第十五章『優しい愛の羽』
それは夢か、現か、幻か………。
彼女は………、岩下明美は………、非常に曖昧な空間に漂っていた。
上下の区別もない。左右の区別もない。
ただ真っ白い空間。曖昧な時間の狭間。
「………?」
こんなところにやってきた憶えはない。
ただ白いだけの空間。
どうにか状況を理解しようと、意識を覚醒させるように集中する。
何とか眼がはっきりとしてきたのか、目の前に大きな建造物が現れた。
「………旧校舎?」
そう。旧校舎だ。
自らの学校の旧校舎である。間違いなく。
しかし岩下明美は違和感を拭い切れない。
誰の気配もない。何者の気配も。
いくら冬休みが近いからといって、誰も学校に居ないということはないだろう。
部活の生徒だっているはずなのだ。
だのにこの学校どころか、周囲全てから人の生活音が消え去ってしまっている。
大体旧校舎から発せられる異常な瘴気は何なのだ?
人が触れてはならない種の何かだ。恐らく人の原初からの恐怖を刺激する何かだ。
どうしてこの場所に自分は立っている?
思い出せない。
気が付けば自分はこの場所に立っていた。
引き寄せられているかのように、気が付けばこの場所に自分は存在していた。
「どういう………ことかしら………?」
言いようのない不信感に岩下明美は思わず呟く。
答えを期待して呟いたわけではないが、誰もその問いに答えるものはいなかった。
自分で答えを探すしかない。そういうことだ。
瞬間。
岩下明美は旧校舎の三階当たりに人影を視認した。瞬いていたら見逃していたかもしれないほどの短い時間だったが、確かに岩下明美は人影を見つけていた。
行くしかなかった。
引き返すことも出来たが、そうすることが最も正しいように思えた。
入っていった旧校舎の中はまるで別世界のように思えた。
自らの足音だけが反響して聞こえてくる。
それだけだ。
無音は返って人を不安にさせる。無音が耳に痛いのである。
だがその意と反して進むのは、彼女の使命感にも似た信仰のような意思のためだ。
「逃げてばかりいた私。もう逃げることは出来ない」
彼女は呟きながら一歩一歩足を踏み出していく。
逃避だけは無意味だ。それだけはしてはならないことなのだ。
人間は誰しもが永遠の輪廻から逃れられないような錯覚に陥ることがある。
何をしても、何を達成しても、何も変わらない。
つまらない日常。色褪せている下らない日常。
そう思って毎日を怠惰に生きている者は、必ずしも少ないとは言えない。
だが何も変わらないということはありえないのだ。
少しずつ人も時代も変わっていくものなのだ。皆それに気づいていないだけなのだ。
いつか必ず人生の激変期というものは訪れる。
その時期まで逃避を続けていた人間は、必ずその激変に耐え切れず破滅してしまう。
だから逃避だけはしてはならない。してはならないことなのだ。
ゆっくりと、岩下明美は歩を進める。
一階の階段を上る。
十三階段だったような気もするが、そんなことはどうでもいい。
次は二階だ。
空気が澱んでいるような感じがするが、気にかけている暇はない。
歩を進める。
別離の物語に向けて、処刑台の階段を上っていくかのようにすら見えるほどに。
そして三階。
別空間。そして別世界。狂気の旋律が流れる世界だ。
己の記憶を頼りに、岩下明美は『その場所』に向けて進み続ける。
反転。
何が起こったのか、岩下明美ですらすぐには理解が出来なかった。
唐突に壁側に岩下明美は身をぶつけてしまった。
いや、違う。
壁が、床になったのだ。
重力の関係なのだろうか。岩下明美の右手方向の壁に、引力が働いていた。
ふらふらした足取りで、岩下明美は壁に立ち上がる。
奇妙な感覚だった。
床と天井が壁で、壁が床になってしまっている。
それでも岩下明美は引き返そうとは思わなかった。
進むことが自分のすべきことだったのだ。
「………扉」
己の足下に扉があった。
異常な光景だったが、岩下明美の脳はそれを受け容れていた。
扉を開き、岩下明美はその中へと落下する。
落下した先は、取り立てるほどでもない普通の空間だった。
女子トイレだ。
圧迫されているような感覚はするものの、それ以外の違和感に気づくことはなかった。
ここが、自分の引き寄せられた場所なのだろうか?
そう思い、岩下明美は周囲を見回す。
唐突に。
何か硬くて重いものが背後に落下した。
何事かと思い、岩下明美は音の方向に振り向く。
そこには脚があった。
人間の脚だ。鋭利な刃物に切断されたかのような切り口だった。
ただ血は一滴も流れてはいなかった。まるでレーザー光線で焼ききったかのようだ。
またドサッと鈍い音がした。
腕、胴体、胸、腹、そして頭。
バラバラに切断された人間の身体が、一斉に頭上から落下してきていた。
屈みこんで、岩下明美は落下してきた頭を手に取った。
どこかで見たような覚えがあるからだ。
抱えあげて見て納得した。
見たことあるような覚えがある。当然だ。
手に取っていたのは、自分の頭だった。
奇妙な感覚だ。
自分の死体を、自分で視認すると言うことは。
「気に入ったかしら?」
テープを早回しにしたようなノイズ。
どこの発声器官から発しているのかと思わされるような、非常に曖昧な語調。
そんな奇妙な声が、唐突に岩下明美の背後から発せられた。
振り返る気は起きなかったが、岩下明美は嘆息して後ろに振り向いた。
そこには一人の少女が立っていた。
表情は確認できない。
何故か?
簡単な答えだ。少女は白い仮面を被っていたからだ。眼の部分に細い穴のようなものがあるだけで、あとは顔を確認することがまったく出来なかった。
「………悪趣味ね」
岩下明美は気だるげに答えていた。
このような物体の相手なら何度もしてきたからだ。
二人はそうして対峙した。
仮面の少女はこの世のものではない様相を醸し出して、悠然と存在していた。
岩下明美は自らの誇りを懸けて、超然と存在していた。
岩下明美はこんな少女のことなど知らないし、知ろうとも思わない。したくもない。
しかし一つのことだけは分かっていた。
自分たちは互いに、ただの人間であることをやめた存在なのだと。
幽霊? 妖怪? 怪物?
そんなものなどでは決してない。
互いに、孤独と、憤りと、悲哀とを強く胸に残し、人であらざるものになろうとした。
あとは少しの違いだ。
実際堕ちて行ったか、踏み止まったか。
それだけの違いだ。
それだけだが大きな違い。
岩下明美はポケットの中のカッターナイフを強く握り、仮面の少女と強く対峙した。
これから自分がどうなるのか、岩下明美にも分からなかった。
それでも岩下明美は生きねばならない。
逃げてばかりいた私。もう逃げることは出来ない。
逃避は………、罪だ。
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