兵器外観
名称 改造三八式野砲(改造38式野砲)
[Type38 Field Gun]
型式
製造国 日本
製造メーカー
配備国 日本
製造初年 38式野砲:1907年(明治40年)制定
改造砲は、1925年(大正14年)に試作され、昭和のはじめごろ採用
口径 75 [mm]
口径比
砲身長 [m]
全長 移動状態:約4.9
射撃状態:約5.2(仰角0deg)
[m]
全高 移動状態:約1.4
射撃状態:約1.5(仰角0deg)
[m]
全幅 約1.6 [m]
全備重量 1135 [kg]
腔綫 有り
砲身材質
砲身命数 [発]
閉鎖機 水平鎖栓式右開き
平衡機
駐退複座機 有り
最大駐退力 [kg]
後座長 1200 [mm]
照準具
上下射角 -8〜+43 [deg]
水平射角 左右各3.5 [deg]
最大射程 10700 [m]
装薬
公算誤差
砲口初速 520 [m/sec]
発射速度 最大20 [発/min]
砲弾 ・三八式野砲および改造三八式野砲用弾薬は下記の通り
九四式榴弾
九〇式榴弾
十年式榴弾
九〇式尖鋭弾
榴弾乙
九〇式鋼製銑榴弾
十年式鋼製銑榴弾
八九式鋼製銑榴弾
九五式破甲榴弾
榴弾甲
三八式榴霞弾
九〇式榴霞弾
九〇式焼夷弾
九〇式照明弾
九〇式発煙弾
操作人員 第2次世界大戦中の日本軍の砲兵連隊(師団砲兵)の編成を参照。 [人]
布設所要時間 [min]
説明  本砲は、ドイツのクルップ社設計の野砲で、日本陸軍では、明治40年(1907年)6月に、38式野砲として制式制定された。38式の呼称の由来は、最初の一門が日本に届いたのが明治38年8月であったことから、その年号を記念して決まった。当初はクルップ社からの購入の形で導入され、その後、大阪砲兵工廠で製造された。本砲の特徴は、当時としては、最新の技術であった砲身後座式を採用したことである。砲身後座式とは、射撃の衝撃を緩和させるため、砲身のみが後ろに下がり、駐退機で衝撃を吸収し、復座機で砲身を元の位置に戻す構造にのことである(詳細は、大砲の構造「駐退機・復座機」を参照)。砲身後座式を世界で初めて採用した砲は、1897年にフランスで開発されたが、フランスでは、この砲を極秘として、技術情報を外部に漏らさなかった。遅れること5年の1902年に、ドイツでも同方式が開発され、デュッセルドルフの博覧会で展示された。おりしも日露戦争中であった日本陸軍は、1904年(明治37年)11月にドイツのクルップ社に砲身後座式の野砲を発注したが、日露戦争には間に合わず、その後、仕様を一部変更して、本砲が出来上がったのである。
 その後、列強各国では、第1次世界大戦を経て、野砲の高性能化がなされたが、日本もこれに追随するために、野砲の更新が求められた。しかし、コストおよび更新に要する時間の関係から、本砲を改造する案が採用された。改造では、甲乙丙の3つのタイプが造られた。当初は、砲身長を伸ばし、高仰角がとれるように砲架を改造した丙型が改造38式野砲長として採用されたが、すぐに、砲身はそのままで、高仰角がとれるように砲架を改造した甲型(改造38式野砲短)が採用され、こちらが量産された。この改造により、射程距離および操作性が向上したが、後座する砲尾が脚に衝突しないように、脚の中央に穴をあけたため強度が低下し、信頼性が大きく低下した。改造を施された本砲は、改造38式野砲として、太平洋戦争を通して使用された。
 構造は、砲身の下に駐退復座器を配置し、は単脚、閉鎖機は水平鎖栓式右開き、防盾がついていた。弾薬は、固定弾である。移動は、3頭の馬で牽引した。
参考文献 ・「大砲入門」 著者:佐川二郎 光人社NF文庫
・「日本の大砲」 著者:竹内昭、佐山二郎 出版協同社
備考 写真は、お兄軍曹殿提供。自衛隊武器学校にて撮影。
作成
更新 2004/07/19

 

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2001.8.25更新 榴弾砲format_v0.5