第十章『PURE SNOW』
あの日、もう少し勇気があればと思うことがある。
もう少しの行動力、もう少しの積極性があればと思うことで胸が熱くなるのだ。
あの時、あの場所で、もう少しだけ利口に行動できていれば、人は誰しもがそう思ってしまう。帰りもしない日々のことを思い出して。
だから人は次回こそはうまくやろうと決心する。うまく行動してやろうと誓う。
どう行動するか考え抜いて、そのときに備えて準備を欠かさない。
しかし考えていたとしても前回にうまく行動しておかなければ、後は何をどうしたって無意味であるということが多い。
経験を積んだつもりでも、成長をしなければそれは経験とはいえない。
失敗を次に繋げることはとても難しい。
人は失敗を幼稚な理論武装で対処することが多いからだ。
理論武装だ。
自分の失敗を認められない。人は誰しもが失敗を他人のせいにしてしまう。
自分はいつだって被害者で、加害者を憎むことで自我を保つ。
人類を否定することは簡単だ。子供にも出来る。思春期の子供が最たるものだ。
だが人を否定することにはそれなりの覚悟がいる。人を肯定することに責任を持たなければならないように、人を否定することにも責任を持たなければならない。他人を否定することでしか自我を成し得ないなら、それはエゴイズムといわずして何というだろう。
だとしたら、どうやって失敗を次に生かせられるものだろうか。
その答えを岩下明美は知らない。
結局は自分を信じるしかないのだ。
他人を巻き添えにしてしまった以上、自分は進み続けるしかないのだ。
その先に何が待とうとも、十中八九待つものが悲劇だとしても進み続けるしかない。
それが自由の代償。責任というものだ。
だから、岩下明美は歩くのだ。前へ。前へ。前へ。
その日は天気予報でも警報を発するくらいの大雪だった。
世間は温暖化と言うが、実際のところはそうでもないのかもしれない。
まあ、例え低地が温暖化の影響で海の底に沈んだとしても、岩下明美にはさほど興味のないことだ。低地が駄目なら、高地に住めばいい。高地をもが何らかの影響で崩壊してしまったとしたら、そのとき生き延びる手段を考える。そしてその手段がなかったとしたらそのときは死ぬしかない。それが人生というものだろう?
岩下明美の知人で「人類なんて滅んでしまえ」と言う者は少なくなかった。
人類は地球や動物を破壊し続けた愚かな生物だからだと。
何を言っているのか、と岩下明美は思う。
ならば行動すればよいではないか。テロ行為でも何でもすればいい。そうすることによって自分の大好きな自然や動物を守れるのならば、迷わずそうすべきだ。
だが彼らはそうはしない。
何故か?
簡単だ。彼らはただゆっくりと死に向かっていく現実に耐え切れず、それを自然破壊の元凶である人間の責任として、人間に自らの弱さを押し付けているだけなのだから。
どんなになろうとも、滅亡のときまで人間は生きていく。
滅亡したならそれはそれで、地球の長い歴史の一部だ。
例えば明日岩下明美に死が訪れるとして、彼女は精一杯行動するだろう。
自らがとても無力だったとしても。生きていくための行動だ。
だから岩下明美は彼らを堕落させるのだ。
正直、自らの行動が正しいかどうか、迷うこともなくはない。
それでも岩下明美は進む。私に、さよならを、告げるために。
「あ………」
そうやって長く思考していたためだろう。
岩下明美はやっとのことで、自らが学校に閉じ込められてしまったことに気づいた。
大雪の影響だろう。
雪は世界を銀色に包み、一階を深く覆うほどにまで積雪していた。
二階にいたから助かったようなものだ。
これでは到底学校の外には出られそうにない。
「あらあら………。雪に閉じ込められる少女………ね」
過去はそれほど感傷に浸ることもなかったはずなのだが、最近は何故だかよく物思いに耽ってしまう。らしくなく文学的な言葉まで使ってしまう始末だ。
過去は本当にそういうことはあり得なかった。
もともと一人で思考することが好きな方ではあったが、感傷に浸ることなどはまったくない。ただその日あったことを考えたり、帰りはしない婚約者の思い出を何となく思い出してみたり、その程度だったはずだ。何故こんなにも、雪が一階を覆いつくすほどにまでにも、自分は感傷に浸るようになってしまったのか。
どうにか思い出そうとしてみる。
確か約半年程前からだ。季節的には、五月か六月ほどのはずだ。
忘れもしないあの日、自分は弟から珍しく手紙を受け取った。
本当に珍しいことだった。恐らく人生で初めてのことではなかっただろうか。
その日貰った手紙はいつも持ち歩いている。
内容は単なる世間話程度だが、それでも岩下明美にとっては大切な手紙なのだ。
だがその日、何かがあったような気がするのだ。
しかし思い出せない。自分の精神が何かを思い出すのを拒否している。
何があったのかは分からない。何を悲しむ必要があるのか分からない。
自分はこんなにも幸福で。
弟も傍にいてくれて。
自分の言葉に言いなりの玩具を四人も手に入れて………。
坂上修一。
細田友晴。
新堂誠。
倉田恵美。
その四人も自分の奴隷で、一体何を悲しんでいるのか。
「目醒めよ、と我が内で呼ぶ声あり………か」
岩下明美は嘆息して机から立ち上がる。考えていても答えはどうやら出そうにない。
教室の扉を開けて出た廊下には、意外にも誰もいなかった。
あれほどの雪だというのに、一体どうやって他の皆は帰宅したというのだろう。
それほどまでに自分が感傷に浸っていたということなのだろうか。
誰もいない学校はとても不思議な雰囲気に包まれている。
恐怖ではない。感傷でもない。ただの違和感だ。
常時人に溢れているはずの場所に人がいない。それだけの違和感だ。
だがそれだけの違和感のはずなのだが、今回の違和感はどこか違うように感じた。
うまくは言えない。ただどこかが違うと、それだけは岩下明美に理解できる。
「あの………」
瞬間、その違和感を破壊するように、静かな声が廊下に響いた。
岩下明美はゆっくりと声の方向に顔を向ける。
そこには一人の少女が立っていた。
はっとするほどの美少女とは、こういう少女のことを言うのだろう。
長い黒髪に、卵形の顔立ち。長い睫毛が印象的な愛らしい少女だ。
そして岩下明美はその少女に見覚えがあった。
「………まつげ………さん?」
思わず口に出していた。
少女は驚いたような顔をして、岩下明美の顔をまじまじと見て言った。
「私のこと、知っているんですか?」
「ええ………。少し………」
「あっ………! そういえばその呼び方………、もしかして新堂さんから?」
「ええ、少し彼に聞いていたわ。凄く可愛い女の子と知り合ったって」
「やだ………。新堂さんたら………」
少女はそう照れていたが、岩下明美の言葉は半分嘘だった。
岩下明美は彼から直接聞いたわけではない。細田友晴の調査で新堂誠の身辺を洗わせたときに、たまたまこの少女の存在が明らかになっただけだ。
名前は不詳。細田友晴も名前までは知らないらしい。
ただ写真だけは撮っていた。それで岩下明美は彼女のことを知っているというわけだ。
少女………新堂誠の呼称通り、仮にまつげとしておこう………は、写真で見るよりもずっと美しい少女だった。新聞部の新聞の一面くらいは飾れるかもしれない。
成程、新堂誠が惹かれるわけだ。と岩下明美は思った。
そう。まつげは新堂誠が倉田恵美と天秤にかけていた少女なのだ。
新堂誠が愛した二人の女。その一人がこのまつげだ。
確かに優柔不断なあの男では、選択しづらい選択なのかもしれない。
だがその少女が何故ここに?
細田友晴の報告では、病気がちで学校にはあまり来ないらしい。更にこんな大雪が降る日には、安をとって登校するのも控えるはずだが。
何となく岩下明美は訊ねていた。
「どうして、あなたは学校に?」
「え?」
「あ、ごめんなさいね。新堂さんから、あなたは身体が弱くて、あんまり学校には来られないって聞いていたものだから………」
「そうですか………。今日は調子が良かったから、昼間からだけど来てみたんです。大雪になるって聞いてはいたけど、大丈夫かなって………」
少し照れたようにまつげは微笑んだ。
「結局凄い大雪で、学校に閉じ込められちゃいましたけどね」
「あなたの責任じゃないわ。さすがにこんな大雪になるとは誰も思わないもの」
「私って少し鈍くさいから、雪に見惚れているうちに学校から出られなくなっちゃったんですよ。ちょっと恥ずかしいですね………」
「悲しいけど私も同じね。私も閉じ込められているんだから、人のことは言えないわ」
「でも、おかげで助かりました。えっと………」
「岩下明美よ」
「あ、すみません。でも、岩下さんがいてくれたおかげで助かりました。誰もいない学校って、ちょっと怖かったんですよ………」
それは確かにそうかもしれなかった。
岩下明美にしても、ある種の違和感に気づいていたのは確かなのだから。
と。
唐突にまつげは岩下明美に提案した。
「よかったら………、少し教室でお話しませんか?」
「別にいいけれど………」
「ありがとうございます」
断る理由は何もない。
一人で考え事をするにしても、夜の学校の時間は一人では長すぎた。
加え岩下明美は少々彼女に興味があった。新堂誠が惹かれた少女ということにも興味はあったが、それ以上に彼女の存在自体に深い興味がわいていた。
性格自体に興味があるというわけではない。
ただ彼女と話していて、どうしようもなく弟と近いものを感じてしまうのだ。
失ってしまいそうな、失ってはいけないような………。
荒井昭二、坂上修一とはまた違った感覚。
だが弟に近い感覚だ。
荒井昭二、坂上修一、まつげ。
その三人に弟とどのような共通点があり、そして何が違っているのか。
それを掴むことが、全ての原点に繋がっているような気がするから。
だから。
岩下明美はまつげと冬の教室へと戻っていった。
外は雪。埋もれ尽くされてしまいそうなほどの雪だ。
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