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ベトナム戦争はいろいろな意味で現代戦の基礎ができ上がった戦争です。 特に航空戦では、ミサイル、誘導爆弾といった誘導兵器が使用されたり、枯れ葉作戦の様な化学兵器 を使用した作戦も展開されました。 ここでは航空戦について説明していきたいと思っています。 |
| ベトナム戦争当時の略年表(別ウィンドウで開きます。) |
| [ベトナム戦争について] | --- | --- | --- | --- |
| [トンキン湾事件] | --- | --- | --- | --- |
| [フレミング・ダート] | [ローリングサンダー] | [ラインバッカー] | --- | --- |
| [SAMサイト制圧] | [電子戦機] | [スマート爆弾] | [空対空戦闘] | [北ベトナム空軍] |
| ベトナム戦争について・・・ | |
| アメリカ人の言うところの『ベトナム戦争』は実は1つの戦争をさすのではない。 | |
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| ここでは対北ベトナムとの航空戦について取り上げていきます。 | |
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ベトナムへの米軍の軍事介入は、当時敗退していたフランスの後を継いで介入しました。 ベトナムへの軍事介入は民主化のための介入ではかったわけです。そもそも、ベトナムの指導者ホー チミンが唱えていた内容も共産主義へ傾倒したものではなく、植民地からの独立も求めていたもので した。それがいつの間にやら共産主義対民主主義の様な戦争になってしまったのもベトナムが独立を 求めていた際に東南アジア方面に欧米が関心がなかったことの現れだと思います。 米軍は結局泥沼化した戦局から抜け出すためラインバッカー1,2(1972〜73年に行われた大規模空 爆作戦で、従来攻撃制限をかけていたものを解除した作戦)を発動、北ベトナム政府を和平会談の席 に着かせることでベトナムから撤退しました。サイゴン陥落は米軍撤退後の1975年 |
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| トンキン湾事件[1964.08] | |||||||||||||||||
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米海軍の駆逐艦マドックス(USS Maddox MDD-731)に対して北ベトナムの魚雷艇が攻撃を加えたことにより起こった事件。 本事件は少なくとも2度目の北ベトナム側の発砲はなかったとの見方が強い。 この件は、事件の当初から指摘されていて状況からするとつじつまが合わない部分が多い。 事件当時、マドックスは情報収集任務を実施中で公海上にあったとは言え軍事通信網から通信情報を収集していました。 何れにせよ、この事件への報復攻撃が北側への共産勢力浸透に拍車をかけアメリカの思惑から大きくずれていったことは間違いない。 この事件での報復攻撃には、タイコンデロガ(CVA-14)とコンステレーション(CVA-64)から攻撃機が発進し、魚雷艇基地・POL施設などの攻撃が行われました。 このときの攻撃で米軍初の捕虜となったVA-144(A-4C)のエベレット・J・アルバレス大尉は、この後8年7ヶ月もの間捕虜としての生活を強いられることになりました。 米軍の被害は
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| ローリングサンダー[1965-1968] | |
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ローリング・サンダーは最初の本格的北爆作戦です。期間は長いですが、効果は上げられずに終わった作戦です。 作戦期間中も何度も”爆撃休止”期間を設けたため、その間に北ベトナムは反撃の体制を整えることが出来ました。 米軍としては『爆撃をやめたのだからこちらの言うことを聞け!』ということではあったようなのですが・・・ そんなはずもなく軍事作戦としても完全に失敗した作戦です。休止期間に北ベトナム側はせっせと対空防御網を築き破壊された建造物も修復していました。 休止期間中でなくともハノイ周辺10マイルは攻撃が禁止されていたため攻撃禁止エリア境界付近にSAMサイトは集中配備されハノイ攻撃の際には必ずSAM の応酬を受けました。 米軍の交戦規則では明らかに攻撃された物の判明しない限り反撃もできす、反撃した際にもその真偽を確かめるべく基地上層部までも巻き込んでの査問が行われるなど制約があり実際に攻撃されたパイロットでさえ反撃は敬遠する傾向にありました。 この作戦は結局たいした戦果もあげることが出来ずに終わってしまいました。 現在米軍が徹底的に空爆を行うのはこの作戦の経験によるものと思われます。
北爆の主役F-105D サンダーチーフ本来超音速で核爆弾を敵地に投下するのが目的だった。 単座型のD型は通常爆弾またはAGM-12ブルバックミサイルを装備して攻撃任務に当たった。 複座のFは改造を受けSAMサイト制圧用として活躍、最終的に後述する"Wild Weasel"のG型へと改造された機体がSAMサイト制圧に活躍している。 対地攻撃任務が多かったため損害も多く生産機数の半数以上がベトナムの空で失われている。 |
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| ラインバッカー[1972-1973] | |
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米軍最後の大攻勢がこの”ラインバッカー”です。 北ベトナム政府を和平交渉のテーブルにつかせるために行った作戦。 B-52の導入・聖域(攻撃禁止区域)の排除・目視確認なしでのMiG撃墜の許可等(実際には目視での機種識別を強いられた場合の方が多い)これまで散々縛りつけていた規則を解除した作戦です。 特に1972.05.10の空中戦では、海軍のランディ・カニンガム大尉がベトナム戦争初のエース(5機撃墜)となり、後に空軍で初のエースとなるスティーブ・リッチー大尉が1機めのMiGキルを記録しました。 カニンガム大尉の最後の相手は北ベトナム空軍のエース、米軍ではトーン大佐(またはトームと訳している資料もある。)で激しい空中戦を繰り広げました。 トーン大佐は、GCIの帰投命令を振り切っての挑戦だったそうです。(GCIの無線傍受により確認) トーン大佐の乗機として有名なのがMiG21PF(機体番号:4326)が有名ですがこのときはMIG-17を使用していました。 北ベトナムのベテランパイロット達は新鋭機のMIG-21より小回りが利き接近すればF-4が装備していない機関砲で戦えるMIG-17の方を好んだそうです。 MIG-17は朝鮮戦争で使われたMIG-15の発展型です。 |
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| SAMサイト制圧"Wild Weasel" | |||||||||||||||||
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低空ではAAA、高射砲、SAMという様に高度に応じて使い分けられていました。 これらの対空防御網を制圧するために考案されたのが "IRON HAND"で、通常電子妨害機を伴い対空レーダ網を撹乱、"IRON HAND"機が攻撃しレーダーおよびミサイルサイトを破壊するという物です。 攻撃を行う"IRON HAND"機に選ばれたのはF-100Dでした。このミッションは機種の違う航空機で同一ミッションをこなす必要があったため、単独機種で可能な様に専用機を必要としました。 攻撃隊に先立って敵地に侵入し対空防御網を破壊もしくは無力化(レーダー照準による射撃を制限する)のがその任務で、"Wild Weasl"のパイロットは航空団でもトップクラスの腕を持つ者が選抜されました。 F-105の複座型のF-105Fを改造し、最終的にまとめあげられたのがF-105Gです。 |
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右にSA-2による米軍機の撃墜率を示す。数値的には大きくはないが、この数値イコールSAM が防空網として有効に機能しなかったということではない。撃墜に至らなくてもくても攻撃目標への攻撃を阻害することが出来れ防御側としては戦果としては充分である。攻撃側はすべて回避した上で攻撃目標に到達し攻撃しない限りは戦果にならない。しかも当時の米軍では攻撃した対空防御設備を特定しなければ反撃すら出来ずかなり手をやいた。稼働前に破壊するということが出来なかった。 開戦時にたいした防空網を持たなかった北ベトナム軍が米軍に対抗しうる防空網を築き挙げることが出来た最大の理由でもある。 余談だが、米海軍のA-6パイロットにはこのミサイルを1ミッション中に16発を回避しきったパイロットもいる。 |
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【SA-2 Guideline】 全長:10m、直径:0.5mの地対空ミサイル。射程距離:30km。 アメリカはベトナム戦争でもこのミサイルの驚異に曝されることになる。パイロットは『空飛ぶ電信柱』と呼んだ。 SA-2による米軍機の撃墜率は戦勝初期の1967年では1機撃墜するために平均55発を発射、最終的には約100発を発射している。特に1972年のハノイ・ハイフォンの爆撃の際にはチャフ・ECMのにより150発と大幅に増加している。 写真はトランペッターの1/35:SA-2で、ミサイル本体とランチャーのみのキット。他に運搬車とセットの物も発売されている。 |
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【AGM-45 シュライク】 シュライクミサイルはAIM-7スパロー空対空ミサイルをベースに開発された対レーダーミサイルです。 SA-2 のファンソンレーダーのレーダー波を探知して誘導されます。 着弾までにレーダーをOFFにすると誘導されない・射程が短い(12km)・破壊力が小さいといった欠点があります。 1991年の湾岸戦争では新型AGM-88がレーダーサイト破壊に使用され効果を上げていますが、ごく少数シュライクも使用されたようです。
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【AGM-75 スタンダード】 艦対空ミサイルの”スタンダード”より改造されたのがこのミサイルです。 シュライクの欠点であった射程距離が延長され、B型からは標的のメモリーが可能になりミサイル発射後レーダーをOFFにしてもメモリーされた標的に誘導することが可能になりました。 空軍ではF-105Fの改造機またはF-105Gが主に運用しました。海軍ではA-6イントルーダーが運用可能でした。 ミサイル本体が大型なため搭載機種が限られていました。ベトナム戦争当時ではF-4の改造機には搭載できずスタンダードが装備可能になったのはベトナム戦争後F-4Gが開発されてからです。 F-4Gは湾岸戦争で実践投入され、最後の"Wild Wesel"専用機(あくまで本来の意味での)として活躍しました。 |
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モノグラムのF-105Gを製作中・・・。 モノグラムのキットなので手間がかかりますが、プロポーションなどはしっかり捕らえたいいキットだと思います。 |
【F-105G ThenderChef"Wild Wesel 4"】 ベトナム戦争で活躍した"Wild Wesel"専用機で、全てF-105Fからの改造機です。もともとF-105FはF-105の練習機として開発されましたがあまり芳しくなく『練習機』としては重宝されませんでした。危険なミッション下で操縦と複雑な電子システムを扱うことから複座機であることが望ましくまた搭載重量も大きかったためF-105Fは SAMサイト制圧ミッション専用機として改造されることになりました。 |
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| スマート爆弾 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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ベトナム航空戦で実践投入され成功を収めた兵器に"スマート爆弾"があります。 TV誘導方式の "WallEye"とレーザー誘導の"PabeWay"がこれに当たります。 前者は数十マイルの滑空距離を持つ誘導爆弾でこれを元に開発されたのが現在のマベリックミサイルです。 後者はMk80系列の通常爆弾にレーザー誘導ユニットと安定翼・制御翼のキットを取り付けた物でWallEyeの様な滑空距離は持っていません。 ベトナム戦争当時の数値で命中率70%で半径3mの円内に爆弾を命中させることが可能。 タン・ホア橋、ポール・ドーマー橋の破壊に使用されたのが有名です。 |
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【GBU-10,12,16レーザー誘導爆弾】 Mk.80系列の通常爆弾にレーザー誘導キットを取り付けた爆弾。 高い命中精度をもつが有視界でしか投下できない、レーザー照射を行う機体が対空防御に対して脆弱といった欠点がある。 これらの発展型で弾頭部分に徹甲弾を用いたのがGBU-24で更に貫通能力を高めたのが後に”エンデューリングフリーダム”や”イラク・フリーダム”で使用されたGBU-28"バンカーバスター"です。(バンカーバスターという呼び名自体は武器貯蔵施設の破壊を目的に貫通能力を高めた兵器の総称) その他、推進力を追加したスキッパー型等のバリエーションがある。 ベトナム戦争では1972年より実戦に投入され、これまで破壊しきれなかったタン・ホア橋、ポール・ドーマー橋を破壊するなどの戦果を挙げている。
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【ペイブナイフ】 レーザー誘導爆弾を使う際に使用するレーザー照射ポッド。初期の物でかなり大きく、重量もある。このため装備すると重量アンバランス・形状抵抗の大幅な増加を招いた。 |
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【ペイブウェイ】 ペイブナイフを小型軽量化した物。F-4の場合は通常AIM-7用のラックにアダプターを介して装備する。 |
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【AGM-12 Bullpup】 スマート爆弾の登場を促したのがこのミサイルで、このミサイル弾頭ではタン・ホア、ポール・ドーマー鉄橋(ミサイルを跳ね返すほど頑丈だった)の破壊は出来きなかった。 誘導方式は発射後ミサイル後部から発せられる煙の軌跡を目安にパイロットが無線でコントロールするというもの。通常弾頭タイプと核弾頭搭載タイプがある。 当然のことながらベトナムで使用されたのは通常弾頭タイプのみ。
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【AGM-62 Wall Eye TV誘導爆弾】 海軍が開発したTV誘導爆弾で、推進力は持たないが数10km程の滑空距離を持つ。このため型式は空対地ミサイルを示す"AGM"がついている。 弾頭先端のカメラが捕らえた映像に誘導される。爆弾投下後も弾道の微調整は可能。マベリックミサイルのベースになった。 |
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| 空対空戦闘 | |
| 空中戦記録比較表(米・北ベトナム)(別ウィンドウで開きます。) | |
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ベトナム戦争当時の空軍は『ミサイル万能』の考えのもと、従来の空中戦(ドッグファイト)は行われることはないということで慢性的なパイロット不足、空中戦が可能な戦闘機(F ナンバーの機体)は皆無に近い状態だった。 幸いF-4ファントムのみが比較的低い翼面荷重を持ち推力重量比も当時としたは最高の水準を持っていたため空対空戦闘もこなせたような状況でした。 ただし、初期型ファントムは固定武装として機関砲を持っていなかったため空中戦では不利とされた。(機関砲装備のF-4Eの配備が始まるのは戦争後半にはいってから) また、機関砲を不要とした要因の一つでもあった空対空ミサイルも故障率が高く半数以上が正常に機能していなかった。(乗員の操作ミスも多かった。)更に一方的に架した交戦規則によりほとんどの場合視認による確認が必要で。目視確認の出来る距離ではミサイルの最短射程(発射されてからアーミング状態(誘導可能な状態)になるまでの距離)くらいの距離なのでかなり困難な戦闘を強いられたと思われます。 |
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| オペレーション・ボロ[1968] | ||
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北ベトナム空軍は、爆撃機に対して迎撃を行い撃墜出来ないまでも爆弾を投棄させ”安全圏”である空港に戻る(米軍の交戦規則により軍用の空港であっても攻撃することが出来なかった)という戦法をとっていました。 このため8TFSのオルズ大佐の発案による"オペレーション・ボロ"が行われました。この作戦は、F-4の4機編隊をF-105の爆撃機の編隊に仕立て上げMIGをおびき寄せて撃墜するという物でした。作戦自体は成功でオルズ大佐自身もMIG撃墜を果たしています。大佐は基地指令という立場にありながらも戦闘機に乗って実戦に参加しています。ベトナム戦中にあった事件(事件そのものは『BAT21』という題名で映画化されています。)により現在はこのような高位にある将校が実戦に出ることは無くなりました。 この作戦自体は多くの戦果を挙げましたが、戦闘機の撃墜に多くの戦闘機を導入した点ではこの作戦の是非は問われています。 地上で撃破することが出来ればこの作戦の様な苦労はなかったでしょう。 現在の米軍では、このような軍事施設は攻撃対象から除外されることはないでしょう。 |
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【F-4C Phantom II】
オルズ大佐のMiG撃墜スコアをインテークベーン書き込んだF-4Cファントム オルズ大佐の撃墜スコアはベトナム戦争中4機で1972年に海軍のランディ・カニンガム大尉が5機撃墜をはたすまでトップスコアとなる。 ベテランパイロットが空中戦になると手強かった実例の様なもので、統計的なデータでも実証されている。 ただし、撃墜される確率自体はベテラン・新人共に大差はないという結果が出ている。 |
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| 空軍の戦果 | |
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空軍ではベトナム戦争当時『戦闘機』はもはや不要という考えが浸透していたため戦闘機乗りの養成はほとんど行われなくなっていました。主に戦略爆撃機のクルーの養成が主となっていました。 朝鮮戦争の当時は、第二次世界大戦で戦ったパイロットが数多くいたため性能で劣るF-86でMiG-15に勝利することが出来ました。 しかし、ベトナム戦争では本格的なジェット戦闘機など導入して間も無い北ベトナム空軍に苦戦を強いられることとなりました。 前述のオルズ大佐のように基地司令官自ら戦闘に参加していたのもパイロット不足が主な理由でした。(志気の向上ということもありますが・・・) ラインバッカー作戦の頃ともなるとある程度状況は改善されたようです。 |
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| 米空軍のF-4C Phantom IIと北ベトナムの新鋭機MiG-21PFの比較 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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空中戦で主に使用されたのは米軍ではF-4 Phantom II 、北ベトナム空軍は数の多い順にMiG-17,MiG-21,Mig-19といった機種を使用しました。 このうちMiG-19は中国製と見られています。 北ベトナム側の空中戦の主役はMiG-17(ベテランパイロットはこの機種を好んだらしい)でしたが、ここではMiG-21PF Fishbed Dと 空軍が戦争初期に使用したF-4C Phantom IIの比較をします。 |
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F-4C Phantom II [Macdonell Douglass] VS. MiG-21PF Fishbed D[Mikoyan-Gurevich]
MiG-21はF-4に比べてずっと小柄な機体なのがわかる。米軍機は多用途で高価な装備になる傾向が強くソ連製の機体特にMiGは単一機能を重視している。 MiG-21は加速性のよさや高高度での性能では F-4を凌駕しかつ空対空ミサイルも装備出来た。 空中戦での性能差は、低空でF-4高空でMiGに分があったようです。 F-4Cは最初の空軍型ファントムで、海軍のF-4Bに空軍の要求により最小限の変更を施した機種でほぼB型と同じ機体と考えていい。後に主に対地攻撃能力を向上させたD型、写真偵察型のRF-4C、機関砲装備型のE型へと発展していく。空軍にとっては当初押し付けられたような形で導入することになった機種ではあるが、汎用性の高さを買って本家の海軍より多く装備することになった。 F-4ファントムは米空軍では1996年にF-4Gが退役し全て退役している。 両者は”西側”、”東側”のベストセラー機でF-4は5000機以上(西側のジェット戦闘機で5000機以上の生産機数を誇るのは5機種しかない)MiG-21 は1万機以上生産され現在でも現役で使用されている。 |
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【F-4D Phantom II 66-7463 "MiG killer"】 "MiG Killer"の中で最も有名になったのがこのF-4D(Ser No.66-7463)だろう。 3軍の中でも6機の撃墜スコアを持つ機体は本機のみ。空軍初のエース スティーブ・リッチー大尉の乗機でもあった。 写真は5機撃墜時点でのマーキングを再現した物。ベトナム戦後は嘉手納基地に配備され6個の撃墜マークも当時より大きく書かれていた。 現在は退役し空軍博物館に展示されている。 |
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| 海軍の戦果 | ||
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海軍では戦勝初期最新鋭のF-4ファントムのキルレシオがF-8に劣ることを分析し(オールト・レポート)1969年に"TOP GUN"を開校し、空対空戦闘訓練を強化しました。その成果が現れたラインバッカー作戦では北ベトナムに圧勝しています。それ以前は特にF-4のパイロットは苦戦していたようです。F-8は"MiG Master" とも呼ばれるようになりました。 海軍の例ではジェット戦闘機MiG-17にレシプロ機攻撃機A-1Hが勝利を収めるという特異な空中戦が行われました。 しかも、不意打ちによる撃墜ではないうえに1度ならず2度の勝利かつ空中戦での敗北はないという・・・。 A-1Hは主に南爆またはRESCAPに使用されMiG撃墜の際はRESCAPについていました。 |
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【F-8E Crusader】 "MiG Master","Last gun fighter"等の異名をもつクルーセイダーはベトナム戦争全期間でMiGが交戦を避けた機種だろう。(F-8による最後の"撃墜"は射撃前にMiGのパイロットが脱出した) 初期においてはキルレシオ8:1とF-4のキルレシオを大きく上回る。 |
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【A-1H Skyrader】
エド・ハイネマンの傑作A-1Hスカイレイダーは1夜にして作られた航空機といわれている。 ベトナム戦争では攻撃機のジェット化が遅れていたために投入され、主に南爆・RESCAPミッションに従事した。 写真の機体はMiG-17と4対4の空中戦の末MiG-17を撃墜した機体。RESCAPミッション中にMiG-17の襲撃を受けこれを返り討ちにしている。 スカイレイダーの撃墜例は他にVA-25もMiG-17を撃墜している。 タミヤ[1/48 :A-1H]特に主張していないがMiG-17撃墜時に使用された機体のデカールがセットされています。他に空軍仕様のA-1も発売されている。 南爆やRESCAP(コンバットレスキューに向かう救難ヘリの護衛任務)で活躍。 |
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【A-4C Skyhawk】
エド・ハイネマンの”ホットロッド””スクーター”等と呼ばれたスカイホーク。 スカイホークでの唯一のMiG撃墜例がVA-76のA-4Cによるもの。 本来対地攻撃用のズーニーロケットを温存させておいて迎撃に上がってきたMiG-17を撃墜したもので、撃墜例としては冷遇されている。 この撃墜例の後自分もMiG を撃墜しようと武器を温存するようになり、本来の任務を充分に果たせない例が増えたらしい・・。 撃墜したスワーツ少佐は後に腕を買われ”トップガン”の教官に抜擢されている。 ハゼガワ[1/48 :A-4C]通常版ではなく限定しようで発売された物でVA-76の機体が再現できる。 |
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| 米海軍のF-4J Phantom IIと北ベトナムのMiG-17Fの比較 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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空中戦で主に使用されたのは米軍ではF-4 Phantom II 、北ベトナム空軍は数の多い順にMiG-17,MiG-21,Mig-19といった機種を使用しました。 このうちMiG-19は中国製と見られています。 北ベトナム側の空中戦の主役はMiG-17(ベテランパイロットはこの機種を好んだらしい)でしたが、ここではMiG-17F Fresco Cと海軍で使用されたF-4J Phantom IIの比較をします。 |
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F-4J Phantom II [Macdonell Douglass] VS. MiG-17F Fresco C[Mikoyan-Gurevich]
F-4Jはパルスドップラーレーダーを持ち当時の戦闘機としては初のルックダウン・シュートダウン能力を持っていた。 海軍は最後まで機関砲装備型のF-4は装備せず”ボブノーズ”ファントムのみを使用した。 生産型はB,Jの2機種のみだが実際には細かな改修を行ったため同じ方でも若干仕様が違っている。 海軍では1986年にミッドウェイ乗艦のF-4が退役し海軍から姿を消している。(ターゲットドローン機などの特殊な物を除く) MiG-17は朝鮮戦争で使用されたMiG-15の発展型でF型(ベトナム戦争で使用されたMiG-17はほとんどこのタイプ)になるとアフターバーナー付きのエンジンを装備し短時間ならアフターバーナーの使用が可能になっていた。 23mm機関砲2門と37mm機関砲1問を持ち、CGIの指示により米軍の攻撃隊の背後に回り込み奇襲攻撃をかけ攻撃隊が反撃に転じるか護衛戦闘機が向かってくると”安全地帯”に逃げ込むまたは巧みに強固な対空砲火網のある陣地に誘い込むといった戦法を得意とした。 MiGから積極的に空中戦に参加したことはめったにない。 海軍のカニンガム大尉によれば、”MiG-17は最も空中戦で撃墜するのが困難な機種”といっている。(カニンガム大尉はベトナム戦争中MiG-21:1機,MiG-17:4機の撃墜記録を持つ。現在はアメリカ上院議員だったはず・・) |
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【F-4J Phantom II "Showtime100"】
CVW-9所属VF-96のCAG機。ラインバッカー作戦中の1972 .5.10TERCAPミッションで出撃、3機のMiG-17を撃墜するがSAMの至近弾を受け墜落。 搭乗していたランディ・カニンガム大尉・ウィーリー・ドリスコール中尉は機体を捨ててベイルアウトする羽目になった。 カニンガム大尉の最後の対戦相手は北ベトナムのエース”トーン大佐”だといわれている。 ランディ・カニンガム氏の著書"Fox Two"(和訳されグリーンアロー社より出版されていたが現在は不明)に当時のことは詳しく述べられている。 |
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【F-4B Phantom II 】
CVW-所属VF-51の機体。VF-51は海軍で唯一F-8 ,F-4の両機種で撃墜スコアを持つ飛行隊。この派手なマーキングはF-4装備になってから。 本機はベトナム戦中酷使されたため痛みが激しく後にF-4Nとしてよみがえることなくスクラップとなっている。 |
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| 北ベトナム空軍 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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トンキン湾事件当時の1965年8月時点では、北ベトナムには航空兵力は皆無に等しかった。 米軍の行った報復攻撃”フレミング・ダート”により北ベトナム側はソ連・中国に協力を求めさまざまな軍事援助を得ることになった。 結果的にアメリカの行動が北ベトナムへの共産勢力浸透を更に推し進めた。(本来は共産勢力の浸透の阻止が目的だった。) 北ベトナム空軍は数の多い順にMiG-17,MiG-21,Mig-19といった機種を使用しました。 開戦当初はジェット戦闘機など皆無でしたが、アメリカが一方的に敷いた交戦規則によりジェット戦闘の配備、対空ミサイルをはじめとする対空防御兵器の導入を進め米軍と渡り合えるまでになっていました。 北ベトナム側が採用したソ連式の防空網は強固で米軍はかなりの苦戦を強いられています。 また、AAA,SAM,MiGの連携も絶妙で米軍の北爆をより困難な物にしていました。 MiG-17は特にベトナム戦争全期間で活躍し多くの戦果を挙げています。 米軍機と比べるとずっと簡素な作りで時代遅れの機体の様ではありますが、最高で7機撃墜のエースパイロット(Nguyen Van Bay) を輩出しています。 また、米軍との最初の交戦では軍杯はMiGの方に挙がり勝利を収めています。 当時使用されていた機体は、アメリカ戦争犯罪者博物館等の博物館に展示されています。 |
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【MiG-17F "Fresco C"】 北ベトナム空軍の代表的な機体。7機の撃墜スコアを機首に書いた北ベトナム空軍のエース搭乗の機体といわれている923rd所属の3020号機。 この機体の様にダークグリーンの迷彩(パターンは決まっていないようだ・・・)または無塗装の機体を使用し米軍に挑んだ。 MiG-17は朝鮮戦争でも使用されたMiG-15の発展型。 武装は固定武装として23mm機関砲2門、37mm機関砲1門を持つ。 MiG-17Fはアフターバーナー付エンジンを搭載した最初の型で、短時間ではあるがアフターバーナの使用が可能だった。他にレーダー搭載型のMiG-17PFも配備された。 小型(第二次世界大戦中のの戦闘機サイズくらい)で小回りが利くため最も撃墜が困難な機種であった。 |
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【MiG-21PF "FishBed D"】 "トーン大佐"の使用機といわれている13機の撃墜スコアを書き込んだ MiG-21。 MiG-21はAA-2”アトール”を主兵装とし一撃離脱を得意とした。 高空での加速性はF-4を凌駕し、機体サイズも小さいので発見は困難だった。 撃墜スコアの13機は米軍の空中戦での損害の約2割に当たりこの機数はプロパガンダだろうといわれている。 撃墜スコア13または14個を書き込んだ機体も他に存在する。 |
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