終章『君と生きていく』
季節は立春。
雪が消え去り、春の息吹が世界を包もうとしていた。
だがこの高校を包んでいる瘴気は晴れることなく、むしろ悪化しているといえた。
風間望もその瘴気に気付いているひとりだった。
ひとりで高校の校門から母校を見上げている。
「………始まるね」
最終幕の題目はきっと悲劇。
だが風間望はそれを見届けなければならなかった。
それが彼らと関わってしまった自分の決着の着け方、責任だ。
………そうだろ、日野?
風間望は今亡き親友のことを思い出しながら、この悲劇の結末を待っていた。
荒井昭二はふと不安になって、下校途中に立ち止まってしまう。
「荒井さん………?」
一緒に下校している福沢玲子に訊ねられるが、何でもないと荒井昭二はかぶりを振る。
だが何でもないはずがなかった。
自分に似た者の物語が終わりを告げようとしている。何故かそんな気がしていた。
自分は福沢玲子にとって、いい友人ではないだろうと荒井昭二は思う。
彼女は自分を受け容れてくれていた。
自分にはその想いに答えることは出来ないのだ。永久に。
それがとても哀しく、だからこそ福沢玲子を大切にせねばならないと思う。
内山浩太。
半年前に自殺した自分と同類の少年。
彼の残り火が、全ての始まりだったのだ。
それは分かっている。自分に全てを教えてくれた彼のおかげでそれは知っている。
だからこそ哀しく、その物語が悲劇で終わらないように荒井昭二は祈る。
いくら祈ったって、願いなんて叶わないことなど知っている。
それでも祈ることはやめられなかった。
五十嵐佑也は、岩下明美の元婚約者は、また違う町に来ていた。
どこまで放浪を続ければ何が見つかるのかなどは分からない。けれど成長できていなかった自分は、こうして何かを捜さなければ、何も見つからない気がして不安なのだった。
逃げてばかりいた私。もう逃げることは出来ない。
ふと空を見上げた。
「………明美」
岩下明美の哀しい表情が脳裏に蘇ってくる。
彼女は………、彼女は救われたのだろうか?
彼女を救い出してくれる誰かは現れたのだろうか?
………願わくは真に明美が幸福になれる日が来るように。
五十嵐佑也はそう思えてならなかった。
怪物は、人の怨念を吸って生きてきた蚯蚓の群れは、変わらず生きている。
ただ一つの物語が終わることは予期していた。
人を憎むことなんて出来ない。
倉田恵美は自宅で机に突っ伏しながら、そう考えている。
新堂誠も、坂上修一も、ただ道を間違ってしまっただけの人なのだ。
確かに多くの誤りや、多くの失敗があったのかもしれない。
けれど、だ。
それは人間誰しもに言えることなのだ。誰だってふとした拍子に道を誤ってしまうことが多々ある。自分だっていつかそんな風にならないとは限らない。
だから二人のことは憎めない。恨めないのだ。
だけれども倉田恵美は泣く。
「うっ………、ううっ………!」
裏切りが哀しいのではない。
二人の男性が自分の下から去ってしまったことが哀しいのでもない。
ただ二人を救えなかったことが哀しかった。
とても愚鈍としか思えない考え方だが、倉田恵美はそんな優しさを持った少女なのだ。
彼女は気付いていない。
優しさは失敗に繋がるのは事実だ。ひどい裏切りに遭うこともあるだろう。
だがいつか、優しさは自分の下に戻ってくる。そのことを。
そのときまで哀しみの時は続くかもしれないが、きっと………。
田口真由美は風間望を遠くから見つめている。
彼の傍に行くことはできない。彼はきっと何かをなさねばならない人だから。
あの日を境に兄は消息を断った。
風間望は何も言いはしなかったが、田口真由美は仮にも日野貞夫の妹だ。
兄がもうこの世にはいないだろうということは分かっている。
確かに兄がそうなるのは至極当然だ。誰かに殺されても仕方がない生き方をしていた。
兄はそんなろくでもない人間だ。
だが全てを知っているはずの風間望は何も言わない。
隠しているわけではない。
彼はきっと兄の魂を背負ったのだ。だから兄について何も言わないのだ。
全ては終わってしまったことだから。
死んでしまった人について何かを語るのは、結局のところは罵倒に過ぎないのだから。
そう考えると、何故だか田口真由美は涙を流していた。
何故だか分からないが、ありがたい気持ちになったのだ。
謎多い上級生に、田口真由美は初めて感謝の意を示していた。
岩下明美は教室の椅子に超然として座っている。
カッターナイフを何度も取り出したりしまったりしながら彼を待つ。
全ては、この場所、この時間のためだったのだ。
私に、さよならを、告げる物語の終幕だ。
私にさよならを告げる。人を堕落させることにより私を棄て去るための物語。
何もかもが、終わらなければならなかった。
何もかもを、終わらせなければならなかった。
「殺す………。殺してやるわ………」
岩下明美はそう何度も呟く。
そうしていなければ、自分が爆発して何もかも破壊しつくしてしまいそうだった。
弟は自殺していた。
何故だ?
坂上修一の責任だ。弟の遺書に全てが書いてあった。責任は全て奴のものだ。
そのことにより自分はそれこそ生死の狭間を漂って生きていたのだ。
己の妄想が作り出した偽りの手紙。弟との偽りの思い出。何もかもが偽りだった。
だが偽らなければ自分というものを保てないほど、生死の狭間を漂っていたのだ。そんなことをしなければならなかった自分を、彼女はひどく情けなく思っている。
しかし弟の自殺が明らかになったことで、妙に納得することも多かったのも事実だ。
まずは一つ。
どうして自分は人間を堕落させねばならなかったのか?
弟の自殺のことを知るまで、岩下明美はただ自分の衝動に従ってそれを進めてきた。
理由は何も分かってはいなかった。堕落させねばならないという意志だけがあった。
そして、今ならその理由が分かる。
それは至極簡単な理由だった。
弟を自殺に追い込んだものは絶望、そして堕落だ。
その二つこそが弟を自殺に駆り立てた理由なのだ。たった二つの小さな感情が理由で。
そのことを岩下明美には理解が出来なかったのだ。
絶望こそが自殺の理由という理論は、誰しもが知っている。
だが自分も十分すぎるほどの絶望と堕落に陥ったことがあるが、自殺という手段は取らなかった。むしろもっと強くなってやろうと決心した。
ならばどうして自分に近いはずの弟は自殺したのだろうか?
自分が特別なのか、弟が弱かったのか、きっと岩下明美はそれを知りたかったのだ。
堕落と絶望に捉われた人間がどう行動するものなのか。
ただ岩下明美はそれが知りたいだけだったのだ。本当にそれだけだったのだ。
ひどく簡素で、下らない動機。
それでも当時の、そして現在の岩下明美には、十分すぎる動機と言えた。
もう一つ。
何故自分が坂上修一に執着せねばならなかったかの理由だ。
この理由も簡素なものだ。
弟が坂上修一の親友だったからだ。坂上修一のことを岩下明美に何度も嬉しそうに語るほどに、生前の弟は坂上修一と深い関係を持っていたからだ。
だからこそ、弟の自殺の理由を知る意味で坂上修一に執着せねばならなかったのだ。
これが全ての謎解きだ。
推理小説にもなりやしない。
そこにはひとりの弱い少女の自分勝手な理論があるだけだ。
ひとりの弱い少女が足掻き、苦しみから逃れるために闘ってきた軌跡があるだけなのだ。
それにそれはもう岩下明美にとって、どうでもいいことだった。
弟を自殺に追い込んだ根本原因。全ての元凶である少年。
サカガミシュウイチ。
彼を自らの手で消滅させること。それが彼女の最優先事項なのだ。
そして『その時』は来た。
教室にゆっくりと入室してくる坂上修一。
岩下明美は彼の姿を視認すると、カッターナイフを握り締めて彼へと近づいていった。
何もかも終わらせるために。
そうだ。正しく言葉どおりだ。岩下明美は言わなければならないことがあるのだ。
私に、さよならを。
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