「共同体主義」⇒「個人主義」⇒「決断主義」(⇒「共同体主義」)

『ゼロ年代の想像力』を読んで考えたこと、本論です。

下のメモ書きでは「決断主義はナチズムの別名としても使われた」という内容を書きましたが、少しこれを俯瞰して考えると、近代史というのは、共同体主義⇒個人主義⇒決断主義(⇒共同体主義)のジャンケンなのではないか、ということに思いあたります。このそれぞれの項に、たとえば1930年代のヨーロッパでは、カトリシズム⇒プロテスタンティズム⇒ナチズム、が対応していたのではないか、と。

「共同体主義」においては、貴族主義的に組織化された(ある程度小規模な)共同体があり、そこでは個々人はコミュニティ内の階層に応じて啓蒙され自己実現することとなります。次に、その共同体主義の息苦しさから、個々人の平等と自意識に基づいた内面的自己実現を掲げる「個人主義」が立ち現われます。さらにその後には、いったんバラバラにされた個々人が自己の「権力への意志」を基に政治的自己実現を試みる「決断主義」が台頭します。そしてこの「決断主義」への反省から、ふたたび「共同体主義」が回帰する。そのようなループが近代史(個人的には現代も近代の延長線上だと考えています)において、幾度となく様々な場所で繰り返されていたのではないか、というのが私の認識です。

 

また、少し補足するなら、「共同体主義」には、「原・共同体主義」と「再帰的・共同体主義」があると思われます。前者は、「土着の」/「小規模にまとまった」/「自然発生的な」/「宗教的な」共同体を掲げ、後者は「あえて人為的に作った」共同体を肯定します。後者は近代に特有のものではなく、歴史上幾度となく再帰的・共同体主義は復興していたものと考えられます。原始キリスト教や原始仏教などについても、「土着の共同性に対するアンチとして発生した再帰的共同体だったのではないか」、という説はよく目にするものですね。

 

これら三つの立場のうちどれが正しくてどれが間違っているということを論じたいのではありません。そうではなく、これら三つはそれぞれがそれぞれに対して批判的な三項関係をなしている、ということを考えてみたいわけです。

共同体主義は、個人主義と決断主義を、「独我論」「ファシズム」と呼びます。

個人主義は、共同体主義と決断主義を、「貴族主義」「暴力主義」と呼びます。

決断主義は、共同体主義と個人主義を、「封建主義」「孤立主義」と呼びます。

ただ、現代の文化状況というのは、それぞれのプチ文化圏ごとに、この三項のループが回っていて、それらは位相も周波数もズレているのではないか、というのが自分の感覚です。

 

惑星開発委員会『PLANETS』最新号のテーマの一つでもあるらしい、「過剰流動性」についても、同様の三項関係が描けます。詳しいところは宮台真司研究で書きましたが、「過剰流動性」とは、もともとマクロ経済の用語であり、マネーサプライを指す単語であって、「過剰」という部分にネガティブなニュアンスはあるものの、それ自体は良いものでも悪いものでもありません。流動性が低すぎると経済が回らないし、流動性が高すぎるとバブルになる、というだけのことです。流動性が低すぎれば、金融を緩和し非関税障壁を削減するし、逆に高すぎれば金融を引き締める、それだけのことです。

 

社会学のジャーゴンとして援用した場合の「過剰流動性」も、それ自体は良いものでも悪いものでもありません。「社会の過剰流動性」が高すぎれば、ゾーニング(障壁)の強化による引き締めを行い、逆に低すぎれば、規制を緩和しゾーニングを弱める、というフィードバックが望ましい、というだけのことです。ただ、近代史において、

1.過剰流動性の時代が来る! というアナウンスの段階

2.「適切なゾーニングが必要だ」と政策提言をする段階

3.「行き過ぎたゾーニングは問題だ」と批判する段階

宮台真司研究

が1⇒2⇒3(⇒1)と繰り返されてきたというのが、私の認識です。この三項は宮台真司の場合は、

1.「援助交際」に代表される匿名の個人の流動化を,明るみに出そうとする.(「過剰流動性が良い」と断言してはいなかったと思う)

2.松文館裁判の前半

3.松文館裁判の後半

に対応します。そして、それぞれが、1:「決断主義」、2:「共同体主義」、3:「個人主義」に緩く対応すると思われます。

 

このようなジャンケンから推察するに、次の手は、共同体主義なのではないか、と思われます。落しどころはゾーニングのなし崩し的肯定となることでしょう。(これはあくまで私の個人的推察ですが)

しかし、そうすると、次に問題となるのは、いかにして中間管理職の正当性が証明されるのか、という部分です。絶対的権力としての王が死んだことを既に殆どの人々が諒解している。しかし、それは中間管理職が不要となることを意味するわけではありません。王ではなく "master of zone" がいかにして正当性を得るのか、それが再帰的共同体主義の根本的問題です。だから大塚英志は、決断主義の吹き荒れたバブルが崩壊した直後、1992年の時点で、「そこ(消費社会)では一見,差異をつくり出す仕事がエラソーに見えるが,むしろ問題は誰がその構造を管理するかにある.(中略)要はぼくたちに管理職になるカクゴがあるかどうかである.」(『終わらない消費社会』)と述べたわけです。

いかにして中間管理職とゾーニングの正当性が担保されるのか、というのは、社会学的にも非常に面白いテーマなので、なかなか興味があるのですが、それについてはまた今後機会のあるときに。今考えているところでは、宮台真司流(エリート主義、エリートがゾーンを規定する)、大塚英志流(オレが中間管理職だ、オレがゾーンを決める)、内田樹流(主体自身の語りがそれを証明する)、東浩紀流(人間のいないソフトウェア的な管理)の四手法があります。

 

以上、自分の問題意識を書き出してみました。読者の皆様のご参考にしていただければ、幸いです。あと、以下は個人的感想。


「となりの夜神月ライトさん」の被害者にならないために〜サバイブ社会に対応する方法〜

夜神月的なキャラクターが、現代の子供たちにはウケる、という論旨を読んだとき、私が思ったのは、「みんなが夜神月になりたがってるわけじゃない」ということでした。そして、誰もにそんなスキルがあるわけでもないのです。

個々人が自己の政治的洗脳スキルを駆使したサバイブバトル、という世界観(ラノベ的誤用ではない辞書的な意味での「世界観」ね)は、ここ10年だと岡田斗司夫の『ぼくたちの洗脳社会』あたりを嚆矢とします。この岡田斗司夫の議論にも感じるのですが、人はどうしてそう簡単に、自分が洗脳する側に立てる、と思いこめるのだろうか? というのが、長らく私の疑問となっております。

(余談ですが、その岡田斗司夫が、「世代毎に階層化された共同体主義(貴族主義)」へと回帰し、それを明言しているという事態は少し興味深いものがあります。これもまた「決断主義⇒再帰的・共同体主義」の一側面なのかもしれません。)

むしろ、人々の大多数は、洗脳される側にいて、しかも「あなたは洗脳する側の人間だよ」という洗脳を大々的に受けているのではないか、という危惧が私にはあります。本当に洗脳されている人間が、自分は洗脳されているとは思わないのと同様に、自分が洗脳する側に立てると妄信できる人間が本当にそのような立場にあるかは疑わしい、と思うわけです。そして、人を洗脳するのは人だとは限らない、とも思っています。システム化された管理、ソフトウェア的なゾーニング、もまた、人間の顔を持たない洗脳装置として働きます。

だから、(社会)批評の役割は、「いかにして洗脳する側に立つか」ではなく、いかにして無意識的な洗脳を明らかにするか、ではないか、と思うのです。それが、私がダブルバインドやアディクション、といった問題にここ一年ほど拘っている理由です。

現実にはデスノートは落ちていないし、現実にはホリエモンになれるだけの天性のセンスを持った人間もいない(それゆえに、フィクションに対する分析と、社会に対する議論とは分離しなくてはなりません)。だから、サバイブ社会において重要なのは、となりのライトさんの被害者にならないために、適切にライトさんたちの洗脳手法を見破り、それをネタバレし、適度にライトさんを利用して、彼が破滅する前に遣り抜けるスキルなのではないか、と個人的には思います。

もちろん、「僕は○○の神になる」と思うのも個人の自由ですよ。

 


「ゼロ年代の想像力」に対する批判者のためのメモ書き

「ゼロ年代の想像力」(宇野常寛、『SFマガジン7月号』)に対する批判がウェブ等にも現われてきたが、その多くがその批判の身振りによって批判対象の主張を正当化してしまうという罠に陥っているように思われる。したがって、それらの批判者に考えるためのヒントを与えるため、いくつかの論点を書き出しておくこととする。以下は、「ゼロ年代の想像力」を読んだ方に対して書いているので、「ゼロ年代の想像力」そのものの解説は省略する。

作品と社会の関係の直接性は、著者の文章中では証明されていない

当然ながら、作品が「セカイ系的である」「決断主義的である」ことと、受け手や社会が「セカイ系的である」「決断主義的である」こととが直接相関するとは限らない。もしそのような直接的な相関性を書き手が前提化するのであれば、そのような直接的な相関性(それこそが「決断主義的」な世界観でもあるのだが)を批判者があらかじめ内面化してしまったということになる。ただし、ここに拘泥すると後の論旨が全て無意味になってしまうので、仮に、そのような直接的な相関性については、ある程度正しいとした上で以下のメモ書きを続けることとする。

 

「決断主義」という言葉は、そもそもネガティブな意味あいを内包している

「宇野常寛は決断主義を正当化している。これは許せん!」というような批判(あるいはそれの裏返しとしての「自分は決断主義的世界観の中で以前から生きてきているよ」という申し開き)を見かけることもあるが、そのような批判や申し開きこそが罠に嵌った想定済みの応答である。というのも、そもそも「決断主義」という言葉自体がネガティブな意味合いで使われてきた文脈を持つものであり、著者には「決断主義なんて言葉を本気で肯定的に使うわけがないじゃないですか?」というアイロニカルな言い逃れが用意されているからである。このネガティブな意味合いとは何かというと、社会学や近代思想史において「決断主義」という言葉がときとしてナチズムの別名として使われてきた、ということである。たとえば、プロテスタンティズムからナチズムが生まれた過程を分析した『ドイツロマン主義とナチズム』(ヘルムート・プレスナー)を参照

 

自身は「決断主義」を全肯定する者ではない、としながらも、著者の政治的身振りは「決断主義的」ではないか?

「人はそもそも差別的に生きるしかないのだ」的な主張(もちろんそれをストレートには言わないようにしているのは、著者のレトリック能力の高さによるものだが)を政治的に正当化しようとし、また自己のイメージ戦略をパワーゲーム的に操ろうとする著者の身振りは、いかに彼が「自身は「決断主義」を全肯定する者ではない」と担保を取ろうとしたとしても、決断主義的な行動化ではないだろうか?

 

あなたが決断主義に憤ることそれ自体が、決断主義を正当化してしまう

決断主義的、パワーゲーム的世界観とは、「人は自分の正しさを政治的なパワーゲームによってしか正当化できない」というものである。である以上は、あなたがたが「決断主義が正当化されるのは許せん!」という憤りを公開することこそが、そのような憤りに基づく政治的パワーゲームを行動化しているという点において、決断主義を正当化してしまうのである。

 

君の宇野常寛への反駁においては、「新しい感性」を支援せよ

そして、上記のような「そのような憤りが出てくることが私の説の正しさを証明しているのだ」という論法は、イデオロギー的な言い方である。

いずれにせよ、ジジェクが指摘したように、近代社会のイデオロギーは、まさにこの歪みを利用して人々の批判精神を麻痺させる。「君は僕を批判するようだけど、そのような批判が出てくることそのものが僕が正しいことを証明しているのだ」というのが、イデオローグの典型的な詐術である。その詐術の論理は、二〇世紀の前半にカフカによって見事に文学化された。 (東浩紀『文学環境論集 journals』p752)

では、カフカに倣ってこう書いておこう。「君の宇野常寛への反駁においては、「新しい感性」を支援せよ」と。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な感情論に流され、「ゼロ年代の想像力」に反駁するとともに、そこで肯定的に引き合いに出されている諸作品までをも否定してしまうという罠に陥っている人も散見されるようだが、そのような「諸作品までをも否定してしまう」という態度こそが、文化をパワーゲーム的に利用していることの証左になってしまうのである。諸作品は諸作品として、独立に評価しなくてはなるまい。

 

 

(補遺)「プロテスタンティズムからナチズムへ」

『ドイツロマン主義とナチズム』によれば、プロテスタンティズムからナチズムが生まれる過程は、こう説明される。高度資本主義による世俗内権威の崩壊と、プロテスタンティズム的な内面志向が結びついたとき、カトリシズムを背景とする「貴族的教養階層に合わせた啓蒙主義」は衰退し、「世俗については政治家のなすがままにさせる」という無関心性が強められる。しかし、教会なき終末論――この終末論は、ニーチェやマルクスにも見られるものである――は温存され、この教会なき終末論の下に、ナチスが台頭する。つまり、「プロテスタンティズムではヒトラーを止められない」わけだ。

さて、それでは仮に、「貴族的教養階層に合わせた啓蒙主義」が「プロテスタンティズム」を批判するために「ナチズム」を利用するのだとすれば、その行為はいかにして正当化されるのだろうか?