参考:
惑星開発委員会の善良な市民(宇野)氏を批判する(2006年9月)
「ゼロ年代の想像力」に対する批判者のためのメモ書き(2007年6月)
「共同体主義」⇒「個人主義」⇒「決断主義」(⇒「共同体主義」) (2007年6月)
惑星開発委員会の宇野常寛氏について、彼が前提知識としている認識の恣意性についての指摘と、方法論的な問題について述べたいと思います。
さて、まずは宇野常寛氏の「セカイ系」認識の恣意性を指摘しておきます。
『ゼロ年代の想像』」の最初の四回は、【セカイ系】=「引きこもり」VS【決断主義】=「引きこもっていたら殺されてしまうから戦う」という対比と、いかに前者が時代遅れであるかの指摘に費やされております。そして、後者はオタク文化にも見られるものの、それがTVドラマや文芸の分野よりも一歩遅れていると言わんばかりの言及が目に付きます(c.f. 「美少女ゲームや一部のライトノベルレーベルといった特定の閉塞したジャンルでは、まるで時代の流れについていけない貧弱な知性が逃げ込むようにセカイ系が生き残り続け」:『SFマガジン 7月号』p96)(c.f. 「このジャンル横断的な潮流(引用者註:バトルロワイヤル的世界観やスクールカースト小説のこと)は、ゼロ年代前半においてはあくまでライトノベルと美少女ゲームにのみ生き残っていたセカイ系的想像力よりはるかに広範で大きな支持を受けており、さらにその内容においても、これまで見てきたようにセカイ系を含む九〇年代後半の想像力の問題意識を無効にしてしまったと言える」:『SFマガジン 9月号』p162)さて、それでは、「ここ十年のオタク系批評」の想像力というのは、本当にそれほど偏ったものだったのでしょうか。
ここで、セカイ系という言葉の誕生時に生じた、ある【ねじれ】を考えてみたいと思います。セカイ系という言葉は2002年の秋に、ウェブサイトや同人誌で使われ始めました。そこで最初にイメージされていたのは、(揶揄的な意味で)「たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向」(参照:ぷるにえブックマーク)のことであり、端的には西尾維新作品を指していました。(『セカイ系』という語が最初に使われた同人誌は、西尾維新関係のものであったと記憶しています)
さて、この揶揄語としての『セカイ系』には、「秩序の崩壊したセカイで勝手な倫理観の持ち主の特殊能力者たちが、バトルロワイヤルを繰り広げ、好き勝手に「セカイは……」と語っているような作品」という文脈がありました。核戦争で世界が荒廃したのにケンシロウが出てこなくて、勝手なザコ悪人が跳梁跋扈しているようなセカイ、というような表現もされていました(余談ですが、当時は「モヒカン族」というネットジャーゴンが誕生する以前です)。「ゼロ年代の想像力」の読者の方ならピンと来るでしょうが、この揶揄語としての『セカイ系』は、むしろ宇野常寛氏のいう【決断主義】に近い意味があったのです!
この「セカイ系」概念の黎明期、2002年から2003年にかけてのどこかで、【ねじれ】が生じました。つまり、(初期の意味での)『セカイ系』≒(秩序崩壊後の)【決断主義】という言葉から、サバイバルバトルの意味あいが脱臭され、「きみとぼく&セカイ」という「社会中抜き性」が前面化されてきたわけです。
その【ねじれ】の過程で、批評家たちの作為が働いたことについては、自分は否定しません。その部分の告発は宇野常寛氏にお任せしようと思いますし、必要とあれば私も被告人席に座る用意はあります。ただ、オタクメディアやオタク文化そのものには、何の非もないと私は言いたいわけです。
『セカイ系』という言葉が、その誕生時にすでに【決断主義】を内包していたことからも分かるとおり、(2007年時点での意味における)「【セカイ系】から【決断主義】へ」という言い方は、それを歴史的変遷として見ること自体において誤りだと思うのです。その両者は時代的に変遷したものではなく、殆ど機を一にして同時発生した――内面からの「内破」を試みれば【セカイ系】になるし、あえて(自己を根拠として)戦えば【決断主義】になる――だけのことだと思われるわけです。
さて、階層秩序の崩壊したセカイにおいて【セカイ系】的な内面志向を打ち破るためには、JoJo的・カードゲーム的なルールに従ったサバイブバトルを提示する必要がある(あった)、というのは『ゼロ年代の想像力』第3回の主張でもあるわけですが、この指摘はすでに6年前になされています。拙文で申し訳ないですが、私は2001年に、所属していたサークルの冊子に以下のような文章を載せました。
「青春小説的な味」の終わりなき日常が、実は世界の危機の上に成り立っていること、そのセンチメンタリズムを空虚な独我論へと頽廃せずにサバイブするためには、天下一武道会的ジャンプイズムやツリー的階層秩序列は無力である。「お前は本当は何もできないんだ」という超越からの押しつぶしに対し、「青春小説的な味」のラブコメにすら逃避できなかった者は、自閉してしまう。そこに対するオルタナティブは、『JoJo』的な「ルールに従って運用される特殊能力を用いたロジカルな戦い」である。ツリー的階層秩序の頂点にいるものは冷戦に勝利できても、新たな戦争をサバイブすることなどできない。
「ブギーポップの遺伝子について」p109
これは『セカイ系』という言葉自体が世の中に存在していなかった時代の文章です。そのため、「「青春小説的な味」の終わりなき日常が、実は世界の危機の上に成り立っていること」と長々と説明しなくてはならなかったわけでして、近年の批評家は便利なタームを使えて全く楽なことだなあと思います。ここで私が参照しているのは、「河出スクールカースト文学」などではなく、当時創刊されたばかりの富士見ミステリー文庫の諸作品(特に、あざの耕平『Dクラッカーズ』)です。この原稿で書いた論旨は、私の個人的想像力で書かれたものではなく、オタク文化に詳しいサークルのメンバーとの話の中で実感をもって形成されてきたものでした。
以上のことからも、【決断主義】や「サバイブ感」はオタクメディア的想像力が見落としていたものではなく、(「先行した」とまで過大評価はできないまでも)他の諸文化圏と平行してオタクメディアにおいても立ち現われていたと言えるでしょう。
『ゼロ年代の想像力』の――さらには宇野常寛氏の社会論の――着地点は、「分相応」や「身の程」に合った共同性における自己実現、ということになるでしょう。その大枠は、これまでにも何度か語られています。
こういうことを言うのはおこがましいけれども、僕は世間にも社会にも世界にも自分の生活から出てきた理由の分だけ、身分相応のアクセスをすればいいと思う。
自分が元気になったり、ウットリしたいからと言ってきちんと踏むべき段階をすっ飛ばし、いきなり天下国家やセカイそのものにアクセスするのは安易でしょ。
悪いけど、キャラ売りに煮詰まったオトコノコがPCの前で日本民族や憲法9条の素晴らしさを連呼したり、日記のテツガクごっこでウットリきたりしても、それは本来踏むべき段階を踏まないという点では同質だし、結果として空疎なものでしかない。意味の備給装置としてはもうちょっとマシなものがあるんじゃないかって思うんだよね。
しかし、「分相応」や「身の程」というのは、非常に危険な言葉だとも言えます。というのも、いったん、俗流ポストモダン的な意味での、階層秩序の無効化と島宇宙化が進んだ後で、そこにあえて「分相応」や「身の程」といった価値観を持ち込むのだとすれば、その「分相応」や「身の程」をいったい誰が定義するのか? という問題が立ちはだかるからです。そこを論じない限りは、「分相応のアクセスをすればいい」という言い方は、マジックワード「分相応」を使っているだけで、何も言っていないように思われます。「分相応」を定義する方法論として、現在考えられるのは以下のようなものです。
自分の「身の程」は自分で証明しろ(決断主義)
この客観的な偏差値ヒエラルキーの中でお前は「身の程偏差値」○○だ(エリート主義)
お前の「身の程」はオレが決める(管理者特権)
あなた自身がどう思っているかで決まります。それはあなたの言動が証明します(問答法、内田樹など)
あなたの「身の程」はシステム上の計算によって決まります(ソフトな管理社会)
もし彼が「サバイブバトルに勝ち抜いた奴が決める」と言うのならば、彼は結局のところ決断主義者なのだ(その決断主義性が「その他大勢」には見えないようにカモフラージュされているだけで)ということにならざるを得ないでしょう。
宇野常寛氏の方法論において、「愚かな反論をさせることによって、『これだからバカな読者はダメなのだ。彼らに善政を敷くのは自分しかいない』というアピールを行なう」というやり方が多用されていることを、私は何度も指摘しています。
あなたがたが「決断主義が正当化されるのは許せん!」という憤りを公開することこそが、そのような憤りに基づく政治的パワーゲームを行動化しているという点において、決断主義を正当化してしまうのである。
こうして反論しようとした人間は,「自分はそんなに極端な人間ではないよ」と言おうとしたはずが「このような性質が少しも無いだなんて言わせない」と微妙に論点をズラされた形で再反論されてしまうのである.
宇野:(噴き上がってしまう人間に対して、思想や教養が矜持を持たせることができるのではないか、という私の問いかけに対して)惑星開発委員会に怒り狂っちゃうような人間は,そのレベルまで行けないんですよ.
トリエント公会議出張版(『PLANETS Vol.2』)
この部分は何度でも言っておかないと、「ゴキブリホイホイ論法」に引っかかってしまう純朴な人が量産されてしまうので、再び指摘しておくことにします。この夏に一部で話題になった、『最新オタク・マスコミMAP』(「サイゾー」2007年8月号)に関してです。『最新オタク・マスコミMAP』は見開き2ページの記事ですが、オタク作品や作家・評論家をいつものように直行二軸で分類し、「勘違いロック中年」、「ゼロ年代対応ゾーン」などとレッテル貼りしたことで話題になりました。
私がこれを読んだときに思ったのは、ああ、また「この程度のものに怒り狂っちゃう人間」を炙り出そうとして、不毛なゲームをやってるなあ、という感想でした。それと同時に、ああこれは、「腹黒紳士」を地で行ってるなあ、とも思いました。
「腹黒紳士」というのは、大英帝国時代のイギリスが植民地支配において多用した方法論です。植民地において現地人の批判が統治者に向けられると困るので、対立する部族それぞれを時に肩入れし時に攻撃することでマッチポンプ的に民族対立を煽り、自らは善良な調停者の役を演じる、というやり方のことを言います。
『最新オタク・マスコミMAP』が狙っていたのも、その「腹黒紳士」的な民族対立の煽動にあるのではないか、と私は想定しています。自らを中心(言うなれば、キプロスの停戦ライン上のような場所です)において、様々な「派閥」の存在を既成事実化し、彼らの対立を煽る。そして、反論する人たちが出てくるのを待ち構えては、「かくして現代は、自らの立ち位置を守るために個々人が、『噴き上がってでも』戦わなくてはならない、決断主義的な時代なのです」と言って白々しくも自説の補強に使う。そこまでのシナリオがあまりに見え透いている、と私には思われました。彼の今後の動向を見守る必要があります。彼がいつ、温厚で善良なる調停者の仮面を被って介入してくるのか分かりませんが、そのときには「あなた二枚舌ですよ」とはっきり言ってあげる必要があるでしょう。
宇野常寛氏の社会批評における、【セカイ系】や【シャカイ派】といった語の意味づけや、それをめぐる主張は、私と宇野常寛氏との対談第3回 困ったちゃんVSイイコちゃん問題に簡潔にまとめられています。
振り返ってみると、この対談では私は宇野氏の論点を先取りしようとして、彼のシャドウを演じる、という状況にありました。白状してしまえば、私にとってトリエント公会議とは、相手にNGワードを言わせるゲームであったわけです。私が個人的に想定していた、宇野氏側のNGワードとは、「迷惑をかけられる勇気を持て」です。「【決断主義】的に生きざるを得ない」ことを主張し、そこに向かって間接的にであれ動員をかけるのであれば、自分で手を下したことの証拠くらいは発言として残してくれ、と思っていたわけです。
しかし、「何が迷惑であるかのルールは事後的に決まる(ような社会に移行しつつある)」(だから迷惑をかけるな的倫理観は無効!)と言いつつ、彼の小市民性は、「迷惑をかけられる勇気を持て」というフレーズを巧みに回避しました。その危険予知能力はさすがです、誉めてあげてもいいと思います。同様の回避能力は、「私は決断主義を肯定する者ではない」というエクスキューズを連発する、『ゼロ年代の想像力』でも遺憾なく発揮されています。
彼はあくまで、「生きていくために迷惑をかけざるを得ない困ったちゃんを説教する、学級委員長的立場」というキャラ立ち位置を保持しようとしたのでしょう。それゆえに、彼は「迷惑をかけられる勇気を持て」とは言えなかったわけです。
前章でも述べましたが、『ゼロ年代の想像力』における「現代は決断主義の時代だ」という煽りは、それを真に受けて困った行動に出る人を誘発し、「これだからオタクはダメなのだ」「これだから噴き上がりは困ったちゃんなのだ」と説教するためのマエフリのように私には思えます。
『ゼロ年代の想像力』における頻出ワードとして、「東浩紀の劣化コピー」という言い方があります。しかし、この単語が具体的に誰を指すのかについて、彼は全くと言っていいほど語りません。なぜ、彼は仮想敵(より正確には「仮想植民地民」と読んだ方がいいかもしれません。彼は「東浩紀の劣化コピー」やその読者を、より良い方向へと善導してあげようと志しているわけですから)を名指しできないのか、その理由を考察します。
結論から言えば、それは彼が「惑星開発委員会に怒り狂っちゃうような人間は,そのレベルまで行けないんですよ」という論法の使い手だからだと私は考えます。つまり、彼自身がかつて「たかがウェブサイトの意見に過剰反応する人々の人間の器を貶す」という方法論を使っていたので、仮想敵を名指しすると、その名指しした相手から同様に「〜〜程度に過剰反応するなんて宇野氏は器が小さいな」と言われてしまう。それを恐れているから、彼は仮想敵を名指しできないのだと思うのです。
どうやら彼の頭の中には、批評家のランク付け、というものがあるようなのです。なかなか素敵なトーナメント的世界観だなあと思います。そのランク付けの中で、自分のレベルより下の人間を彼は名指しで批判できない、名指ししたら立ち位置的に困ったことになるわけです。
例えば彼が仮想敵は「A」だと言ったとしましょう。そのとき私たちには、「では、惑星開発委員会の宇野常寛氏とAとは、どちらが『ショボい』のですか?」と問う準備があります。ですが、この問いは彼にとって避けたい問いです。というのも、そこで「宇野常寛の方がショボい」と答えたとすれば自滅ですし、「Aの方がショボい」と答えたとすれば、「なんでそんなにショボいもの相手にムキになっているんですか?」と彼がかつて使っていた論法で非難されてしまう。
したがって、彼は、「宇野常寛の脳内批評家ランキング」において自分より上の人しか名指しできない、ということになります。そのため毎回くどくどしくも、「東浩紀の劣化コピー」という言い方へ逃げることになるわけです。
単純な図式として、上図のように(宇野常寛氏の言うところの)【セカイ系】作品と【決断主義】作品とを分類してみましょう。(1)には『エヴァンゲリオン』や「美少女ゲームや一部のライトノベルレーベルといった特定の閉塞したジャンル」が入り、(2)には『無限のリヴァイアス』や『コードギアス』が、(4)には『ドラゴン桜』『野ブタ。をプロデュース』などのスクールカースト小説、(2)・(3)の中間付近やや(2)寄りに桜庭一樹が入る、ということになるでしょう。彼はこの対立は、左右の(つまり【決断主義】と【セカイ系】との)対立であって、オタク文化とそれ以外の分野の対立ではない、ということにしたいようですが、そのエクスキューズは本当に正当なものでしょうか?
ここで注目したいのは、(4)にあたる作品の少なさです。彼が取り上げていたものとして具体的に思い当たるのは、『永遠の仔』や桜井亜美くらいです。「あきらかに文学でも映画でもおこっていた「自意識過剰の90年代」」(c.f. http://members.at.infoseek.co.jp/toumyoujisourin/jiten-sekaikei.htm)とは言うものの、それが具体的に何であって、どのようにして批判され乗り越えられたのかが分からない。それゆえ、その【亡霊】(と、仮に彼の図式に乗って呼ぶのならば)が現代のTVドラマや文芸の領域において、本当に悪魔祓いされたのか、という疑問を持つのは自然なことでしょう。
宇野常寛氏はオタク文化を批判しているわけではなくて、「ここ10年の東浩紀の劣化コピー的批評家」や、「美少女ゲームや一部のライトノベルレーベルといった特定の閉塞したジャンル」を批判しているのだと、そう好意的に解釈するためには、(4)への批判の薄さを埋めていただく必要があるのではないか、と私は思います。
彼が(4)への批判をきちんと書かない限りは、宇野常寛氏の(1)⇔(3)という対立図式は、その軸がこの図の左右の軸であって上下の軸ではないとエクスキューズしたところで、身内びいきのホームタウンデシジョンだと考えざるを得ないのではないでしょうか。