第十一章『Let Me Be With You』


 雪の世界に閉じ込められてしまった二人。
 教室の中で、ただ深々と降り続ける雪を眺める。
 このまま世界中を雪で埋め尽くしてしまいそうなほどに、降り続ける雪。
 世界は雪に包まれ、雪の中で、氷の朝を迎えるようになる。そんな気がしてくる。
 氷の朝。
 それもいいのかもしれない。
「岩下さんって………、不思議な人ですよね………」
 唐突にまつげがそんなことを言う。
 岩下明美はただ苦笑することで応えた。
「あ、悪い意味じゃないんです。何故だか分かりませんけど、岩下さんって他の人たちは何かが違うって………そんな気がしたんです」
 そうかもしれないが、岩下明美にそんな自覚はなかった。
 自分を特別な人間だと思う人間は、自分こそが神に選ばれた民とかほざく輩と何が違うだろう。誰しもが自分と同じようなものだ。同じ人間なのだから。同じ人間がちょっとした環境の違いで、少し違う人間に育っていく。
 それだけのことだろうと岩下明美は考えているからだ。
 更に言わせて貰えば、だ。
 不思議な人間と称するならば、岩下明美よりまつげの方が似合っているというものだ。
 彼女と話していると、岩下明美は何らかの不安感に支配されてしまうことがある。
 希薄な存在。
 まるで自分自身の妄想と対話しているような、薄っぺらな感覚。
 まつげという少女にしっかりとした存在が感じられないのである。
 何故だかは分からない。何となくそんな気がするだけだ。
 だが岩下明美はそれを口に出しはしなかった。
 他人のことをとやかく言うことほど、無駄な行為はしない性格だ。
 だから言うのだ。自分が気になっていること、それだけを。
「そういえばあなた………、新堂さんのことをどう思っているの?」
「え………? えっ?」
「新堂さん、あなたのことをとても楽しそうに話していたわ。きっとあなたのことがよっぽどお気に入りなんでしょうね」
 それは嘘だった。新堂誠がまつげに恋心を抱いているのは確実だが、それを口に出せるほど新堂誠は軟派に出来てはいない。
 しかしまつげは信じたようだった。少し照れたようになる。
「いえ………、それはきっと私が新堂さんの友達と仲がいいからだと思います。私が新堂さんのお気に入りだなんてそんなこと………」
 新堂誠の友人。
 その存在は初耳だった。
 推論するにこれは新堂誠の横恋慕というものなのだろうか。
 だがどうも違うようだった。それは妙に沈んだまつげの表情から見ても明らかだった。
「どうかしたのかしら?」
「その人、亡くなったんです………。交通事故の後遺症………らしいですけど、それで彼、亡くなってしまったんです………」
「………それはいつ頃のことかしら?」
「三ヶ月ほど………、前のことです………」
 三ヶ月前といえば、ちょうど新堂誠が倉田恵美と付き合い始めた時期だと岩下明美は思い出していた。成程、ようやく話が読めてきたようだ。
 三ヶ月前、恐らく新堂誠は友人を失ったことによって、何らかの喪失感を抱いていた。
 同時期にまつげとも知り合ったはずだ。
 喪失感からか、新堂誠はまつげという少女に惹かれた。
 その折に偶然だろうか、告白してきた少女がいた。
 それが倉田恵美。
 新堂誠はまつげのことを想いながらも、倉田恵美の告白を断りきれずに付き合うことになった。自分への慰め、支えどころが欲しかったということもあるだろう。
 そうして新堂誠は勘違いした恋愛に陥ることになったわけだ。
 どこにでもある、当たり前の悲劇。
 まつげの話、そして今までの情報から岩下明美はそう推論した。
 感想。
 安易な慰めに頼って何になる?
 しかも自分で動くのではなく、他人に寄りかかることによっての慰めなど。
 そして彼は気づいていないのだ。
 自分がどんな状態であろうとも、支えになってやらねばならない存在があるということを。自分以外に救うことの出来ない存在というものが、確実に世界には存在しているということを。
 それが彼の過ち。罪だろう。
 それよりも岩下明美には気になることがあった。
 まつげの行動だ。
 まつげは愛しい人(恐らく)を失ってどう行動したのか。
 他人を絶望や堕落に追い込んで、それによって自分への別離を遂行している岩下明美にとってはそれを知ることこそが最優先事項であった。
「あなたは………」
 思ったときには口に出していた。
 聞かなければならなかった。聞かねばならないことだった。
「あなたは、その人を失って、どう思ったの?」
 分かりにくい質問だと自分でも思った。
 しかし他に言い方はなかったし、まつげもそれは分かっているようで答えてくれた。
「分かりません………。哀しいとは思いましたけど………。でも………」
「でも?」
「逆に、岩下さんならどう思うと思いますか?」
 黙考。
 岩下明美はすぐに答えを出せなかった。
 そしてしばらくして言えた言葉はこれだけだ。
「私も分からないわ」
 分かるはずもなかった。
 分かっているのなら、こんな回りくどい事などしてはいない。
 自分はそんなに利口じゃない。
 利口じゃないから、婚約者の失踪をうまく乗り越えられなかった。
 利口じゃないから、きっと………。
 ふと視線を外にやると、世界は雪だ。
 雪は降り積もる。自分の心にも、きっとまつげの心にも。
 いつかその雪が溶けて、自分の真実の心が現れることはあるのだろうか?
 ………分かるはずもない。
「岩下さん?」
 ふとまつげが呟いた。
「私たち………、何となく似ていると思いません?」
 何を下らない冗談を。
 普段の岩下明美であればそう言っていただろう。
 だが不覚にも岩下明美も自分たちは似ていると思っていた。
 他人に感情移入するなど安易な慰めに過ぎないと分かっているのに、それでも、岩下明美はまつげと自分の共通点に思いを馳せてしまっていた。
 自分はあれから変わったと思う。
 婚約者と別れてからと言うわけじゃない。
 あの子と再会を果たしてから。
 あの子の手紙を貰ってから自分は変わった気がする。
 だから世界に一人だけ特別だと思っていた自分が、いつの間にかまつげという少女に感情を移してしまっているのだ。
 特別な人間などいない。
 誰もが平凡で何の取柄もない一匹のちっぽけな人間だ。
 自分には何も出来なかった。
 出来なかったから、気づいてしまったのだ。
 そうして長く黙っていたが、岩下明美は口に出した。
「………そうね。似ているのかも、知れないわね。私たちは」
 何が似ているかは分かっている。
 大切なものを失ってしまったこと。二人してそれを認めたくないところがだ。
 やはり自分たちは、心のどこかで、救いを求めているのかもしれない。
 自分は弟に。まつげは新堂誠に。
 それはとても弱くて愚かなことだけれども………。
「岩下さん………」
 呟いたまつげもそう思っているはずだ。分かっているのだろう。何もかも。
 雪が降っている。
 雪の静かな感覚に、岩下明美はふととても優しい衝動に駆られた。
 静かで、世界に自分たち二人だけで、それが永遠に続く。そんな気がしてくる。
 まつげの表情は女である自分から見てもとても美しかった。
 ただ男たちが注目するような目鼻立ちだけではない、もっと根本的なところから滲み出るような美しさ。まつげにはそう思わせる何かがあった。
 そうでありながら、同時に切ないものも感じさせるのだ、彼女は。
 例えば春の桜。
 例えば夏の花火。
 例えば秋の落ち葉。
 例えば冬の粉雪。
 彼女はそんな儚さを持っていた。
 妙な気分だった。
 久しく感じていなかった切なさと愛しさを感じさせられていた。
 泣きたくなるほどの感情を。
 気が付くと、
 まつげの顔がすぐ傍にまで来ていて、
 岩下明美は抵抗することもなく、
 二人の唇は重なっていた。
 そのまま時間が止まってしまったかのようだった。
 永遠。
 若しくは久遠と言うのだろう。こういう瞬間のことを。
 ただ二人、時間が止まったかのようにそのまま動かず、唇を重ねていた。
 初めての女同士の接吻。
 それは何故かまったく不快なものではなかった。
 同性愛の気質があるというわけではない。他の女性ではきっとこうはならない。
 相手がまつげだから。
 まつげだからこそ、こんなにも自分は泣き叫んでしまいたい衝動に駆られるのだ。
 雪だ。
 雪のように、静かな時間を過ごしていた。
 二人の唇が離れたのは、それからずっと後のことだった。
 今更になって照れたのか、まつげの頬が椛のように真っ赤に染まった。
「あの………、その………」
 そうしてしどろもどろになる。
 岩下明美が何も言わないのが不安なのか、ますます口調がおぼつかなくなる。
「すみません。何だか、こうするのが………、一番正しいような気がして………」
 彼女の長い睫毛が涙で濡れそうになる。
 余程強い不安感と羞恥心が湧き上がってきているのだろう。
「でも私、女の人が好きっていうわけでもなくて………、いえ、岩下さんのことは好きなんですけど………、何と言うか………」
 まつげの瞳から涙が溢れそうになる。
 自分でも何を言っているのか分からないに違いない。
 でもその仕種に岩下明美は感じる。ひどく懐かしい感覚を。
 だから。
「大丈夫………。私もよ………」
 まつげの肩先を自らの胸に抱き寄せて、強く抱いてから………。
 もう一度、唇を、重ねた。
 切ない感覚を抑えるように、愛しさを伝えるように、強く。ひどく強く、重ねた。

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