第十二章『Raison d'etre』
冬の風は勢いを増してきているようだった。
雪は更に強く降り、世界を氷に包ませようとしているかのようだった。
それは自分たちの心をも凍てつかせてしまうかのようで、岩下明美は不安になる。
だが暖房の火の静かな音と、目の前のまつげの体温の鼓動で不安感は消え去っていく。
どうしてこんなことをしているんだろうと思える。
何故自分は今日初めて出会った少女と、こうして肌を重ねているのだろうと。
ひどく無駄なことをしているような気がする。
それでもまつげは温かくて、自分の想いを全て吸い尽くしてくれるかのようで。
それが、とても不思議で、とても切ない。
「あ………」
まつげが何かを言おうとするが、岩下明美はその言葉を自らの唇で塞ぐ。
言葉は必要なかった。
言葉は必要ないのだ。
一つ一つの器官が蕩けるように、蕩けて二人一つになれるように、激しく二人は身体を重ねる。唇から体温を感じ、舌を強く強く絡ませる。
それは止まることはなかったし、止めようとする気もなかった。
何故だろう。
自分は何人かの男と行為に耽ることはあったが、こんなにも燃え滾ったことはない。
胸が熱いのだ。切なさが胸を焦がしそうなほどに。
様々な男たちでも無理だ。
いや他の女でも無理だろう。
胸を焦がしそうにしてくれる相手は、きっと彼女とあと一人。
だから自分たち二人はこうなることが運命だったのだと、勝手にそう思えてしまう。
岩下明美は自らの切なさを抑えるため、まつげの制服をゆっくりと脱がしていく。
まつげは恥ずかしそうにしていたが、岩下明美はその行為をやめることはない。やめることができるわけもない。
身に纏っているものは、ひどく時間をかけて取り去った。
見事なものだった。
点滅するような質素な電灯の下でさえ、彼女の裸体の美しさはまったく損なわれることはなかった。岩下明美をして思わず見とれてしまうほどだ。この美しさを独占できるのだと思うと更に胸は高鳴り、愛しさゆえに自分の行動を止めることは出来なかった。
しかしまつげはそれを制した。
「岩下さんも………、脱いでください………」
自分としたことがすっかり忘れてしまっていた。
まつげに言われるまで気が付かなかったほどだ。
自分は服を纏っている。
それは自分の前で裸体を晒してくれる相手に対し、余りにも失礼ではないか。
「あ、ごめんなさいね………」
言いながら制服に手を掛けるも、手が震えてうまくボタンを外すことが出来ない。
ひどく緊張していた。
性欲ではない。
背徳感でもない。
ただ目の前の少女に圧倒されているのだ。自分が。
彼女自体に圧倒されていることでもあったけれど、それ以上の理由もあった。
彼女は、鏡なのだ。
彼女は、純粋で、無垢なる者。
だから人は彼女に自分自身を投影してしまう。
自分の陰を見てしまうのだ。無垢なる者であるが故に、自分の姿を映してしまう。
岩下明美はまつげに自らの姿を見ているのだ。
それは決して醜いものではなかった。
美しいとも言えなかった。
ただ圧倒されるだけの畏怖すべき存在。
だから岩下明美はこんなにも緊張しているのだ。
緊張した面持ちで自分のボタンに手を掛けるがうまくいかない。
その震える手を、まつげは優しく包んだ。
「私に………任せてください」
優しく、儚い音色だった。
まつげは先刻のお返しとばかりに、岩下明美の衣服を剥ぎ取っていく。
初めての経験であった。
自分が相手に衣服を脱がされていくということは。
程度の差はあれ、岩下明美はこれまで確実に自分自身で衣服を剥いでいた。
それが自らの誇りでもあったし、脱ぐのに躊躇うような相手もいなかった。
だが今回に限って、岩下明美は相手のなすがままにされていた。
とても違和感のあることだった。
そして違和感は自らの身体にまで変調を来たしていた。
………濡れている。
濡れ滾っているのだ。溢れんがまでに陰部が相手を受け容れる体勢を取っているのだ。
まだ自分は性感を刺激されてすらいないというのに、ただ服を剥いでいかれているだけだというのに、自分の身体はひどく興奮して緊張しているのだ。
気が付けば、自分は全裸をまつげの前に晒していた。
「綺麗です………。岩下さん………」
「そうかしら………?」
そういうのがやっとだった。
岩下明美は見られていることに対し、乳首が痛く勃起するほどに興奮していた。
昂ぶっていた。
これこそが人の原初の行為なのではないだろうかと思えるほどだ。
世間の皆が性交と呼ぶものはきっと紛い物で、今この瞬間に感じるものこそが真の性交というものではないだろうか。ただの肉欲ではなく、愛情なんて安っぽいものでもなく、慈愛などという壮大な嘘でもない。
もっと言葉では言い表せないような、雄大な何かを岩下明美は感じていた。
だからこそ見られるだけという状況に堪えられなかった。
岩下明美は裸の身体を、まつげの裸に重ねる。
まつげの体温を感じた。
それだけのことで、岩下明美は更に快感を得る。
「あっ………ふっ………!」
言葉に言い表せなかった。
嬌声すらあげられないほどの深い快感。性感だ。
そしてそれはまつげの方も同じようだった。
まつげも身体を痙攣させるように震わせ、性感帯が熱く燃え滾っていた。
これだけの行為でこんなにも感じてしまう自分たち。
一体どこまで達してしまうのか、一体どこまで堕落してしまうのか。
とても不安で、とても期待してしまう。
落ち着け、と岩下明美は自分に言い聞かせる。
何年ぶりだろう。
こんなにも不安と期待で胸がいっぱいになるのは。
婚約者にも感じたことはない。弟との行為ですら得られなかった感覚だ。
「ひっ………!」
突然のまつげの行動に、岩下明美は甲高い悲鳴をあげる。
まつげの指が、岩下明美の下半身の草叢を掻き分けたのだ。
それだけのことだったのに、岩下明美は悲鳴をあげるほどに快感を得るのだ。
これまでの人生でこんなことはなかった。男たちに自らの身体を餌として五・六人を同時に相手にしたときでさえ、だ。
「岩下さんの………すごい」
嬉しそうな、勝ち誇ったような、愛しそうな、そんな表情を浮かべてまつげは呟く。
確かに仕方がなかった。
岩下明美のそこはまさしく洪水だ。
決壊したダムの如く、溢れて止まらないのだ。
まつげを受け容れることを、身体が欲しているのだ。
それを岩下明美は分かっている。
分かっているからこそ、されるがままでいることに岩下明美は我慢がならなかった。
岩下明美もまつげの洪水へと手を伸ばした。
「うふふ………。女同士の行為はどうするか知っていて?」
余裕を見せるように、実際余裕はないのだが、余裕ぶって岩下明美は呟く。
まつげがかぶりを振ったのを合図に、岩下明美はまつげの陰部を指で弄んだ。
「ああっ………!」
「女同士の行為はね………、指でするのよ」
言いながらも岩下明美は攻勢の指を緩めない。
そして言葉も。
「大衆が想像するように淫具や野菜を使ったり性器を重ね合わせたりなんて、そんなことはただの妄想なの。都合のいい勝手なもの」
「あっ………、ああっ!」
「女同士は、指が性器になるの。指は多くのものを作り出すことが出来るわ。だから指は性器にだってなることが出来るのよ」
「は………、はい」
分かっているのか分かっていないのか、まつげはそうして頷いていたが、どうやら本能の部分では分かっていたらしい。
まつげも岩下明美の陰部に指を突き入れ、激しく上下運動を繰り返し始めた。
「そ………そうよ。あっ! 分かって………いるようね………。ああっ!」
「岩下さん………! 岩下さん!」
あとは二人高みに達するだけだった。
何度も繰り返し、性感を刺激しあう。
しかも一度達するだけでは終わらない。終われるはずもない。
「いいわ! ………いいわよ! あぁっ!」
「イクッ! また………イきますっ!」
嬌声は長い間やむことはなく、二人は全てをぶつけあった。
ようやくのことで行為が終了したとき、まつげがふと小さく呟いた。
「ありがとう………ございます………」
何が起こるのかは岩下明美にも分かっていた。
だから敢えて岩下明美は何も言わなかった。
まつげはその場で、儚く、切なく、そんな姿で立っていた。
胸を刺すような痛みが襲ったが、やはり岩下明美は何もしなかった。
ただ、
まつげはもう一度微笑み、
岩下明美の唇に、
自らの唇を合わせた。
先刻までとは違い、触れるかどうかのひどく短い口付け。
唇が離れた後、岩下明美はまつげから目を逸らした。
きっとこれからまつげは………。
とても情けないことだが、今更だと思うのだが、岩下明美はそれを見たくはなかった。
一筋の風が吹いた。
冬の風。
それでもどこか暖かみを帯びた風。
「ありがとう」
もう一度まつげの言葉が響き、岩下明美が顔を上げると既にまつげはいなかった。
何も考えないようにしながら、岩下明美は乱れていない服装で冬の教室を後にした。
当然雪は降り積もってはいなかった。
この街に外出不可能なほどまでの雪が降るはずもない。
どころか道路には雪が溶けた様相すらなかった。
ただの普段どおりの暖冬の道だ。
雪など降ってはいなかったのだ。最初から。
雪が降り積もっていたのは、きっともっとどこか遠い違うところだ。
例えば自分の心とか………。
岩下明美は嘆息して、学校を後にした。
後になって細田友晴に聞いたことがある。
まつげはずっと寝たきりの状態で、当然岩下明美がまつげを見たあの日も、病院で眠ったままだったらしい。
だとすればあの日見たまつげは何だったのか。
別にどうでもいいことだった。
新堂誠が愛した女とたまたま自分は巡り合った。それだけのことだった。
自分たちは似たもの同士のようなものだから………。
更に数日後。
暗い表情の新堂誠から、岩下明美はある言葉を聞いた。
それはまつげの死亡を伝えるものだった。
その言葉を聞いた後、岩下明美は冬の空を仰いだ。
やはり今年は暖冬のようで、あの日と同じに雪は降りそうになかった。
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