第十八章『Drastic my soul』


 動けない? ………それとも動かない?

 雪の季節は去ろうとしていた。
 季節は巡り、全ての始まりへと、原初へと流転していく。
 そう。誰もがこんなことを考えたことはないだろうか?
 ビッグバンによってこの宇宙は産まれたという。
 では宇宙が産まれる前には何があったのか。滅びた後はどうなるのか。
 きっと宇宙が滅びた後は、再びビックバンが起こり、新たな宇宙が産まれるのだろう。
 世界は流転していく。円環状に全ては廻り付けているのだろう。
 しかしその原初は一体何なのだ?
 宇宙の構成物質が爆発により飛散して、この宇宙を作り上げたと科学者は言う。
 そうなのだろう。それは間違いないだろう。
 だのに。
 人はここでどうしても抜け出せない迷路にはまってしまう。
 宇宙の構成物質は、爆発前はある一点に凝縮されていたという。
 ならばその凝縮された構成物質は、いつどのようにして産まれたのか。
 無から有が産まれたとでもいうのだろうか?
 何もないところから物質というものは産まれるものなのだろうか?
 分からない。原初などは分からない。
 それは宇宙だけじゃない。自分の原初すら、人は知りえることなど出来ないのだ。
 いつからか自分の中には衝動があった。どうしようもなく強い衝動。真っ黒い衝動だ。
 その原初などは知りようがない。考えて分かることでもない。
 だから、彼は衝動に従うしかないのだ。
 何もかも出し切らねば、どうにかなってしまいそうなほどなのだから。
 彼の名前は日野貞夫といった。
 彼は学校一の鬼畜として有名だったし、実際彼は殺人クラブなどというものの部長を務めている。狂気の沙汰だ。だがそうしなければ彼は生きられないのだ。
 殺人クラブというのはこの学園に代々伝わる、由緒正しい殺人のためのクラブ活動らしいが、日野貞夫も詳しいことは知らない。過去に先代殺人クラブ部長に襲われて返り討ちにしてから、殺人クラブは日野貞夫の所有物だ。詳しいことなど知らない。
 初めて人を殺したのはそのときだった。
 初めて人を殺して、彼は自分の中の衝動の正体に気付いていた。
 暴力でしか興奮しない。暴力でないと絶頂に至れない。そんな自分に気付いたのだ。
 そうだ。自分こそ完全サディストのネクロフィリアなのだ。
 彼がそう育ったのは決して親のせいではない。世間のせいでも、暴力的なテレビのせいでもない。悪いのは誰でもない。
 悪いのは彼の脳髄だ。彼の性根が腐っている、それだけのことなのだった。
 だから日野貞夫は人を殺す。殺さねば生きられないから。
 自分こそ人を殺すために存在している特別な存在なのだ。

 その日野貞夫は人間狩りをするはずだった。
 自分の奴隷でありながら離反した坂上修一と、自分から彼を略奪した岩下明美を物言わぬ死体に変えてやるはずだった。
 だが彼は今こうして、殺すべきはずだった彼らと教室に隠れている。
「まったくよ………」
 どうしてこんなことになったのか必死に思い出そうとしてみる。
 自分の腐った脳髄では、思い出すのには少々時間が掛かった。
 何故こうして隠れているのか。
 簡単だ。
 自分は追われているからだ。
 誰に追われているんだ?
 裏切り者だ。せっかく飼っておいてやったのに、飼い主に噛み付いてきた飼い犬だ。
 比田。大倉。佐久間。
 自分以外の殺人クラブ構成メンバー三名のうち二名。比田と大倉が裏切ったからだ。
 比田はこの学校の女性の教師で、普段は優しそうな微笑を浮かべている女史だ。
 だが性根は根本的に腐り切っている。過去にいじめられっ子だったとか何だったとか言っていたが、現在はそんな素振りをおくびにも出さずに人間を狩る毒婦だ。
 大倉は同じ学年の悪徳高利貸し。
 金だけでなく、人の命のやり取りをするが好きで仕方ない脳が爛れた男だ。
 二人とも殺人クラブに相応しい狂った連中だ。
 だがどうやら自分の想像以上に狂っていたらしい。殺人クラブ部長である自分を殺し、それに成り代わろうとしているのだ、奴らは。そうして岩下明美たちを狩る途中に、突然自分を襲ってきやがったのだ。まったく狂気の沙汰だ。
 そのため岩下明美たちを狩ることは、どうやら後回しにせねばならないようだ。せっかく風間望に依頼しておいて悪いのだが、今この状況では仕方がない。
「坂上」
 日野貞夫は自らの過去の奴隷に向けて小さく呟く。
「何でしょう?」
 過去と変わらぬ表情で、坂上修一は平然と返す。
 彼は元からそういう男だったのかもしれない。何事にも無関心な奴隷だ。
 日野貞夫の下にいたのも、ただの暇つぶしに過ぎなかったのだろう。
 まあいい。それならばそれでいい。自分が道化というならば、それはそれでいいのだ。
 ただし清算はつけねばならない。自らの中の衝動の清算と共に。
「一時休戦だ。俺は先に比田たちを狩る。おまえらも手伝え」
「そうですか。僕たちに得はないように思いますけど」
「確かにそうだけどな。だがおまえたちに得があろうがなかろうが関係ない。殺人クラブの名前はおまえも聞いたことくらいあるだろうが、殺人クラブの恐ろしいところは、死体をきっちり始末するところだ。死体が見つからない以上、事件は発覚し得ない。更に目撃者まで皆殺しだ。ここまでの完璧主義が殺人クラブを形作っているんだよ」
「つまり………、関わってしまった以上、僕らも殺されてしまうということですか?」
「ま、そういうことだ。諦めるんだな」
「仕方ないなぁ。日野さんってば………」
 坂上は心底そう思っているように見えたが、彼だけに真意は掴めない。
 そうして二人して語っている間、岩下明美は一言も発していなかった。単に興味がないからと言ってしまえばそれまでだが、今日の岩下明美は岩下明美らしくなかった。それに風間望が呼んだというわけではなく、ただ深夜の学校に残っていたようなのだ、彼女は。坂上修一と共に。
 何をしていたのか、何を考えているのか分からない。
 だが彼女はきっと全てを終わりに向かわせようとしているのだ。
 自分に、さよならを、告げるために。
「岩下?」
 ふとどうしようもなく興味が沸いて、日野貞夫はゆっくりと彼女に声を掛けてみる。
 彼女は何も応えなかった。精神自体遠くに飛んでしまっているかのようだった。
「おい、岩下?」
 もう一度呟いてみる。
 そこでようやく彼女は気付いたようで、ぼんやりと呟き返した。
「行かないと………」
「何?」
「私は、行かないといけないの………。確かめないと、いけないことがあるの………」
 呟いた途端、岩下明美は駆け出していた。
 止める隙すらなかった。
「おい、岩下! 廊下には比田がナイフ持って………!」
 日野貞夫は動揺して岩下明美の後を追う。
 言わんことではない。自分たちを探して廊下を徘徊していた比田が、岩下明美を見つけナイフを持って襲い掛かっていた。
 構わず、岩下明美は掛けていく。
 岩下明美はもう駄目だろう、日野貞夫がそう思った瞬間だった。
 岩下明美はポケットの中からカッターナイフを取り出し、
「私の………」
 そして更に大声で叫んだ。
「私の邪魔をするなあっ!」
 目に留まらぬ動きだった。それから岩下明美は比田の手にカッターナイフを突き立て、呻いた比田の腹を思い切り蹴り飛ばしていた。
 腹への衝撃により酸素を求めて尖った比田の唇に岩下明美は膝蹴りをかますと、比田など存在すらもしていなかったと言うように、岩下明美は再び駆け出した。
 人の潜在能力は本当に他人では分からない。
 岩下明美の潜在的な圧倒的戦闘能力が、比田の殺人衝動を遥かに凌いだのだ。
 それほどまでに、彼女には行かねばならない場所があるのだろう。
 ふと気が付くと、岩下明美に負わされた負傷から立ち直った比田が、ナイフを握りなおして日野貞夫に向かってゆっくりと近づいてきていた。
「よう、比田センセー」
 日野貞夫はこの状況に関わらず、軽口を叩く。
「素人にボロ負けとは、殺人クラブ顧問が情けないな」
「確かにそうね………。彼女があそこまでやるとは思わなかったわ。けれど………」
「どうした?」
「あなたは確実にしとめるわよ」
 その口調は本気だった。クラブ部長に向かって生意気な奴だ。
 だからかもしれない。日野貞夫は比田に訊ねていた。
「比田、ひとつ聞きたい」
「何?」
「どうして俺を狙う? 俺は結構アンタに優しかったと思うぜ?」
「よく聞いてくれたわね。確かに私もあなたに個人的な恨みはないわ。殺人クラブっていうような私の居場所を作ってくれたしね。けれど、知っている? どうしようもなく自分を助けてくれた人だからこそ、恩を仇で返すことによって誠意を示したいことがあるのよ。分かるかしら?」
「分かるさ。俺とアンタは、同じ人種だからな」
 そうだ。似たもの同士だからこそ、相容れない。二律相反だ。
 分かっている。自分にも比田にも分かっている。そういったものだ。
 だから言葉は必要なかった。
 ただ対峙し、殺し合うのみだ。それが自分たちに与えられし使命。
 つまり、
 Drastic my soul.


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