第二十三章『ひかり』


 涙隠した瞳で、岩下明美は『その時』、『その場所』に向かって進んでいく。
 自分が人々を堕落させたかった理由。弟の手紙。何もかも全ての真実。
 岩下明美はそれを知らねばならなかった。
 坂上修一に自分は知っていると気付かされた。
 そして仮面の少女の仮面と同じにこの世から消失した手紙。
 どうしても自分が人々を自分のものにしたかった理由。
 そこから導き出される答えは一つだった。
「くそっ………! くそっ………! 何よ、何なのよ………!」
 恥も外聞もなく、岩下明美は呟きながら走り続ける。
 導かれる答えはたった一つ。
 しかしそれを信じたくはなかった。
 もしも信じてしまったら自分の存在自体が虚ろになってしまう。
 だから確かめに行くのだ。
 全てを。知らなければならない全てのことを。
 岩下明美は走りながら、脳裏に関わってきた人間のことが浮かんでは消えていた。
 絶望を求めたつもりで、本当は誰よりも希望を信じていたかった細田友晴の哀しみ。
 悪魔的な賢さを持っているようで、その実態はとても儚い存在の坂上修一。
 己の弱さを認めることが出来ず、落ちぶれていった新堂誠の哀れさ。
 全てを包み込めるほどに優しく、それ故に様々な人々に負担を感じさせた倉田恵美。
 醜い二人の女子生徒の怨念の化身らしい蚯蚓の群れ。
 自分と同じように、この世界から飛び立とうとしていた相沢信彦の最期の横顔。
 同性愛に悩み絶望しつつも生きている荒井昭二。弟と似ていた荒井昭二。
 その彼を愛することを恥とせず愛し続ける少女、福沢玲子。
 産まれ付いて人を殺すことを義務付けられたかのような存在である日野貞夫の顔。
 あらゆる意味で自分と近しい存在だったまつげ。
 自分を異界に引き込もうとし、結局ただの哀しい存在だった仮面の少女。
 何かを見つけ出そうと足掻いていた元婚約者。
 様々な人間と関わってきた。
 全ては、私に、さよならを、告げるための行動だった。
 自分は、自分に、さよならを、告げねばならないのだ。
 だが。
 そこで根本的な問いが生じる。
 何故自分は自分に別れを告げねばならないのだ?
 逃げてばかりいた私。もう逃げることは出来ない。
 そのことは分かる。よく分かる。逃避など、ただの罪に過ぎない。
 だのに、だ。
 自分の行動原理に論理的な説明が付かない。
 ただ自分は自分に別れを告げねばならないのだ。
 そのために細田友晴たちを騙してまで、堕落させるべき人間を捜していた。
 それだけは確かなのだ。それは間違いないのだ。
 ならば。
 自分は何を求めている?
 何より自らの最も大切な存在である弟との行為の思い出。
 そして弟からの手紙を大切にせねばならなかった。それを求めるべきなのだ。
 だがそこで岩下明美はどうしようもない不安感に襲われる。
 その不安感の根本を、岩下明美は確かめねばならない。
 そして、辿り着いた。『終わりの場所』にだ。

「明美………」
 懐かしい声がその室内から響いていたが、気に掛けている暇などはなかった。
『その場所』に向かって、岩下明美はただ進み続ける。
 どうしようもなく湧き上がる不安感。
 だが自分が考えてしまっているようなことはないはずだ。
 ただ手紙の存在を失って、意味もなく不安に陥っているだけ。ただそれだけ。
 そうして息を整え、岩下明美は『その場所』への扉を開いた。
「浩………太?」
『その場所』には、内山浩太の部屋には、愛しい弟の姿は存在していなかった。
 いつも笑い掛けてまくれたはずの弟の姿は、まったくなかった。不自然なほどに。
 ただ彼の机の上には、ひとつの写真が、ぽつんと置いてあった。
 彼の写真だ。弟の写真だ。
 遺影だ。
 彼の遺影が彼の机の上に置いてあるのだ。
「嘘よ………」
 そんな馬鹿なことがあってたまるものか。そんなことはあるはすがない。
 それに自分は弟とよく逢引をしていただろう。
 昨日だって行為をしたばかりだ。弟が死んでいるなんて、そんなことは有り得ない。
 それでも………、岩下明美は一つのことに気付いていた。
 自分は弟とよく逢っていた。行為をして、雑談をして、それだけのことをしていた。
 だが他には?
 他の思い出というものはないのか?
 例えば買い物に行ったり、散歩に行ったり、それだけのことでもいい。
 行為をして雑談をする以外にした覚えがあることはないのか?
 弟との行為から半年だ。
 幾らなんでも何か一つくらいは、心に残ることがあってもいいはずだ。
 だが、それは見当たらなかった。
 何もないのだ。行為以外の思い出が、何も。
「明美………。浩太は………」
 背後から声を掛けられる。相手は自分の元母親だ。
 両親が離婚して以来逢っていない母親だ。
 岩下明美は詰め寄るように母親に向かって叫んだ。
「浩太は! 浩太は………!」
「浩太は半年前に自殺したじゃない………。今更、何しに来たの………? 弟の葬式にも来ないで………。それでもあなた、姉なの?」
 自殺?
 弟が? 浩太が?
 これはきっと………嘘だ。信じてはいけないものだ。
 弟が自殺などするはずがない。そんなことを弟がするはずがない。
 大体、それが事実だとしたら、自分は何をしてきたのだ?
 自分はずっと弟の妄想と戯れていたとでも言うのか?
 そんなことがあってたまるものか。それでは細田友晴以下の最低な人間ではないか。
「これは………嘘。嘘なのよ………。これは全て嘘………きっと」
 そうだ。机の上のものは記念写真なのだ。
 弟はきっとたまたま外出していて、記念写真をたまたま母親が置いているだけなのだ。
 わざとらしくたって何だっていい。
 自分にはそう見えなければならないのだ。
 弟の自殺などというものを認めてはいけないのだ。
「明美………?」
 母親が心配そうに声を掛けてくる。
 どうしても現在が虚構とは思えなかった。
 むしろ弟との出来事が嘘のように思えてきていた。とても信じたくはないことだが。
 ………分かっているはずですよ?
 ………貴方はきっと心の底では理解している。何もかもをね。
 瞬間、様々な人々の言葉が脳裏を掠めていた。これは坂上修一の言葉だ。
 ………対なる者の居場所。それはどこでしょうね?
 対なる者、つまり内山浩太の居場所。それはどこ?
 彼は気付いていたというのだろうか。
 そうだ。自分はその言葉に触発されて、弟の手紙を確認しようと思ってしまったのだ。
 思えば彼はそのことを誘導していたのだ。
 坂上修一は内山浩太が既に死んでいて、岩下明美がその弟の妄想と戯れていることを知っていたのだ。だからそのことを気付かせようとしていたのだ。
 更に岩下明美は思い出していた。
 ………それでも明美。浩太君のことは………。
 自分の婚約者が呟いた言葉。彼もまた、弟が死んでいることを知っていた。
 似たもの同士。
 まつげはそう語っていた。
 それは正しく言葉通りの意味だったのだ。まつげは新堂誠の友人を失い、岩下明美も最愛の弟を失って縛られている。そういうことなのだ。
 故に、弟は既に自殺して、この世にはいないのだ。
 信じたくはなかった。とても信じられることではなかった。
 だが信じずに済ますには、岩下明美は様々な現実を見過ぎている。
 弟は死んでいる。ならば何故弟は自殺を?
 何故弟は自殺せねばならなかった?
 途端、更に記憶が紐解かれた。
 縛られていたものが消え去っていくかのようだった。
 ………どうして福沢さんにそんな言葉を?
 ………傍観主義の岩下さんが、どうしてそんな柄にもないことを?
 柄にもないこととは、福沢玲子への忠告のことだ。
 何故自分がそんなことをしたのかは、そのときにはまだ分からなかった。
 だが岩下明美は今になってようやく気付いた。
 弟と荒井昭二は一緒の人種なのだ。だから忠告をしていたのだ。福沢玲子に。
 全てを理解したとき、岩下明美はその場に崩れ落ちていた。
 何かをせねばならないという緊張感が、急に解けていくかのようだった。
 口を開ければ叫びだしてしまいそうだった。
 拳を握っていなければその場に泣き崩れてしまいそうだった。
 自分は何を勘違いして、何をしていたのだろうという気になってくる。
 自分こそが妄想の中に生きていたのだ。
 細田友晴などではない。自分こそが妄想の中に生きてしまっていたのだ。
 そんな愚かしいことを、自分はしてしまっていたのだ。
 だがそれだけ岩下明美は弟の自殺に苦しんでいたとも言える。
 元より岩下明美には誰かに裏切られたくないという気持ちが大きかった。
 それは婚約者のせいでもあったかもしれないけれども、それ以上に日野貞夫のように自分自身に欠陥枷あってしまったからだと思ってしまうのはただの干渉だろうか?
 裏切られた。だから殺してやる。
 殺してやれば裏切られたことにはならない。流石に殺しを実行したことはなかったが、岩下明美はそう思うことによって生きてこられた。
 それは自己防衛本能のようなものでもあった。
 もしかしたら、その自己防衛本能が働き、弟が先に死んでしまったという裏切りを、妄想によって弟を断罪していたのかもしれない。
 気が付いたときには、岩下明美は泣き出していた。
 何故泣くのかは自分でも分かっていなかった。
 自分の愚かさが情けないのか、
 弟の裏切りが悲しいのか、
 とにかく岩下明美は、
 産まれて初めて、
 大声で、
 泣いた。

 涙がようやくのことで枯れ果てたとき、母が岩下明美に手紙を渡した。
 妄想の手紙などではなく、それは内山浩太の遺書だった。
 震える手で、岩下明美はその手紙を開く。
 姉や両親に対する謝罪でいっぱいの遺書。
 だがしかし岩下明美はその遺書にひとりの名前を見つけていた。
 ………坂上修一。
 その瞬間、岩下明美の心には一つの意志が燃え上がってきていた。
 それはどうしようもなかったし、どうするつもりもなかった。
「殺してやる………。殺してやる………」
 自宅への帰り道、岩下明美はカッターナイフを握り締めて呟き続けていた。
 裏切りは、許されないものなのだ。岩下明美には。
 だから彼女は言い続ける。朝のひかりの中でも言い続けるのだ。
「殺してやる………。殺してやるわ、坂上修一………!」



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