている。右は、腕時計型マーシーである。

 

 

 

SEIKO chronometer 93/4モリス型 SKS fine nickel 90? S61639 昭和初期1924大正13年〜昭和初期 パリス型ニッケル側)精工舎

当時(大正13年)K.Hattori&Co.「服部時計店」腕時計カタログ:「今回、精工舎で製造致しました9型3/4セイコー腕時計は国産品中最小型で示時は正確。体裁は優美でありますから紳士淑女の御持料として最も適当な品と存じます。」ニッケル側 金一六円 9型が先に開発されたが、翌年1925年(大正14年)に10型も開発されている。なお、戦前の精工舎の腕時計は、大きく分けてネーション型とモリス型とある。なお、一般的に、3番受けに刻まれたSEIKOSHAは、SKSに比べて初期との説は間違いで、むしろ、緩急針の±の記号が、FSに比較して後記を示していると思うべきで、これは、昭和10年以降の後記型と言える。なお、石は、7石が一般的であるが、これは10石。ところで、当時の価格表を見ると、10型が11円、9型が12円、8型が14円となり小さいほど高くなる。(→右も、インデックスが植字で高級感のあるもの。)

 

 

 

 

 

SEIKO Nation 昭和戦前 9

ネーションは、昭和4年(1929)より生産開始。戦前の製品としては一番有名なもの。性能の点ではあまりいい評判はない。青い針。植え込みの数字。またデザインも今に共通する新しさをもったなかなかのNationと思う。日差1分以内。(一口知識:第二次大戦中に国内では24時制の戦時体制が施行され、その際、文字盤に24時表示の加工がされた。そうした物は戦中の物。)ネーションには、9型と10型がある。左記の9型で、10型の次に開発され、10型プレシジョンの出る1939年まで製造?(→右は、ネーション型の別名DAHLIA。ネーション型ではネーションに次いで多く見られる。)

右は、ネーション系10石の別名Empress。(Empressのロゴであるが、トンボ出版のコメントとは違い、当時は文字盤やケースが客の好みに応じてさかんに交換されることがあり、いくつかの文字盤の製造会社があったようだ。例えば、KIN-EISHA(HIGH CLASS WATCH CASE) 、河原商店(◇にTK刻印)、大和精機(FEATHER CASE、二本の羽根刻印)、夏目商店(SUPER WATCH CASE、SDN刻印など)、英光商会(Sマークの左右に羽根)、竹本商店(野球の阪神のロゴようなTSが重なった刻印)、ユーエス商会(USC刻印)で、Empress名は、KIN-EISHAが製造していた文字盤のブランド名の一つと報告されている。なお、KIN-EISHA co.のそれ以外のブランド名には、NOBELFABIANSUCCESSGLORYSALIAVERMAHARMONYNYDOLEMPRESSALMONDFINTERALBERTIMPERIALALPROSASEIKOJUPITERなどがある。よって、トンボ出版の記述を修正するなら、精工舎の保存資料になかったのは、文字盤が他社製であったからである。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<参考>

 ここでは、精工舎以外の戦前の腕時計について挙げておく。

吉田時計「アイコク」

オリエントの前身、吉田時計。昭和10年開業の吉田時計の初代の時計で、戦後型と対照させて戦前型と言われる。他に、ロックル、ロックル・スペシャルなどとペットネームがある。7石、10石、15石がある。これは、10石。ムーブメントにある、いわゆるテンプ型ロゴは、戦前型でも初期型のロゴとされている。吉田時計(オリエント)最初の時計である。

 

 

 

 

 

 

鶴巻時計「センター」&「アジア」

鶴巻時計店英工舎(通称:英工舎)は、1917年(大正6)に鶴巻栄松が、新潟の長岡市で明治30年から営んでいた時計店の出張所を東京上野に開設し卸業を主体に展開しはじめたのが最初。ここを拠点に、大正9年には、時計工場を始め(秀工舎 T.S.U)、大正13年に(株)鶴巻時計店英工舎を設立した。掛時計、目覚まし時計などから製造を開始し、昭和10年に腕時計を開発した。最初の腕時計はASIA(右がそのアジア)、その後、恐らく昭和15年あたりから、CENTER(左)が登場する(他に、異名としてOLTERがある。)。戦後型のプリマ、ニューエイコーなどと区別して、ASIA,CENTER,OLTERは戦前型と呼ばれ、特にCENTERのムーブメントは、スイス製を模倣したと思われ、戦前型を代表するものだ。

 

 

シチズン F-戦前型 Opera

シチズンは、すでに大正7年から懐中時計を生産しているが、腕時計は、1931年(昭和6年)からである。これは、そのシチズン最初の腕時計F-戦前型である(これは、その中でも高級なものにつけられた別名オペラ。ムーブメントにMade in Japan Operaとある。)。特に、ムーブメントに見られる7石の直状紋の仕上げは、発売当初から昭和1桁までの最初期の特徴である。(トンボ『国産腕時計12』)これが、時代を追って、昭和10年頃から円状紋が見られ、昭和13年頃から、さらに奇麗な15石の直状紋などの特徴を見ることが出来ます。

 

 

 

 

 

Thanks 多くの時計ホームページ! *この分野では、たくさんの国産時計を紹介されているホームページのオーナーの方々の文章から学ばせて頂きました。

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