■グローバル化経済の中で日本が役割を−やっと立ち上がった東アジア共同体評議会

吉田春樹 東アジア共同体評議会副議長  
吉田経済産業ラボ代表取締役  


 北米経済圏、欧州経済圏など世界経済の勢力図が大きな地域ブロックへと収斂していくグローバル経済化の流れの中で、“世界の工場”としてのアジア経済圏が注目されている。いまこそ、この経済圏の中で日本が大きな役割を果たすべきときである。この共通認識のもと、東アジア共同体の実現に向けて動き出した。

<今後に残された大きな課題>
 2004年5月18日、午後3時ちょうどに進行係からサインが送られてきた。この日、設立総会の総合司会を務める私は、緊張の面持ちでマイクの前に立った。東京全日空ホテル、ギャラクシーの間でのことである。「お待たせいたしました。時間になりましたので、これより東アジア共同体評議会の設立総会を始めさせていただきます」

 この日に向けて、日本国際フォーラムの伊藤憲一理事長を中心に私達関係者数名は、半年間、必死の気持ちで走り回ってきた。こんなことで日本はいいのか。どうしても「東アジア共同体」構想を研究・推進するオール・ジャパンの知的プラットフォームを立ち上げなければならない。私たちには使命感と同時に、こんな焦燥感があった。

 途中何度か挫折しそうになったが、その都度、支援者や理解者に助けられてきた。この方々の力添えと励ましがなければ、とてもここまでは到達できなかったのではないか。この開会宣言には、このような万感の思いが込められていた。

 しかし、事はまだ始まったばかりである。しかも、いまだに資金集めという大きな課題を抱えているのである。

<日本国際フォーラムのこと>
 話の本論に入る前に、ごく簡単に財団法人日本国際フォーラムについての自己紹介が必要であるように思う。

 財団としての当フォーラムが設立されたのは、17年前、1987年春のことである。初代会長に大来佐武郎氏、初代理事長に服部一郎氏が選任された。服部氏は、この財団の趣旨に全面的に賛同、設立に必要な基本財産2億円の個人的な出損を約束されていた。

 当フォーラム設立にあたっては、武田豊氏も大切な存在であったそうだ。今回の東アジア共同体評議会設立の途上で伊藤憲一さんから聞いた話では、武田さんは、伊藤さんの目の前で、新日本製鐵の自室から何人もの経営者に電話を掛け、当フォーラムの入会を勧誘されたそうである。その中の一人が、興銀の中村金夫頭取であったという。私にとっては、当時、職場の上司であったわけだ。

 ところが、服部氏は財団への出損3日後に急逝されてしまった。私が日本国際フォーラムの活動に参加するようになったのは91年からであるが、87年当時、中村頭取が、財団の将来を案じて心配げにこの話をされていたのを今でもはっきり思い出す。

 結局、この時は、当フォーラム設立の中心人物で専務理事であった伊藤さんがひとまず理事長代行を引き受け、91年に正式に理事長に就任した。また、93年に大来氏が亡くなられた後は、翌年、今井敬氏が会長に選任された。この今井会長、伊藤理事長のコンビが今日まで続いている。

<日本側国内調整窓口の任務>
 日本国際フォーラムの設立の基礎には、伊藤さんの表現を借りれば、「欧米各国にあるような民間・非営利・独立の外交国際問題のシンクタンクを日本にもつくらなければならない」という強い問題意識があったようだ。

 日本国際フォーラムは、グローバル・フォーラムなど姉妹団体も含め、幅広い活動をしている。詳細は割愛するが、その主要な事業の一つが政策委員会によってまとめられる政策提言である。

 発足以来、この17年間に、今年4月に発表された第24政策提言『新しい世界秩序と日米同盟の将来』(主査、伊藤憲一・日本国際フォーラム理事長)まで、毎年一つか二つの政策提言を発表してきた。そうしたなかで、この3、4年、第19政策提言『グローバル化経済とアジアの選択』(主査、トラン・ヴァン・トゥ・早稲田大学教授)、第22政策提言『東アジアにおける安全保障協力体制の構築』(主査、田中明彦・東京大学教授)、第23政策提言『東アジア経済共同体構想と日本の役割』(主査、吉田春樹・吉田経済産業ラボ代表取締役)と東アジア関係のテーマが続いた。政策研究の分野でも、近年、アジアにおける地域協力の進め方などについて、数多くの実績を積み重ねてきている。

 当フォーラムは、昨年、日本政府から「東アジア・フォーラム」(EAF)と「東アジア・シンクタンク・ネットワーク」(NEAT)の日本側国内調整窓口(Country Coordinator for Japan)に指定された。これは、近年の当フォーラムのこの分野における意欲と実績が改めて評価されたものと私たちは自負している。

<歴史は大きく転換を始めた>
 しかし、それにしても、このEAFとは何か。NEATとは何か。じつは、日本国内では、これらは直接関係者以外ほとんど知られていないが、東アジアは大きく動き始めているのである。

 そもそもこの東アジアで地域協力を進め、その延長線上にこの共同体の実現を構想することは、極めて難しいことではないかと考えられていた。それは、ヨーロッパと比較しても、域内各国・地域の歴史や文化があまりにも異質であるからである。

 しかし、ここ数年、特に97年〜98年のアジア経済危機を経て、歴史は大きく転換を始めていたのだ。東アジア共同体を多くの人が現実の問題として論じるようになったのである。

 その背景の一つは、世界の工場あるいは世界の生産基地と呼ばれるこの東アジアで、域内貿易の高まりなど、実質的な経済的統合が著しく進んできたからである。このことは、文化の同質化をも後押しするものなのだ。

 背景のもう一つは、経済危機である。この時、東アジアは、結局域外からは誰も本気で助けてくれないことを知った。2000年にチェンマイ合意(通貨スワップ協定)が成立し、人びとは、いざという時頼りになるのは隣り近所であることに気がついた。

<ASEANと日中韓3カ国>
 ASEAN+3(日中韓)の首脳会議が定例化されたのは、まだ経済危機が完全には終結していない1998年のことであった。この首脳会議に地域協力強化の具体策を求められた専門家グループが答申したのが、前述のEAFとNEATの設立である。前者は、東アジア域内各国の産学官代表で構成されるものであり、後者は、同じく域内の研究機関と学識経験者をつなごうとするものである。

 もちろん日本からも代表者は参加していたが、政府として具体的に動いたのは韓国であり、中国であった。すなわち、2002年11月ASEAN+3首脳会議で韓国政府からEAFの設立が、そして昨03年5月の同外相会議で中国政府からNEATの設立がそれぞれ具体的に提案され、承認された。

 これら二つの会議体は、後者が昨年9月に北京で、前者が同じく昨年12月にソウルで、それぞれ年次定例会合の第一回として開かれた。第二回会合については、NEATが本年8月にバンコクで、EAFが、本年12月にクアラルンプールで開かれることになっている。また、NEATの中央事務局は、おそらく各国に事前に根回しがあったのであろうが、中国社会科学院内に置かれることが会議の席上であっさり決められた。

 さて、日本はどうするのか。日本が無視されているわけではない。しかし、どうも浮いているというのが、参加者の実感のようである。それは、個々の学者や研究機関は日頃から水準の高い研究を行い、また会議の席上でも立派な意見を述べているのだが、日本としてのまとまりがないのだ。

 昨年10月ソウルで開催され、私自身が参加した「北東アジア共同体」に関するシンポジウム(韓国・世宗研究所主催)でも、同じような印象を受けた。日本は、これでいいのだろうか。

<胎児が日々成長するように>
 前述のとおり、NEATやEAFは、もともとASEAN+3の首脳会議にその出自がある。これらが首脳会議の知恵袋として機能することは当然であろう。中国や韓国で開かれるその他の会合も、多くの場合、政府が深く関与している。タイやマレーシアも同様だ。

 ASEAN+3の首脳会議は、東アジア共同体を展望しつつ、近い将来、東アジア・サミットに変貌することが予想される。一口に共同体と言っても、東アジア共同体がどのような姿で現れるかは時間の経過を待たなければならない。しかし、そう遠くない将来に、この東アジアにも何らかの共同体が誕生することは、十分に予想されるところだ。

 現在は、胎児が母親の胎内で日々成長している段階である。これに大きく影響しているのが、各国政府のこうした動きなのだ。冒頭に述べた私たちの使命感や焦燥感は、このような理解に根ざしたものである。日本の未来が、そして東アジアの未来が、やがて誕生するであろう共同体にかかっていると言いきっていいと思う。

<オール・ジャパン体制の構築>
 私たちは、新しく作ろうとする東アジア共同体評議会について、早い段階で、今井会長から日本国際フォーラムとは別の、もっと広い支持基盤や経済基盤を持つ組織体でなければならないとの示唆を受けた。

 私たちは、いつの頃からか、これをオール・ジャパン体制と呼ぶようになった。今回誕生した評議会は、産学官の幅広い共同会議体で、シンクタンク議員、有識者議員、経済人議員で構成されている。官は、その立場上、参与その他の形でこの会議体に参加する。この体制で、東アジア共同体に関する日本国内の知的プラットフォームを形成し、対外活動の基地にしようという考えなのだ。

 シンクタンク議員については、日本を代表する11の有力なシンクタンク(非営利法人)の代表者に参加してもらった。有識者議員についても、この分野のトップクラスの学者や研究者40名の協力を得ることができた。

 苦戦しているのが、経済人議員である。オール・ジャパン体制の大きな意義の一つが、経済界からの協力にある。東アジアの第一線で現実に活躍しているのが企業であることはいうまでもない。同時に、この評議会は、その財政基盤を企業の賛助会費(一口年100万円)に求めており、その参加した企業の代表者が経済人議員に就任する仕組みになっている。評議会の財政基盤強化のためにも、企業こそが一社でも多く参加してほしいのだ。

 もちろん、イベントやプロジェクトについては、政府予算のほか団体からの寄付も期待しているところだが、運営経費や日常の会議費は自力で賄わなければならない。これを支えるのが企業の賛助会費なのである。

 せめて30社、いやぎりぎり20社の協力は得なければ、というのが私たちの考えであった。

 しかし、足を棒にしても13社しか集まらないうちに設立総会を迎えてしまった。見切り発車である。ここ数十年、社会環境の大きな変化は十分承知していたつもりだが、それにしても厳しいことになってしまった。しかし、私たちはこの使命を投げ出すわけにはいかない。これが、冒頭にも述べた、私たちに残されている課題だ。

 設立総会当日は、日本国際フォーラム、日本国際問題研究所などのシンクタンクの代表者、田中明彦・東京大学教授、吉冨勝・経済産業研究所所長など多数の有識者、今井敬・新日本製鐵相談役名誉会長や上島重二・三井物産顧問など経済人(一部代理出席を含む)が参加したほか、政府関係者も9省庁から出席、久水宏之・久水事務所所長など来賓やオブザーバーも含め、総勢70名近くが顔を揃えた。

 伊藤憲一・日本国際フォーラム理事長が司会する第一セッションで、藪中三十二・外務省アジア大洋州局長、前述田中教授、吉冨所長および神保謙・日本国際フォーラム研究主幹から、共同体へ向けた東アジア域内の動向と課題が報告され、畠山襄・国際経済交流財団会長が司会をする第二セッションでは、溝口善兵衛・財務省財務官、谷内正太郎・内閣官房副長官補、佐藤行雄・日本国際問題研究所理事長から「東アジア共同体」の可能性を展望した報告が行われた。続く第三セッションは柿澤弘治・元外務大臣が議長に就任、東アジア共同体評議会の設立が提案、採択され、その会長に中曽根康弘・元内閣総理大臣が、議長に伊藤理事長が選任された。

 会合の最後は、中曽根会長による「東アジア共同体」推進に向けての評議会の活躍に対する期待を込めた挨拶で締めくくられた。当評議会は、今後、「東アジア共同体」構想に対する日本の戦略的取り組みについて、日本国内の議論をリードしていくことになるだろう。ぜひ読者各位のご支援をお願いしたい。

【『財界』2004年4月15日号より転載】