◆◆幸運の青いスワスチカ◆◆
カール・グスタフ・フォン・ローゼン伯爵

Carl Gustaf von Rosen
(1909〜1977)








△エリック・フォン・ローゼン伯爵のツーリンD型。この彼はこの機体でフィンランドの独立戦争に馳せ参じた。
「幸福の黄色いハンカチ」だと高倉健さんであるが、青いスワスチカ。スワスチカとは早い話鈎十字、→「卍」のことである。

 およそ60年ほど前に、挫折した画家志望のチョビ髭オーストリア人がいろいろと余計なコトをしてくれたお陰で、今やろくでもないイメージのマークになり果てていることは、皆さんご存知の通り。
 お陰で今や「卍」マークがついているだけで規制の対象。ドイツ空軍機のプラモですら、現在では尾翼に描かれているマークが目立たないように構図に注意が払われている有様だ。
最近では、「ナルト」の日向ネジの額のマークが、本来無関係であるのにアニメではただのクロスに差し替えられてしまったことが記憶に新しい。

 しかしこの青いスワスチカは実はフィンランド空軍の識別マークであり、かの国においては国の独立を維持したシンボルとして、格別の意味を持っている。
 だが、昨今の規制のせいで目にする機会も少なく、このマークの背景にある物語も、日本では殆ど知られていない。なんとも残念なことだ。

 そもそもなんでフィンランドはこの「卍」マークを識別マークにしていたのか?これにはあるスウェーデン貴族が大きく関わってくる。……予め断っておくが、実在の人物である。

 時に1916年。
 ロシア革命をによりロマノフ王朝は倒れ、レーニン率いるボルシェビキが取って代わったものの、国内戦やら諸外国の干渉戦におおわれまくっていた時期のこと。旧帝政ロシア領であったフィンランドは悲願であった独立を果たすべく、名将グスタフ・マンネルハイム将軍率いる白衛軍が共産軍と熾烈な独立戦争を戦っていた。

 しかし、戦いはフィンランド側の劣勢。
 スウェーデンをはじめとする北欧各国は隣国の窮状を座視するに忍びず、武器弾薬や義勇兵を送り込むなど援助を惜しまなかった。
 その一方、もはや辛抱溜まらず、個人の資格・私費でフィンランド軍の戦列に加わった人々もいた。

 その中に血気盛んなスウェーデンの貴族がいた……彼の名は、エリック・フォン・ローゼン伯爵。
 十字軍騎士の流れを汲み、スウェーデン王室との繋がりも深い彼は、

「騎士は自ら馬を駆って、窮地にある人々を救うものだ!」

 と、当時まだ実用化からさほど時間の経っていなかった飛行機・ツーリンDを私費で購入、自ら操縦して戦場に現れたのだ。

 その時に彼が翼に識別マークとして描いたのが、この「青いスワスチカ」だったのだ。エリック曰く、

「これはローゼン伯爵家に伝わる、幸運のシンボルなのだ」

ということだった。
 なにしろ当時のフィンランドのこと。他に飛行機などあるわけもなく、エリックは偵察やら銃撃やらまさに獅子奮迅の働きぶりで前線にあり続けたらしい。
 そして地上のフィンランド軍兵士達は、翼に鮮やかに描かれた青いスワスチカを見上げるたびに大いに勇気づけられたという。

「おう、見ろ!また伯爵が飛んでるぜ!!」

 そうして長い戦いの末に1918年5月内戦は終了。ソ連邦は1920年12月14日、やむなくフィンランドの独立を認めて平和条約を締結ることとなる。
 エリック・フォン・ローゼン伯爵は祖国に帰っていったが、フィンランドは常に前線で戦い続けた彼の功績を忘れず、感謝と敬意をこめて彼の幸運のシンボル・「青いスワスチカ」を全軍の識別マーキングとして制定したのであった。

 ……とまあそうしたわけで、ナチス党がかのマークを採用する以前からフィンランド軍はこのマークを使っていたわけだ。

 しかし、ローゼン伯爵家のフィンランドとの関わりはまだ終わらない。































△伯爵が購入したオランダの複座戦闘機・コールホーフェンFK-52。複葉で複座の古めかしい戦闘機で、オランダ軍でも不採用になって保管されていたシロモノなのだ。







 1939年、ソ連邦はフィンランド独立によって失った領土を取り戻すべく、国境付近に共産主義者による傀儡政権を作りフィンランドに戦争を仕掛けてきた。一般に「冬戦争」として知られる戦いの始まりだ。
 あきらかなソ連の侵略に対し、国際世論は沸き立ったものの英米などの大国の姿勢は煮え切らず、国際連盟がソ連に対し警告を発するもののスターリンが耳を貸す筈もない。
 フィンランド軍総兵力を遙かに上回る兵員に機械化部隊に強大な空軍まで動員したソビエトに対し、フィンランド軍は明らかに劣勢であった……。

 そんな状況にまたもや血を沸き立たせたスウェーデンの貴族がいた!……エリック・フォン・ローゼン伯爵のあとを継いだ息子、カルル・グスタフ・ローゼン伯爵である!
 フィンランド独立のために自ら飛行機を駆って戦った父の勇気に倣い、彼もまたフィンランドの窮地に駆けつけようと考えた。

 しかし、父がフィンランドに出撃してからはや20年。さすがにただ飛行機で行けば良いというものでもない。飛行機の性能もあがっているし、前回のツーリンDなんて複葉水上機ではただの足手まといだろう。かといって最新鋭の戦闘機なぞ、いかに伯爵の威光をもってしても手に入るものではない。
 そこでローゼン伯爵はどうしたのか?

「民間機に武装させて飛んでいこう! 」

 伯爵はアメリカのダグラス社の旅客機DC-2を購入、天井をぶち抜いて旋回機銃座をつけ、座席を全部撤去。主翼と胴体に爆弾架をとりつけてしまった。これでロシア人達にちょっとした爆弾の雨を一発お見舞いしてやろう、と言うわけ。

 更に伯爵は怪しげな手管を駆使して戦闘機を二機購入。これで戦爆連合、一丁あがり! ロスケの戦闘機が出てきても怖くない!
 ただ、その戦闘機というのが、 オランダ空軍で不採用になり、長らく倉庫に埋もれていた複座複葉戦闘機・オランダのコールホーフェンFK-52という、聞いたことのない戦闘機。ハッキリ言って性能はゴニョゴニュであり、そもそもこの世に存在する機体はこの2機ポッキリという、絶滅危惧種みたいなシロモノなのであった。……ホントに大丈夫なのか伯爵?

 そうして編成したものの、伯爵のDC-2は改造に手間取り、2機のKF-52が先に前線に送り込まれる形となり、早くも伯爵の戦爆連合計画はほころびを見せ始める。
 いよいよと伯爵がDC-2と共にフィンランドに到着したときにはすでにFK-52はどこぞの前線へ張り付けられていて護衛戦闘機ナシ。鈍足の旅客機のみで白昼攻撃をかけるなど単なる自殺行為であろう。
 それでも勇気と血液の温度に不足が無い伯爵、いささかも戦意を萎えさせない。

「戦闘機がいないなら、払暁攻撃をかけちゃる!!」

 まるであきらめないのであった(ナンだか宮崎駿の『雑想ノート』に出てくる安松丸のもの狂いオヤジみたいだ)。
 1940年2月夜、伯爵のDC-2は単機で出撃離陸する。 素人にしてはうまい具合にソ連基地上空に到達、低空から爆弾投下! 改造もムリヤリな上に(爆撃用の照準装置が無い)、操縦しているのも素人。何を爆撃したのやらさっぱりわからない。
 しかし、タイミングが良かったのかまったくの奇襲となり、ソ連軍の迎撃機は1機もあがってこず、しかも追撃機に捕捉されることもなく、伯爵のDC-2は無事に帰還。成果は……まぁアレだったが、無事爆撃行を終えたのである。
 この時も、伯爵のDC-2の翼には「青いスワスチカ」が描かれていた。

結局、フィンランド対ソ連の冬戦争自体は第二次世界大戦の終結に伴い両国の間で講和条約が結ばれることとなる。

しかし、ローゼン伯爵の戦いは終わらなかった。


△伯爵がビアフラに持ち込んだサーブ社のプロペラスポーツ機・MF1-9B。主翼下にミサイルポッドが見える。


















△ビアフラ空軍所属機として行動中の一葉。ビアフラに持ち込んでから、機体を塗装しなおしたのか?





 戦後彼はエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの招きで空軍の近代化の任務についたあと、スウェーデンの民間航空会社「トランスエア」で長く旅客機のパイロットとして勤務していた。もう、DC-2で爆撃行などは若き日の思い出となり果てようとしていた(と思う)1967年、またもやローゼン伯爵の血を滾らせる事件が起こる。

ナイジェリア内戦、俗に言う「ビアフラ独立戦争」の勃発である。

この内戦の勃発に至る経緯はあまりにも長くなるので詳述は省かせていただくが、北部部族を中心とするナイジェリア連邦軍のビアフラに対する封鎖と飢餓戦術は凄まじく、ビアフラ側に多数の餓死者が発生していた。

 そんな光景を見て黙っている伯爵ではなかった。

 彼はスカンディナビア教会派の組織した救援団に上級パイロットとして参加。飢餓に苦しむビアフラへの食料と医薬品の空輸作戦の責任者となる。この時既に60歳だった(この時孫もいた)のだが、伯爵の血はなお熱い。 自ら操縦桿を握り地面すれすれの低高度でDC-7を飛ばしてナイジェリア軍のレーダー網をすり抜けてビアフラへの食糧輸送に尽力する。……そんな無茶な飛行をしていたのは彼くらいのものだったが、そうでもしなければビアフラに食糧を届けることが出来なかったのだ。
 しかし、そんな食糧空輸を続けても連日餓死者が増え続けるビアフラの惨状。一度に運べる量も人口に比べて圧倒的に足りない。ごく一部、陸路で国際赤十字が送り込んでくる支援食糧が入って来ることがあるが、途中ナイジェリア連邦軍の手が加わるために、ビアフラ側は警戒して口にする者はいなかった(ナイジェリア連邦軍側は支援用の小児用粉ミルクにまで毒を混ぜていたと言う証言がある)。

遂に伯爵は決断した。

「……もはやこの惨状から人々を救うためには、ナイジェリア側の空軍戦力を片づけるしかない!」

考える人はいくらもいるとは思う。だが、ローゼン伯爵はそれを素晴らしいバイタリティで本当に実行に移してしまう。

無論、スウェーデン王室と関係の深い由緒正しい貴族と言っても、さすがに最新鋭の戦闘機なぞ手に入れられるはずもない。
しかし、伯爵にはかつて民間機を改造して実戦参加させた実績があり、その経験は今回も活かされることとなった。

今回はサーブ社のプロペラスポーツ機、MF1-9Bに目をつけた。これはスポーツ機といっても小国での軍事利用を想定した機体で、翼下に300キロ用のパイロンやロケットランチャーも装備可能なのだ。
本来、国際的に承認されていないビアフラに飛行機を売ってくれる国は無いのだが、ローゼン伯爵はまたもや怪しげな手管を発揮。ストックホルムにあったタンザニア大使館を窓口に、「タンザニアにパイロット養成学校を設立するために、MF1-9B5機を購入したい」と、輸出交渉を開始。本来軍用機ではないので、スンナリ輸出許可が下りると、今度はその機体をフランス空軍基地に空輸して武装を搭載する小改造を施した上でタンザニアへ……向かうはずだったが、途中でローゼン伯爵は

「実はタンザニアの養成学校は一時的にガボンに移転するので機体はそちらに運んでくれ」

と輸送業者に連絡。そこで降ろされた機体を「テスト飛行」と称してローゼン伯爵とその同志達が操縦してそのままビアフラへ持ち去ってしまったのだという。
……なんちゅーか、マッコイじいさんを彷彿とさせる手際の良さだ。前回のコールホーフェン戦闘機の時と言い、貴族を廃業しても多分ブローカーとして喰っていけそうな気がするなぁ。

伯爵らは1969年5月22日に最初の襲撃を敢行。レーダーに写らない地面すれすれを飛んでナイジェリア空軍基地に到達、ミグやらイリューシンやらを ロケット弾で破壊して気勢をあげる。更に同じ日にもう一度襲撃を行うという熱のいれっぷりであった。……もしかしたら、かつての「冬戦争」での経験が活かされていたのかもしれない。
しかし、5回ほど襲撃しただけで伯爵は参加をとりやめることになってしまう……本国にバレたのだ。
やむなく伯爵は帰国。その後もMF1-9B編隊は僅かな戦力で善戦敢闘を続けるものの、秘密基地が発見されてしまい、ビアフラ空軍は再び泡と消えたのであった。

かくの如く、フィンランドでビアフラで、民間機をムリヤリ改造しては個人の資格で勝手に戦闘に加入、

「義を見てせざるは勇なきなり!騎士にも非ず!」

を実践して世界を巡り続けたカルル・グスタフ・フォン・ローゼン伯爵。彼はその後も信念を変えることなく縦横無尽に世界を駆けめぐったらしい。

そんな彼の戦いが終わりを告げたのは1977年11月13日のことであった。
彼は当時酸鼻を極めていたエチオピア内戦において、軽飛行機による飢餓民への食料投下「エチオピアの爆撃」に従事していた。 そのために飛来したゴーデの街で、たまたまその町を襲撃したソマリア人ゲリラに襲われて死亡したという。

享年67歳。

いざ彼の一生をかなり大雑把であるが振り返ってみると、なんだか出来の悪い娯楽小説の正義の味方のようだ。しかも彼はどんな戦いでも無給のボランティアであったということも付け加えておく。

私は、彼のような人物はもっと多くの人々に記憶されるべき人物であると思う。彼の翼を守った「幸運の青いスワスチカ」と共に。