(cache) 〜外国への恐れとあこがれ(国産)〜

 

〜外国への恐れとあこがれ(純国産の時代へ)〜

日本製の懐中時計は、小島健司氏に曰く「明治の時計生産は、模倣に始まり模倣に終わった」(『明治の時計』)と評したが、大正期から昭和にかけてもなお、国産品であることは商品価値を低くするものだった。日本の懐中時計の時代に「世界に誇る」というものは、ついに出なかった・・・

 

精工舎初の懐中時計タイムキーパー

 

精工舎TIMEKEEPER 17 純銀0900 No.170361897年 明治30年〜大正7

P4020006P40200102P5170001いわずと知れた精工舎初の懐中時計である。これは、最初期の20型(明治2931)の1年後の17型(明治30〜大正7年頃製)である。17型には、ダボ押しと竜頭巻き(SEIKOSHA表記あり)の2種類があり、これは、竜頭巻き。この画像の裏蓋内側には商標である三羽の雁の図がある(1820の商標は、牡丹やツバメ。)。受けの形に5種類ぐらいある。すべてシリンダー式脱進機。しかしいずれにしても、この名は、記念すべき精工舎最初の懐中時計である(もっとも、純国産とは言い難く、シリンダー脱進機の部分などは、スイスからの輸入品であるようだ。)。

 

 

 

精工舎TIMEKEEPER 181902年 明治3542年)

003100320035一見、明治期の商館時計に見えるタボ押し、裏ブタ内側ガラスであるが、精工舎タイムキーパー18型である(なお上記17型以外に、最初期の20型がある。)。裏ブタ内側には、商館時計定番の商標もあり、恥ずかしながら、これはどこの商館だろうかと調べ尽くした果てに、精工舎タイムキーバーであることがわかった(たぶん・・・まだ自信がないので誰か教えてください)。さてムーブメントを見ると、これは18型タイムキーパーでも、後期型。前期型は、さらに20型に近い形をしている。なお、ケースのツバメマーク?は、18型タイムキーパーに典型的な精工舎マークと言われるもの。

 

 

尚工舎(シチズン)初の懐中時計シチズン

P7300004CITIZEN SHOKOSHA 15Jewels(ケース : Citizen 211206 STAR)(1924年 大正13年〜

P7300005P73000061924年(大正1312 (発売時の価格1250銭)尚工舎の山崎亀吉氏の国産化への強い意志の下、尚工舎初の懐中時計「CITIZEN 15石」を困難を極めた開発作業の後、ついに独自の設計により完成させた。この懐中の名前は、時の東京市長であった「後藤新平伯爵」に依頼し、市長は永く広く市民に愛される様にと、市民の意味でCITIZENと名付けた。その後、昭和5年5月28日、尚工舎は、R・シュミット商会の助力があり新会社として発足することになり、この懐中時計の名前であった「シチズン」を会社名に取り入れシチズン時計を創立した。天皇が懐から出して自慢したという尚工舎の懐中時計である。15石と、ムーブの飾りは、当時のエクセレントクラスに匹敵する高級感がある(ムーブに、「CITIZEN (☆にSマーク)SHOKOSHA」とある。)。シチズン渾身の懐中という思いが伝わってくる。戦前から戦中にかけて24時間表示が義務つけられて、赤い24時間文字が貼り付けてある。シールで貼ってあるので、アルコール等で簡単に剥がせるが、経てきた時代の重さを想い見ることが出来る。(右葉書「横浜弁天通」〜明治43年に日本からアメリカに出された絵葉書〜横濱弁天通3丁目の「河北時計店」の時計塔。)

 

日本の高級機 エキセレント(Excellent)と、庶民機エンパイヤ

エキセレント(1899〜)は、精工舎が、初代タイムキーパー(1895〜)の次に出した懐中。エンパイヤ(1909〜)が庶民のものとすれば、外国製に対抗することを念頭に作った会心の高級機。大正元年で、一日あたりの生産量が、エンパイヤ200、ワールド150に対して、エキセレントはわずか10個である。これが大正11年になると、エンパイヤワールドなどが700個以上となるのに、相変わらず10個という小生産であった(『時計工業の発達』)。タイムキーパーと比較しても、タイムキーパー銀側625銭の時代に、エキセレントは、7石が1150銭。15 石が14円、image02117石が24円と3かなり高価であった(『明治の時計』)。(参考:巡査給与が、1906年明治39年になってもなお12円であった。)。ウォルサム(12型ロイヤル)を手本(というよりコピー)にしたと言われる。この後、独自開発のワールドやローレルが出るが、評判は悪かった。また、エキセレントは、ウォルサムなどに代わる、(天皇から下賜された)恩賜時計に採用された時計としても有名である(この後、昭和5年からは、セイコウシャ・ナルダンが、エキセレントに代わり恩賜時計となる。)。→右が、その庶民機?エンパイヤ。

 

精工舎最後の懐中時計

P4020004精工舎ZELMA Chronometer 1947年(昭和22年〜)

昭和22年製造開始の精工舎最後(所謂19セイコーを戦前からの継承とみれば、最後の特徴を有したものだろう)の懐中時計。戦前のミニスター等いろいろな部品を使用して設計されている。部品をまぜるかP4020005らゼルマなのか?さだかでない。基本的にはミニスターである。このデザインは腕時計にみられる、戦前から終戦後にかけての流行のデザインである。コロニアル風?セイコー時計資料館のK氏は、「我が社の懐中の中で個人的にとても好きな機械である・・・」とのことである。たしかに精工舎としては完成形なのだろう。

 

 

 

 

 

 

飛行時計

P8140233戦争中、航空機の計器(コックピットの前面部分)の一部としてはめられたものであるが、一部製造段階で、側をはめて、懐中時計とした。P8140239飛行機着地の際の衝撃で天真が折れることが相次ぎ、航空機爆弾首からかけるようになったとも。私がこの時計を手に入れた、東京都あきる野市は、戦争中倉庫が連立し、多く出回っていたという。今では、ほとんど目にすることはない。文字盤には、12時下に「時」と蛍光塗料の漢字で大きく書かれ、メーター類が並ぶコックピットでの飛行中の視認性を高めるためのもので、いかにもという感じである。6時上には、刻みで、「一日巻」「飛行時計」とある。裏側のスケルトンから見える機械には、SEIKOSHA(精工舎)と刻んである。ムーブメントはアンクル式脱進機、チラ付き切りテンプ(テンプの円管二カ所切れている。これは、温度による伸び縮みを防ぐため。)が、巻き上げヒゲ(ヒゲが最後にきゅっと上に上がっておさえてあるような形)。なお切り替えは四つ羽根式(リューズの芯が四角になっていて、その芯をおさえる筒が四方からバネでおさえている)。改造中三針。スモールセコンドの95式に比して100といわれ、100式司令部偵察機に採用されてそのように言われる(100式の採用された他の戦闘機としては、4式戦、4式重爆、キ−94,キ−106などがある。)。これらの戦闘機のコックピットに使用された。また、このように懐中に改造したものは、一説では、昭和20年と21年の2年間だけ生産流通したと言われる。

右の写真は、1944年の写真である。(写真の裏に、1944621日とある。)

後ろに見える航空機は、不明であるが(九九式双発軽爆撃機 or 四式重爆撃機「飛龍」か?)、この時計の時代の生々しい姿を映すものである。爆弾に、「蒋介石に贈る」「一発必中 米鬼撃滅」とある。何かこの時計を手にとると、哀しく複雑な心境になる。

 

 

鉄道時計 19セイコ (31 7238 国鉄) 15石 PRECISION DIAFLEX

PB1500072いわゆるこの19セイコーは、飛行時計などにも見られるが、昭和4年から製造が開始され、戦後も鉄道時計として長く採用され、石数などの多少の変化がみられたが昭和46年(1971年)までの長い歴史をもつ。(なお、PB150003ナンバーは、年号の後、その年ごとに通し番号がつく)

裏ブタ内側に修理表が貼ってある。OHが半年ごとになされている。それも歴史の記録通り、昭和46年で終わっている。静鉄局(静岡鉄道局)とある

なお、鉄道時計とは鉄道で採用された時計であるが、はじめて鉄道で採用されたのは、明治30年(1897)ウォルサム製の時計であった(NATIONAL GEOGRAPHIC「ウォルサム広告」参照)。ウォルサム製の時計は、鉄道院(19071920)、鉄道省(19201946)時代も採用されていたという。(小島健司『おじいさんの古時計』に鉄道時計が詳しく紹介されている。)

下は、昭和16年(昭16 673のもの。日本が戦争に突入した年の19セイコーである。すべてが戦時体制となり時計産業も軍需産業にかりDSCF0952DSCF0953され、物資が次第に乏しくなっていく時代のものである。7石で文字盤は、金属板の上に塗りを施したものと思われる。特に終戦後すぐのものは、どうにか戦渦を逃れた部品をかき集め、金属の質も低く、加工精度もとんでもなく低いものだったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

参考

Happy Time (スイス&精工舎 裏:0.900800 表:兜&576280.900

P7110023PB280010PB280011P7110022Happy Timeは、時々国内でみかける。表フタ裏側の兜マークは、大正期のエンパイヤなどに見られる精工舎のマークであるが、ムーブメントは、スイス製である。精工舎は、明治26年から、懐中ケースの生産を始め、大正に至るまで、もっとも利益の上がる部門となった。そのケースには、スイスからムーブメントを輸入して販売した。そうした時代のものであろう(明治26〜大正)。・・・・この時計についてさらに知っておられる方は、是非、私に教えてください。(『精工舎懐中時計図鑑』のRyuさんから、「HAPPYは17型と16型があるようだが製造会社は不明。精工舎がスイス製のムーブメントを輸入して自社側に組み込んで販売していたものとおもわれるが、詳細は不明。」とのコメントをいただきました。ありがとうございました。

同じく国内のメーカーが自社製品として売ったと思われる、下記は、TAIYO(太陽)

CHRONOMETER  TAIYO (ムーブ: M.ST. 10JEWELS 2ADJ SWISS MADE

Taiyo2Taiyoムーブを見る限り、時代は、大正時代以降だろう。よみうりムック『Theあんてぃーく 5 古時計の世界』で、江口茂氏が、そのコレクションの中で、精工舎以外の時計として、河野時計のパシフィック、村松時計のプリンス、天賞堂レビュー、そのほか、三越、サクラ、浪速、虹などと共に、太陽(TAIYO)を紹介しておられる。大川氏にこんな貴重がコメントをいただいた。「Taiyo銘の時計についてですが、明治期に輸入された時計に関しては初期には、文字盤にもケースにもメーカー名、ディーラー名、及び商標等も記されたものは少なく、後に、時計販売が過当競争になって、他社との差別化の目的で付けられたと考えられるでしょう。消費者に自社製品を簡単に素早く憶えてもらうには、その視覚に、また聴覚に訴えるのが一番で、特に馴染みの薄い英字よりはマーク、耳慣れない英単語よりは日本語となったんでしょう。タイヨーは、なにか日章旗をイメージさせ勢いを感じるし、ホーオーは品位と縁起よさが感じられるし、日本人には至極受け入れやすかったでしょう。タイヨーについては、恐らく昭和に入ってからの時計だと思いますので太平洋戦争の匂いがします。

上記と逆に、日本の会社でなく、外国商館が、いかにも、日本のものという名をつけて売ったものがある。たとえば、Sumo(相撲:シュミット)Hoo(鳳凰:ブルウル)JINRIKISHA(人力車:シュオーブ)などである。

 

(参考)小林時計店懐中箱「東京 DK 小林時計店平野光雄氏は、幕末における江戸の著名な時計師と小林時計店2して、8人をあげているが(『時計事小林時計店1典』「明治、大正における我が国時計産業の概観」)、その中に、「小林伝治郎」がいる。このうち、金田市兵衛と小林伝治郎らは、最も初期の商館時計を扱う時計商となり、後に時計工場を興している。小林は、特に「日本懐中時計製造」(当時、精工舎や林時計などの個人経営の時計工場や、複数の時計商が出資して次々と時計工場が出来た。日本懐中時計製造合資会社は、名古屋の愛知時計合資会社などに並ぶ、複数の時計商による製造会社である。)の設立に参与した。日本の時計産業の草創期、小規模で設立と解散を繰り返した時代の事である。また、同じく平野氏によれば、明治期東京の時計塔は37個あり、そのうち時計店にあった時計塔の中で、八官町の小林時計店本店と日本橋の小林時計店支店の時計塔が、時計商のものとしては東京の最初の時計塔である(明治9年)。(参考:小林健司『明治の時計』&内田星見『時計工業の発達』)

 

<柱時計>

柱時計八角兵庫School house clockOctagon short”)Hayashi Ichibe林市兵衛(文字板240mm高さ550mm360mm ムーブHayashiichibeシールメント:Hayashi Seizo) 八角兵庫:尾(下の振り子部屋)の短いタイプで、もっとも初期の特徴を表すものと一般に言われsP1070005る。時代を追って次第にこれが長くなる。八角合長:頭と尾が同じ長さ。八角尾長:尾が長く明治後期〜大正のもの。)(裏面:”manufactured by I.Hayashi Nagoya Aichiken Japan”雑太郡真野村大字下田 名畑長治郎

 日本の時計製造は、柱時計から始まった。最初の時計は、1875年に、金子元助(金元社)や、篠原右五郎(姫路:播陽時計会社)によると言われる。同じ頃、一大柱時計生産地となる名古屋でも、岡崎(愛知県岡崎市)の中条勇次郎が明治10年代に試作品を作り(二個あるいは、小島健司氏によれば、2ダース。このうちの一つが、精工舎資料館にある。(“(AichikenChujyo Yujiro(中条勇次郎)”のシールがある。)1882年には、林市兵衛が、この中条らの協力を得て、製造を開始したとされる(愛知県時計同業組合「雑書綴」小島健司『古時計』)。そして、一般には、こsP1070002の林市兵衛の作った時盛社が、「明治20年設立された時盛社は、名古屋のみならず、我が国における最初の掛時計量産工場であった。」(『時計工業の発達』)とされるように“日本で最初の本格的時計工場”といわれるのである。精工舎の服部金太郎が、時計産業を興すべく、技師長の吉川鶴彦と見学したのも、この林時計製作所だと言われる。

 さて、このHayashi Ichibe銘のこの八角柱時計であるが、独特の特徴がある。この林時計(時盛社)の時計は、今でも多く見られるが、いくつかの共通した特徴がある。@多くが振り子部屋のドアが横開きであること。これは、下から上に開く形で、当初、林は、セス・トーマスの時計を模倣したと言われているが、まさにセス・トーマスは、下から上ドアの特徴を持っている(左はそのSeth Thomas そっくり!ネジの位置を見ると、一回り大きいのがわかる。)。初期のものと紹介される林時計に、この特徴を見ることが出来る。A振り子部屋の中にある商標の多くが、板面への直接の印刷であり、Hayashi Clock Co.と印刷されていることである。IHayashiなど色々なシールは見受けるようであるが、私は、林時計が商標登録されるのは、明治27年(日の出鶴)と確認されるので、それ以前のものであると推察した。特に、この、創業者の名前をフルネームでつけるという称号の付け方の特徴は、小島氏(『古時計』)によれば、「・・・称号を“服部金太郎 時計品類卸小売”としている・・こういう形式は、服部だけでなく、当時(明治初期)はよくある書き方だった。(“Chujyo Yujiro”銘にも見られる。)」といわれる。(なお、ムーブメントのHyashi Seizoは、当然、明治24年以降の林時計発足以降を示すと考えがちであるが、林は、すでに1886年には、製造に成功し、1887年に時盛社になる前から自宅で製造を開始しており、時盛社になってなお、製造所をどのような名称で呼んだか?どうも様々な史料を見ると錯綜しているように感じる・・だから、必ずしも24年以降とも言えないと思っているのだが・・)B裏書きの(佐渡国)雑太(サワダ)郡の地名は、1878年の地区町村編成で確立し、1890年(明治23年)に府県・郡制がしかれてからは、佐渡郡となって「雑太郡」の地名は消えるので、明治24年以前という事になる。とにもかくにも、以上のような理由から、この時計が、林市兵衛が時計を作り時盛社から、林時計の頃のもので、おそらくは、明治2027(最初の商標登録年)年と推察するのであるがどうだろうか。マリア書房『骨董・緑青』vol.2「古時計」6頁に「林時計(時盛社)の初期の時計」として、@振り子室上下開きのドア、A「Hayashi Ichibe」のシールを紹介しているが(説明は簡素)・・・このシールを実際に見た人が、私のまわりにはほとんどいないので、だれか教えて下さい!→その後、『アンティーク掛時計』:トンボ出版を、お書きになった、戸田如彦氏に、教えていただきました。ありがとうございました。氏によれば、現存するものとしては、時盛社の頃のものとして「時盛社」というシールのついたものが1個だけ確認しているとのことである。また、それは、中条が当初作った機械の特徴である、ガンギアームが90度に位置する特徴を残しているという。なお現在、セイコー資料館にある中条ものは、機械が替わっているとのことである。「Hayashi Ichibe」シールは、初期には白地のものがあり、黒字は後期となるだろうとの予想だと話してくれた。また、シールについては、大量に刷り、長期にわたり利用されたので、s2008_0711画像0020.JPGシールだけでは時代は判別できないとのこと。ただ、全体として、明治20年代後期という事では間違いないだろうとコメントをいただいた!!ありがとうございました。)

 いずれにしても、以上のようなことで、この時計が、明治のはじめに試行錯誤しながら、よちよちと歩み始めた日本の時計産業の草創期のものであることを推察してみると、とても面白い。林市兵衛が、どういう思いで、我が名を冠したか・・・まるで、セス・トーマスとs2008_0711画像0015.JPGいうフルネームに対抗して我が名を、我が時計につけたような・・小島健司氏から、このHayashi Ichibeの時計について、たぶん時盛社か、とにかく明治20年代草創期のものではないかとコメントをいただき、さらに次のようなコメントを下さった。「林は、名古屋では、いわゆるカブキ者で、色々なことをやらかす人間であった。そんな雰囲気を想う」と。またこれは、ウォーターベリーのYeddoと似た、比較的手のこんだもので八角の木組みにも狂いがなく、出来の良さ、気合いを感じる。

 もちろん、以上はあくまで私の私見であって、色々教えて頂いているTimekeeper(Tic)さんなどは、さらに慎重である。わかったら、また訂正します!(Thank youTic”さん!)

 (左上はムーブメントの刻印:“AITIKEN HAYASHI SEIZOAITIKENAが薄くなり、Nが逆になっている。)

 

 柱時計から始まった時計産業は、大阪、京都、東京などへと広がるが、次々に壁に突き当たり、懐中、腕時計と開発を継続できたのは、ほとんど精工舎一社だけであった。(名古屋の時計産業は、合同合併をあまりせず、小規模であり続けたがために、比較的長く存在し得たが。そのかわり、安い物を作って、今でも、いわゆる「名古屋もの」と言われて、あまり芳しくない評価もある・・また、唯一、タカノ時計は、腕時計をつくり、その後リコー時計に引き継がれているので、当時から続く会社として精工舎にもう一社加えるなら、タカノということになるかもしれない。高野は、林時計の一員であり、そこから分かれて作られた会社である。)

 

<置き時計>

〜明治期〜

「ヘソ目」(精工舎)明治32〜昭和20年代

1日本の置時計の、最初の形。いわゆる「ヘソ目」(NO.900/901 BABY ALARM 精工舎)と言われる目覚まし時計。

精工舎が金属製目覚まし時計の生産を始めたのは、明治32or33)年からである(ベルが上にあるヘソ形目覚時計。掛け時計は、明治25年から生産開始。)。真鍮側ニッケルメッキの目覚まし(それ以前は亜鉛メッキの低級品)の分野では、国内市場において、ドイツのユンハンスと激しく競争を展開した。こうして、日露戦争後の明治40年にはついに、掛け時計についで置き時計の分野でも、精工舎(置き時計)の販売量はドイツ製を抜いた。しかし、こうした掛け時計や置き時計に比較して、懐中の分野では、タイムキーパーやエキセレント、エンパイヤなどの懐中時計が生産されるが、懐中の分野での欧米技術の進歩は激しく、とてもついていけない状態だった。私見では、結局、国産時計は、懐中の分野ではついに欧米に追いつけないまま、腕時計の時代を迎えてしまったと思う。腕時計でやっと追いついたと感じたのは、戦後、それも、東京オリンピック後のことであろうと思う。

 

〜大正期〜

「ビー目」(精工舎)(大正時代〜昭和初期)

1「ビー目」と言われるのは、とっても小さな(高さ7センチ程)目覚まし時計。とっても可愛くて、当時の人たちがどんな思いで手にしていたのだろうと思うと楽しい。

 

 

 

 

 

 

 

「角目覚(通称:まくら時計)」 ドイツ「謙信洋行」商館

13明治29年神戸居留地14番、明治34年横浜居留地96番で設立されたドイツ系商社である謙信洋行が輸入した時計で、機械には、「鹿の顔マ−ク German Manufacture REGISTERED WARRANTED」とある。3面ガラスの一日まき。正時・半打ち。大正期。台座幅130mm高さ170mm(手提げ含む)12時下に馬マ−ク。機械にはこの時計は目覚ましベルではなく掛時計のように正時に数打ち半打ちとなっており数修整ツマミもついている。謙信洋行の輸入した枕時計は、他にChina Export Import&Bank-compangnie.のムーブメントのものがある。

 

 

 

 

 

 

 

 

(セイコー時計資料館では、多くの和時計のコレクションが所蔵されている。展示場所を広げて、それらの和時計、また柱時計や卓上時計についても、時計の歴史の研究発展のため、自社製品に限らず幅広く展示して頂けることを願う。)

 

 

 

Thanks Timekeeperさん!)

 

*精工舎懐中時計は、タイムキーパー(明治28:スイスムーブメント一部使用)→セイコーシャ(明治30)→エキセレント(明治32:高級:ウォルサムRoyalモディファイ)→エンパイヤ(明治42:普及品。スイスモーリスのモディファイ。その後、グレートエンパイヤ、ニューエンパイヤなど)→ワールド(大正3:簡素。初の純国産懐中時計)→(ローレル→マーシー:腕時計併用)→ライト(大正5)→ナルダン型(「セイコーシャ」?昭和7:スイスナルダンのモディファイ)→ミニスター(昭和9)→カレフ(昭和16:ストップウォッチ付軍用・鉄道)→19セイコー(昭和5〜昭和30年代まで多様な発展)→ゼルマ(昭和22桐生工場)というのがだいたいの歴史順である。エンパイヤまでは、懐中では、黒字は出せなかったという。タイムキーパーからローレルまでの精工舎を建てあげたのは、言うまでもなく創業者服部金太郎であるが、彼の片腕であり、技術面での立役者は、技師長の吉川鶴彦である。彼は、熱心なクリスチャンであった。初期の精工舎の鶴マークは、技術者鶴彦から取ったものだろうか

 

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